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慌ただしく
2018/05/14 23:06 | Comments(6) | イライラ対処
生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。

気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。

そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。

書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。

平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。



別に、書かなくてもいいじゃないか。

しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。




なにかを失って、人はようやっと気付く。
そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。

でも、果たして、

働くこと、生きることに、何があるのか


僕は、誰だったのか。


これが人なのか、こういうのが人間なのか


まぁ、これでいいのか


本当か?

俺は、本当に後悔しないのか?

問うているのか? 本当に?




ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。
魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。

ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。


が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。
この先のみちしるべを感じられないでいる。



どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。

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携帯からしか書けない
2018/03/06 23:00 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「人と会いたくなければ、何もしたくない」

 この記事で、何を表現したいのか? 正直、思考ができるだけの余裕がない。

 よゆう?
 なんの?

 心の余裕だ。しかし、心とは何か?

 そういった問いからいつも始まるのが特長の私のblogだが、当然答えはでなければ、そもそも言いたいことも異なる。

 言いたいことは、忙しくて疲れた、ということだ。

 こう、未来が見えない、という表現を何度かしてきたと思う。よく言い当てている。

 僕がいつも言ってるのは、目標を立てることが重要だ、というものだ。

 だが、その目標は、まずもって、自分が達成したいものであるべきだし、次に、それを自分で考えて設定できるものであるべきだ。



 やりがいあって、楽しい仕事ってあるのだろうか?

 もしくは、楽しくなくても楽で早く終われる仕事はあるのだろうか?

 分からない。いまやってることを肯定するのもありだけど、毎日24時過ぎに帰るのが、いつまで続くのか。

 きっと落ち着くタイミングはある。
 そして、手を抜こうと思えば、もっと楽にもできる。


 ただ、そういう問題でもない。
 もっと人間関係がひどくて、忙しいこともあった。それに比べたらいまはましだ。

 が、もはや、そういう比較の問題ではないのだ。



 嫌なこと、苦しいことをする意味が分からない。
 それが人生だと、したりがおな大人たちはいう。くだらない、と思う。



 何故人は、そうまでして生きるのか。

 楽しいからだ……という、中学校ぐらいに導いた哲学は、もはや役に立たない。

 フランクル氏のいう、人生は意味をみつけるものではなく、人生から意味を求められているのだ、とか、創造かち、体験価値がなくなっても、実存価値があるのだ、とか。

 その説明が理解できれば、僕は、もう一段階高次の世界に行けると思う。
 これまでの人生の意味や体験にも、新しい意味が与えられるかもしれない。



 しかし、分からない。理解できない。
 文字としては分かる。日本語としては分かる。しかし、理解できない。いや理解というか、それはどちらかというと、納得というか、感覚が伴わないというか、そういった状態だ。



 しかも、やっかいなのが、世界の不条理である。
 今日も、昨日も、テロや殺人は起こり、たくさんの人が意味もなく死ぬ。
 たまたま、僕は生き残っている。日本は、生き残る可能性が高く恵まれているといえる。



 だから、なんだ?

 という感情。



 他人がどうだから、なんだ。社会が、家族が、なんだ。


 この、なんだ? という感覚、これがつらい。

 簡単に表現すれば、無気力……なのだが、いろいろと行動はできる。


 行動や思考はできるのだけど、それらが、いったいなんだ、なんなのだ? という感覚が付きまとう。




 俺は疑問なのだが、この感覚は、たくさんの人が……女子高生や、おばちゃんたちや、リーマンや、オタクや、大学生や、ミュージシャンや、その他、普通の人たちは、みな常に感じているのか???



