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欲しい情報が無いというのは傲岸不遜
2017/01/28 13:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「苛々とか愚痴をさも一般論のように語るのは良くないな」「それもまた人間的にも思えますが」

グーグル先生の検索批判

 先日、「生きる意味」というキーワードで調べると、どうにも「くだらない」情報ばかりで、辟易してしまう、と書いた。
 それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。

 その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。

 まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
 これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。

 語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。

厖大なインプットへの恐怖

 それで、ネット情報というか、まぁネットに限らず、すべてのこれまでの人間の知識の蓄積。
 例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。

 人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。

 そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。

 自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。

 さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
 で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?

 だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
 なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)

70億人のうちの一人としての生き方

 恐らく、単純な生き方として有効なのは、ローカルなコミュニティの中で、ひたすら自己実現と貢献心をみたしていくやり方である。ローカルなコミュニティというのは、会社組織や、家族、友人、サークル、地域など、物理的接触を基礎とする集団内であると、ここでは定義しよう。
 
 そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
 この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。

 で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。

 いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。

零れ落ちた感情の掬い方

 決して、僕は、現実肯定的な生き方を否定するのではない。哲学的に生きることなど、正しいと思っているわけではないし、今、ここ、を大事にするという考え方だって共感するものがあるし、そもそも、僕はポジティブでしかありえない(※1)と思っている。

 その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。

 それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
 恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
 だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。

 このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。

 これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
 前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。


※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。

※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。

※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。

今後の方針の確認

 最近、家に帰ると23時か24時を過ぎていて、平日に殆ど書く時間がない。まぁ換言すれば、仕事が充実しているといえる。対人関係も良好である。生きていく上で事欠かない。換言すれば、忙しくて疲れる、ということである。

 この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)

 まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。

 だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。

 ……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。

 だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。

 けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。

 というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。


※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
 であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。


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