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幕間:面白い文章について考える
2018/02/04 01:00 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「1000字投稿連載は水曜更新するとして、ちょっと休憩」「休憩でブログ書くって……」

司星者セイン読了

 ベニー松山さんという方の小説を読み終える。ううむ、巧い。この方の、「風よ。竜に届いているか」も読んで、表現の上手さに舌を巻いたのであった。
 んで、司星者セインは、2000年刊行である。そして、あとがきを読んで知ったけど、2000年の時に作者は33歳ぐらいだったようだ。

 ほぼ、20年前である。
 今の僕と同年代である。

 プロと比べてもしゃーないが、あと数年研鑽を積んでも、とても追いつけそうになさそうである。
 この作品に、「貌狩りのアルゴー」という敵が登場するのであるが、とっても敵である。やることなすこと非道である。残虐だ。むかつく奴である。「倒さねばならない敵」感がひしひし伝わってくる。

 ある方が、物語には「困難」が必要だと書かれていたが、これは真に思う。
 ひだまりスケッチ的な日常ほのぼの系の作品であっても、「困難」はある。主人公のゆのっちは、文化祭の出展物を仕上げようと努力を重ね、そして一つの作品を完成させる。見物人たちからは一定の評価を得た。だが、それはまだ彼女の納得いく作品ではなかった。彼女は作品を満足いくものにできなかった悔しさから、あることを計画する……。
 と、その困難が客観的に大きかろうがどうだろうが、当人にとっての困難性がより感情移入できるものであれば、それは物語として感動を与えるのである。

 それはそうと、司星者セインは二巻買うか。でもこれ、ある方いわく、完結しなさそうらしいんだよなぁ。

困難とは

 さて、僕にとって困難って何だろうか?
 いっつも、このブログは、自分のことを書き始める。主観的である。

 けれども、今回のタイトル「面白い文章について考える」であるけれども、「主観的」な文章を最近欲している。

 ある方が、「何を見るか、するかじゃなくて、最終的には【誰とするか】だよ」と言っていた。
 そのときは、僕は本能的に「否」と思った。しかし、冷静に考えてみると、それはそれで適切な表現に思った。
 もちろん、その根本的にすべき対象は重要である。
 でも、自分で感じられることには限界がある。
 だから、他者のレビューなるものが重要になる。

 といったことを書きたいと思ったのだけれども、なんか違うな。筆がのらない。

文章に求めること

 要するに、一般論を書いている文章は面白くないのである。
「こうするのが大切だよー!」
 というのはいいが、それを、お前はどう思ってるんだ、ということを問いたい。

 朝早く起きて活動した方が効率がよいといわれる。
 まぁそれはそうなのかもしれない。でもそれに対して、お前はどう思っているんだ? どう行動しているんだ? それを書いてほしい。

 なんかのセミナーに参加した。こういう業績をあげた偉い人がこんなことを言っていた。ほうなるほど、で? お前はそれをどう感じて、どう思って、どうしようとして、実際に1週間後、1か月後、1年後に何をしたのか?
 そういうのを書いてほしい。

世の中をシンプルに生きる

 世の中なめちゃあいかんと思う。

 複雑な自然体系に、科学・技術、法律、金融、思想……まぁすごい。

 すごいけど、真理の探究なんてしちゃあいけない気がする。

 神がいるか、いないか、そんな単純なことすら、長い歴史の中で決着がつかないことである。

 結局、言葉では幸せは導けなかったのである。そして、これからもそうだろう。



 そうした、「評価」が曖昧な世界において、いかに生きるべきだろうか。

 こういった不透明な時代において、「お金」という価値観が信奉されるのは無理もない。わかりやすいのだ。会社のために献身しても、ふと上司が変わったとたんにこれまでの業績がなかったことにされるかもしれない。お客様のためにサービスしてきても、商品が売れなきゃ倒産する。

 やっぱりお金だ。

 お金があるから取引ができる。お金があるから信用できる。お金があるから生きていける。

理不尽さを憎む

 バカバカしいほどシンプルだが、これらは、「生きる」ことが前提とされている。

 いやまぁ当たり前だ。人間は、欲望と身体に規定された存在である。そしてその欲望は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという本能を有している。