 これまでの経験から、どうも違うようだと、あんまし、他者はそんなこと感じてなさそうだと、そう思うようになってきた。

 それがさらに孤独感を深めたりする。


 で、その、独りよがりな考え、なのであるが、これによって、他者を尊敬できる可能性が減ってしまっている。

 仕事ができる人。よい物を作れる人。話が面白い人。スポーツができる人。心が優しい人。

 すごい人、たくさんいる。

 すごいなと、思う。

 思いはするが、なんか違う。


 その違うというのは、すごいというのの否定ではなく、モデルにならなそうである、という意味が近い。



 だから、なのか。

 なんだか、それがなんだ、という思いが強くなる。




◇死ぬこと

 携帯からだと、たくさん書いているようで、たいした文字数ではない。

 この、内から溢れる言葉と、実際の文字に表れる表現との違い、は面白い。
 僕が、僕の記事が長くなるのは、タイピングが速いからというのはあるだろう。
 もちろん、思考言語よりはタイピングが遅いが、普通の人よりは速いので、その反映が多くなる。そうなると、結果、カオスな文書津になったりする。



 関係ないことかいた。
 死ぬのが、怖いのかもしれない。

 怖いから、意味をもたせないのかもしれない。

 別に死んでもよければ、今すぐでも死んでよければ、未来も、目標もどうでもいいはずだ。



 ふと、過去を思い出す。
 その過去とは、直近十年ではなく、もっと、小学生とか、中学生とか、高校生とか、十代のころだ。

 うむ。いまよりつらかったかも。

 比較すると、幸せな気分にひたれる。が、やっぱり、なんの意味もないと思う。

 まぁただ、戻りたい過去が一切ないってのも、いいもんかもしれない。

 ないか? ……ないな(笑)


 これは、珍しい人間なのか? いや、そうでもないか。その、過去よりもいまが大切、と思ってる人は多いだろう。



 あー。そうだな、やっぱり、あのときや、あのときはつらかった。大変だった。過去に比較を求めればたくさんある。




 だからこそ。

 だからこそ、なんだって、生きてるんだろう。

 毎日死にたい、終わりたい、消えたいといって泣いた。
 涙が止まらなくて、声を出さずに枕に突っ伏して泣いてた頃が、どんだけ続いたろう。



 最近はそんなことない。疲れてるからだが、すぐ眠れる(笑)

 じゃあ幸せなのか?

 よく分からない。


 決定的に努力して、決定的によくなった、とは言えるだろう。


 その、自分の頑張りを、行動を、どこか他人事のように、どうでもいいことのように感じ、見ている俺。




 そして、こんなこと書いてるのを、くだらない、文章で、分かりにくく、ネガティブで、ダメ人間だなぁと思っている俺。


 ああ、つまらないなぁ。

 明日は、少しは早く帰れるかもしれない。


 でも、だからなんだ?




 ああ……もう、言葉もでなく、、なってきた。





 まぁ、対策は。
 徹底的に休むべきだろう。が、それすら、結局やすんだところで、人生は続くわけだし、課題や問題は続くわけだし、どうでもよく思ってしまう。

 休んで、気力が回復し、元気になるだろう。それは分かってる。
 けど、いずれはまた、日々の忙しさや苦しさや繰り返しに飽きて疲れて、同じように感じるようになるだろう。


 そうしたとき、今度は、再び立ち上がれるだろうか?

 正直、困難に打ち勝つごとに、問題を解決するごとに、自信がなくなっていく。





 だから。

 だから、前から……といっても、二年前ぐらいからだが、僕は、子供を作る必要があるかもしれない、と書いたのだ。

 しかし、それすら、解決になるかもわからなくなってきた。
 子供ができて、もっと別の意味でも忙しくなって……といったときに、これでの忙しさや問題や課題と違って、ああ、これこそ生きているという意味なのだ、って思えるだろうか?

 ああ、また面倒がふえたぐらいに思ってしまったら、俺も不幸だし、子供も不幸だ。


 どうしたらいいんだ、しかし、この、経験の悪魔というのは、やってみないことには絶対分からない、ということになるのだ。恐ろしい。


 ああしかし、この、子供というイベントが、拠り所にならなければ、本当に詰みかもしれない。

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たまには携帯から書く
2018/02/27 00:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「何も考えたくない、したくない


生存報告、という書き出しで始まり始めたブログは、そう長くはないだろう。

ただ、僕の場合は、いずれは戻ってくるだろうとは思う。

しかし、最近は、全く書く時間が取れない。
ということは、考えることも、思考の整理もできていないということだ。今年の目標に資することもできていない。

人生。

何が忙しいかと言えば、平日は仕事、休日はデートである。
仕事は充実しているし、デートは楽しい。

だが、それでいいのだろうか?

