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イライラをぶつけるだけの記事
2019/05/26 18:02 | Comments(4) | イライラ対処
今日の一言「果たして書くことでどこまで冷静になれるか」

前書き

 得体のしれないイライラというものをご存じだろうか。
 これは、鬱と換言してもよいと思う。

 憂鬱な気分である。
 気分が沈み込んでいる。やる気が起きない。モチベーションがない。動機を持てない。欲求がない。
 生理的な、おなかがすいた、眠い、ぐらいは欲求があるかもしれない。しかしそれは、より動物的な、欲動といっていいものだろう。

 人は何か、欲求があるから生きている。根源にあるのは、死にたくない、仲間を作りたい、知りたい、というものだろう。生得的な、遺伝情報を残そうとする意志。

 まぁそんな次元のことを考えようというのではない。どうでもいい。分からないことは分からないのだ。

 そんな曖昧なものではなく、いま、ここに生じている、このイライラをどうにかして対処し、より創造的な活動をするために何ができるのか、それを試みなければならないのだ。

イライラの根源

 プライベート、仕事、このどちらかにまずは分けられるだろう。
 しかし実際、僕が以前から書いているように、プライベートと仕事は、厳密に分けることは危険だし、あまり意味があることではない。
 グレーゾーンとして通勤時間というものがある。または、会社に到着してから、始業開始時間までの間というのもある。サービス残業はこれからもっと規制されるだろうが、しかし、厳密に、就業のチャイムが(なる仕事場があるかどうか知らないが)なってから、すぐさま身支度をしている人がどれだけいるかも分からない。

 ちなみに、今の職場は、そこのあたりはルーズである。
 逆に、まぁ、それほど雰囲気は悪くないが、個人的に、「雑談」的なのがよくわからない自分としては、それ自体がストレスであったりする。

 雑談ってのは、非常に面倒なものだ。だいっきらいだ。
 その延長で、飲み会も嫌いだが、まぁしゃあない部分もある。
 ある意味、仕事のためにメンバーのことを人間性を知るという意味で、飲み会などは重要だという感覚もあるため、そこまで毛嫌いするものとも思っていない。

 だが、今の職場でより困るのは、相手にする人数が多いということだ。メンバーが多い、2桁以上である。
 これ自体がストレスだ。

 数人程度の協調関係を築くなら、「変人」の僕であっても、「マナー」によって関係を維持することはある程度できる。
 いやむしろ、別に何人に増えようが、それは変わらない。
 だが、それと、内面的なストレス・疲れとは別だ、というか、大いに関係がある。

人に好かれなければいけないという強迫観念

 裏切られる可能性。
 ……とそこまでではない。だが、基本的に、猜疑心が強い、とい言っていいだろう。

彼らはキラークイーンで最後まで殺し合うようです
http://gokumonan.blog87.fc2.com/blog-entry-7026.html

 ↑の「やらない子」氏、ほどではない……と信じたいが、まぁ似たようなものかもしれない。

 いやどちらかというと、「ほむほむ」氏や「はるかちゃん」氏、のように、誰かに取り入らないといけないといったような脅迫観念なのかもしれない。
 これはまぁ、過去にいじめられた経験なり失恋が原因だとか、トラウマ要因を挙げると、同情をかえるかもしれないが、正直、そこはどうでもいい――どうでもいいのかどうかはともかく、過去の原因はともかく、「信頼ベース」で人と付き合えないことは大分ハンデ、である。

 一方で、「夜神月」氏や、「一条」氏や「やらない男」氏のように、頭がよければそれはそれで世の中を渡っていけるが、そこまでの能力もない変人は、目立った悪役にすらなれずに消えるMOBキャラである。


 ――という自己認識において、果たして、どうやって生きていけばいいのか。

 非常に生きづらい世の中になるのは自明である。

 早く死んだほうがいいんじゃないかと思っていた過去の自己認識は、あながちではなかったと、今思っても、同意見になるだろう。

こんなつらい毎日が続くなら死んだ方がまし

 今、僕は、過去を美化しているかもしれない。
 もう、こんな毎日涙が出てくるような夜を過ごすなら、早く死んだほうが楽なんじゃないか……。
 この感覚は、嘘、ではなかろうと思う。

 
 ぶっちゃけ、〇もあるし、◎もいるし、●の関係もあるし、過去と比べると、今はパラダイスな条件がそろっていると思う。
 しかし、財産があれば人は幸せか、というテーゼと同じように、得たものがあるとしても、その人にとって充足が得られるとは限らないのである。


 ぶっちゃけ、組織も、人も、信じられていないのである。
 それは、「裏切られた」ということではないのだ。
 その「可能性」なのである。

可能性への不信感

 僕のイライラを表現するのは非常に難しい。
 特定の事象……が原因なのはそうだろうが、それだけではない。

 人は、意味があれば、大抵の困難を乗り越えられる……といったのはニーチェ氏だったか。
 それは確かに、と思う。

 仕事の苦難も、その先に待つ出世なり、昇給なり、仕事の達成感なり、周囲の承認なり……なんらかの「意味」があれば、きっと乗り越えられるものなのだ。


 それが、俺に、今の俺には何なのか分からない、そこに問題がある。


 俺に、昇給なり、「褒め」なり、何かを提示しても、特にモチベーションにならないのだ。
 こんなに扱いにくい人間はいないだろう。捨てた方がいい気がする……周囲のせっかく仲間で一丸となって頑張ろうといった雰囲気作りにも悪影響だ。

 ――ということも分かっている、だから、みんなのやる気をそがないように気を付ける必要もあるのである。

精神医学・心理学的には否となるかな

 そんなこと気にせずに、自分を開示していきましょう――的な方針が、医学的・治療学的には提示されるのか。

 それは、正しいかもしれないが、不適切な対応だ。

 そのあたりに、「誰かに頼る」という手段が、僕が選べない理由もある。


 治療?

