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生きる意味とか人生プランとか
2017/01/15 20:56 | Comments(4) | 生きる意味
今日の一言「本当に求める情報が検索できない」

人生プランというとFPが出てくる

 人生プラン、として検索すると、「ライフプラン」即ち、何年後に結婚して、何年後にお金がこれぐらい必要で、何年後に家を買って、子供が……と、生活とお金に関することがわんさか出てくる。

 僕は、とても疑問なのだけれども、皆が求めている情報って、それ何だろうか? どうやって生きるのか、何故生きるのか、自分の欲望とは何か、やりたいことははっきりしていて、欲しいものとか理想の生活というものは、もう明確で、調べる人は誰一人いないのだろうか?

 僕は、違うと思うのだけれども、しかし、グーグル先生は、それを上位検索結果に載せるのだ。それだけ多くの「お金」が動くキーワードで、重要視されているのだろう。

 だが、僕は、それ以前の部分で悩み、情報を求めている。

孔子先生の論語

 僕が欲しかった情報は、

「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」
「三十(30才)にして立つ」(学問で自立できるようになった)
「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)
「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)
「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)
「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」
参考サイト

 この、それぞれの人生の時期において、どんな目的をもって、どんな生き方をするべきなのか、どういった方法や考え方があるのか、そういった情報であった。

 有名な「論語」の一部である。内容は殆ど覚えていなかったが、高校生ぐらいのときに、何かそんな一節があったような気がしていたから、検索して調べることができた。そういう意味では、学校の勉強というのも、無価値なんかじゃないと思うのだけれども、まぁそれはともかく。

仏陀さんの悟りを開いた歳

 ゴウタマ・シッダールタは、29歳のときに出家し、35歳のときに悟りを開いた。
 後は、80歳で亡くなるまで、ずっと、正しい教えを広め続けた。

 30代~40代で、生涯的な、これをずっと続けようという、ライフワーク的なもの、それを見つけることが大切だ、ということなのだろうと、思う。

 少し、自分なりに、人生の流れを簡単に書いてみよう。本当は、孔子の論語みたいな表現が、いっぱい検索にヒットすれば、その中で使えそうなやつを引用した方が、精度も時間も効率的だと思うけれども、見つからないなら仕方がない、自分で考えるしかない。

30代

 自分の生き方について、方針・計画を確立する。

40代

 自分の生き方の方針・計画について、迷いがなくなり、より精度や深度を上げる。

50代

 自分の生き方、自分の存在についての、世界的な意味(天命・使命・運命)を知り、実感する。

60代

 他者の言葉を素直に聞くことができ、思うままに生きても、人の道に違うことが無くなる。

70代

 死の覚悟をし、心穏やかに過ごす。

10代20代の振り返り

 迷いおおき人生だった。とでも、死際につぶやくだろうか。まぁただ、死ぬということや、生きることそれ自体に何ら意味を見いだせずに鬱屈していた時期があったし、未来を考えるたびに苦痛で、日々の生活が緩やかな絶望にしか思えなかったこともあったことだろう。

 そんな自分が、70代まで含めたプラニングをたてるというのは、これはかなり異例なことであるのはきっと間違いない、こうしてブログに書くことは初めてのことだろう。

 しかしこのことが、果たして、今の状況における、すべての迷いが解決したとか、玲瓏と透き通って落ち着いた心に到達した、ということにはならない。それでも、こうしたことをするというのは、日々、猛然と過ぎ去っていく時間に対しての恐怖という、そんなマイナスの感情故かもしれない。ただ、その行為の結果については、間違ってはいないだろうという安心感はある。

生きる意味を徹底して考える

 前も書いたけれども、「生きる意味」なんて調べると、「そんなこと考えている時間がもったいないです! いますぐやめて、「いまここ」をしっかりと生きましょう」という内容がわんさかヒットする。

