このブログ、非常にアクセス数が無い。アクセス数を稼ごうとは全く思っていないけれども、広大なネット大陸の中で、本当に誰もいない辺境にいるのだろうか。僅かばかりの知人が、山の奥深く、危険を潜り抜けて訪ねてくれるぐらい、ということなのだろうか。
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
生きる意味を見失ってしまった場合
生きる意味を見失ってしまう人の特徴は、先の事を考えてしまう事です。年を取ったらどうなってしまうのか、このままの状態がいつまで続くのかという事を考えることで生きる意味を失ってしまいます。まず生きる意味を見失いそうになったら、先のことは考えずに今自分が楽しいと思えることを一生懸命に行うようにしましょう。今日どんな楽しいことをして過ごそうかを考えて、二度と戻らない今を有効に過ごせるように努力してみてください。今日好きなことをして過ごす。今友達を遊ぶ。今日大好きな恋人と過ごす。などなんでもいいのです、1日1日、その日をいかに楽しく過ごせるのかを精一杯考えてみてください。今日、明日楽しく過ごすことを精一杯考えていれば生きる意味を考える暇はなくなりますよ。生きる意味が分からなくても時間はどんどん過ぎていくのですから、どうせなら楽しく過ごしたほうが良いと感じませんか?先の見えない将来を想像するのではなく、先を想像しやすい今日、明日長くても1週間をどう楽しく過ごすのか考えるように心掛けてみてください。そうすることで、多くの人のように生きる意味など分からなくても今が楽しいからそれでいいという考えを、持てるようになりますよ。https://welq.jp/1175
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
このように生きる意味をなくしてしまった時には、必ず原因があるはずです。原因をしっかりと把握して、適切な解決を行いましょう。
中には、生きる意味が分からなくなってしまい命を絶ってしまう人もいます。自分の命を、自ら絶ってしまわないようになるべく早く生きる意味を見つける努力や、楽しいと感じるものを見つける努力を行うようにしましょう。
生きる意味は人それぞれです。大きな目標を達成したいから生きている。小さなことでも、生きていれば楽しい事があるから生きている、なんとなく生きている、どんなことでもいいのです。
まずは生きる目標を探してみてください。周りに相談出来る人がいれば、自分の気持ちを理解してもらってもいいでしょう。いない場合でも自分の悩みを聞いてくれる場所はたくさんあります。
大切なことは独りで抱え込まないことです。まずは気持ちを整理してみてくださいね。なかなか気持ちの整理が出来ない人は心の中にある感情を紙に書いたり、声に出してみてください。
また生きる意味を見失う前から、楽しいと感じることを積極的に行うことも大切です。
自己陶酔
こうして書いていることが自体が、「自己陶酔で気持ち悪い」と思われるのだろう。あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
そもそも役に立つのか
こうして、書いていくことが、果たして役に立つのか、それは、以前書いたとおり、・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
長らく、日記を書くことをやめてしまった。人生の転換期は、そう、まだ、今年のことだ。だが、もう、半年は過ぎようとしているのか。去年の今頃の記憶……、それは。などと、感傷的なことを書いても、何にもならない。これから、どうするか、だろう。今までの私のログは、「何故生きるのか」をテーマにしていた。これからは、「どうやって生きるのか」ということが目的だ。生きる目的、意味を探し続けていた。しかし、そのようなものは、所詮は存在しない……いや、存在しないとも、するともいえないものであるのだ。意味はたくさんある。しかし、その中で、どの意味を選択するのか。できることは、たくさんの意味の中から、「選択」すること。その選択を誤らないように考えることが、これからのログの役割である。ただの愚痴の垂れ流しでも構わない。しかし、それは活かそうとする発想が大切なのだ。注意すべきことがある。「変なこと」をいわないようにするということだ。最後の友人R君との晩餐では、つい「自殺」について触れてしまった。そういうことも、変なことなのだ。私が何気なく考えていることが、果たして誰に対しても普遍的なことなのか、そのようなことはありえない。これから私は、会社に所属して、生活の大半をそこで過ごす。それは、私が初めて選んだ道である。何故私がこんなこと書いているかというと、結婚のスキルといったユーチューブの動画をみたからだ。農家の人たちは、嫁ができる機会が少ないということで、町がお見合い、じゃないけれども、結婚スキルをきたえる講座をひらいたのだそうだ。しかし、どうしてもそこで気になることがあるのだ。