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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
人格について:テキトーブログも書かなければ続けられない
今日の一言「書くという行為そのものの肯定」

体調の悪さ

 風邪とか、明確な病気だったら話が早いのだけれども、なんだろうこの、頭が痛くて、やる気が起きないのは。
 この無気力感は、思えば、昔から多くの期間で発生したものであった。
 確かに、何もしない、何もできない時間は、無駄なのかもしれない。けれども、その時間もまた、何らかの次の行動のために必要なのではなかろうか。

 などと、堕落を肯定するようなことを書いているわけだが、ここで、その堕落について思い煩い、日々のルーチンまでも壊してしまっては元も子もない。

 もともと、「元気」なときに頑張れるなど当たり前なのである。
 いかに、体の調子が良くなくて、やる気が出なくて、イライラしてて、不安で、無気力な時に、可能な限り堕落を抑えて、少しでも活動を維持することができるのか、その点が重要である。

 すべての行為行動、思考、感情に、因果を求める。

 何か目標を立てて、それに届かなかったとき――これは2パターンある。
 1つは、精一杯頑張って、それでもだめだった時。
 2つは、計画を遂行できなかった時。

 1つ目は、得るものもあるだろうというと、否定する人は少ないだろう。
 ただ、2つ目については、自己を呪う人もいるだろう。しかし、2つ目の理由――つまり、自分の堕落が原因で目標に到達できなかった場合であっても、そこには「意味」があるのである。

 その堕落の原因を突き止めることができれば、そしてそれを受け入れることができれば、一歩、また素晴らしい人間人格に近づくのである。

魂の所在

 脳神経細胞は、シナプスという結合がなされており、電気刺激で興奮し、情報を伝達している。
 そこに、僕らの「意思」といったものは、どのように生じているのだろうか?

 高度なAI・アンドロイド・ロボットの「ふるまい」が、人に近づくことはあるだろう。そうしたときに、「感情」が現象した際に、そこに「魂」(意思)は生じているといえるのだろうか?

 目標の計画倒れ――堕落の話と何が関係しているのか? と疑問に思うことだろう。

 ここで触れたいというか、確認しておきたいのは、「人間」という存在の規定である。あるデンマークの哲学者さんに言わせれば、人間とは「精神」であるといい、精神というのは「総合」なのだという。
 総合とは、あるものとないものとの関係であり、それに関係する関係であり、その関係自身である――と、最初の文章がものすごく分かりづらいために、高校生に初めてそれを読んだとき、僕は本を放り投げた。

 ただこれは、それほど難しく考える必要はないと、今の僕は思っている。
 人は、いろんな要素で成り立っている。――この程度の理解でよい。
 そこに、もう一歩踏み込んだ時に、「関係に関係する関係」という一見トートロジーの概念を、概念理解として頭に入れておくべきことだ。

 A―B

 という要素があったとき、その総体(総合・関係)が、人間・精神であるということ。(もちろん、A、B、C、……と要素は無限大にある)

 AとBが相互に影響を与える範囲にあるという場合に、AとBは「関係している」という。つまり、上の図だと、ダッシュ「―」にあたる部分が、関係だ。

 ここで、この「関係」を「C」という要素としてみたとき、テキストでは表現しづらいが、

 A―C―B

 という図になる。ここで、AとBも関係しあっていることがポイントである。そして、このA―C(※)と、C(※)―Bの関係が、関係に関係する関係ということである。

※Cが、そもそも「関係」なのだから。


 これが、人間は精神であり、総合であるということである。
 言い方を変えれば、人間は多面的で多義的であるといってもよい。

 そうやって具体的に、生活用語にもっていけば、何もそれほど難しいことではない。では、なぜわざわざそんな、抽象化する必要があるのか。

良く生きるということ

 僕はここ半年より前から、多くの方のブログを拝見するようにしている。
 そこには、大切な人と死別したり、理想の男性を追い求めたり、仕事が嫌で仕方ないながら続けていたり、資産運用で生活したり、――まぁいろんな方がいらっしゃる。

