今日の一言「神と人との契約の物語」「信仰は失われるためにあるのかな」
エヴァは蛇にそそのかされ、アダムと一緒に知恵の実を食べた。それによって、地は呪われ、女は子を生む苦しみを与えられた。
エデンは、智天使ケルビムの炎の剣によって閉ざされた。アダムとエヴァは、エデンの東の地で新たな生活を始めた。
アダムとエヴァはカインとアベルを生んだ。カインはアベルが神に優遇されるのに嫉妬し、アベルを殺す。カインは神の怒りをかうが許される。
その後何世紀か経って、ノアという人がいた。ノアの住む町の人たちは堕落していた。神は大洪水を起こして世界を滅ぼした。ノアは信心深かったので、家族と番の動物たちと箱舟を作って難を逃れた。
――この後も、人は堕落したり、信仰をなくしたりして、神が怒って罰を与えたり滅ぼしたりする。その都度、選ばれた人(預言者)が神の教えをもって人々を導いていく、旧約聖書はそんな物語である。(最終的にイエス・キリストの誕生までが描かれる)
さて、
生めよ、増えよ、満ちよ。
と神様はいうが、その「そもそもの意味」を語ることは無い。それを考えることはそもそも不遜である。神によってつくられた僕ら。それだけで意味である。僕らの生きること、そのことに懐疑するのは、すなわち信仰の不足、神への反駁に他ならない。
だから、信仰に生きなさい。祈りなさい。
信仰をなくした人は、殺しても構わない。大洪水はもうやらないと契約(人と約束)したが、イスラエル人を虐げるエジプトのファラオの幼子は全員殺しちゃうよ。
イエス・キリストを人としたとき、素晴らしい方だったと思う。多くの人の迷える魂(大衆の悩み苦しみや生き方について)を救ってくださったのだろう。
その価値について疑いようはないが、しかし、「神」という存在を規定(大前提)にすることで、一つ、重大なことが抜け落ちる原因になっている。
思考の根源……そして、科学的態度である。
それらは、人の心の闇の具現化である。神様を信じられなくなったとき、その表現が、「悪魔にそそのかされた」ということだ。
でも、その感情は、逆に言えば、人間の率直な感想なのだ。神様を基礎にした物語は壮大で確かに盤石なものなのであるけれども、智の体系だろうと、眉唾な物語だろうと、科学だろうと何だろうと、すべての「体系」(システム)を単一の個体(人として)理解し、その理解を維持し続けることは身体的・物理的限界により不可能である。
だから、ときに、理不尽なことがおこると、絶対神に対してだって、疑いの心が発生するのだ。そして時に、誤りを犯す。それを、教会に行って懺悔する。そして、神によって「許される」。
この人間の心の構造は、まさに、旧約聖書によって描かれる、堕落と信仰と許しの流れを、よく表現していると思う。やっぱすげーぜキリスト教!
でも、僕は、その、「絶対なるもの」を信じられない。
それは、運命だったり、お金だったり、友情だったり、愛だったり、科学だったり、神様だったり、資本主義だったり、出世だったり、もろもろ、正しいとか真実だとか言われること全般。
それらは、すべて、「ある条件」によって成り立つものだという感覚が、僕の実感である。
その条件が積み重なって、普遍的な「体系」になることがある。それは、巨大なシステムとして、一個の人間としては、到底理解が及ばないことになる場合がある。
そうしたとき、人は、僕らは、それらを「絶対なるもの」……「神」として呼びたくなる。
それらは、時に理不尽であったり、妬みの神であったりする。必ずしも、僕らの都合の良いものではない。それでも、神が言うのだから、正しいのだ、許されるのだ、と。
でもそんなこたー無理である。
「無理」
なのは、人が多様性をもっているからである。価値観が異なるからである。良いと思うこと、悪いと思うことが異なるからである。
たまたま、その何かが一致して、愛し合って生きていくツガイ、カップルは多いことだろう。
それでも、そんな幸せな二人の間にあっても、軋轢が生じないことは無い。
その関係性が、70億人になったとき、統一的な「良いこと」というのが想像し得るだろうか。旧約聖書の、神様でさえも成しえなかったことである。人は、知恵の実を口にしたときから、智慧……価値観と多様性を身に着けてしまったのだ。
もし、世界平和が実現するとしたら、それは、人が再び、単一体としての存在に統合されるしかなかろう。
だから。
悲喜こもごも、妬みや憎しみ、怒りや苦しみ、欠乏や餓えや、哀しみや嘆きがある中で、そんな一瞬の僅かな黄昏時にでも、「しあわせ」という状態が生じることが、貴重で、価値があって、美しいのである。