 治療とは、異常な状態を、正常な状態へ戻すことだ。

 つまり、正常な状態は、「みんな助け合って一丸となって困難へ対処していくこと」――要は仕事頑張って成果を上げましょうという状態である、畢竟するに。

 その、いわゆる「正常」に対して、俺は疑念が尽きないのであって、であれば、いったいどこに着地点があるのか。わからない、わからない、わからない……となるのである。


 何せ、先日、俺は、「変人である」と定義した。
 これは危険な思考であることも重々承知の上でだ。

 何せ、変であることを前提としたら、いわゆる一般的に「正しい道」とされているところは、俺にとって正しくもなんともない、ということになるのだから。

早く死ねや

 以上……のようやことを思って、誰かに相談すれば、「変人や異常者は正常な社会において不要だから排除されるべき」ということになる。だから相談はできない

 孤独な戦いにならざる得ないのである。――ましてや、こういう物言いがそもそも、独善的だとか、特権意識だとか、勘違い野郎だとか、中二病だとか言われるだけである。こじらせちゃんだ。

 俺は……幸せになりたいのか。
 不幸せになりたいのか。


 否、そういった二項対立的な問いは、そもそも生きるベースの思考に一切役に立たないことは、これまでの経験上分かっている。それが問題なのではない

 生きるか死ぬかの問いは、まず、現状追認するしかないのである。
 ぐだぐだと、思考が止まらない段階で、まずもって、「生きている」のであるから、「死ぬべきだ」という答えがあったとしても、それは既に選択されていないのである。

 だから、「苦痛でありながらも生きるためにはどうするか」という問いになるのである。

 早く死ぬべきである、という答えは、役に立たない。

仮面(ペルソナ)

 楽しく生きる必要がある。
 しかし、多くの人間とかかわるほどにストレスは貯まる。

 これが新たに分かったことかもしれない。
 人間嫌い……という表現を、俺は「エラー」と考えているが、しかし、やっぱり、数年を経て巻き戻った感想になるのだろうが、やはり「人間嫌い」なのであろう。

 金があまるほどあっても、デスゲームを主催したり、それに参加しようとは思わないだろう。それは、人命尊重という意思ではなくて、そもそも人との関りを可能な限り避けたいと思う心性がゆえにだろう。

 一方で、ブログなどで自己の心情を書くのは何故か。これは、イライラ対処に他ならない。イライラ対処だが、そのうえで、やはり「仲間」は欲しているのだろう。それは、同思考の人を得たいというよりも、「こうした変人であっても居場所はあってもいいのではないか」ということだと思う。

 決して剥がれない仮面をかぶった「天海春香」氏のことを、読者的には、「裏がある怖い奴」とみなすだろう。
 それを人は「打算」と呼ぶだろう。

 だが、仮面をはずすことで、「社会」ないし集団に求められないということが分かっていて、もっといえば、それがゆえにひどい目に合うとして、それでも仮面をはずすという選択肢が正解なのか。
 仮面とか、打算とか、裏の顔とか、そういう表現をすれば気持ち悪いことだろう。

 だが、社会でいうところの、「マナー」はそうじゃないのか?
 営業スマイルは?
 建前は?
 組織としての方針は?

 汚い大人たち、と表現されるそのすべての要因は、いわゆる「仮面」であろう。

気にしすぎ

 とはいえ、俺が、少しばかり、敏感になりすぎているというのはあるだろう。
 ぶっちゃけ、誰もお前のことなんてそれほど気にしてはいない。
 土曜日・日曜日に、俺の存在を考えていた人なんて、果たして世界に何人いるだろう。

 10人はいないと思う。

 いて数人だ。

 某国大統領は、数十万人は思い浮かべるケースはあるかもしれない。それと比べて、お前の言動など、たいしたことではないのだ。気にしすぎだ。気にしなくていい。適当にやればいい。無理をするな。

問題はそれで終わらない

 原因論として、俺が、敏感、HSP(ハイリーセンシティブパーソン、だったか)だろうが、それもあまり重要ではないのである。

 仮に、気にしないで、適当に、自分の思うがまま仕事なりプライベートなりを過ごしたとしよう。

 ――気にしないということは、それは、欲求の否定でもある。

 気になっているのだから気になるのである。
 何故気になるとかというのは、上に書いてきたが、「いつか裏切られるのではないか」「役立たずと思われるのではないか」「失敗するのではないか」といった不安が原因だろう。
 裏を返せば、そうなって欲しくない、という思いがあるのだ。
 その思いが欲求なのだ。

 その思いを否定する方法を進められたとき、「俺」という存在はどこに行くのか。


 そもそも、この記事の冒頭に、「どうしたらモチベーションを回復できるのか」というのがあったのだ。
 そのモチベーションを回避するような方法が、どうして採用できようか。矛盾。アンチノミー。

解決策は書くことである

 故に、最後の居場所であるここに、俺はひたすら書くしかないのである。
 書いて、書いて、書いて、出がらしになるまで、いや出がらしで滓しかでなくなっても、それでも書き続けるしかないのである。

 ところで、さらっと、まぁいずれ書いてもいいかなぁとも思っていたが、離婚の原因は、こういった俺の思考なんだろうとは思っていた。

 まぁ、こんな変人をパートナーにしたいと思う稀有な人は、70億人の中にいないだろう(かっこ笑い)。

 もっとまともな人はたくさんいるのだから、うん、是非そうした方がいいと思う。
 思う――が、そういったことも理解できる人だと俺は、相手のことを少し見誤っていたのだろう。
 だがそれは、健常な人も、日々の生活で時折訪れる「闇」というか、疲労程度のものだったのだ。俺の抱えるわだかまりレベルの人は、ほとんど存在しないのだ。ゼロ、とは言わない。それはさすがに傲慢だ。だが、たかだか数十年の人生で見つかる程度の確率ではないのだろうと。

 そういうことを、先日の友人との一件で思ったのである。

 だから、変人であることをまず認め、より今後も注意しようと、そう思ったのである。

 いや、保身だ、保身なのだが、しかし、俺のわだかまりを話したところで、いったい誰にメリットがあるというのだ。無い。ふつーに過ごしていた方がいいだろう。当たり前のロジックなのだ。そして、当たり前を自分自身も分かってしまうがゆえに、逆にそれがつらい