 それぞれ、人には、悩みがあって、生活があって、人付き合いがあって、生きている。

 その中で、「ある事象」に囚われて、それへの呪詛をずっと書き綴っている人も少なくはない。

 何故自分がこんなひどい目にあわないといけないのか。周囲の人は、社会は、環境は、国は、狂っている、間違っている、苦しい、苦しい……。

 ――なんか、分かる。


 いつの間にやら、僕は、「悩み」というもの自体がよく分からなくなってしまっている。それは、感情が抜け落ちたということではない。痛い、悲しい、楽しい、うれしい、それぞれ、存在する。

 けれども、人――じんせい、じぶん、を考えたときに、それらが、何ら重要なものには思えなくなっている。

 ――じんせいはひまつぶしだ。

 こんな表現を目にすることが、若干だけど、増えてきた気がする。人生に意味なんてない、そんなことを、恥ずかしげもなく言う人だっているだろう。

 先のこと、いずれ訪れる死のことなんて考えても意味がないのだから、日々の生活を精一杯がんばろうぜ! というのはよく分かる。
 ただ、その考え方が当たり前になっていると、上記の、「悩んで苦しむ人」は、一生抜け出せない苦しみにもがき続けることになる可能性がある。

楽になるためには

 喪失。

 野球選手になるのが夢だった人が、交通事故で手足を失ってしまった。

 周りは、野球だけが人生じゃあないと。他に生きがいを見つけなさいと、きっとそうアドバイスするだろう。
 で、「美談」は、そうはいっても、あきらめずに、義手義足で野球を続けることができたとか、そういうのが「美しい話」として語られる。あきらめずに求め続ければ、報われるのだと。努力は素晴らしいことなのだと。

 しかし、自分の子供を欲する人が、不妊症だったと分かったとき――じゃあ、養子をとればいいじゃない! とアドバイスする人がいるだろうか?


 世界は、喪失に溢れている。

 優れている人もいれば、劣っている人もいる。

 それは、生まれた時の資産、容姿、周囲環境、運……様々な要素が複雑に絡み合っている。

 恵まれた状況の人も、ちょっとしたことで転落してしまうこともある。



 ……と、いうけれども、そもそも、その「恵まれた」とか「不幸」ってのは、何に対してなのか?

 自分の欲求・欲望に対して、である。


 楽になるための究極の方法を示そう。「諦める」ことだ。


 これが、キリスト教と仏教と、御利益仏教と原始仏教との違いだと僕は思っている。
 広い意味で、「救われること」を仏教も望んでいるのかもしれないが、その方法論が異なっている。神に祈るのではなく、ひたすらに諦めて、「正しい」生活を繰り返していく――それが仏教だ。

仏教はさいつよか?

 欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。

 大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。
 その人は、「理想の生活」を欲していた。
 それが、死別という運命によって、引き裂かれた。

 ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。
 そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。


 僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)


 最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。
 それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?

 まぁ、それはそれでいい、という人がいるだろう。そういう人は、「生きてる意味なんて小難しいこと考えないで、精一杯生きたらいいんじゃね?」というだろう。
 と、いうか、多くの人、大半は、そういうテーゼだと思う。何せ、「さっさと死んでしまうのが正解だぜ?」なんて、聞いたことない。

 でも、おかしくないか?

「人はみな、生まれたときにおギャーってないて、それは意味があることなんですよ」

 とも言われる。「人は生まれたことそれ自体に意味がある論」である。

 意味がある、として生まれてきたはずなのに、段々長く生きていると、「生きてる意味なんてなくなる」の?

 そんな馬鹿な。やっぱり、なんか意味があるんでしょ? と僕は思う。
 思うのだけど、でも、同時に、テーゼは、「諦めの連続」である。何故か?