人生。

僕という人間は、それでよかったのだろうか?



人はみな、決断せよという。自分の人生を生きよと。やりたいことをやれと。

僕が仕事や、デートをするのは、やりたいことではないのだろうか?

家事をすること、寝ること、掃除すること、ご飯を食べること、それら生活に関する行動は、僕のやりたいことではないのだろうか?



やりたいことと、やらなければならないことを、分けることができるのか?

仕事というカテゴリの中でも、楽しいこともあれば、イライラすることもある。
デートもしかり、家事もしかり。


すべて100%の生活など送れやしない。


そうしたとき、僕の人生として、どこまでが許容範囲なのか?

そこが分からない。



要するに、僕ができる、僕の最大の選択の中の、最高のことが僕はいまできているのか?

それが分からない。

誰に相談しようとも、まともな、、、というか、僕が欲する回答はできない。できるはずがない。何せ、答えがないものなのだから。

故に僕は自分を、納得させようとする。

これが、僕の最高で最大の人生なのだと。



しかし、この疲れ、苛立ち、眠気、未来に対する不安、望みのなさ、退屈感などを、いったいどう制御すればいいのか。


みんな、30代の大人たちは、そうした自己制御が完璧なのか?



分からない、

分からない。




こんなとき、孤独を感じる。

たくさん人がいるのに、誰もいない感じがする。

そんなことはないと思って人とかかわって、やっぱり違う感じがしてがっかりして。

似た感覚をしてるだろう人は、見つかる。

でも、その人たちが存在していることも、具合がとても悪いときは、僕の孤独感を埋めるには足りない。



ああ、こうした、独りよがりな文章は、駄目な極みだ。

何故なら、読んだ人を不快にさせるからだ。けれども、いま、この瞬間の自分は、人との関わりに本当に絶望しているというか、孤独を感じているということ、その表現としてらは、これ以上は書けなかった。

ああ、もう望むのは、明日の自分が、今よりもましな感覚であること……。


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素晴らしい物語に触れること
2018/02/10 15:44 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「とりあえず連載は進めるが、休憩に書く」

仕事が忙しい

 特に、タイトルに意味はない。
 最近のことのメモである。
 忙しい。この一言だけで十分だ。物理的に時間がない。
 具体的には、ここ一、二週間、家に帰ってくるのが、22時~24時か、という日がほとんどな状況で、7時には出発しなければ間に合わない。

 まぁこれも、一時的なものだと思われる。
 が、どうにも、精神的なすり減りがある。

 要するに、未来、である。

 ユングは、意味は殆どすべてのことを耐えられるものにしてくれる、といっている。
 ニーチェは、何故生きるかを知っているものは、すべてのどうやって生きるかに耐えられる、といっている。
 ――精神療法における意味の問題P.36参照


 これまで、僕は仕事上の困難を何度か乗り越えてきた。大きなヤマでいえば2回ぐらいか。
 で、まぁ今のプロジェクトというのも、プラス1回になるだろうと思う。それはそれでよい。

 しかし、それを乗り越えたからといって、「だからなんだ?」という気持ちが高まっている、ということだ。

 そもそも、こうした仕事を選んだという20代の僕の判断なのだから、「仕方がない」とは思う。
 思うし、他の多くの仕事に比べたら、恵まれているだろうとも思う。が。

 がしかし、どうにもモチベーションが上がらない。

未来と意味

「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
 僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
 先日の記事で、上のようなことを書いた。
 まぁ、こっぱずかしい内容である。その他、多くのお忙しい方々に対して恐れ多い。

 が、とりあえず、自分という低スペックにおいては十分忙しいということは、頑張ったということは認めておこうということである。つまり、気持ち的にはだいぶ限界であるということだ。

人間存在の理解

 僕のよくないところを書いておこう。
 これは、僕の「感覚」なのであって、単なる言葉ではない。つまり、いかに取り繕った説明をなそうとしても、その「感覚」はなかなか取り払えないものである。