友人との一件

 もう少し、具体的に書いておこうか。今は割とセンセーショナルだったので覚えているが、それもしばらくしたら消えていきそうだ。

 大学時代、たぶん、一番過ごした時間が長かった友人だと思う。
 同じ学部で、家も近かったので、通学も一緒にしていた。
 生活のことも、勉強のことも、将来のことも、いろいろ話していた。

 そういう人に、変なことばっか言ってたよなぁ、と昔の感想を言っていただいた、というそういった件である。

 別に、それに対して、その友人を恨んだりとか、そういう気持ちではない。いやむしろ、そういう風に、率直に感想を言ったりしてくれるところは、そういえば昔からありがたかったかもしれない。

 だが、あぁ……そうだよなぁ、やっぱり、「日本語との意味としては通じても、感覚としてはちっとも伝わってないんだなぁ」と、そう思った一件ということだ。
 話は通じるが、交渉にはならない、とか、言葉は通じるが、話にならない、とかそんな感じ。


 俺は、いったい、どうやってこれから生きていけばいいのか。(早く死ね、というのは、上にも書いたが、選択肢として、今回の思考としては除外だ。正解かもしれないが、次元が違うのだ)

嫌な方法だが一つある

 あとは、その、イライラ解消の方法としては、俺が嫌いな方法だが、「比較」というのがある。

 パワハラいじめ虐待虐殺事故孤児裏切り貶め……もっと大変な人たちは、いる

 そういう苦しんだ、苦しんできた、そういった人たちの話を聞いたり見たりすることで留飲を下げる――そういう方法もある。

 大っ嫌いだ

 他者を羨んだり蔑んだり、他者を基準として生きることを、俺は良しとしない。

 そこに正解はない。
 たとえ、80歳の寿命で死ぬまでに、その生き方で不自由をしなくても、満足して死んでいった人たちが多いとしても、俺は絶対にそれはしたくない。

 これは単に感覚の問題だ。

 周りの人間よりも恵まれていたから、幸せな人生だった……なんて、くそくらえだ。

 そんな欺瞞の中で死ぬぐらいなら、怨嗟と怨念のままに朽ち果てたほうがましだ。
(まぁ、物理的に痛いのは嫌だ。そのあたりの次元は脳内変換してほしい)


 ガン×ソードとか、フルメタルパニックとかの、過去をリセットしてユートピアを創造する、という方法は、俺は認めない。「ばーか、ばーか」だ。

 フランクル氏のいうとおり、人生は、唯一性と一回性があるからこそ、人生なのだ。意味があるのだ。
 唯一性と一回性をなくして、人生に意味はない。


 タイムワープ・タイムリープものの、シュタインズ・ゲートは、唯一性と一回性の否定ではないか? それを何故お前は好きだといったのか?

 シュタインズ・ゲートは、時空ものでありながら、その唯一性・一回性を否定していない、むしろそれを特徴づけている。詳しくは、過去の俺のどっかで書いた記事参照だ。リンクを探す気分じゃない! ッ投稿後に思い出したらはるかもしれないっ!

 ここまで60分ぐらいだ。ああ、まぁまぁ書いてきたなぁ。目が痛くなってきた。

要はどうしようか

 さて、この記事は、イライラ対処であるので、1時間ぐらいかけて、少しは気が収まったのだろうか。

 うむ……、まぁ、その、少し収まったかな。だが完全ではない。むしろ、金曜日深夜に、めちゃくちゃイライラしながら書き綴って、いったん気持ちも落ち着いたと思うが、何もしない土日を過ごして、結局、完全解消はしなかったのである。だから、書き足りなかった……というよりも、問題解決に近づいていない、遊び、とか、逃避は、やはり何の意味もないのである。


 風呂に入るか、散歩するか、それとも書くか。

 それしかないのだ。



(かっこ書きである。難儀、な性格である。性格……なのか? 分からん。まぁ、思うに、「人に気に入られなくてはならない」というそういう強迫観念が、元凶の一つであるようには思う。それは承認欲求の枯渇なのかもしれない。ほんとは、仕事を辞めてもしばらくは失業手当(1年)で何とか生活できるだろう。それでも困窮したら生活保護が受給できるだろう。いろいろ批判にさらされる社会保障制度だが、使えない奴は今すぐ死ね的には、とりあえず、建前上はなっていない。だから、本当は、みながのびのび、自分の力を遺憾なく発揮していったら、もっと生産性もあがって、残業も少なくなって、幸せな社会になるんじゃないかなぁ……というのは日和見である。人間は、汚い。そう上手くいかないようにできているのだ。さもなければ、原人からの500万年間だか、文明の4000年+2000年からのだか、近代の400年前からだか、いつから数えるかは分からないが、ユートピアが成立していないのは不自然である。いい人もいる。悪い人もいる。変な人もいる。だが、その多くは、揺らぎがある中間人なのである。人は、「信念をもて」とか言いつつも、その信念に殉じれるほど強い人たちだけではないのだ。その信念を抱き、行動し続ける人だけが成功する(運だけでのし上がる人もいるだろうが、そういうのは、物語構造上は失敗したり、かませ犬になる)。そういう意味で、上の記事で書いた、「人間嫌い」という表現が、実はやっぱり、エラーなのだと思っている。エラー(=悪い人ばかりではない)なのだろうが、逆に俺が怖いのは、その揺らぎ、中間さ、なのである。安定などない。不安定の中に、そのリスク事態を楽しむかのように、人は生きているのである。一方で、文明は、そのリスクを軽減しようとシステムを構築している。だが、その安全性への希求と、人間本来の揺らぎとのギャップが、不自然さを醸し出している。――と、僕は思う。思い、そして、それが不安なのだ。なーってことを言っても、分かってくれる人は中々いないのだ、ということを、再認識すべきだ。だが、きっと、今回の記事においても、部分、部分においては、納得してくれる人がいるかもしれない。だが、一通りこうやって、ひとまとまりで「言う」「話す」「しゃべる」ことは、実際は不可能なのであって、そうすると、センセーショナルな表現にどうしても引きずられて、「こいつやべえ」となって、危険視されて……あああ、だから、もう、おとなしくするしかないのだが、それがストレスであって、俺は一体どうすれば……そう、だから書かなきゃなんねーんだ、ということで、ループの中でイライラが増幅されて、はて、どうしたらいいのだろう、風呂でも入ろう、勉強でもしよう、解決できなければ、対処するしかないのだ。感冒(風邪)は治せないが、症状を緩和することはできるのだ)

