今日の一言「知識ひけらかしたい欲求との闘い」「承認欲求と所属欲求の違いを理解した方が良いね」
いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
天網恢恢疎にして漏らさず
てんもうかいかい、そにしてもらさず。天(神様)は粗いようだけどちゃんと見てて、悪事は見逃さないんだよ!という意味である(注:遠藤意訳)。確か、EDENという漫画のある節話の、サブタイトルになっていた気がする。そのとき、確か高校生ぐらいだったか覚えていないが、「え、これ何て読むん? 意味は?」と思って調べたことがあったような。いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」なのだという。
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
日記を書くこと
僕は何についても劣等感の塊みたいな奴であるが(――しかし、こういったことを自分で言う奴書く奴は、大抵自分自身でそう思っていないやっかいな類型である。プライドだけ高くて、いざ批判や否定をされると顔を真っ赤にして怒り始める。めんどくせーやっつだ)、考えること、特に自省ということに関しては、経験を積み重ねてきた。ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
メタ自分を考えること
僕が書き始めた理由は、「問題」解決のためであった。その問題とは、このブログのタイトルにも集約している。実際に書き始めたのは、中学、高校あたりからだったと思うけれども、そもそも「人は何故生きるのか?」という疑念からであった。これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
まさに症状の距離化と客観化の役割は、自己をいわば不安感と「同列に」あるいはその「「上位に」置くことを患者に可能にすることにある。ユーモア以上に距離をもたらすことに適しているものは他にない。ジョハリの窓、という考え方があって、自分ってのは、他者との関係をして4つの層があるという。自分で知っていて他者も知っている部分、自分で知っていて他者は知らない部分、自分で知らずに他者が知っている部分、自分も他者も知らない部分、と。
――「人間とは何か」P.274
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
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今日の一言「価値あるものを生み出したい」「結局金だよみたいな言説に異を唱えたい」
「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
価値について
ある人は、「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
創造価値
何かを、生み出すというのは尊いことだと思う。それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
体験価値
しかし、創造価値を充たせない場合もある。その場合は、自然の美しさに、芸術に感動する心に、心が本当に深く神韻縹緲に打ちひしがれるような体験をすること、それが価値となる場合がある。本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
態度価値
さてしかし、創造価値も、体験価値も得られないような状況、人もいるだろう。例えば、末期がんの患者など。それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
今日の一言「理解してもらいたいという思いは充たされえるのか」
文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
文章校正チェッカー
これは面白いなぁ。文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
問題と課題の違い
なお、上のサイトを見つけたのは、「問題と課題の違い」という検索キーワードによる。◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
「問題」 発生している状況を示す。組織にネガティブな影響を及ぼすもの。「課題」 組織目標を達成するためにこれから成すべきこと。ポジティブに表現される。
つまり、「問題」があって、それに対する解決策が「課題」と言い換えることもできそうです。というわけで、まぁまぁ、合っていたかな、と思う。
ビジネスの現場における「問題」と「課題」
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
正しい言葉を使うことと伝える技術
誰かに、何かを伝えようとするときに、正しい言葉・語彙を用いることは必須である。信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
同語反復とか無限遡及とか
アルバート・メラビアンの法則というのは、他者に情報を伝達する際に、言語が必ずしも重要ではないということを示した考えである。実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
自分の感覚や感情を完全に表現すること
自分を理解してもらいたいという感覚や感情は、誰しももつものだろう。一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
孤独は問題なのか
この記事は、二つの問題を取り扱っている。一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
理解してもらえないことの正確さ
まず、(1)の問題、「理解してもらえない」ということは、言語表現の困難性という理由により、既に正しいことを述べた。ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
一般化と実存
ものすごく、分かりやすく書いてきたつもり、であるが、しかし、書けば書くほどに、「乖離感」が強まっていく。いやーこれ、難しいだろうなぁ……。というのは、「難しいこと書いてる俺すげぇ!」という中二病的な感覚でも味わえたらいいのだが、残念なことに、ますますドツボにはまっていくというか、泥沼でもがくような感覚になるのである。ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
一般化と還元論の危険性
もっといえば、ここで、普遍的な「意味」とか、真理というものを求めることについては、全く無意味だと、最初に排除しておく必要がある。人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
今日の一言「苛々とか愚痴をさも一般論のように語るのは良くないな」「それもまた人間的にも思えますが」
それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。
その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。
まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。
語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。
例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。
人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。
そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。
自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。
さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?
だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)
そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。
で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。
いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。
その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。
それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。
このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。
これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。
※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。
※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。
※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。
この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)
まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。
だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。
……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。
だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。
けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。
というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。
※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。
グーグル先生の検索批判
先日、「生きる意味」というキーワードで調べると、どうにも「くだらない」情報ばかりで、辟易してしまう、と書いた。それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。
その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。
まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。
語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。
厖大なインプットへの恐怖
それで、ネット情報というか、まぁネットに限らず、すべてのこれまでの人間の知識の蓄積。例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。
人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。
そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。
自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。
さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?
だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)
70億人のうちの一人としての生き方
恐らく、単純な生き方として有効なのは、ローカルなコミュニティの中で、ひたすら自己実現と貢献心をみたしていくやり方である。ローカルなコミュニティというのは、会社組織や、家族、友人、サークル、地域など、物理的接触を基礎とする集団内であると、ここでは定義しよう。そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。
で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。
いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。
零れ落ちた感情の掬い方
決して、僕は、現実肯定的な生き方を否定するのではない。哲学的に生きることなど、正しいと思っているわけではないし、今、ここ、を大事にするという考え方だって共感するものがあるし、そもそも、僕はポジティブでしかありえない(※1)と思っている。その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。
それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。
このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。
これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。
※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。
※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。
※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。
今後の方針の確認
最近、家に帰ると23時か24時を過ぎていて、平日に殆ど書く時間がない。まぁ換言すれば、仕事が充実しているといえる。対人関係も良好である。生きていく上で事欠かない。換言すれば、忙しくて疲れる、ということである。この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)
まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。
だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。
……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。
だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。
けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。
というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。
※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。
今日の一言「何を書こうか漠然としたまま書き進める」「面白い記事になるかは博打だね」
LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法
定義とその伝わり方
この記事、多分面白くないだろう。ただ、今後の方策を固めていくうえで、基盤としての役割の一部は果たすだろうと思われる。LONGMANという英英辞典で、定義=definitionを引くと、
a phrase or sentence that says exactly what a word, phrase, or idea means .
ということである。
僕の英語力は乏しいが、「言葉や、単語や、概念を正確に言い表す、単語や文のこと」ということで大体あっているだろう。
日本語の辞書を引けば、
物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。
GOO辞書
ということである。なるほど「区別」ね。言及したいことと、そうでないことを、明確に分けること。そう定義とは、「分析」、物事の最小単位に分けていく作業であるといえるのではなかろうか。
(多分、真面目に取り組みたいなら、論理学とか学ぶとよいと思う)
ところで、こういった言葉を定義するということについて、僕は一時期面白くて結構やっていたけれども、ふと思ったことがあった。
その言葉そのものの定義について、実際に他者と、明確な共有は可能なのか、という疑念である。これは、同じものを、同じものだとして認識できるのか、という感覚であったのだけれども、「クオリア」という概念を知ったときに、「ああ、そうそう、そういうことを言いたかったんだよ」と思って、取りあえず自分の中では解決した。
(その解決というのは、「人は同じものを同じものだとして認識しているとは限らない。しかし、『教養』を学ぶことで、『同じ』として協調し作業することは可能となっている」というもの。この人間観というか、自然観というか、社会観が、果たして正しいかどうか、ポジティブなのかネガティブなのか、役に立つのか立たないのか、変えるべきなのかそのままでいいのか、――分からない。ただ、これは僕の言葉で言うところの、「実感レベル」の理解となっているため、今時点で問題になることはない)
小見出しの疑念として、ここで書いておきたかったこととしては、明確な言葉の定義は、時として、「実感」を離れて、「他者との共有」を離れていくことがある、ということだ。いや、ここで、頭の良い人とか、ロボット的な思考は、対象としていない。ごくごく一般的な、どちらかというと僕のようにアホに近い人の話しである。というのは、慇懃無礼な書き方だけれども、つまり、あんまり専門的になっていくと、どんどんよく分からなくなっていく、ということだ。
このことについて、いわゆる「できる」人は、すぐに、「努力不足」とか、「優生学」的な、そんな感情を覚える。がんばれば、何だってできる、と。「バカの壁」という本があって、あんまり好きではないのだけれど、一つその本で言いたいこととして、「理解可能性」についての言及については、僕は同意しているところである。もちろんここで、先日書こうとして、衝撃的体験故に完全に優先度が下がってしまった、「身体的限界性」「時間的限界性」「物理的限界性」の、三つの限界性を取り除けば、どんな人とでも共有し理解し合える可能性があると思う。しかしこれは、くだらない思考実験にすらならない、無駄な考えである。