(ここまでが序文)
まず、僕は、「絶対」なるものを信じることが難しい。(このことの派生によって、何か押し付けがましい「指導」という名を借りた強制を求める人を苦手とする)
次に、共通の平和や幸せといったものを信じることが難しい。それが実現した世界は、きっと何もない世界だ。
だから、いろんな感情や争いがあることが、そもそも、人間の世界だということを、認めなければならない、と。
上の価値観については、同意してくれる人もいれば、共感してくれる人もいることだろう。
ただし、このことについて、真剣に問題視している人は、あまり多くないように思える。いわば、上のようなことは、「当たり前」なのであり、さして、各々の人生や生活において、重要な意味をもたないのである。
むしろ、僕の上のような価値観について、「それは違う、絶対に神は存在する!」として、考えを揺さぶれるような人がいたら、それは貴重に思うけれども、多分、それは不可能に近いだろう。僕はきっと、魔術や魔法や、奇跡を目の当たりにしても、「絶対的存在」を信じることはできないだろう。奇跡を起こせたから神? そんな単純なものじゃあないはずだ。それこそ、神に対しての冒涜だろう。仮に神がいたからといって、神を信じることで、「幸せ」になれると説かれたとして、僕は、その「幸せ」とは何かが分からない。
生めよ、増えよ、満ちよ。これが幸せなのか? その行為による「快感」は否定するものではない。では、「幸せ」の状態とは、常態として永遠に「快感」を得続けるものだというのか? 快感の権化が幸せなのか? それはそれで、ちょっと気持ち悪い。
それって、仏教でもなんでもない。けれども、他の宗教や思想では、何やかんや「幸せ」を求めるのに対して、「人生の本質って苦しみですから」といきなり言い切っちゃうところに感銘をうけたのは確かだ。他の人とは違うことを言ってのける! そこに痺れる、憧れるウ! と、中二的感覚だったのだろう。
と、まぁ、宗教を信じている、というのは、現代日本人には、「気持ち悪い」と見られるので、公言はしない。ただ、「ポリシー」とか、「座右の銘」的なやつと、僕はなんら変わらないと思う。
お金がすべてだ!
というカイジ的なことを信じている人もいるんだろうし、それらと、次元的には同じことだと思う。
ただ、仏教の無常観というのは、普通の「信じる」ということとは異なることに注意されたし。
それは、四句否定(テトラレンマ)というカタチで表現される。
1.すべてのものは真実である。
2.いかなるものも真実ではない。
3.あるものは真実で、あるものは非実である。
4.いかなるものも真実ではなく、いかなるものも非実ではない。
矛盾や詭弁に感じることだろう。いや僕もそう思う。そもそも、1.と2.において、成り立ってねーじゃねーか。
ただこれは、無限遡及的な次元の否定なのだと僕は解釈というか、思っている。
言い換えれば、最初の方で書いたように、「すべてのものは、ある条件によって成り立っている」という僕の価値観の肯定として思っている、ということだ。
今この瞬間、僕と言う存在は「ある」。【1.】
けれども、突き詰めて、僕とは何か、僕の本質は何なのかを考えていけば、そんなものは「ない」と思ってくる。【2.】
でも、そんな無限遡及(どこまでも自分と言う最小単位を探し求めること)をやめて、もう一度ふとした瞬間に立ち戻れば、「僕」はやっぱり「ある」。【3.】
と、言うことは、「僕」と言うのは、存在する(ある)ともいえるし、存在しない(ない)ともいえる――逆の言い方をすれば、「あるわけでもなく、ないわけでもない」。【4.】
だから、いかなるものにも、執着してはならない。その執着こそが「苦しみ」なのだ、というのが仏教の教えである。
――だが、このことを勘違いしている人は少なくない。
「だから、執着はよくない、仏教はありがたい」と思う人がいるだろう。そうではない、その、「仏教はすごい」的な感覚にも、執着してはならないのである。
と、いうことは! じゃあ、僕らの生きているのは、そもそも何なのか。
むしろ、「実存的空虚感」に苛まれるそのことが、生きることそのものなのではなかろうか。
そうして今日も、とめどない思考によって自動筆記により記事をつづる。
(コメント頂いて、めっちゃ明るい記事を書こうと思ってたら旧約聖書関連の本を読んじゃってこうなった! どうしてこうなった、どうしてこうなった!!)