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ストレスと体調不良
2019/05/15 06:19 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「喉が痛い」「眠れない、でも眠い」

前書き

 カテゴリはイライラ対処である、記事の内容は察する必要がある。

 まず、体調が悪いことを書いておく。
 あと、帰宅時間が遅い。
 仕事が非常に大量にある。

 だが、「その大変さは、客観的にそうなのか? それはお前の能力が低いから時間がかかり、大量にあるということではないのか?」となったとき、それは「正論」である。

 一方で、自分のことを優秀だなどと、思ったことはこれまでなかったが、しかし、業務に対する知識量も、スキルも、周囲に比べて、低くはないことが分かった。だがそれでも、それが適切に評価されるものかというと、果たして疑問である、ということが、今回の記事の主旨でもある。

やるべきこととやらないべきこと

 やるべきことをやるのは当然である。
 そりゃそうだ。やるべきこと、なのだから、やるのである。

 だが、字義どおりと、実際の行動・評価ベースのことは、全く違う。

 言外に、「いわれたことしかやらないやつ」は、評価されないだろう。
 もちろん、これが日本特有であって、海外でもそうかというのは別かもしれない。いわれたことに対して賃金が発生するというのは、本来の形かもしれない。

 だが、業務レベルで見たときに、実際の現場作業として考えたときに、個人の能力と、管理者の把握可能な範囲として考えたときに、問題はややこしくなってくる。


 仮に分かりやすい、報告書を作る業務、があったとしよう。
 AとBとCのプロセスを経て、完成形Xとなるとしよう。

 ここで、Bのプロセスは、なくても、完成形Xの体裁は整うとしたときに、Bのプロセスは省略してもよいのか。ただし、Bのプロセスがなければ、完成形X´(エックス・ダッシュ)に分かりづらいところや誤解が生じる可能性があるとする。

 仕事として正しくは、そのリスク(分かりづらさ・誤解発生可能性)を上司に報告し、判断を仰ぐ、ということになるだろう。


 だが果たして。
 すべての業務のすべての粒度でそれができるのか、という問題が一つ。
 上司の特性において、どこまでの粒度を求めているのか「人による」という問題が一つ。

「よく相談しなさい」
 と言いつつ、
「そんなことも自分で考えられないのか!」
 という人がいることを、想定の埒外におくことはできない。

正しい評価

 第一、完全に定型的な業務などありゃしないのである。
 逆にあったとしても、それはそれこそ、ロボット(自動化)の対象になるだろう。

 人でしかできないことをやるべきだ――と口当たり良い風潮も、僕のイライラに寄与する。

 人しかできない「業務」などない。
 あるとすれば、「業務」を定型化する作業である。
 そして、定型化できれば、人しかできないことではなくなる。

 仕事は生み出され、そして自動化されるか、消えていく。

 そんな中で、必ずしも「生み出すこと」「現状よりも向上させること」だけが評価の対象になるのだろうか、いや僕はすぐさま否という。


 現状維持とは、それ自体で重要なことである。
 これは前から書いているが、現状維持をするためには、まったく同じことをしていては成しえないのである。それがよほど単純作業でない限り。

人それぞれ固有の問題

 しかし一方で、個人の能力という問題もある。
 能力とは、業務を成し遂げることができる力と、「意欲・関心」を足すのだったか? 忘れてしまったが、どちらにせよ、言葉遊びをしたいのではない。
 要は、個人の能力は、人それぞれ、まちまちだ。

 単純作業、定型作業の積み重ねが業務でよかった時代は、年齢というのは、ある程度有用な評価指標だったといえる。
 意欲が低かろうが、個人の能力が低かろうが、取りあえず経験を積んでおけば、ある程度業務を成し遂げる力は身についているだろう、という予測が立っていたわけだ。


 そうじゃない業務が多いとしたら。
 いったい、どうやって、正しく、公平に、評価ができるというのだろうか。


 Xという業務があったとする。
 Aさんは、のべ10時間で完遂できるとする。
 後任のBさんも、のべ10時間で完遂できたとする。

 AさんとBさんは、同じ評価になるのか。
 海外ではそうかもしれない。

<事例1>
 しかし、X業務について、Aさんが非常に優秀なマニュアルや業務フローの整理を行って、もともとは20時間かかる業務を10時間で済むようにしていたのかもしれない。そのおかげで、Bさんもスムーズに引継ぎができて、さほど苦労もせずに10時間で業務が完成できたのかもしれない。

<事例2>
 もしくは。
 Aさんは自分のことしか考えずに、マニュアルも引き継ぎもろくにしていなかったかもしれない。そんな状況で、Bさんは、必死な努力で、10時間で業務が完成できるように試行錯誤を繰り返したのかもしれない。


 あなたは、Aさん、Bさん、どちらを評価するだろうか。
 事例1はAさんだし、事例2はBさんを評価してあげたいところだろう。サイコパス的――いやしかし、普通な仕事としての考え方なら、事例1も事例2も、AさんもBさんも同じ、とするのが「公平」なのかもしれない(何故なら、成果物Xは不変だからだ)。

上司の能力

 しかし、ことは単純ではない。
 何故なら、上の事例1も事例2も、ぶっちゃけ、「よくみていてあげる」ことをしなければ、到底分からないことだからだ。
 同僚による、相互評価制みたいなのを導入すれば、ある程度こういった問題も解決するかもしれないが、それはそれでギスギスしそうだし、なんともいえない。

 そうするとまぁ、上司が観るしかないが、しかし果たして、忙しい職場において、どこまで冷静に客観的に評価ができるのだろうか。いま、客観的、という言葉を使ったが、そもそも、上の事例において、AさんとBさんをどう評価するのが正しいのかも、その会社によって異なることすらあるのかもしれない。