「ああ、やっぱり、俺の感じていることは無価値で無意味で間違っていて、無駄なことなんだろうか……」

 と感じざるをえない。しかし、孔子さんの言葉を、僕なりに捉えれば、逆に、40歳ぐらいにならないと、惑わってしまうことが往々にしてあるということだ。

 30代というと、世間ではもう「おっさん」なのだろう。スポーツ選手とか、会社社長とか、政治家とか、30代でも沢山活躍している人が多い。(もっといえば、趣味の世界においても、素晴らしい能力をもった人がとっても多い)
 そういう人たちと比べると、ああ、なんと、自分は矮小な存在なのか……と、思わざるをえない。

雑談

 そして、その、矮小な存在であることを、常にグチグチと言いながら、その安定的な自己領域を守り続けていくという方策、それがダメブロ界といった、「ダメ人間」「凡人」としての生き方である。こういった方法もある。それは、「向上する」ということを捨てた生き方である。世捨て人である。ニートである。そういう意味では、仏陀の教えに最も近い人たちなのではなかろうか。そういう人たちもいるかもしれない、ただ、僕は、話しの脈絡と関係なくなるが、例えば、「現実の女なんてクソだな」といって、恋愛ゲームにはまり込む人たちについて、気持ちは非常によく分かるのだけれども、積極的に肯定できないのだ。

 確かに、他者との生活というものは、恋愛ゲームのように理想的ではない。いくら愛する人でも、寝相が悪かったり、いびきがうるさかったりしたら、毎日寝ているとストレスになってしまう。目覚めのキスとか、朝起きると口内は雑菌だらけなのだというから、危険な行為だ! とか。

 しかし、それでも、ゲームやアニメやその他エンターテイメントは、「現実」から、理想的な要素を取り出して再構築した「現実」なのである。ということは、二次元的なものは、積極的に、全般的に、現実を否定するものではなく、むしろ、「現実の純化」というようなものであるといえるのだ(と思う)。

 二次元最高! という生き方は、これから書いていく、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」の、3つの限界により、必ずしも否定されるものではない、それどころか、その生き方が真実である可能性すらあるのだけれども、だからといって、「現実的なもの」が全否定されるというわけではない。
 現実は、確かに、二次元のように素晴らしいものばかりではない。ただ、だからといって諦めて、現実の中で、より「二次元的な理想」に近づけていくための方策……努力(この言葉の危険性は、前に書いた通り。本来用いたくはない言葉であるが、分かりやすく書くためには必要)を諦めても良いものだろうか、ということである。

思考の体系化

 自分の考えていることを、ツリー図のように体系化する。この目標は、何も今年初めて掲げたものではないだろうが、それでも、今年の主軸とする目標にしたいと思う。これまで、色々と書きなぐってきたが、そろそろ、「整理」も同時に始めて行ってもいいだろう。

 標語としては、ブログのタイトルのとおり、生きる意味を徹底して考える、とする。これの深化は、すべての行為において応用可能なものであるため、これから先、決して無駄になることはないことは、徐々に実感めいたものになってきている。何故今後も役に立つと思うのか、ネットで検索すれば、否定されることばかりでてくるというのに? それはそうだけれど、少なくても僕にとっては、いや、もっと多い、10人、100人くらいには、きっと役に立つだろうと思う。

 まぁそれについて、「役に立つ」「立たない」を議論する気も無ければ、必要もない。ただ、簡単に書いておけば、お金をたくさん集めて、できる限り長い間生命を維持できることだけが、人間として正しい生き方だとは信じられないから、というわけだ。ご飯食べて、排泄して、寝て、の繰り返しができたら十分だというなら、もっと自殺者は少ないはずだし、逆に、「資本主義」(欲望による消費と生産の循環)自体が成り立たない。



 というわけで、カテゴリごとに、できるだけ関連性を持たせて書いていきたい。まずは、30代の目標である、30にして立つという、その「立つ」というのは、自立というか、「自分の生き方について、方針・計画を確立する」というものであるけれども、これを考えるために必要なツールとして、次回は、「身体的限界性」「時間的限界性」「言語的限界性」について書いておこう。

 次に、これは繰り返しになるけれども、もう一度、「理想と現実の乖離」という、幸福という概念について書いておこう。
 その上で、自己への思考の体系化と、実行動への反映を模索していくこととしたい。