旧約聖書
神が光あれ、と仰られ昼と夜ができて、土からアダムを造り、その他動物たちを造った。そしてアダムに協力して地を耕すため、アダムのあばら骨からエヴァを造った。エヴァは蛇にそそのかされ、アダムと一緒に知恵の実を食べた。それによって、地は呪われ、女は子を生む苦しみを与えられた。
エデンは、智天使ケルビムの炎の剣によって閉ざされた。アダムとエヴァは、エデンの東の地で新たな生活を始めた。
アダムとエヴァはカインとアベルを生んだ。カインはアベルが神に優遇されるのに嫉妬し、アベルを殺す。カインは神の怒りをかうが許される。
その後何世紀か経って、ノアという人がいた。ノアの住む町の人たちは堕落していた。神は大洪水を起こして世界を滅ぼした。ノアは信心深かったので、家族と番の動物たちと箱舟を作って難を逃れた。
――この後も、人は堕落したり、信仰をなくしたりして、神が怒って罰を与えたり滅ぼしたりする。その都度、選ばれた人(預言者)が神の教えをもって人々を導いていく、旧約聖書はそんな物語である。(最終的にイエス・キリストの誕生までが描かれる)
良い生活とは何かが不明
ユダヤ教とか、キリスト教において、イスラエルの人々が、アダム・エヴァの直系子孫ということであるが、そもそも、6日と1日の天地創造から考えると、僕らみんなアダム・エヴァの子孫だと思う。それが、バベルの塔の時代の神の怒りによって、言語がばらばらになって、各地にわかれていったという。さて、
生めよ、増えよ、満ちよ。
と神様はいうが、その「そもそもの意味」を語ることは無い。それを考えることはそもそも不遜である。神によってつくられた僕ら。それだけで意味である。僕らの生きること、そのことに懐疑するのは、すなわち信仰の不足、神への反駁に他ならない。
だから、信仰に生きなさい。祈りなさい。
信仰をなくした人は、殺しても構わない。大洪水はもうやらないと契約(人と約束)したが、イスラエル人を虐げるエジプトのファラオの幼子は全員殺しちゃうよ。
イエス・キリストを人としたとき、素晴らしい方だったと思う。多くの人の迷える魂(大衆の悩み苦しみや生き方について)を救ってくださったのだろう。
その価値について疑いようはないが、しかし、「神」という存在を規定(大前提)にすることで、一つ、重大なことが抜け落ちる原因になっている。
思考の根源……そして、科学的態度である。
無批判な信仰は破滅をもたらす
キリスト教にとどまらず、各々の宗教には、「悪」という概念がある。悪魔とか超上存在も描かれる。それらは、人の心の闇の具現化である。神様を信じられなくなったとき、その表現が、「悪魔にそそのかされた」ということだ。
でも、その感情は、逆に言えば、人間の率直な感想なのだ。神様を基礎にした物語は壮大で確かに盤石なものなのであるけれども、智の体系だろうと、眉唾な物語だろうと、科学だろうと何だろうと、すべての「体系」(システム)を単一の個体(人として)理解し、その理解を維持し続けることは身体的・物理的限界により不可能である。
だから、ときに、理不尽なことがおこると、絶対神に対してだって、疑いの心が発生するのだ。そして時に、誤りを犯す。それを、教会に行って懺悔する。そして、神によって「許される」。
この人間の心の構造は、まさに、旧約聖書によって描かれる、堕落と信仰と許しの流れを、よく表現していると思う。やっぱすげーぜキリスト教!