本題のイライラ

 まぁ、てなことを、日々思いながら、個人としては、どうするのが最適かを考えながら仕事をしているわけであるが、正直よくわからん。
 ほんと難しい。

 それで、忙しくて、ブログなんかも全然書けなかったりするが、これは、一番よくないことだと思って、今書いている。睡眠時間も、3時間ぐらいだが、目が覚めてしまって、眠りにつこうにもつけなかったので今に至る。

 寝てない自慢かっこいい――とか、そういうことではない、むしろ、いい歳の大人が体調管理もできないのかと、叱責の対象にすらなるだろう。

 つまり、個人的にどういった気持ちでいようが、別に組織や会社にとってはどうでもいいことなのである。もちろん、個人の健康状態がよくなければ、結果的に生産性が落ちるので、表面的には「体が大事だよ」というところであるが、実際は組織体が優先されるのは当たり前のことである。これは当たり前である、そして、そうあるべきでもある。組織が余裕があれば福利厚生を充実させてもいいが、余裕がなくなればやはりカットされるのはそこだろう。

 年金や保険もそうだ。
 生活保護受給者がパチンコにいってけしからん、みたいなことを思う人もいるようだ。だが、生活保護というのは、権利なのだから、別にスティグマではないというのが、一般的な考え方のようだ。だが、その生活保護はやはり税金でなされているのであるから、日本全体の活力が下がれば、生活保護の金額自体も低くなる。相互扶助の仕組みだ。

 あ、どうでもいいことを書いた、自分の話を書くべきだ。

 そう、忙しい時こそ、優先させるべきはブログであるということを、よかった、僕は忘れていなかったらしい。

 ――ここらへんが、僕が普通の人と違うのかもしれないが、ぶっちゃけ、他者と愚痴を言い合っても、決して僕のイライラは解消されないという点である。

「自分で考えないと」
 どうしても、イライラは解消されないのだ。
 その原因は、以前、いろいろ書いた気もするが、簡単に今回あげるとしたら、「思考スピード」が完全に一致することなどありえない、というのが一つ。他にも、時空間の共有制約の問題。承認欲求のたまり具合とたまっている状況などなど。

終わりへ

 ――と、ここまでかいてきて、もうそろそろ、また行く時間が近づいてきたが、ようやっと眠くなってきた――なってきてしまった。やばいな(かっこわらい)。

 さっきまでは全然眠れなかった。

 そう。どうしようもなくイライラしていても、こうやって書いていると段々落ち着いてくるのである。
 これが、「普通の人」だと、飲み会とか対人コミュニケーション的に発散すると解消されるとのことだが、俺は残念だがよくわからん。

 飲み会とかが絶対究極嫌、という意味ではないが、対人コミュニケーションするなら相互発展的な感じならいいと思う。いや、3割ぐらい愚痴が含まれたほうが盛り上がるかもしれないが、しかし、「ストレスの発散」が主目的にしなければいけないときに、対人コミュニケーションは余計にストレスであるということだ。


(かっこ書きである。面白くない記事だろうか。たぶん、そうだろう。けれども、価値はあると思う。書ききれていないが、きっと全然表現できていないが、それでも、喉が痛くて痰がからんで、帰りが23時過ぎで睡眠時間が3時間ぐらいでも眠れなくて、という状況があったということのメモは有益だろう。こういうこと、友人にいったとしよう。「そっか、大変だな。でも、会社は最後は守ってくれないぜ。まずは自分の体を優先しような」とか心配してくれたとしよう。「いやでもそれができたら苦労してないってwww」と思ってしまうだろう。つまり、自分の行動変容しなければ、問題は解決しないのであって、それは自分でも分かっているのであって、そうするための方法を必死に考え実践し続けているのであって、そこに共感してもらえたとしても特に何ら感慨はないのである――とまで書くと、さすがイライラしていると刺々しいなと思うが、しかしこれまでの自分も、きっとこれからの自分も、ここで言わんとしていることは何となく分かるだろう。まぁ、普通の人がこんなこと見たり聞いたりしたら、「こいつ友達いないだろうな」と思うだろうことは間違いないので、僕は言わない(書いてるが。いやだからこそブログはものすごい貴重な場なのである))

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飲み会について
2019/02/17 21:53 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「悪かった」「飲み会は有意義な面もあるが」

前書き

 よう、俺だ。
 とかって書き始めるのが、逆噴射聡一郎氏風なのだと書いたら、フォロワーの方々に総スカン&総フルボッコにあうだろう、怖い。

 きれいな文章を書きたい……そう思う面はある。ただし、文体というのは、自分の書きやすいように書いて、その結果で洗練されていくものなのだということを、最近音読ルーチンに組み入れている『工学的ストーリー創作入門』に書いてあった――のかは正直分からないが、僕はそう読み取った。

 まずもって、わかりやすい文章と、きれいな文章と、ささる文章と、そもそもストーリーとは別だ。

 それはともかく、このブログで追及すべきは、そのどれでもない。
 この俺自身の思考の「再現性」が最も高いものが正解だ。

 要するに、後から読んで、「何故」そう思ったのか、いやそもそも、「何を」思ったのか、それが分かるかどうか、そこに価値が含まれる。

 誤字脱字は無いほうがよかろうが、実は、あってもなくても、伝えたいことの「伝達率」は変わらなかったりする。
 そもそも、対面コミュニケーションでも、音節(しゃべってる音)が何割かは欠落しているという。完璧な言葉を頭にインプットして、それで解釈しているわけではないのだ。音は途切れ途切れなのだが、それを脳内にインプットすることで、脳内で補完しているのである。

 一方、文章はそれは不可能だ。
 文章の間の言外の意味、というのはあろうが、そこを限りなく正確に伝えるのは、それは芸術の域である。

 であるならば、思考や感情を書き残そうと思えば、必ず、「長く」なるのである。

 だから、ある程度の文章量が必要である。そう、「事実」のメモであれば、箇条書きでよいのだが、それを目的とはしていないのだ。

飲み会について

 さて、珍しく、一週間の振り返りを、「悪かった」と書いた。

 これは何故だろうか。

 それは、飲み会が多かったからである。
 何回あったかの具体的な数字は書かないが、僕は、週に2回以上あれば、多かったとこれまでも、これからも書くだろうと思う。

 僕は、飲み会が好きではない。
 勘違いしないように書いておかねばならないが、これは、会社の飲み会が嫌とか、知らない人との飲み会が嫌とか、そういうのではなく、飲み会自体が嫌なのである。
 これは、仲の良い友人等とでもそうである。