 その、悪い感覚の一つは、人間とは利己的な存在である、というものである。

 これは、事例は事欠かない。他者を犠牲にして、部下を駒のように使ったり、気に食わない者をいじめたりと、苛立たせる事象や事件はよくあることだ。

 しかしもちろん、これらは人間の全面なのではなくて、もちろん素晴らしい人間性なるものをもっている人もいるわけである。サイコパスのような存在は例外だ、切り捨ててよい、ということだ。
 という、「知識」的なことはあったとしても、どうしても、人間の利己的な面が気になってしまうお子様な自分なのである。


 もう一つは、人間の生物学的・心理学的なとらえ方である。つまり、欲望に準じた存在であるということだ。一つ目の「利己的な」という面とも関連するが、要は、人間を機械のように捉えていることである。
 人間は刺激に反応し、衝動を発散するだけの存在だ、という考え方である。


 上の二つの感覚については、僕は、手放した方がよいと思っている。というよりも、そうあって欲しくない、と思っている。
 でも、僕の感覚は、僕の生活は、市井や社会からの情報は、ますます僕をがっかりさせるものである。




 大人という存在は、もっとかっこよく、憧れられるようなものであるべきだ、そうあるべきだった。
 ところが、僕の崇高な(かっこ笑い)価値観は、人間たちへの失望へと繋がったのである。

意識高い系なのか

 僕は、意識高い系、と言われるタイプの人間なのか?
 意識高い系とは、揶揄されるニュアンスであるが、しかし単純に考えれば、よいことである。
 その「意識高い」というのが、他者を見下したり、自己実現(かっこ笑い)のみ追求するような方向性になるから、よくないのである。

 僕は、「より良い方向に協調し協働し向かっていく」という精神を求めているのだ。
 ざっくり言えば、WIN-WINを目指せということだ。

 誰かが得したら、誰かが損をするような考え方をするような人間は、滅びてしまえ、と思う。


 ――じゃあ、おまえが、その崇高な(かっこ笑い)人間になればいいじゃないか。

 もちろん、目指すつもりである。が、あまりにも、がっかり感が強すぎて、モチベーションが上がらない。

仕事から離れて

 つかの間の休息。別途友人と会う予定もあるため、あまり一人でいる時間はない。

 しかし、やはり、休息は大事だなぁと思った。ふと思い出して、今敏(コン・サトシ)さんのブログ記事を読んだ。
 母親の、「丈夫にうんであげられなくてごめん」という言葉が突き刺さった。哀しいね。
 ぎりぎりまで、両親に会いたくないという気持ち、最初は不思議にも思ったけど、なんとなく分かった気がした。大事な人だからこそ、自分の弱った姿を見られたくない、ってのはあると思った。

 しかしほんと、仕事が好きな人だったんだなぁ。大変だったろうけど、しかし、世の中に作品をうみだすって仕事は、きっとやりがいもあったんだろうと思う。

 ――しかしだ、僕の今やってる仕事だって、やりがいはあるのだ。あるのだけれども、しかし、もうなんか、疲れる。非常に疲れる。
 やりがい――、こんな一言で片づけられる言葉じゃないと思う。どんな仕事だって、やりがいはあるはずだ。問題は、その「やりがい」ってのと、自分の価値観が一致しているかどうかである。

 飲食店のホールの仕事で、お客さんの笑顔が見れて幸せ、――なんていうのは、確かに「やりがい」だろうが、僕は絶対そんなんにやりがいは覚えないと思う。料理人は、自分の作った作品(料理)を喜んでもらうのが幸せなのだろうが、僕はそれも無理だと思う。

 その、「無理」というのは、努力のあきらめ、ではない。
 前の記事に書いた通り、
 ストイックであることを否定しない。
 努力することを否定しない。
 継続することを否定しない。
 平坦な人生などない。
 苦労のない人生などない。
 楽な人生などない。
 と思う。

 ただ、自分の価値観というか、「本能」的なものに反したものは、「無理」である。

俺は何に楽しみを見出すのか

 とりあえず、これだろう。目下、課題だ。
 何か、楽しいことを探そう。
 面白いことを探そう。
 何か集中できることを探そう。
 何か、一生懸命になれることを探そう。
 何か、奉仕できることを探そう。