 

 ……ちょっとリセットしよう。なんか、久しぶりだと文章に詰まる。とりあえず、二本目のビールをあける。

 あーこの、プシュッという音がいいよなぁ。きっとこの感覚は、10年前の俺にはとても分からなかったろう。

 なんだっけ? そう、困難だ。

 俺、なんか困難あるんだろうか?
 いや、そりゃ、人並みにはある。当たり前だ、凡人だもの。

 しかしだ、それらの困難が、じゃあ、絶対解決しなきゃいけないかっていうとそうじゃないし、死ぬわけでもない。
 生と死が隣り合わせの時代や、身分制度が強固な時代では、理不尽な死を命じられることもあったろう。
 司星者セインを読んでよくわかったのは、俺は、理不尽な死ってのを、ものすごく悪だと、嫌悪するのだと、憎しみを抱くのだと分かった。残虐な部下たちのトップに君臨する魔女王アグナスの非道は客観的にはMAXなのだろうが、取り急ぎ苛立たせられたのはアルゴー氏の、老梟の化け物に部下に突撃を命じ、無意味な死を強要したところである。
 その前に、アルゴー氏の軍団は、罪もない人々の田舎の村を壊滅に追いやっている。女子供も容赦なく皆殺しである。それはそれでなんて酷いんだ……と思ったものだが、それ以上に、部下を駒のように扱い殺したところに苛立った。

 いや、結局、化け物には勝利したのだから、戦術的には、アルゴー氏の采配は正しかった。その意味では部下たちも決して無駄死になどではなかった。しかしそれでも、その非情な選択には憤りを思った。


 という、僕は、「理不尽さ」というのを強く憎んでいることが分かった。
 たいてい僕がイライラしているのは、その理不尽さである。その大きい小さいはあれど。小さいのはむしろ、「不公平感」といったものであったりするが。

なぜ生きることが必要か

 その、殺された人たち。
 無意味に死んでいった人たちに追悼の意を表す。

 あーしかし、「意味」なんて、とても主観的なものである。

 ガンに侵され、余命3か月と言われた人は、まだ幸せかもしれない。交通事故で一瞬にして命を落としたら、その人の生きてきた意味はいったいなんだったのだろうか。


 僕はまだ幸せである。こうやってブログを書いてから死ぬことができる。

 僕は、生きる意味を考え、道半ばで死んだ。――そういった意味は与えられる。誰から? 自分だ。だが、その自分はもうすでにこの世にはいない。それでも、僕は意味を求める、何故だろうか? なんてことを常に考えているから碌なことができないのである。



 ただ、道筋は、朧げな光を放って見えている。
 このように問い続けることで、僕はまだ、一歩か、半歩か、むしろ後退しているのかはわからないが、「動く」ことはできるのである。

  

面白いものに触れたい

 あー、なんか面白いもんないかなー。

 と、思う。

 それは、刹那的ではなくて、ずっと、永続的に光を放つようなもの。

 遊びでも仕事でもスポーツでも読書でもなんでもいいから、なんかないかなぁって思う。そして、たいていの人にとって、それは家族――特に子どもなんだろうなぁって思う。

 いやまぁ、自己愛が強い人は、自分を愛することでやってけるかもしれない。たぐいまれな才能があれば、その才能が活かせる場が、面白いものなんだろうって思う。

 自分の子供ってのは、それだけで特別だから価値があるのだ。
 特別な何かって、あんまし、人には、ない。

 いやまぁ、ふつーに生きることはそれだけでとても大事なことで、素晴らしいことで、感謝すべきことで、大切なことで、運が良いことで、ありがたいことである。

 俺はしかし、なんか、……。
 いや、じゃあ、家族をつくるためにがんばれって思うのだが、そもそも、「がんばれ」ない。気力が起きない。何もしたくない。何もしないのが、何もしていない時がむしろ幸せである。

 んじゃー、生きたくないんじゃない? ってすら思う。うむ。

 ってところでビールを三本目。



 プシュッ。カッ。

 うーんいい音だ。そして、キンキンに冷えてやがる。――うめぇ。

 そう。これもまた人生のよくある形態である。酒におぼれる図。
 仕事にも、家族にも、趣味にも恵まれなかったら、だいたい陥るのが、酒かギャンブルかである。

 まぁ、それはそれでありなんだろうと思う。アルコールが体に、頭にまわることで、思考がゆるやかになる。いやなことも、理不尽なことも、少しだけやわらぐ。
 いーんじゃね? それもまた。