でも、僕は、その、「絶対なるもの」を信じられない。
それは、運命だったり、お金だったり、友情だったり、愛だったり、科学だったり、神様だったり、資本主義だったり、出世だったり、もろもろ、正しいとか真実だとか言われること全般。
それらは、すべて、「ある条件」によって成り立つものだという感覚が、僕の実感である。
その条件が積み重なって、普遍的な「体系」になることがある。それは、巨大なシステムとして、一個の人間としては、到底理解が及ばないことになる場合がある。
そうしたとき、人は、僕らは、それらを「絶対なるもの」……「神」として呼びたくなる。
それらは、時に理不尽であったり、妬みの神であったりする。必ずしも、僕らの都合の良いものではない。それでも、神が言うのだから、正しいのだ、許されるのだ、と。
世界平和の実現性
僕は、世界平和を望む。誰もが争うことなく、協力しあって、お互い切磋琢磨し、許し合って、生んで、増えて、満ちていくのを望む。でもそんなこたー無理である。
「無理」
なのは、人が多様性をもっているからである。価値観が異なるからである。良いと思うこと、悪いと思うことが異なるからである。
たまたま、その何かが一致して、愛し合って生きていくツガイ、カップルは多いことだろう。
それでも、そんな幸せな二人の間にあっても、軋轢が生じないことは無い。
その関係性が、70億人になったとき、統一的な「良いこと」というのが想像し得るだろうか。旧約聖書の、神様でさえも成しえなかったことである。人は、知恵の実を口にしたときから、智慧……価値観と多様性を身に着けてしまったのだ。
もし、世界平和が実現するとしたら、それは、人が再び、単一体としての存在に統合されるしかなかろう。
だから。
悲喜こもごも、妬みや憎しみ、怒りや苦しみ、欠乏や餓えや、哀しみや嘆きがある中で、そんな一瞬の僅かな黄昏時にでも、「しあわせ」という状態が生じることが、貴重で、価値があって、美しいのである。
(ここまでが序文)
僕の価値観をまとめると
上に書いてきたようなことは、もう何度も繰り返し表現してきた。まず、僕は、「絶対」なるものを信じることが難しい。(このことの派生によって、何か押し付けがましい「指導」という名を借りた強制を求める人を苦手とする)
次に、共通の平和や幸せといったものを信じることが難しい。それが実現した世界は、きっと何もない世界だ。
だから、いろんな感情や争いがあることが、そもそも、人間の世界だということを、認めなければならない、と。
上の価値観については、同意してくれる人もいれば、共感してくれる人もいることだろう。
ただし、このことについて、真剣に問題視している人は、あまり多くないように思える。いわば、上のようなことは、「当たり前」なのであり、さして、各々の人生や生活において、重要な意味をもたないのである。
むしろ、僕の上のような価値観について、「それは違う、絶対に神は存在する!」として、考えを揺さぶれるような人がいたら、それは貴重に思うけれども、多分、それは不可能に近いだろう。僕はきっと、魔術や魔法や、奇跡を目の当たりにしても、「絶対的存在」を信じることはできないだろう。奇跡を起こせたから神? そんな単純なものじゃあないはずだ。それこそ、神に対しての冒涜だろう。仮に神がいたからといって、神を信じることで、「幸せ」になれると説かれたとして、僕は、その「幸せ」とは何かが分からない。
生めよ、増えよ、満ちよ。これが幸せなのか? その行為による「快感」は否定するものではない。では、「幸せ」の状態とは、常態として永遠に「快感」を得続けるものだというのか? 快感の権化が幸せなのか? それはそれで、ちょっと気持ち悪い。
無常憑み難し
なので、「絶対なるものを認めない」(=空(くう)とか無常とか言われたりするもの)を反転して信じる者というのが、一言で僕と言う人間をあらわす表現であると思う。そういう意味では、僕は昔からずっと仏教者なのかもしれない。ただ、高校一年生ぐらいに仏教を教科書で読んだとき共感したのは、単に、「人生とは苦しみである」という一文だけであった。それは単に、その当時に色々と苦しんでいたからであった。それって、仏教でもなんでもない。けれども、他の宗教や思想では、何やかんや「幸せ」を求めるのに対して、「人生の本質って苦しみですから」といきなり言い切っちゃうところに感銘をうけたのは確かだ。他の人とは違うことを言ってのける! そこに痺れる、憧れるウ! と、中二的感覚だったのだろう。
と、まぁ、宗教を信じている、というのは、現代日本人には、「気持ち悪い」と見られるので、公言はしない。ただ、「ポリシー」とか、「座右の銘」的なやつと、僕はなんら変わらないと思う。
お金がすべてだ!