 目は、世界を見るという機能を、自分自身を見ないことによって果たす――前掲書。

「俺は」

 という自己にとらわれているうちは、決して、反転して自己を知ることはできないのだ。

 それは、何か行動することによって得られる。

 ――が、その行動は、意識しなければ、流されるままとなる。

 この整合性をどのようにとるのか。まだ僕はよく分かっていない。――ええと、つまり、自分を意識しすぎると、結局自分ってものが分からなくなるということだが、しかし、環境や状況に流されるままであっても、結局「忙しさ」に精神をすり減らされることになる。

 忙しさは、別に悪いことではない。
 以前ある方が、「充足は、必ずしも必要ではない」と仰っていたが、僕はやっぱり、それは違うと思う。忙しくても満たされていることはあると思う。苦悩にも意味は見いだせるものだと思う。だが、それらの根底に、やはり「満たされている」ということは必要ではなかろうか。
 その満たされている、そのモノ、が何かというのは不明だ。いやむしろ、それが不明だからこそ、それを見つけなければならないのだ。


(かっこ書きである。司星者セイン2巻届く、少し読む。ズァグ氏の魔女王との謁見シーンで震える。くっそかっけぇぇってか、魔女王怖ぇぇ。下賜された魔女王の血の盃の真意を知って、全身の血が凍りつくようだった。すべて見透かしたうえで、そして許す、とは。戦闘シーンもよいけど、こういったシーンを巧く描けるのはさすがだなぁ)

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幕間:面白い文章について考える
2018/02/04 01:00 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「1000字投稿連載は水曜更新するとして、ちょっと休憩」「休憩でブログ書くって……」

司星者セイン読了

 ベニー松山さんという方の小説を読み終える。ううむ、巧い。この方の、「風よ。竜に届いているか」も読んで、表現の上手さに舌を巻いたのであった。
 んで、司星者セインは、2000年刊行である。そして、あとがきを読んで知ったけど、2000年の時に作者は33歳ぐらいだったようだ。

 ほぼ、20年前である。
 今の僕と同年代である。

 プロと比べてもしゃーないが、あと数年研鑽を積んでも、とても追いつけそうになさそうである。
 この作品に、「貌狩りのアルゴー」という敵が登場するのであるが、とっても敵である。やることなすこと非道である。残虐だ。むかつく奴である。「倒さねばならない敵」感がひしひし伝わってくる。

 ある方が、物語には「困難」が必要だと書かれていたが、これは真に思う。
 ひだまりスケッチ的な日常ほのぼの系の作品であっても、「困難」はある。主人公のゆのっちは、文化祭の出展物を仕上げようと努力を重ね、そして一つの作品を完成させる。見物人たちからは一定の評価を得た。だが、それはまだ彼女の納得いく作品ではなかった。彼女は作品を満足いくものにできなかった悔しさから、あることを計画する……。
 と、その困難が客観的に大きかろうがどうだろうが、当人にとっての困難性がより感情移入できるものであれば、それは物語として感動を与えるのである。

 それはそうと、司星者セインは二巻買うか。でもこれ、ある方いわく、完結しなさそうらしいんだよなぁ。

困難とは

 さて、僕にとって困難って何だろうか?
 いっつも、このブログは、自分のことを書き始める。主観的である。

 けれども、今回のタイトル「面白い文章について考える」であるけれども、「主観的」な文章を最近欲している。

 ある方が、「何を見るか、するかじゃなくて、最終的には【誰とするか】だよ」と言っていた。
 そのときは、僕は本能的に「否」と思った。しかし、冷静に考えてみると、それはそれで適切な表現に思った。
 もちろん、その根本的にすべき対象は重要である。
 でも、自分で感じられることには限界がある。
 だから、他者のレビューなるものが重要になる。

 といったことを書きたいと思ったのだけれども、なんか違うな。筆がのらない。

文章に求めること

 要するに、一般論を書いている文章は面白くないのである。
「こうするのが大切だよー!」
 というのはいいが、それを、お前はどう思ってるんだ、ということを問いたい。

 朝早く起きて活動した方が効率がよいといわれる。
 まぁそれはそうなのかもしれない。でもそれに対して、お前はどう思っているんだ? どう行動しているんだ? それを書いてほしい。