何故男が女を喜ばせるような、そのような講座なのだろうか。出演している人たちは、それほど、コミュ能力が少ないとは思えなかった。いわば、ふつーの、「いい人」っぽかったのだ。そのような人たちが、女性を喜ばせるための技術を学ぶために、1万円も払って、熱心にセミナーに通うとは……。昔は、結婚は義務であった。だから、町やなにやらがそうでで結婚相手を探したものだ。そういった時代では、「家庭内暴力」などの問題はあったかもしれないが、結婚ができないこと自体の問題は少なかった。さて今はどうだろうか。義務でもない。けれども、結婚しなければいけないという圧力はかかる。しかも、男性に求められる能力は増える。正直、それをみても、イライラする必要はない。それにもかかわらず、僕が腹立たしいと思うのは、おそらく、自分が恋愛をしていない、そういうマイナスの気持ち、劣等感のようなものをもっているからだと考えられる。私が、プライベートで充実しているという実感をもっているならば、そのような番組を見ても、何も感じないことだろう。ゆえに、まず、私が、恋愛をしたいという欲求が存在することは、認めなければいけない。私が、恋愛に対して劣等感を抱いているということを前提に、これから話をすすめよう。ところが、複雑なのが、恋愛したいとは思うけれども、それに対する努力に、本気になれないのである。それは何故だろうか。ここで視点をかえて考えてみたい。私は、今、この生活に満足しているのだろうか?部屋が汚いという、この絶対的な状況を抜かせば、総じて満足しているといえる。まず、部屋が片付かないと、どうにも気持ちが不安定になる。結局、今日一日かけてもきれいにすることができなかった。洗濯など、その他の仕事もあったからだ。ということで、ここでも一つ、一気に勉強ができないように、一気に家事をするのも不可能だということだ。そう、実際、今の僕は、満足していない。なにやらよく分からない不愉快さがあるのだ。理由は、部屋がきたないことだけなのか。というか、何故もう、19時になっているのか、さっぱり分からない。何故……?それと、予定がよく分からないのも、自分を不安にしていることの一つだ。ええと、整理しよう。・髪を切りに行く
・バイトに行くそうだな。これだけだな。うん。明日の一時限も、行くのやめちゃったし、これでいいのだろうと思う。英語のゼミも何だかよく分からないまま終わってしまいそうだ……。うーん、本当は、卒業論文に本気を出さないといけない、というか、15日に合宿があるのだ。よし、まず部屋の掃除だ。そして、買い物に行って、食べ物買って、洗濯機の洗剤と、もう一つ……、19:26ちょっと「個人的文章」読んでみろ(笑)。面白いよ。うん、かなり面白い。レースの話とか、目的の話とか、今考えると超カッコわる……。うーん、しかし、その時の方が、人間味溢れていた気がするなぁ。今はなんだか、悟りきっちゃった感じがする。でも逆に安定しているから、いいのかもしれないけれども。他人からみたら変わっていないのかな? でも、……分からないねー。分からない。俺は変わったのだろうか? 自分では180度変わった気持ちでいるのだけど、それは、自分からの意見では分からない。けれども、僕のことを定点観察してくれている人がいなければ、結局他者の意見であっても参考にならない。難しいね。
>僕のことを定点観察してくれている人がいなければ、結局他者の意見であっても参考にならない。
いますよ、ここにいますよ!
と、過去の彼に対して声をかけても、それは、届くことはない。
時間は、不可逆なのだと、あたりまえのことである。
愚痴ぐち青年の悩みが面白いのか
僕にとっては、面白いなぁと思えるのだけれども、こういったのが、一般的に、役に立つ、というかどうか、ということだ。ただ、思うに、先に書いた、ADHD気味な男性の記事は、少なくても、僕は面白いと思ったし、こうして、ここまでの文量を書くほどのモチベーションを与えてくれたのだし、昼食を作った後の食器を、すぐに片付けようと思わせてくれたのだから、僕にとって役に立った記事だったといえる。
ただ、その彼に対してのアドバイスの大半が、彼を批判するものであったということからすれば、つまり、大半役に立つことはないだろうということになるのだ。
とはいえ、もう音信不通になってしまったが、僕が書いていったことの中で、「この記事を読んで感銘しました」とコメントしてくれた方がいた。
僕としては、どこがおもしろかったのか、いまいち分からなかったけれども、ある若い人にとっては、何か気付きになる可能性があることも、無意識のうちに書いていることがある、と、思わせてくれた。
それが勘違いなのかどうか、そこは問題ではない、と書くと、きっと「逃げたな」というコメントが大量につくのだろうことは容易に想像できる、だからこそ、それだから、「自己」をもつことが重要だ、という表現になるのだけれども、やっぱり分かりづらいな。
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