成功し続ける人生

 諦めの連続、と書いた。これは少し補足すべきだろう。
 例えば、「成功者の哲学」的なのがある。「人生はチャレンジの連続だ!」的なアレだ。人は日々成長していかねばならぬ、的なのだ。みなさまもよく聞くだろう。親や、上司や、教師や、その他指導者たちは、「ゴール」を描き、挑戦させ、努力させ、目指させる。

 ここで、自分自身が、「失敗の連続で何のいいこともなかった」とウジウジ言っているわけではないと、まず前提として書いておこう(その事実は置いておいて)。どういうことか、何が言いたいかというと、「成功した時のカタルシス」を認めないわけではない、ということだ。なんか頑張って、手に入れたときとか、仕事して作って、それが評価されたとき、作品やプログラミングなんかして完成したときの晴れやかな気持ちってのは、「ある」。

 そういう意味で、今この瞬間、僕は、「どう生きていいか分からない」という深刻な状況ではない、ということだ。

 だが、常に頭にあるのは、その晴れやかな気持ちの連続が、本当に「人生」そのものであると言い切ってしまってよいのか? ということだ。
無為に無駄に徒らに時を過ごしてしまっている。日々の仕事や現実的な雑事で忙しくしてると、人生の意味について考えることをついついおろそかにしてしまい、なおかつ、一生懸命やっているという誤った充実感を抱いてしまうせいで最重要課題の人生の意味を考えることをしそこなっている機会損失の自覚もなく、慢心して過ごしてしまっている。考えて、何か手がかりが得られると人は達成感や自己効力感を感じて、充実した良い気分を味わえる。しかし、この良い気分というのは、単に、脳の報酬系にドパミンが放出されてるだけのことで、それは側座核を電気刺激されてるラットのようなものに過ぎない。
本当の悟りとか、人生の意味に対する答えとかは、そういうものではないだろう。たぶん、きっと、静かにしみじみ味わうような感慨深いものであろう。
それにしても、本当に大切なこと、ではない全然別なことでもそれに夢中になって取り組み何とかかんとか仕上げると達成感が得られて、本当は時間の浪費だったということに気づかないでしまっていて、それで日々が過ぎ去ってしまう…。 何をすべきかを考える前に何をすべきかを考える習慣をつけていきたい…考える時間を作り、その大切な時間を他の世俗的な雑事に使うのではなく、忘れずに人生の意味について考えることに費やす習慣を。――雑事ではなく、1番大切なことを忘れずに考え続ける習慣をつけること
 普段訪問させて頂いているブログさんの記事を引用させて頂いた。下線部は僕が引いている。
「誤った充実感」
 この表現、頂き、である。舌を巻く表現であった、と書くと、いつもの上から目線ティックになってしまうけれども、ほんと、よいと思った。

 ああ、満たされているなぁ、楽しいなあ、充実しているなぁ……と、それって普通はよいことである。
 けれども、そういう考えしかもててない所謂ポジティブさんは、「喪失」に弱いんじゃないかと僕は思っている、勝手に。まぁ、その「喪失」をいやす装置ってのは、「泣き作品」だったり、友人・恋人、家族とかのコミュニティだったり、たくさんあるから、そんなに困らないのだろうが。

 ただ、本当に「致命的な喪失」を経験した人は、なかなか立ち直れなくなる。それは、「諦め」ができなくなるのだ。

 そして、その喪失への執着が強くなればなるほどに、反転して、その喪失を、手放せなくなる

自己の弑逆

 おかしな話だ。「救われたい」と欣うはずなのに、その喪失感情を手放せなくなるなど、そんなことありえるのか?

 構造は簡単だ。「人は、なかなかすぐには変われない」という前提がある。
 そうしたとき、その執着期間が長くなると、「喪失感情を抱いている自己」というのが醸成される。そうしたとき、他者の、「ほかにもっといいひといるさ」「人生、それだけじゃないよ」というアドバイスは、それが至極もっとも正論だったとしても、「自己によって受け入れることができなくなる」のである。

 そんじゃあ、「わかるよ……つらいよね」と寄り添ったらどうか?
 それはそれで、その喪失感情を肯定することになるので、まぁ、八方ふさがりである。

 結局、自分で立ち直るしかなくなる。けれども、ポジティブ人間さんは、喪失の体験が少ないから、どう立ち直っていいか分からなかったりする。

もう少し続けよう

 最初に書こうと思っていたことは何となく、書いた気がするけれども、ここまでのことは、いつものことの繰り返しだ。少し、話を進めることができそうだから、このままもう少し書いていこう。