ロゴセラピー
こんな文脈で書けば、「生きる意味を、まずは定義してはどうか?」という提案に対しての、否定のように思われる。そういうつもりではない。いやむしろ、どちらかというと、大好きな方だ(かっこ笑い)。ただ、最初の小見出しで書いたことについて、即ち、「厳密な定義の限界による不可能性」を、忘れてはならないと思う。
ところで、その、定義の必要性の提案のおかげで、そもそも僕は、「目的喪失」というキーワードの方が近いのではないか、と思ったわけだ。
その結果、色々グーグル先生と会話してみると、「ロゴセラピー」「ヴィクトール・エミール・フランクル」というキーワードに出会うことができた。
ロゴ、というのは、ギリシア語で、「意味」であり、意味を求める、見つけるための精神療法であるということだ。これについては、先日購入した書籍を一通り読んで見たいと思う。4000円もしたしな。いやはや分厚いな! サピエンス全史の下巻もまだ読めてないのだが……。
生きる意味の定義
そもそも、「意味」とはなんじゃい? ということになる。本を読んでいて、読み進めていくうちに、だんだんよく分からなくなってきた、という経験が、きっと誰しもあることだろう。
それは、どこかしら、徐々に、その書いてある言葉の意味を、取り違えている場合に発生するのである。何となく言っていることは分かる、というのは、実は、「言葉を追っているのではなく、自分の考えを追っているのである」。
ちなみに、常日頃、アウトプットとインプットが重要だ、と言っているが、インプットが十分でなければ、本は読めない。もっというと、人とも会話ができない。
そしてインプットとは、アウトプットと両面性がある。表裏一体とでもいえばよいか。アウトプットできない知識は、インプットできているとは言えない。そのアウトプットが、他者に伝えられるレベルかどうか、というのは重要ではない。それは、結局その相手、他者の理解可能性の問題が発生するからであり、「自分自身の言語」としてアウトプットできるのであれば、それは、インプットができている、といえる。故に、辞書とか、ネット検索とかで調べて、コピペで紡ぐ言葉に、僕は意味を見いだせない。
稚拙な表現だって良いじゃないか。かっこいい言葉を書けなくたっていいじゃないか。ブログを書けない、と、すぐに投げ出してしまう人は多いけれども、それは、「自身の言葉」が枯渇してしまったからだ。(つーか、コピペとか面白くねーじゃん、と僕は思うのだけど、まぁ、それでブログ収入とか、「お金」という動機がメインの人は、それはそれでいいのだろう。ただ思うに、そんな努力するなら、ふつーにバイトとかした方が実は、時間対効果は高いのだけれど)
ええと、上は、自分の言葉をインプットすることの重要性……みたいな内容になった。そうじゃなかった、「意味」とはなんじゃ? ということだ。
意味は、意味だよバカ野郎! と、上手く説明できん。
WIKIさんより。意味(いみ)とは、次のような概念である。
- 言葉(単語・用語など)が持っている概念のこと。例えば、「雨」は、音声としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「空から水滴が落ちてくる現象」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。
- ある行動や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた理由のこと。
- ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性や理由のこと。
- 意味論が対象とするものである「意味」
意味に関しては、多くの研究において問題とされ、例えば、次のような問いがみられる。
おー、何だかわかりやすい気がする。気がする、が、じゃあ、僕がこれまで使っていた「意味」という語は、1~4のどれなのだろう?
2……いや3かな? 存在の必要性や理由、ということだろうか。理由、としてしまうと、これまた抽象的な言葉遣いなので、「必要性」、必要性ね。ということは、生きる意味といったときに、それは主語として、「私の生きる意味」となるから、換言すれば、「私の生きる必要性」ということになる。
え! なんか違うくないか?!(かっこ笑い) という気持ちが起こる。しかし、明瞭に否定しようとすると、悩ましい。
ちょっとここから進める前に、では「生きる」とは何か。
生きることの定義
そもそも、「生きる」とは何じゃい? 生命維持活動だ。これもまた、難しい。人はただ食べるために生きるにあらず、とか言ったとして、じゃあ、何だよ、と。むしろこれは、僕は、不要な定義部分に思う。というのは、その「意味」ということの希求なのであって、「生きる」という語自体は、その「結果」に過ぎないと思うのだ。
目的と結果が逆転しているように思うのだ。つまり、「意味」が明らかになることによって、それ自体が「生きる」ことの定義になるのだ、ということである。
(↑言ってること分かるだろうか? 明日の自分が理解してくれる気もあまりしない。ちなみにこれも蛇足で、これまで書いていなかったけれども、僕のブログが誠実なのは、そのすべてにおける言語表現において、僕は、僕自身として理解している語しか使っていない、ことである(ちょっと大げさである。文脈上の例外は許して頂きたい)。よく分からないことは、分からないそのままとして書いている、ということだ。できる限り、「実感言語」で書いている、ということだ。そして、大体他の方のブログなど読んでいると、「実感言語」なのか、そうではないのか、何となく読み取れる。そして、実感言語でない表現……反義語として、「コピペ」とすれば、どちらが面白いか面白くないかは、明白である。)
ので、「生きる」ことの定義は今は不要としよう。
意味とは何か
話が戻って、生きる「意味」を、「僕の」生きる「必要性」としたとき、それについての違和感は一体何なのか?違和感というよりも、むしろ、鋭敏な表現になったことによって、僕が恐れていることが少し浮き彫りになったのではないか。
つまり、この厖大な世界の中で、大勢の人の中で、複雑な社会や自然のなかで、僕一人という存在の「必要性」など、あろうはずがないのだという、その「実感」。
これが、最初に表現した、「目的喪失」ということになるのである。
と、言うことを、件の、ロゴセラピーというか、フランクルさんは問題視して、それについての解決策というか、療法をまとめてくださったということなのである。
2017年の目標として、思考の体系化を図る、としたわけだけれども、その具体的な方法としては、こうした何らかの専門書に準拠した形で、それについての「理解」に努め、同時にそれとの「距離感」(違和感)について、明確にしていく(定義する)作業を行う、ということである。
phrase=単語、句、言葉のまとまり
sentence=文、文法