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眠れない夜とセーブポイント
2017/09/17 16:04 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「無気力である」「劇場版シュタインズ・ゲートは楽しみ」

眠れない夜

 昨夜はとにかく眠れなかった。
 布団に入っても、体がうずくような感じがして、目をつむっても思考がとまらず、眠気は一向にやってこない。窓の外で打ち付ける雨の音も気になった。
 結局、明け方まで眠りにつくことはできなかった。そして気づくと昼過ぎであった。天気は相変わらずよくなかった。

 途中。起き上がることもできず、眠ることもできなかった間思ったのは、「そういえば、音楽や写真の整理をしていて、結局ブログを書くことがなかったな」ということであった。

 ある程度、思ったことがあったときに、それを整理して書いておくということ、それをしなければ、もはや眠ることもできないというのか。

 記憶に残したいと思ったこととは、おおよそ、

・ティッシュペーパーの予備がなくなったから買わなければいけない、クリーニングにいかなければ、などと家事のこと
・友人との会話のこと(投資、政治および仕事について)
・光子(フォトン)、通信技術の発展について

 ぐらいであったと思うが、自分の記憶力を最初から信用していないから、トピックスだけでもどこかにメモしておくべきだった。――しかしメモとは、一元管理しなければ、結局どこにメモしたことなのか、いつメモしたものなのかも分からなくなってしまうため、現時点、このブログが一番よいのだが――ただし、リアルタイム性は損なわれる。
(もう一つ後から思い出した。過去の写真など整理していて、自分の愛馬、やっぱりかっこいいなと思う。他者から見たら全部同じなんだろうが、小石で傷ついた身体とか、美しい毛並み(色艶)とか、眺めているだけでもワクワクする。これもとあるブログをみて、「愛馬の選び方」みたいな記事で、いろいろ特徴など書かれていた上で、最後は「自分が最高にかっこいいと思うのを買え」とあった。なんか、わかる。結局、――スペックとか数値にあらわれる部分も大事だけど、最後はフィーリングとかインスピレーションなんだと思う)

 他にもトピックはあった気がするが、ほらみたまえ、もう半日以上過ぎてしまうと記憶から抜け落ちてしまっている。

思い煩い

 ただ、何時間も、体の不快さと合わせて、思考の不快さに耐えていたことも、今となっては悪いことではないと思う。

 悩むことや苦しむことに対して、一定の価値は認めるのだ。

 それは、目的にはならないが、手段ではある。


 ……その、眠れない夜に思ったのは、思考の結節点というか、始まりというか、セーブポイントを、先般の「実感表」と合わせて作成しておこうということだ。

 頭の悪い人は、思考がループする。
 その原因は、一つ、記憶力のなさに起因する。その記憶力とは、知識的な「暗記」とは少々異なり、「実感」としての銘記である。
 先日つくった実感表は、30いくつに及んだが、この場ですぐに暗唱できるかというと怪しい。読めば、「ああ、そうだ、これは僕の感じ方だ」とは思うだろうが、しかし、すぐにアウトプットできないものは、完全な知識とはいえない。

 とはいえ、その30いくつを、丸暗記しても意味がない。必要なのは、連関、つながりである。

 もう一つ、実感表で表現されていないことは、「目的」である。あくまで個々の記憶(実感)を表現しているに過ぎず、それがどこに向かうものなのかを示したものではない。

 というわけで、アドベンチャーゲームというか、ノベライズゲームの、シナリオ分岐の際にセーブをしておくようなイメージで、思考について「どこでセーブしておいて、どこからロードすべきか」といったことを本記事では表現していく。

セーブポイントその1:オープニング

 はじめに、実感表の1「人生には限りがある」、これがスタートになる。
 自分は不老不死であると信じている人はいないだろう。――ただ、何度も書くが、そのことを意識できている人は少ないと思うが。
 だから、キャッチーな始まりとなる。

 人生に限りがある……人は有限の存在であり、いずれ訪れる死は避けられない。

 このセーブポイントは、いつどんなときも当てはまると思う。
 しかしながら、このポイントからは、すぐさま、たくさんの分岐が発生する。

 ――だから、好き勝手生きるべきだ
 ――だから、人のために生きるべきだ
 ――だから、歴史に名を残すように生きるべきだ
 ――だから、自分の生まれた意義を探求し生きるべきだ

 すでに、この次の分岐時点で、それぞれが「正しい」。
 僕は、これらをどれか一つ選択できているわけではなく、ときおりブレてしまう。
 だから、現時点では、セーブポイントとして、「人生は有限だ」ということを残しておかなければならない。