 僕は、反転したポジティブ人間さんである。

 基本、人生楽しんだ方がいいと思っている。

 どんなことをしたら、自分が楽しいか、ってのも、段々洗練されてきた気がする。


 けれども、だ。
 そうやって生きていけばいくほどに、どんどん、「諦め」度合いが強くなっていくのである。
 表現は難しいが、……誤解を恐れずに書けば、人生が「ゲーム」のようなものに思えてくるのである。
 そりゃあもちろん、ある精神科医さんが言うように、人生とはリセットできるものではなく、唯一性・一回性のものである。

 しかし、幸福も、不幸も、それは単に、その80年という期限の中でのイベントに過ぎない。
 時間が経てば洗い流されてしまうもの。

 そんな恐怖から、僕はずっとログというか、日記的なのを書いてきたのかもしれない。そういう意味で、僕は、何か、忙しく生活していても、日々が充実していても、「書くこと」を欲するのかもしれない。

 なんというか、一時の感情や感覚に対して、あんまり価値を思えないのだ。

 いやいや、こんな、長くなってしまったから、だれにも読んでもらえず、ぐだぐだしたことを書いているのも、そんな価値なんてないだろうとは思う。


 けれども、なんか「楽しい!」と思った一瞬よりか、この無駄な500字でも、1000字でも書いていた方が重要に思うのである。



 僕は離婚したことあるけれども、過ぎ去ってみると、あーそういうこともあるんだなぁ、という感覚である。友人などが結婚します、ということで、結婚式場の下見にいったりとか、たくさんの人に祝福されて、二人の家を探して生活を始めたとか、思い出そうとすればいろいろあったなぁと思う。

 哀しい気持ちにもなれる。寂しい気持ちにもなれる。

 でも、もっと嫌なことだってあったし、不安や怒りや不快感が連続した期間が長かった時期もある。

 それが今では、あー、いろいろあったなぁ、と、そんな程度である。

素晴らしき人々

 例えば、の話。
 TOEICなんて、何の英語力にもならない、無駄だ――と、権威のある人、人気のある人がいっていたとする。その事実がどうか、はここでは関係ない。しかし、仮に事実だとしよう。

 その際に、そういった記事や、権威のある人の話を聞いた人が、「え、きみ、まだTOEICの勉強なんてしてるの? それって、意味ないよ?」と、したり顔で言ったとする。

 それほど滑稽なことはないと思う。

 しかし、こういった例えばの話は、結構ありふれている。「意味がない」という言葉を使う人について、よくよく観察するべきである。

 意味とは多義である。

 すべては条件である。その人にとっての意味と、私にとっての意味とが同じとは限らない。
 だから、大事なことはプロセスである。

 いや、僕は、他者と話すときは、意識して、「結果が大事」といっている。それは、結果しか、目に見えないから、他者には判別しようがないからだ。
 しかし、その根本にある考えは、「プロセス」が大事ということである。

 結果は、一面的にすぎない。その場限りの、その場における現象である。



 素晴らしい人とは、そのプロセスを語れる人である。理由をどこまでも突き詰めて、考えていける人である。
 それを、「自分で考えられる人」という。思考力がある人ともいう。

 いろいろな、様々な分野で、考えられる人は多い。けれども、僕が特に欲するのは、根源に至る道を考える人である。

 僕は、幸せに生きる方法とか、そういったものは興味がない。お金についても興味がない、のだけれども、例えば、「人生とはすべてマーヤー(幻)なのですよ」と語る導師がいたとして、その導師は親兄弟に養ってもらっているニートだとしたら、なんか滑稽ではなかろうか。

 語ることができるというのは、自分で生活できるという前提に立っている必要がある。

 その、「養ってもらっている」というのが、たぐいまれなカリスマ性で、その庇護者が自ら進んでその人を養いたいと思えるほどのレベルに到達しているのなら、それは立派な「仕事」だろうが。


 そういう意味で、お金について、「興味がない」というのには抵抗がある。やっぱり、必要最低限は欲しい。でも、給料を2倍にするから、金輪際一切、仕事以外に「書く」ことをしてはならない、と言われたとしても、僕は即答断るだろう。