 ただ、そうはいっても、嫌でもない場合がある。
 まず、時間が決まっている場合。
 逆に書けば、二次会とか大嫌いである。三次会四次会とか、吐き気を催す(勘違いしないように書くが、お酒の多い少ないではない)。

 まず、そもそも、何故飲み会が好きではないかというと、そもそも、人と話して愚痴を言い合うということに一切メリットを感じないことである。
 これは、別に飲み会じゃなくても同じである。愚痴が好きではない、いやましてや、他者の愚痴とかものすごくどうでもよい。――いやすぐさま書けば、大事にすべき両親兄弟恋人家族等々との関係においては、あってもいいし、むしろ聞いてあげるべき場面もあるだろうが、しかし大多数の場合はどうでもいい。

 ――いやいや、すぐさま書けば、「愚痴」は好きである。いやむしろ、このブログ自体壮大な愚痴といえなくもない。

 だが、「愚痴る」ならば、本気で愚痴って欲しい。
 たかだか、数時間の飲み会で愚痴って、それで翌日すっきりする程度の話の内容なら、ぶっちゃけどうでもいい。(そもそも、それって、一人で話しててもいいんじゃないのか。「俺」である必要はあるのか。愚痴を聞いてくれるAIロボットでも早く開発されればいい(俺はどうでもいいが))。


 あと、長時間他者と一緒にいると、「疲れる」。

 これは、特に、「評価」が関係する相手だと加速的に疲れる。

 だから、どうでもいい相手との飲み会の方が楽である。――しかし同時に、どうでもいい相手だと、そもそもどうでもいいから、その飲み会自体がどうでもいいので、やっぱり総じて飲み会は好きではないのである。

ちょっと役立つかもコーナー

「不立文字」(ふりゅうもんじ)と読む。禅の言葉。達磨大師が残した四聖句の一つ。経典などの文字によらず、坐禅によって真理を直接体験することが重要である、という意味。
――「師よ、この魔導書の意味が分からないのですが……」「不立文字。言葉に捉われるのではなく、心で印を組むのです」とかって使う、たぶん。

「鐘楼」(しょうろう)と読む。寺院にある時を告げる鐘がある建物。

じゃあ行かなきゃいいじゃん

 そんな愚痴をだな、結局自分は思って書いているのであるが、僕の価値観としては、飲み会での愚痴よりも、よほど文字にすることのほうが重要で有意義であると思う。

 そもそも、「大変だ」「不安だ」「心配だ」など、いろいろ言う人に限って、「じゃあ、何が大変か、紙に書いてみましょう」というと、「将来」「恋愛」とか、漠然としたものしか浮かばないだろう。

 漠然としているから逆に「不安」なのだろうが、そんな状況で、他者が手を指し伸ばしてくれることなんて、無い。差し伸ばして、助けられることも、無い。


 だから、「相談」ということの意義が正直よく分からない孤独な人間である。

 いやもちろん、相談することで、「ああ、そういう解決策もあるね」となることはあるだろう。――が、それは勘違いである。そういった方策を出してもらえるという状況自体が、本当に切羽詰まった状況ではないのだ。

 本当にメンタルやられている時に、他者など何の役にも立たない、と思っている(もちろん、いつものごとく、少々過激に書いているだけだ。「何の」とか「絶対」とかっていう修飾は、真理になどなりえない。論理矛盾だ。そういう表現を使って話をする人を、僕は胡散臭いと思う)。



 で、まぁそうね、イライラしていると言葉が過激になってしまうからよくない。
 過激な自分を抑えなきゃいけない、って面もあって、飲み会とかが好きじゃないのかもしれない、じゃあ、全力で自分出していけばいいじゃん、というのは、それこそ絶対にダメである。

 何故かというと、自分はマイノリティだからであって、そもそも、僕が少し楽しいかなと思うのは、今書いてきているような、「そもそも飲み会とかいらなくね?」といった話なのである。そんなこと言われてもみんな困るだろう。だから、表層的に楽しくする必要があるのだ――それが、つまらないのである。

 じゃあ、小見出しの通り、「行かなきゃよくね?」ということだが、しかし、社会人、組織人たるもの、そうはいかない。なにせ、どんな仕事も、人と人とのかかわりあいで成り立っているのだ。

でも良いこともあった

 しかし、結果的に、今回参加した飲み会の中で、僕と同じような意見の人と出会うことができた。

 その人とは意気投合して、いろいろ話したし、楽しかった。
 しかし、その人自身も、自分がマイノリティ側だと思っていたようである。いろいろ、つまらないなと思うことも多いようだ。

 なので、要は、面白い人もいるのである。

 だから、先ほどの、「なんの」とか「ぜったい」とかの修飾はありえない、というように、飲み会全般がつまらないかというと、まぁそういう訳でもないのである。

 それに、何より、こうやってブログを書くネタが――ネタ、というよりも、もうこのムシャクシャした感じ(これを単純に「イライラ」と僕は表現しているが、これは何なんだろうか。よく分からない感覚なのである。いい表現が欲しい。焦燥感というわけでもないが、なんか落ち着かない感じ)が提供されるので、それはそれで良いかなと思っている。

 しかし、もう一歩大きな視点で考えたとき、これっていらない感情のようにも思うわけだ。

 人生、楽しむべきだ。

 これは、中学生ぐらいに到達した哲学だが、まわりまわって、やっぱりこれは正しいと「実感」している。

 その楽しいというのは、もちろん刹那的な快楽を指すわけではないが、間違っていない考え方だと思う。
 それは、くだらない二項対立の、「楽しい方がよいか、苦しい方がよいか」というくだらないレベルにおいて。