 なんかのセミナーに参加した。こういう業績をあげた偉い人がこんなことを言っていた。ほうなるほど、で? お前はそれをどう感じて、どう思って、どうしようとして、実際に1週間後、1か月後、1年後に何をしたのか?
 そういうのを書いてほしい。

世の中をシンプルに生きる

 世の中なめちゃあいかんと思う。

 複雑な自然体系に、科学・技術、法律、金融、思想……まぁすごい。

 すごいけど、真理の探究なんてしちゃあいけない気がする。

 神がいるか、いないか、そんな単純なことすら、長い歴史の中で決着がつかないことである。

 結局、言葉では幸せは導けなかったのである。そして、これからもそうだろう。



 そうした、「評価」が曖昧な世界において、いかに生きるべきだろうか。

 こういった不透明な時代において、「お金」という価値観が信奉されるのは無理もない。わかりやすいのだ。会社のために献身しても、ふと上司が変わったとたんにこれまでの業績がなかったことにされるかもしれない。お客様のためにサービスしてきても、商品が売れなきゃ倒産する。

 やっぱりお金だ。

 お金があるから取引ができる。お金があるから信用できる。お金があるから生きていける。

理不尽さを憎む

 バカバカしいほどシンプルだが、これらは、「生きる」ことが前提とされている。

 いやまぁ当たり前だ。人間は、欲望と身体に規定された存在である。そしてその欲望は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという本能を有している。

 

 ……ちょっとリセットしよう。なんか、久しぶりだと文章に詰まる。とりあえず、二本目のビールをあける。

 あーこの、プシュッという音がいいよなぁ。きっとこの感覚は、10年前の俺にはとても分からなかったろう。

 なんだっけ? そう、困難だ。

 俺、なんか困難あるんだろうか?
 いや、そりゃ、人並みにはある。当たり前だ、凡人だもの。

 しかしだ、それらの困難が、じゃあ、絶対解決しなきゃいけないかっていうとそうじゃないし、死ぬわけでもない。
 生と死が隣り合わせの時代や、身分制度が強固な時代では、理不尽な死を命じられることもあったろう。
 司星者セインを読んでよくわかったのは、俺は、理不尽な死ってのを、ものすごく悪だと、嫌悪するのだと、憎しみを抱くのだと分かった。残虐な部下たちのトップに君臨する魔女王アグナスの非道は客観的にはMAXなのだろうが、取り急ぎ苛立たせられたのはアルゴー氏の、老梟の化け物に部下に突撃を命じ、無意味な死を強要したところである。
 その前に、アルゴー氏の軍団は、罪もない人々の田舎の村を壊滅に追いやっている。女子供も容赦なく皆殺しである。それはそれでなんて酷いんだ……と思ったものだが、それ以上に、部下を駒のように扱い殺したところに苛立った。

 いや、結局、化け物には勝利したのだから、戦術的には、アルゴー氏の采配は正しかった。その意味では部下たちも決して無駄死になどではなかった。しかしそれでも、その非情な選択には憤りを思った。


 という、僕は、「理不尽さ」というのを強く憎んでいることが分かった。
 たいてい僕がイライラしているのは、その理不尽さである。その大きい小さいはあれど。小さいのはむしろ、「不公平感」といったものであったりするが。

なぜ生きることが必要か

 その、殺された人たち。
 無意味に死んでいった人たちに追悼の意を表す。

 あーしかし、「意味」なんて、とても主観的なものである。

 ガンに侵され、余命3か月と言われた人は、まだ幸せかもしれない。交通事故で一瞬にして命を落としたら、その人の生きてきた意味はいったいなんだったのだろうか。


 僕はまだ幸せである。こうやってブログを書いてから死ぬことができる。

 僕は、生きる意味を考え、道半ばで死んだ。――そういった意味は与えられる。誰から? 自分だ。だが、その自分はもうすでにこの世にはいない。それでも、僕は意味を求める、何故だろうか? なんてことを常に考えているから碌なことができないのである。