セーブポイントその2:やることがある時

 次に、ある条件、それは、「やりたいこと」や「やるべきこと」が存在している場合のセーブポイントである。

 やんなきゃならない仕事。
 みたい映画や漫画やアニメ。
 やりたいスポーツ、ゲーム。

 など。

 ただ、このときの多くは、ブログなど書いていられる場合ではないことが多い。
 そもそも、思考があまり発生しない場合が多い。なので、あまり書いておくこともない。

 問題は、次だ。

セーブポイントその3:無気力な時

 もう慣れてしまったけれども、この無気力感は、相当やっかいである。

 眠いというならまだ良いのである。ちょうど、昨日の夜のような、眠れないけれども起きれもしない状態が続くのである。
 大学時代だけれども、あんまり具合がよくないから、思い切って病院にいって睡眠薬を処方してもらったこともある。あれはよいものだ。気絶するような眠気がやってくる。お酒でも同じことができるけれども、それに慣れて量が必要になってくると、今度は二日酔いのような頭痛に悩まされるので一長一短である。

 他の方法として、――ある友人と会話していて共通認識であったのだが、運動したらよく眠れるというのは、そもそも、運動できるだけの精神状態が良好である必要があるということだ。
 昨日は、眠くなるまで何度も筋トレを繰り返して体を疲れさせようと試みた。ただ、思い切って外に走りに行って汗をかいてお風呂に入って……というぐらいやらないと、完全なる眠気を呼び起こすには足りないのだ。


 この無気力な時。

 これがあるから、僕はこのブログを書いているようなものだといっても、あながち、過言ではない。

 たいていが元気なのであれば、なんか好きな作品の感想など書くようなブログであってよいのである。

 多分、健常な人がみれば、「おまえ、こんな、生きる意味とか考えてるから具合が悪くなるんだよ」という感じなのだろうが、――逆なのだ。
 逆。運動したらよく眠れるというのと同じ。具合が悪くならなければそもそも書く必要はないのである。


 原因については、先日記事に書いた。少し面倒だが探して引用してみる。

 欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。
 大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。
 その人は、「理想の生活」を欲していた。
 それが、死別という運命によって、引き裂かれた。
 ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。
 そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。
 僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)
 最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。
 それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?
――人格について(2017年8月)

 うーん。ぴったりの内容がなかった。たくさん書いているはずなのに、いざ、必要なものを探すと完全一致がみつからない。だから、どんどん長くなっていくんだろうな。
 補足する。
 人は欲望によって生きている。これも、否定する人はいないんじゃなかろうか。「ご飯食べたい」というものもそうだし、「誰かのためになりたい」というのもここでは同じ欲望とする。欲望の低次元高次元はここでは問わないということだ。

 それで、人の幸せというのは、「理想」と「現実」の乖離(ギャップ)が小さい場合を指すと僕は定義している。
 客観的な幸せという基準は存在しないという立場である。世界の幸福度ランキングといった指標もあるようだが、面白いとは思うけれども、あまり重要な指標とは思っていない。話はずれるが、「僕幸せです!」ということを、日本人は避けようとする傾向がある気がする。ま、日本人だけじゃないのかもしれない。「嫉妬」という感情は、人間の性質の一つだろうと思うので。

 ので。
 何が言いたいかというと、「適切な欲望」を抱ける人が、「能力」をもつことよりも、よほど幸せな人生を送れるということである。

 自己啓発とかスピリチュアルとか、心理学とか哲学とか、偉い人のたくさんの方法言葉などあるだろうが、いろいろ触れてきたけど、僕は、この「理想と現実の乖離」ということ以上の方策を知らない(実感を得られなかった)。

理想と現実の乖離

 「適切な欲望」というのと、「理想と現実の乖離(ギャップ)」というのに、少し飛躍がある気がしたので補足する。
 理想というのは、どうやって作り出されるのだろうか。人の欲望である。以上補足終わり。

欲望の抱き方

 ので。
 僕は、今大事だと思っているのは、どうやったら「欲望」をもてるのだろうか、ということである。

 たいてい、世の中にあふれるキャッチーな記事ってのは、「〇〇を短期間で達成する方法!」といったものである。

 逆に、僕は、どういった欲望をもつのが「正しいのか」ということについて知りたい。

 ……と書いていて思ったが、確かに、そんなキーワードで探したことはなかったな。一応、調べてみるか。でてこなそうだけど。

――欲望が満たされると楽だが 欲望を抱かなければもっと楽である

 こんなのが出てきた。うーん。こんなことを書くから、仏教に対して消極性がスポットされるんだろうなぁ。傲慢な書き方をすれば、正直、この境地はとっくに得ている。はっきりいって、あんまり欲望がないのだ。とても満たされた生活がおくれているのだ。
 が、それが「楽か」といわれると、とてもハテナなのである。