 それはそうと、そうした哲学的真理においていえば、その、なんか、煩わしい人間関係って必要なんだろうか。

 いやいやいや、すぐさま、「そうした艱難辛苦含めて人間なんだよ」という言説や思考がふりまかれるわけだが、しかしそれはそれで思考停止ではなかろうか。
 世界平和が大事だとかいっちゃうのであれば、そうした人間関係の軋轢を低減……いやむしろゼロに近づける方法を模索すべきである。

 究極、人と人との関係が完全に希薄になればよい。

 つまり、折衝系の業務とかは、すべて間(あいだ)にロボット(AIでも何でも呼び方は構わないが、とにかく「人」ではないもの)を介在させるとか。

 要は、相手が「人」だから、感情をもつのである。
 ドアに足をぶつけて、痛い思いをして、でも、ドアに何時間も延々と怒り続ける人はいるだろうか。
 一方、同じ痛みでも、人がぶつかってきた場合は、それは、相手を殺したいと思うほどの強い感情が湧き出る場合もある。

 人だからいけないのである。
 モノが相手なら、感情は発生しない(たぶん、ね。検証も何もなく思いつきだから、反例ある研究とかあったら面白いと思う)。
 であれば、感情労働的な部分に、もっとロボット的なサムシングをどんどん導入していったらいいのではないか。介護分野にロボット導入とか、まぁ実現性はともかく、よいことじゃなかろうか。外国人労働者を増やすというのも、暫定的な措置としていいのかもしれないが、根本的な解決じゃないのはすぐわかることである。


(かっこ書きである。愚痴愚痴した記事だから、強制終了。しかし、こういった、「例えば、人間と人間との関係なんて無い方がいいんじゃないか」とかって言って、「いやでもそれは――」とかって話ができると面白いと思う。仕事のあの部署の誰誰がどうこうで――とか、近所の誰それさんのお子さんがどうこうで――とか、過去に付き合った人がこうで――とか、まぁ、一秒で忘れる(かっこわらい)。あと、話題もそうだけれども、「いやでもそれは――」とかいう議論的なのができる場合も、はなっから感情論とか道徳論的に「ありえない」とかそういうスタンスでも面白くない。ストーリーである。「What If?」である。でもまぁ、いきなりそれほど親しくない人が相手で、そんな話ができるなんて、そりゃあありえないわけである。だから、飲み会って場がそもそも、非効率でしかない。まぁ、要は、楽しきゃいいんだけど。あと、そもそも口頭で話したとしても、すぐ忘れちゃうじゃん(それは俺の記憶力が悪いだけだ)。だったら、いい話とかあったら文書に残さないと、もったいないなと逆に思う。――いやまぁ、分かってるよ。こう、会話の中でスパークが起きて、新しいアイディアが沸いてとかいうのはある。でもそれって、そもそも違う分野の人とかと話さないとあんま意味ない。で、相手がかまってちゃんじゃなければ、それ相応の、自分も提供できる話題や知識がなければ意味がなかろう。マーケティングの話をされても、「へー」としかならないかもしれない。しかし、「へー」ってなってる段階では、何ら成長も発展もない。「ああ、その話はここまでは知ってるけど、こういう場合はどうなの?」とか、質問できるレベルじゃないと、会話としての意義は少ない。少ないし、話し手の方も、そうじゃなきゃ話している実感というか、手ごたえがなくてつまらないだろう。ただ独善的に語って満足できるような人は、自分のブログで発信だけしてればいいだろう。え? 俺? 僕は、まぁそうだなぁ……、とにかく、この手のモヤモヤ(むしゃくしゃ)が発生した場合は、書くこと以外に解消方法が、無い。無い、ことはよくわかった。今回、上のようなほぼ「本音」的なことも踏まえて話せた飲み会が一部であった。その飲み会はとても楽しかった。――楽しかったけれども、結局、そういったことを人に話したとしても、僕のイライラ(モヤモヤ)はナウ晴れなかったのである。で一方で、こうやって、ここまで長々と書いてきたおかげで、まぁ取り敢えず風呂にでも入るか~的な穏やかな気持ちになった、わーい)

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後出しじゃんけんに苛立つ
2019/02/05 21:14 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「臨時の記事」「土曜日も書く」

前書き

 精神的に弱っているときは、インプットが足りていないときである。

 自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。

 本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
 と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。

 ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。

議論における後出しじゃんけんは卑怯だ

 全然、自分とは関係ない(当事者)ではないのだけれども、ある会議において、事務局が、
「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
 と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
 と意見が出た。

 意見?
 俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。

 だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
 いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。


 まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
 ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。


 いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。

最近話題のLGBTについて

 その、要するに、「当事者意識」がない人に苛立つ。

 いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。

 で、あるとしても――ということだ。


 例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
 で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
 公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。

 ……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。

 社会制度の維持は、「税金」である。
 まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
 この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。

 税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。

 そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。

 おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。

独身税制控除制度を設けるべきだ

 むしろ、逆である。

 今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。

 え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。


 子供というのは素晴らしいものだろう。
 自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
 衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
 子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
 子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
 幸せな人生だ。


 という前提があるだろう。
 もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
 エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。

 幸せな家庭、夫婦とその子供。

 ああ、何と羨ましい法界悋気!


 ――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
 そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!


 とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
 同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。

ちょっと役に立つかもコーナー

(唐突に入れる)

「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。

「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。


マイノリティはマイノリティで尊い

 累進課税制度と、限度額を設けた、社会主義的で、かつ資本主義的な制度は、現状、これを超える納得感が得られる考え方はないと思っている。
 いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
 配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。

 そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。


 マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
 先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
 不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。

 ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
 思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。

 むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。

 そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
 いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?