 ただ、道筋は、朧げな光を放って見えている。
 このように問い続けることで、僕はまだ、一歩か、半歩か、むしろ後退しているのかはわからないが、「動く」ことはできるのである。

  

面白いものに触れたい

 あー、なんか面白いもんないかなー。

 と、思う。

 それは、刹那的ではなくて、ずっと、永続的に光を放つようなもの。

 遊びでも仕事でもスポーツでも読書でもなんでもいいから、なんかないかなぁって思う。そして、たいていの人にとって、それは家族――特に子どもなんだろうなぁって思う。

 いやまぁ、自己愛が強い人は、自分を愛することでやってけるかもしれない。たぐいまれな才能があれば、その才能が活かせる場が、面白いものなんだろうって思う。

 自分の子供ってのは、それだけで特別だから価値があるのだ。
 特別な何かって、あんまし、人には、ない。

 いやまぁ、ふつーに生きることはそれだけでとても大事なことで、素晴らしいことで、感謝すべきことで、大切なことで、運が良いことで、ありがたいことである。

 俺はしかし、なんか、……。
 いや、じゃあ、家族をつくるためにがんばれって思うのだが、そもそも、「がんばれ」ない。気力が起きない。何もしたくない。何もしないのが、何もしていない時がむしろ幸せである。

 んじゃー、生きたくないんじゃない? ってすら思う。うむ。

 ってところでビールを三本目。



 プシュッ。カッ。

 うーんいい音だ。そして、キンキンに冷えてやがる。――うめぇ。

 そう。これもまた人生のよくある形態である。酒におぼれる図。
 仕事にも、家族にも、趣味にも恵まれなかったら、だいたい陥るのが、酒かギャンブルかである。

 まぁ、それはそれでありなんだろうと思う。アルコールが体に、頭にまわることで、思考がゆるやかになる。いやなことも、理不尽なことも、少しだけやわらぐ。
 いーんじゃね? それもまた。

 あったかい部屋と、好きな音楽とをながせたらもう最高のひとときじゃあないか。


 しかしこれは、アイドルや、ミュージシャンに熱狂するのとだいたい同じ構図である。

 
 対して。
 美しいものとは、やはり、愛情や、友情といったものなのではなかろうか。

 上には、理不尽な死を憎むと書いた。
 しかし、理不尽ではない、自ら望んだ、誰か自分以外のために命を投げ出すというのが、本当に大事なことなのではなかろうか?

 うしおととら、とか、からくりサーカスとか、その辺の自己犠牲感をうまく描いている気がする。

救ったものもまた死ぬ

 でも、そうはいっても、自分の命を投げ出してでも助けたいような何かって、本当にあるんだろうか?

 家族のように大事にしていた飼い犬を、トラックに轢かれそうになった瞬間体を張って守った。犬は助かった。守った飼い主は死んだ。

 こんなニュースが流れたら、きっと美談だとみんな思うだろう。
 一方で、アングラな口コミサイトなどでは、「飼い主バカだろ」といった書き込みも多くみられると思われる。

 まぁしかし、命とは等価交換みたいなもので、その飼い主が、妻も子供もいる状態なら、きっと「バカだろう」派が多いだろうが、一方、90歳の天涯孤独のおじいちゃんなら、「美談」派が多い気がする。

 でも、命って、そんなもんなんだろうか? 俺はなんか、そういった「自己犠牲」的な云々にも、なんか違和感がある。――というひょうげんをすると、おめーは、そういった「じぶんのいのち」より大切な何かをもってねーからそういうことを思うんだ。矮小なやっちゃな。と言われる。反論は、ない。


 でも俺は、そんなに、自分の命も大切と思うわけでもない。才能あるたくさんの人たちと比べたら、価値のない人間だ。でもだからといって、価値ある人に臓器提供する気もさらさらない。

具合が悪くなってくる

 うーむ、このあたりのことを書いていると、気分が悪くなるな。たんに酒のせいかもしれない。

 要するに、このあたりの、倫理観的なことは、書いたり、考えたりしないほうがよいのである。
 たいてい、小難しいことを考える奴は、モテない。

 そんな、金にもならないことを考えるぐらいなら、お金稼いで女の子にプレゼントしたほうがましである。――とかいておいて、おれは全くそう思っていない。

 袋小路だ。
 これ以上、新しいことを考えられそうもない。
 ああ、酒なんて飲まなければよかったか。

だからこそ物語が必要なんだこんちくしょうが!