 お金よりも、創作や、考えることの方が重要だ。
 それは、大学入試や、就職活動しているときも同じだった。

 そのときは、まぁむしろ、大学に入ったり、就職したりすれば、そういった思考も手放していいものだと思っていたが。

 むしろ、ますます、30代に突入し、その必要性が高まっていると思う。

なぜ考えることが必要なのか

 もう、この辺りは書き尽くしたと思っているが、振り返りも兼ねて書いておこう。

 まず、思考が「自分」というものと切り離せなくなったという実感故である。
 つまり、「喪失感」を遠ざけようとするあまり、その喪失感を抱く自分というものを強固にしてしまう悲劇を先ほど挙げたけれども、15年程度付き合ってきたこの「思考」というものを、なかったことにするというのは、自分の半生を捨て去るということを意味する。

 いや、たかだが30代の半生なんて大したことないでしょ、というのもあるが、でも、10歳未満の記憶など、それは自己の根源の成り立ちとしては重要だろうが、思考という状態とはいえないだろう。
 若いころの、そこで受けた「嫌な思い」というのを、自分の思考の源泉とする方法もあるけれども、それは、「喪失感」を拠り所にするようなもので、忌避する。


 次に、人生とは有限であるという事実故である。
 僕は、「なんでわざわざ生きる必要があるんだ?」「こんな苦しい思いをするなら、死んだほうがいいんじゃないか?」「いつまで頑張れば楽になれるんだ? いつまでこんなことに耐えてなきゃいけないんだ?」と思ってきた。
 それに対しての答えを出してあげたい、という菩薩的心もあるかもしれないが、それ以上に、「まぁ生きても死んでも、どっちにせよ、いずれは必ず終わりがくるのだ」という感覚が強くなっていった。結婚生活にもいずれ終わりがくるように――ってそりゃちがうか(かっこわらい)。

 最近、一人になると、「あー、生きていてよかったなぁ」「生きているなぁ素晴らしいなぁ」と思ったり、自然と口に出たりする。

 それは、何か良いことがあったからというよりも、なんか、ほんと、身体が動くことそれだけですごいことだなぁと思ったりするのである。

 別にこのままでいいんじゃないか、と思ったりもする。わざわざ考えたり意味なんてどうでもいいんじゃないか、と思ったりもっする。これは、生きるということが、そのうち終わる朝露のようなものであるという感覚が強くなったからかもしれない。


 もう一つ、考えるべき理由を挙げれば、やっぱり、自然に考えてしまうということである。
 これは理由でも何でもないかもしれない。
 ただ、そうなってしまうのだから仕方がない。まぁ、この辺りは、無心でルーチンを行ったり、瞑想や坐禅といった時間を取り入れて、調整することも必要かもしれないな。


人格について

 ああ、この記事、「人格」とは何か、書いておこうと思ったからだった。忘れてた。

 人格。という単語から、「人間とは精神である」という話になって、そっから脱線を繰り返したわけだな。

 そもそも、「善い人になろう」と思ったからだった。
 善い人というか、魂を磨こうとか、まぁ、そんな表現はどうでもいいのだが、とにかく、優れた人格を持ちたいものだ、と思ったのだった。

 しかし、なんだろう、そのよい人という概念は。困っている人をみたら助けなくてはいられない性格? しかし、この世は困っている人だらけだ……。それに、自分が満たされていなければ、「正しく」他者を助けてあげることもできない。なぜなら、助けるという行為は、その助け出すべき方向が明確でなければならないのだ。陳腐な例を持ち出せば、レスキュー隊員は、自分らの安全が確保された状態でなければ、救助などできない。自己犠牲はかっこいいかもしれないが、合理的ではないのだ。

 そう考えたとき、とりあえず、残り少ない紙面で表現するとしたら、「明るい人」ということになるかもしれない。
 さんざん、うえで、「ポジティブな人は喪失に弱いのではなかろうか」とか言っておいて、結局「明るさ」が大事なのか、ということだが、でも、そうだと思う。
 大事なのは、その「えせ」的な明るさなのか、本当に明るいのか、どっちかだ。

 だが、本当に明るい、というのは、むしろ、サイコパス的な感じでなければ成り立たない気もする。難しい問題だ。

(いろいろ書いたけれど、思考と実践は切り離せないと思う)

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