――「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます

 はぁ? そんなの分かってるよ、と拒否反応がでる。これはよくないことだとは思うのだが……。とにかくつまらない記事である……が、まぁ俺のブログの全体もこの思想に半分つかっているんだから、きっと同族嫌悪なのかもしれない。

 他は、赤ちゃんの抱き方、とか出てきた(笑)。


 他は、「欲望の持ち方」とキーワードを変えて調べてみると、
――欲望とはエネルギーのことです
 こんなのが出てきた。一部引用。
 しかし、仕事は「面倒臭い」「自信がない」「やる気が出ない」などというのは、エネルギー不足です。
エネルギーとは下記のような欲望のこと。
 ベンツが欲しい
家族をもっと経済的に豊かにしたい
有名になりたい
社会に貢献したい
色々とあるかと思います。

 ねーよ!!!(笑) だから、その欲望ってどうやって持つんだか聞いてるんだよ!
 と、突っ込んでしまった。

 そうなんだよな……やっぱり、「正しい欲望の抱き方」ってのはあんまり重要視されていない。
 というか、ふつう、当たり前にもっているべきもの、とされているんだろうな。
 確かに、身の回りの人、特に年上の人を見ていると、欲望に事欠かなそうだなぁと思う。
 こんなことを思ったりするから、平成生まれの人たちが「悟り世代」とか言われるのかもしれないが、そういう意味だと、俺は昭和生まれだが最新鋭だったのかもしれないな、えっへん(虚脱した目)。


 なんというか、「欲望のコントロール」ってのは色々論じられているが、そもそもその欲望ってどっから湧き出るのか、創り出すのか、そんな方面は薄い気がする。

うつ状態とネガティブ思考について

 専門家じゃないからテキトーなことを書くだけだけれど、薬飲んで、脳の状態が回復したとして、本当に正しく欲求(行動力)が復活するのだろうか。

 うつ病になるのは、普段元気な人がなりやすい、と言われるが、それは、バリバリ活動している人が突然行動できなくなる(うつ状態)になるから目立つのはあるんじゃないかなと思う。

 そもそもうつ気味の人は、「ああ、そういう人なんだね」って見られているから、「ネガティブ思考の人」とか思われてそれが普通だとされているのかもしれない。


 まぁ、今回の記事においては、「無気力」という状態について、「欲望」という言葉で置き換えて考える方法を提示できたので、それだけで価値がある。

「なぜ無気力なのか?」

 と考えるよりも、

「なぜ欲求(欲望)が生じないのか?」

 と自分に問うた方が、方向性を導きやすい気がする。


(かっこ書きである。無気力である。のだけれども、劇場版シュタインズ・ゲートを入手したので、正直楽しみで早くみたいのである。序盤25分だけみたけれども、なんだ……、なんだこれは! アニメ版の最後の方で感じた「ちょっと物足りない」感だけれども、それが劇場版への布石だったとするならば、再度全体評価が上がるのではなかろうか。すごい楽しみである。――んじゃあ、すぐ見て元気出せばいいじゃないか、ということだが、なにせ、1時間半ぐらいしかないのである。もったいな過ぎる……。俺の寿命があと半日しかなければ、まずMAXプライオリティでみるんだけど……。ああ、もうちょっと、こんなレベルの作品がたくさんあれば、もっと人生楽しく生きていける気がするんだが、いつもの傲岸不遜であるが、プロ・アマ問わずあんまり無いのである。いや、面白い作品はたくさんある。ただ、魂魄揺るがしてくれるレベルのものを言っている。ハイスピードで峠を愛馬で風を切って走るレベルのワクワク感を求めてやまないのである。――そうなってくると、やっぱり、創作しなきゃ! という欲求は生じてくるのである。他者に任せていては、そういった作品に出会えるのは、いつまでたっても偶然性によってしまう。だったら、自ら創り出せるようになれば、その行為自体も、結果として完成する作品も、自分自身をワクワクさせてくれるんじゃないかと思うのだ(しかし、紙面に向かうたびに自分の筆力のなさに頭を抱える→そして無気力へ→いやいやこんなんじゃダメだ(以下ループ)))

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