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コメント

ちょっと思ったんですが、「生きる意味」について考える前に生きる意味とは何を指すのかについて定義してはどうでしょうか

「生きる意味」と言われても結構漠然としてて何かイメージできない。

・死ぬまでに成し遂げたいこと
・この世の中で果たす自分の役割(世界平和のためとかそういうの)
・神様が自分を生産した理由

ある程度具体的に定義しないと議論出来ないのでは?と今更ながら思ったんだ。
別に正解なんて無いと思うし、いくつか定義してみてそれぞれについて考えてみてはどうでしょうか
posted by QUWEat 2017/01/16 12:00 [ コメントを修正する ]
なるほど、確かに漠然としてますね。
イメージは、しかし何だか、上に挙げていただいた、成し遂げたいこと、自分の役割、天命、と、その全般と思っています。

上手い表現ができずにもどかしいですが、先日書いた、自分を一生騙せるような生き方、というのが近い気がしています。

といいますか、コメントのタイトルを見た瞬間に、ああ、やられたなと、クリティカルダメージがくるなと、そう思いましたら、案の定やられました。

逆に、定義できたらいいなと。そう思ってました。逆に定義できないのに、やれ検索がみつからないなど、適当なことを書いているなと思われたことでしょう。

神が信じられたらよかったし、日々の生活に満足できたらよかったし、社会の中での自己実現ができたらよかったし、友人や恋人との愛に生きられたらよかったし、趣味を極められたらよかったし、仕事に埋没できたらよかったし……


むしろ、生きる意味とは、おっしゃるとおり、考えないことなのではないかとすら思います。そうですね、きっと、考えなくてもよくなったときが、生きる意味を見つけたらときなのでしょう。


話がおかしくなっているでしょうか? いえ本当に、鋭いコメントにより地面に突っ伏してしまっているのです。顔をあげられません、恥ずかしくて……ええ、定義ですよね。

そうですね、やはり、日々満たされていてなにものにも惑わされず、死ぬ間際に、ああ素晴らしい人生だったといえるような、そんな生き方になるために必要な事象と経験の構築プロセス、……

そうなのです、上のことは何も示せていないのです。
くえさんは仰った、考える前に定義をせよ、と。しかし、その定義に辿り着くことさえできていない愚か者にとって、その定義をする行為自体が、結局、考えることそのこと自体になってしまうのです! このアホらしさと虚しさ! なんということでしょう!

くえさんが看破されたように、この、生きる意味とは相当漠然とした概念です。概念という語を、帰納的に積み上げられた事象の抽象化というならば、概念ですらない可能性もある。
ただ、僕はブログタイトルとして、標語として、今は、大きな入れ物のように考え、イメージしています。

神が自分をつくった理由
社会における自分の役割
生命が尽きる前に成し遂げるべきこと

この三つとも、すべて僕は考えたいと、飲み込みたいと思っています。
むしろそれらは分けられないのではないかとも。

さらに、定義をすることの困難は、アホな人間の典型ではありますが、無限遡及として、例えば、では神とは何か、ということから始まっていきます。
僕の中での神という概念は、これもまた幅広くて、唯一神から多神教からアニミズム、更には、資本主義とか法律とか超越的なもの全般まで時に広がってしまいます。ただのアホなんですけどね。

ここで、じゃあ自分をつくった、ということから限定すれば、いわゆる宗教の神を想定するわけですが、こうなると、所詮は信仰の問題……即ち、どれだけそのひとつのことを信じられるか、という問題になり……というのは、初めの方に書いた、どんだけ自分を騙してずーっと一生かわらずいられるもの、というのが、まさに生きる意味の定義なんじゃあないかと。