 馬鹿げた妄想?
 そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。


(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))

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メインストリーム思考と本音思考
2019/01/10 18:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「例によって20分で書く」

前書き

 最初の小見出しが結構悩むのである。
 もう面倒なので、「前書き」と固定にする。

 さて今回は、ニュースで読んで思ったことをメモしたいと思う。
 ある議員が、「LGBTが増えると国が崩壊する」と発言したことについて、批判を浴びているということだ。

 その話題自体の興味はさほどではないが、「批判」とか「失言」とかが起こるメカニズムという点を考えてみたいと思う。

多様性を認めない議員は糾弾されるべきだ

 政治的な主張をしたいわけでもないし、LGBTについて批判的な意見をもっているわけではない。これについては、この記事においても、誤解が生じないように繰り返し何度も書かなければならないだろう。

 さてそもそもLGBTとは、「同性愛者」のことであると理解する。――実際は、バイセクシャルも、トランスジェンダーも含む概念ということなので、「同性愛者」とイコールではなかろう。ただ、上の議員氏の発言は、おそらく同性愛者というニュアンスが強いと思われる。

 で要するに、男と男、ないしは、女と女では、子供は生まれないのである。

 これは、価値観とかそういった問題と全く関係なく、生物的に仕方がないことだ。「人は何故自分の身体で空を飛べないんですか! 飛べる人がいたってよいじゃないですかああああああ!」とかいっても仕方がないことと同義である。

 そういった事実と、価値観を広く受容しましょうといった、社会の理想の話とは全く関係ない。切り離すべきである。
 とはいえ、切り離しては考えていけない場合もある。両面が必要。



 国とは、同じ民族性を保持していると考える集団であり、同一のルールが適用される集団である。
 で、移民とかそういったホットな話題は別として、単純に考えて、その同一の民族性(価値観)を再生産するのは、家庭という単位である。――というか、要するに、子供が生まれないと国の概念の保持は難しい。――いや、学問的にどうかは知らない。ただ、誰も子供を生まなくなったら、国は亡びる――というか、人類は滅びる。


 いやいや、実際そんな極端なこと起こらないだろ、というのは最もな話。
 だから、LGBTを認めることがイコール、国が亡ぶって論調に結び付けるってのはナンセンスだろう。だから、ましてや、国の理想像掲げ、近づけるために舵取りする責任がある議員氏は、批判を浴びて当然だと思う。


 前置きはこんなもんでいいだろうか。

子供が生まれないと国は亡ぶ

 ただ、実際問題、子供が生まれないと、国は亡ぶし、人類は滅ぶ。
 別にそれでいいんじゃん? って価値観もありだ。
 ありだけれども、取りあえず、「持続可能な人類社会」を理想として考えてみよう。

 そしたら、人には寿命があるんだから、いずれ次世代に引き継がないとダメだろう。
 さらに、ギリシアのスパルタみたいに、共同で子供を育てるコミニティをつくるでもなければ、子供を育てる基本単位は「家庭」だ。

 その家庭を構成するのが、同性愛者だったら、子供は生まれない(生物的に。養子とればいいだろうとかそういう問題は今しゃべってんじゃない)。


 そうしたときに、LGBTの人たちに政治的資源を投下するのか、少子化対策に資源を投下するのか、どっちが喫緊の課題だろうか。

 問題の本質はそっちだと僕は思ったわけである。


 要するに、「価値の多様性を認めましょう」なんてスローガンは、もう当然なんだから、そんなことも分からないバカな大人たちはさっさと滅べばよかろう。
 そんなバカな次元の話で、マスコミもワーワー言ってないで、「実質的な話」に民衆を導いたらどうだろうか。

 つまり、「資源は有限である」ということだ。政治なんてのは、要は、「再配分」の論理なのである。なんか新しく創造するって仕事なのではない。いやそういうことを官僚や公務員に求めている風潮もありそうだが、いやまぁ、そうあったら尚よいのだろうが、それは、民意を受けて代表となった政治家の仕事である。
 みなさんは、年間100万円の税金を払ってもらいます。
 LGBTの人たちは、今多くの問題を抱えているので、かわいそうです。多様性を認める社会にするために、LGBTの人たちが暮らしやすい社会にするために、90万円の政策を行います。その他少子化対策などは10万円の範囲内でやります。

 それでいいのか?
 という価値観の問題だ。
 ちなみに、僕は、申し訳ないが、LGBTではないので、その政策はちょっと違和感がある。
 ただし、LGBTの人たちが住みやすい街にすることによって、それ以外の人も住みやすくて、結果的に子育てに適した街になって少子化対策にも繋がる、とかってストーリーが(外連味でも)あれば、まぁそういうのも良いかなって思うかもしれない。

 あ、もう20分だ。


(かっこ書きである。やべえ、ここで記事が終わったら、人権団体の方々や、良識人の方々にコテンパンにされてしまう。繰り返し書くが、僕はLGBTの人たちを認めてはならないといっているのではない。仲の良い友人がLGBTだったとしても、特に何も思わないと思う。へー、そう、ぐらいな。逆に言えば、あまり興味がないともいえる――としたときに、というよりも、多くの人がそんなに積極的興味があるわけではないだろう、今時点では。そうしたときに、政治的な判断がどうあるべきか、ということが、本来考えるべきことである。議員発言がどうだあーだとか、どうでもいいのである。要するに、どういった政治判断が行われようとしているのか、ということだ。そして、その判断が、結果的にどういったメリット・デメリットがあるのか、そうした分析をちゃんとするべきであるし、そういう記事なら読む価値があると思う。言葉の言い間違いは恥ずかしいことだが、それをもってして「議員の資質があるのか!」とか、うんざりではなかろうか。あと、「国の責任」って言葉を多く耳にすることがあるが、要するに、「国の責任」ってのは、僕ら民衆の責任でもあるのだ――ってかくと、これも批判の的になるんだろうが、要は、実際にその責任の尻ぬぐいをするのは、僕らの税金が財源だということである。一人の官僚が横領したのなら、刑事責任で糾弾できようが、数億というお金を一人が稼げるものだろうか。よくて免職にして、生涯賃金分の人件費を浮かせることぐらいだろう(資産があれば差し押さえできるかもしれないが、そういう意味で書いているのではない。概念的な話だ)。長くなった。けれども、全然書き足りない。タイトルの「メインストリーム思考」について、本当は書きたかったのだが……。次に書くタイミングで、まだそのことを書く気力があったら触れたいと思う)

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