痴呆、と書くと、差別用語になったんだったっけ。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
死の恐怖
これは、かなり前に、何度かみたことがある、夢、を引き合いにだすことが多い。今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ボケとは生きるためのものか
交通事故とか、災害とか、意図せず命を落とすことがある。意図せず、という表現は適切ではないか、そもそも、死とは、自殺以外は望んだものではない。ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
ボケを恐れる必要はないのかもしれない
むしろ、怖いのは、死、そのものを、認識することであるといっていいのかもしれない。だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味を考えることの無意味さ
毎日を楽しく生きること。生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
日常と思考
さて、今日は、ほとんど何もせずに過ごした。昨日は知人と小ツーリング、楽しかった。目的の物は買えなかったが、それで、アマゾンで注文しようとしたが、間違って、引っ越し前の住所に送ってしまった。失敗。今日届いたら作業しようと思っていたのだけれども、できなくなってぽっくり穴があいたように。何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
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