 そしていきなりテンションが上がる。というか、狂ってくる。

 いやだからさ、グダグダいってねーで、行動し、積み上げて、研鑽しろってことだ。

 こう、グダグダ文章が物語として光るのは、ものすごくカッコよくて強い主人公が、時折見せる挫折の瞬間ぐらいである。
 年がら年中、ぐだぐだ、「僕って何」的に言ってるやつが、何言ってんだボケが、って話である。

 あー、なんやかんや、先週は、1,000字ぐらいは創作で書いた。なんとか、もっとちゃんと書く時間を取りたい。
 今年の目標は、なんといっても、「創作」なのである。にもかかわらず、俺は、些末事に(といっても仕事とかその他はずせないことではある。要するに、今年の目標以外のこと)時間を使っているのだろうか。


 ただ、一つ、物語は、今連載している奴ではないが、完成しそうな見込みがついた。プロットが、一応、自分で納得できたのである。――これなら、まぁ、書いていってもいいかなぁ、と思わせられた。

 なんつーか。

 自分で後から読んで、「面白いな」と思えるレベルのものじゃないと、正直書けないことが分かった。
 いやこれは、昔からそうだったのかもしれない。

 しかし、むかーしよりは、物語に触れる量が少しだけ増えたので――それと、人生に求めるものが増えたので――、物語に求めるものが格段に多くなっていっている。


 表現が稚拙だが、面白い物語しか書けないのである。

 え? 俺は、面白い物語を書けるのか? 否。そうではない。かけないから、書けていないのであるこれは、詰みではなかろうか。面白い物語しか書けない。しかし、自分では面白い物語を書けない。以上終了。


 ……。うわー! ちくしょう、どうしたらいいんだ。
 書くしかねえ。
 面白くなくても、書くしかねえ。
 書かないと、面白い物語は書けねえ。



 俺は別に、物語を書いて、それで生計を立てようと思ってるわけじゃあない。
 単に、俺自身が面白いと思える物語をかけるようになりたいのだ。人生で例えるなら、自給自足である。

 自分で野菜作って、畜産して、発電して生きていきたいのである。
 しかし、そのためには、自分の力不足がはんぱねええ。

 努力するしかなかろう。


(かっこ書きである。うーむ。だめだ。面白い文章が書けない。――だが、まぁ、仮にだ、この感覚で書いた文章が何かの役に立つのであれば、うれしいことである。まぁそういった感覚は傲慢なのであるけれども、8年前、2010年の記事など読めば、まぁ、書いておいてよかったのではなかろうかと思う。8年、か。長いようで短い。過去の自分は、まだ、自分がその先どういったイベントに出会うかを知らなかった。その先のイベントを知った今の自分が見れば、――その描いている文章に、字面以上の感慨を覚えるのである。この感覚は、「日記」という媒体の、その著者しか味わうことのできないものである。僕は、若い人に何ら人生訓なるものを授けるほど、できた人間ではないけれども、「日記」を書くということは勧めてもよいと思っている。もちろん、この日記とは、ブログのように公開を前提としなくてもよい。そして、巷にいわれるような「事象」を淡々と書くものではない。そうしたイベントの記述は、手帳にでも書いておけばよい。要するに、思考のプロセスの記述である。これ、大事。何に対して、何を、どのような順序で考え、感じるのか。それをメモしておくことが、重要に思う。少なくても、僕のように人生の迷子になってしまった人にとっては。――人生の迷子! これまた、20代で書くのと、30代で書くのは全く意味が違うだろう。いや良い意味では当然なくて、悪い意味で。深刻な意味で。いや、それはダメでしょう、といった意味で。ふむ、しかし、酔いがまわってくれば、それすらも呑み込んでやろう、という気にもなってくる。うぬぼれもさえもそれは才能、である)




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