というカイジ的なことを信じている人もいるんだろうし、それらと、次元的には同じことだと思う。
ただ、仏教の無常観というのは、普通の「信じる」ということとは異なることに注意されたし。
それは、四句否定(テトラレンマ)というカタチで表現される。
四句否定
大乗仏教の中心思想となる、空(くう)の思想をまとめたナーガールジュナ(龍樹)という2~3世紀に活躍された方の「中論」という書において、以下の節がある。1.すべてのものは真実である。
2.いかなるものも真実ではない。
3.あるものは真実で、あるものは非実である。
4.いかなるものも真実ではなく、いかなるものも非実ではない。
矛盾や詭弁に感じることだろう。いや僕もそう思う。そもそも、1.と2.において、成り立ってねーじゃねーか。
ただこれは、無限遡及的な次元の否定なのだと僕は解釈というか、思っている。
言い換えれば、最初の方で書いたように、「すべてのものは、ある条件によって成り立っている」という僕の価値観の肯定として思っている、ということだ。
今この瞬間、僕と言う存在は「ある」。【1.】
けれども、突き詰めて、僕とは何か、僕の本質は何なのかを考えていけば、そんなものは「ない」と思ってくる。【2.】
でも、そんな無限遡及(どこまでも自分と言う最小単位を探し求めること)をやめて、もう一度ふとした瞬間に立ち戻れば、「僕」はやっぱり「ある」。【3.】
と、言うことは、「僕」と言うのは、存在する(ある)ともいえるし、存在しない(ない)ともいえる――逆の言い方をすれば、「あるわけでもなく、ないわけでもない」。【4.】
だから、いかなるものにも、執着してはならない。その執着こそが「苦しみ」なのだ、というのが仏教の教えである。
――だが、このことを勘違いしている人は少なくない。
「だから、執着はよくない、仏教はありがたい」と思う人がいるだろう。そうではない、その、「仏教はすごい」的な感覚にも、執着してはならないのである。
と、いうことは! じゃあ、僕らの生きているのは、そもそも何なのか。
むしろ、「実存的空虚感」に苛まれるそのことが、生きることそのものなのではなかろうか。
そうして今日も、とめどない思考によって自動筆記により記事をつづる。
(コメント頂いて、めっちゃ明るい記事を書こうと思ってたら旧約聖書関連の本を読んじゃってこうなった! どうしてこうなった、どうしてこうなった!!)
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今日の一言「音読で15時間ぐらいかな」「何時間かけたかは自慢にはならないが指標にはなる」
やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。
読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。
※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。
残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。
ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。
考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。
よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。
結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。
その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。
これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。
しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。
すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。
これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない。
そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。
『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。
ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。
人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。
しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)
取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。
ところで、体調不良に陥っている。
精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。
次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。
次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。
課題、たくさんある。
そして、時間は有限である。
身体的限界性も考慮に入れねばならない。
一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。
(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)
一冊音読すること
サピエンス全史の上巻に引き続き、一冊全部音読を完了したのは二冊目になるだろう。やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。
読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。
※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。
実存的空虚感への対処
本の感想は、後々、まとめの記事を書いていくとして、今回の記事としては、この読み終えた後の感慨などをメモしておきたいと思う。残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。
ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。
考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。
よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。
結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。
その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。
精神分析から実存分析へ
一言でいうならば、V・E・フランクル著「人間とは何か」は、人間とは実存的存在であり、ひとり一人、生きる意味があるのだと、そう主張するのである。これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。
しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。
すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。
実存分析について
フランクルの著は、読んだ人に、生きる意味を与えてくれるものではない。これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない。
そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。
『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。
ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。
人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。
しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)
5つ目の小見出し
さて。最後に何を書こうか。大体、最初に書き始めたときの目的は果たせた気がする。取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。
ところで、体調不良に陥っている。
精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。
次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。
次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。
課題、たくさんある。
そして、時間は有限である。
身体的限界性も考慮に入れねばならない。
一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。
(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)
今日の一言「生兵法は大怪我のもと」「でも例えば肩こりは病院じゃ治らないでしょ?」
神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
こんな感じで分かれているという。
なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
神経症と精神病の違い
神経症とノイローゼは、同義語である。神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
認知症(血管性など):血管性及び詳細不明の認知症
認知症(アルツハイマー病):アルツハイマー病
統合失調症など:統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害
うつ病など:気分[感情]障害(双極性障害を含む)
不安障害など:神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害
薬物・アルコール依存症など:精神作用物質使用による精神及び行動の障害
その他:そのほかの精神及び行動の障害
厚労省患者調査こんな感じで分かれているという。
離人症とか境界性パーソナリティ障害とか
一時期、どうにも、やる気が起きなかったり、無気力感に襲われてどうにもならない時期があった。なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
内因性の問題と自助努力
まぁ、心理カウンセリングでも、精神療法でもどちらでも良いが、問題は、結局それは、薬や手術によって解決するものではなく、患者自身の取り組みが必要になる点である。肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
問題解決と治療
病気、とは、健常の対義語である。つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
生きがいの治療
生きる意味どこにあるのよ症候群の治療に対しては、人間とは何か、自分とは何か、生きるとは何か、ということを、自ら追い求め見つけていく必要がある。これが、実存分析とロゴセラピーということである(※)。まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
今日の一言「知識ひけらかしたい欲求との闘い」「承認欲求と所属欲求の違いを理解した方が良いね」
いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
天網恢恢疎にして漏らさず
てんもうかいかい、そにしてもらさず。天(神様)は粗いようだけどちゃんと見てて、悪事は見逃さないんだよ!という意味である(注:遠藤意訳)。確か、EDENという漫画のある節話の、サブタイトルになっていた気がする。そのとき、確か高校生ぐらいだったか覚えていないが、「え、これ何て読むん? 意味は?」と思って調べたことがあったような。いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」なのだという。
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
日記を書くこと
僕は何についても劣等感の塊みたいな奴であるが(――しかし、こういったことを自分で言う奴書く奴は、大抵自分自身でそう思っていないやっかいな類型である。プライドだけ高くて、いざ批判や否定をされると顔を真っ赤にして怒り始める。めんどくせーやっつだ)、考えること、特に自省ということに関しては、経験を積み重ねてきた。ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
メタ自分を考えること
僕が書き始めた理由は、「問題」解決のためであった。その問題とは、このブログのタイトルにも集約している。実際に書き始めたのは、中学、高校あたりからだったと思うけれども、そもそも「人は何故生きるのか?」という疑念からであった。これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