思うに、定義はすべきなのでしょうが、多分、狂っているのか単に頭が弱いだけなのか分かりませんが、今のままでは僕は定義ができない気がします。

なので、定義の前に、そもそも、感動的な、うちひしがれる、しかし絶望ではなく憧れるような、そんな生き方そのものが、僕は見たい、知りたい、感じたい、そう思うのです。

うーん、気持ち悪いこと書いてるかなぁ、しかし、コメント欄で、しかもスマホからだと推敲する気がおきない……取り敢えず、このまま送信させて頂きます。多分近日中に本文のほうでも取り上げなきゃいけないだろうなぁ……あまりにも衝撃的なコメントだった……。
posted by 遠藤at 2017/01/16 21:31 [ コメントを修正する ]
 遠藤さんの返信の内容を見て、「定義することそれ自体」あるいは「考えることそれ自体」がある種、遠藤さんの目的になっているのではないかと思ってしまいました。

 生きる意味について考える。その前に「生きる意味」という言葉の意味を定義する。
 なんだかマトリョーシカみたいな印象です。
 どういった定義(イメージ、それが指し示す意味合い)を「生きる意味」とするのかによって、その先の「生きる意味について考える」という内容や方向性には変化が出てくるのかもしれませんが、出ないかもしれない。

 何というか、あれこれ考えている対象に対し、何かしらの定義をすると、思考はそこで止まってしまいますよね。つまるところ、正否や善悪などはさておき、自分の中で結論が出てしまうため、「それ」という事象や対象に対しては何かしら覆すような衝撃が無い限りは「こう」と決まってしまい、「それにはこういう答えが出ているから」とそれ以上考えないようになる。
 自分を一生騙せるような生き方をするための結論とは、それ以上考えなくていい答えを見つけて思考停止するということなのでしょう。
 あれこれ考えなくていいというのは楽ですもんね。

 何となく私が見ていて思うのは、「結論出して止まるのが嫌なのかな」ということ。
 きっと、遠藤さんならやろうと思えば無理矢理にでも何かしらにこじつけて結論を出すこと自体は出来ると思います。誰でもできる気がします。ただ、遠藤さんはそれをしない、したくないと思っているだけで。
 私個人の見解ですが、「考え続けることそれ自体を、生きる意味にしたがっている」のかな、と思えました。
 明確な答えを出さず、自分が納得して止まってしまうような妥協はしたくない、そこに至ること(いわゆる一般大衆に混ざり埋もれること)にどこか強迫観念めいた恐怖を抱いていながら、それでも何かしらの答えには辿り着きたい(その他大勢の側にいるべきなのではないか)と矛盾するような思いを抱いているのでは、と。
 だからあれこれ理由をつけたりこじつけたりして毎回毎回何かしらの答えを出しては「自分にとっては何か違う」「そうじゃない気がする」「しっくりこない」と流しながら「でもこの考え方には価値(意味)があるかもしれない」「この思考の流れには意味(価値)があるかもしれない」とスクラップしている。
 自分にも多くの人のように答え(妥協点)自体は出せる、けれど自分はその答えでは大勢の中に上手く溶け込めない気がするから、この答えは多分自分にとっては違うように思える、だから別の答えを探してみよう。
 これを延々繰り返している。
 そんな印象を受けました。

 だって、同じ言葉でもその定義を変えればまた考えることができますから。

 答えは欲しいけれど、止まってしまうと自分が自分でなくなりそうで怖いから、延々と答えを探し、出し続けていく。それ自体を目的にしてしまって、「ズレた自分がいつになるかは分からないが辿り着くであろう何かしらの答え、あるいは答えを出せずに考え続けたことそれ自体、が自分にとっての生きる意味になるはずだ」と言い聞かせて走り続けているような……。
 何というか同じことを繰り返し書いているような気がしてきました。
 そして的外れでしたらごめんなさい(;´д`)
posted by 白銀URLat 2017/01/17 15:40 [ コメントを修正する ]
いわれてみたら確かに遠藤さんは考えることが目的なんでしょうね。的を選ていると思います。

これは私にも当てはまるんですが、結論を出さない議論を繰り替えしているんですよね。

科学者と哲学者の違いは「思考が結論を求めるか、求めないか」だと思っています。だとすれば我々は哲学者っていうことですね。
posted by QUWEat 2017/01/17 20:52 [ コメントを修正する ]

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