まさに症状の距離化と客観化の役割は、自己をいわば不安感と「同列に」あるいはその「「上位に」置くことを患者に可能にすることにある。ユーモア以上に距離をもたらすことに適しているものは他にない。ジョハリの窓、という考え方があって、自分ってのは、他者との関係をして4つの層があるという。自分で知っていて他者も知っている部分、自分で知っていて他者は知らない部分、自分で知らずに他者が知っている部分、自分も他者も知らない部分、と。
――「人間とは何か」P.274
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
今日の一言「価値あるものを生み出したい」「結局金だよみたいな言説に異を唱えたい」
「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)
価値について
ある人は、「この物語は恐らく、需要はない。ただ、この物語を紡げるのは、人類史上私だけだろう。だから書かねばならないのだ」
と言った。
ある人は、
「私の人生の意味は、誰かに、私の生きた証を残すことです。会話であれ、作品であれ、世界に自分の記憶を残すことです」
と言った。
賢者の言に思う。
私はこれまで、何か「できること」、「人より優れていること」がなければ、生きている意味などないのだと、そう思ってきた。いや、思わされていた、のか。そういう環境に置かれていた。ただ、むしろ、自分の中では、否定し続けていたのかもしれない。それが、離人症的、解離的、分裂的な気持ちを生じさせていた原因と考えるのは、自然なことに思われる。
サイコパスの劇場版を見終わった。話しとしての進展などは感じられなかったが、一つの作品として面白かった。シビュラシステムの目指す世界と、ツネモリさんの考える正義との相反性がよりわかりやすくなった気がする。
恐らく、そうした作品でも現れているが、「何かを成すこと」「功利主義的な面」についての言説は、これからも多く触れざるをえないものだろう。「そういう環境」と上に書いたが、どこもかしこもそういうもんなのかもしれない。
いやむしろ、この点……つまり、「責任」や「業績」といった観点においては、何かを成就することというのは、決して否定されるものではないという点、それが、(価値とか、意味とかについての)問題を複雑で、分かりづらく、実感から遠いものにしているようだ。
この記事は、朝によるもので、物理時間が限られているため、以下、フランクルさんの説明のメモを抜き出して終わりとしよう。
創造価値
何かを、生み出すというのは尊いことだと思う。それは、仕事、ということで、生み出されるものである。脳神経細胞の3つの本能のうち、知りたいという好奇心と、仲間になりたいという貢献心によって、「仕事」とか「会社」とか「組織」が生まれた。僕たちはみんな、仕事が面倒で、億劫で、休みが欲しいと年から年中言っているけれども、本当は、仕事というのは、本来、自ずからの欲求を満たしてくれる行為であったのだ。
ところが、専門分化した社会において、仕事そのものの価値(ここでは、社会とか組織への価値ではなく、自分自身・個人への価値のこと)というものは薄れてしまった。
どんなに働いても、誰かのためになっている、という貢献心が満たされるとは限らなくなった。しかしそれでも、しばらくのうちは、「家族」とか、親しい関係者に対して、会社という戦場で戦い、敵を倒し(=お金を稼ぎ)、家族を養っていくことで、貢献心が満たされていた時代もあった。
しかし、それも価値が希薄化していく。家庭の中での父親像は崩壊し、女性の社会進出は進み、核家族化が進み、家族という紐帯の意味が薄れていった。
(注意:上の社会論・時代論はテキトウである)
それでもなお、やはり広義の「仕事」というのは、意味を与えてくれるものである。
体験価値
しかし、創造価値を充たせない場合もある。その場合は、自然の美しさに、芸術に感動する心に、心が本当に深く神韻縹緲に打ちひしがれるような体験をすること、それが価値となる場合がある。本記事と関係ないし、時系列もバラバラだが、最近、2012年のアニメーション作品、「ももへの手紙」をみた。まぁ、まぁ、面白かった。しかし、感動するほどではなかった。山寺さんや西田さんが妖怪役で出演していた。作画もよかったし、声優さんたちの演技もよかったと思う。
そうだなぁ、けれども惜しい、と思った点は、やはりストーリーについてだろうか。そのポイントになる妖怪が、物語の主軸に絡んできていないことだろうか。結局、描きたいだろうテーマと、「妖怪」であるべき理由が見いだせなかった。妖怪たちと「お父さん」との関係性も希薄だった。いや普通一般的な理由は色々あって、描写もされているのだ、けれども、何か「惜しい」と思ってしまった。あと、作画も綺麗だけれども、これだけでいうと、「君の名は。」の映像がやっぱり綺麗だった。でもきっと、テレビでやってたら、ダラダラと見ちゃうだろう。そんな感じ。
態度価値
さてしかし、創造価値も、体験価値も得られないような状況、人もいるだろう。例えば、末期がんの患者など。それでも、意味は失われないのだと、ヴィクトールさんは仰る。
しかし、この態度価値の説明は、薄かったので、上手く理解できなかった。というか、あまり説明がなされていなかった。この態度価値、非常に重要な概念と思うけれども、よく分からない、残念だ。
追記、しかし、その「態度価値」の説明について、むしろこの本全体で述べられているように思われる。
えー、でも、それってどうなの? と思う部分も増えてきている。ただ、ここで立ち止まるのではなく、当初の目標どおり、最後まで、2月中に読み進めることとしたい。
といったところで、自己エクスキューズだが、時間切れだ!! この三つの価値についてはおいおい深めていかねばなるまい。
あーでも、このまま終わるってどうなん? 何か面白いこと、書かなきゃまずいんじゃん?
せっかく読んでくれた人に、上に書いた映画の感想みたいに、「あー、なんか、時間の無駄、とまでは言わないけど、微妙だったな」みたいに思われちゃうんじゃん? それでいいんかい?
ええい、うるさい、だまっとれ。いいんだ、書け。文章を書くというのはなぁ、そんなたいそうな仕事じゃないんだよ。いや昔々は、紙が貴重だった時代や、硯に墨をすって竹に書いていた時代やもろもろは、偉くて優秀な人たちしか書いちゃダメだったろうよ。
今は電子で文字を書ける時代だぜ。「書く」ということに対してのコストが、非常に低くなっているのだ。しかも、WEB、インターネットというもので、特別な人でなくても、公に情報を発信できる世の中なのだ。
いやだからといって、ごみやチラウラみたいな文章を量産してよいということではないが、――【強制終了】
(就職とか面接とか、作文とかレポートとか、「自分の考え」をまとめる作業って、結局読み手に向けたものじゃん。(読解力を試す)そういう意味では簡単だよな。そうじゃなくて、実感を伴った文章を書くってのは、これは結構重い作業だと思う)