 あったかい部屋と、好きな音楽とをながせたらもう最高のひとときじゃあないか。


 しかしこれは、アイドルや、ミュージシャンに熱狂するのとだいたい同じ構図である。

 
 対して。
 美しいものとは、やはり、愛情や、友情といったものなのではなかろうか。

 上には、理不尽な死を憎むと書いた。
 しかし、理不尽ではない、自ら望んだ、誰か自分以外のために命を投げ出すというのが、本当に大事なことなのではなかろうか?

 うしおととら、とか、からくりサーカスとか、その辺の自己犠牲感をうまく描いている気がする。

救ったものもまた死ぬ

 でも、そうはいっても、自分の命を投げ出してでも助けたいような何かって、本当にあるんだろうか?

 家族のように大事にしていた飼い犬を、トラックに轢かれそうになった瞬間体を張って守った。犬は助かった。守った飼い主は死んだ。

 こんなニュースが流れたら、きっと美談だとみんな思うだろう。
 一方で、アングラな口コミサイトなどでは、「飼い主バカだろ」といった書き込みも多くみられると思われる。

 まぁしかし、命とは等価交換みたいなもので、その飼い主が、妻も子供もいる状態なら、きっと「バカだろう」派が多いだろうが、一方、90歳の天涯孤独のおじいちゃんなら、「美談」派が多い気がする。

 でも、命って、そんなもんなんだろうか? 俺はなんか、そういった「自己犠牲」的な云々にも、なんか違和感がある。――というひょうげんをすると、おめーは、そういった「じぶんのいのち」より大切な何かをもってねーからそういうことを思うんだ。矮小なやっちゃな。と言われる。反論は、ない。


 でも俺は、そんなに、自分の命も大切と思うわけでもない。才能あるたくさんの人たちと比べたら、価値のない人間だ。でもだからといって、価値ある人に臓器提供する気もさらさらない。

具合が悪くなってくる

 うーむ、このあたりのことを書いていると、気分が悪くなるな。たんに酒のせいかもしれない。

 要するに、このあたりの、倫理観的なことは、書いたり、考えたりしないほうがよいのである。
 たいてい、小難しいことを考える奴は、モテない。

 そんな、金にもならないことを考えるぐらいなら、お金稼いで女の子にプレゼントしたほうがましである。――とかいておいて、おれは全くそう思っていない。

 袋小路だ。
 これ以上、新しいことを考えられそうもない。
 ああ、酒なんて飲まなければよかったか。

だからこそ物語が必要なんだこんちくしょうが!

 そしていきなりテンションが上がる。というか、狂ってくる。

 いやだからさ、グダグダいってねーで、行動し、積み上げて、研鑽しろってことだ。

 こう、グダグダ文章が物語として光るのは、ものすごくカッコよくて強い主人公が、時折見せる挫折の瞬間ぐらいである。
 年がら年中、ぐだぐだ、「僕って何」的に言ってるやつが、何言ってんだボケが、って話である。

 あー、なんやかんや、先週は、1,000字ぐらいは創作で書いた。なんとか、もっとちゃんと書く時間を取りたい。
 今年の目標は、なんといっても、「創作」なのである。にもかかわらず、俺は、些末事に(といっても仕事とかその他はずせないことではある。要するに、今年の目標以外のこと)時間を使っているのだろうか。


 ただ、一つ、物語は、今連載している奴ではないが、完成しそうな見込みがついた。プロットが、一応、自分で納得できたのである。――これなら、まぁ、書いていってもいいかなぁ、と思わせられた。

 なんつーか。

 自分で後から読んで、「面白いな」と思えるレベルのものじゃないと、正直書けないことが分かった。
 いやこれは、昔からそうだったのかもしれない。

 しかし、むかーしよりは、物語に触れる量が少しだけ増えたので――それと、人生に求めるものが増えたので――、物語に求めるものが格段に多くなっていっている。


 表現が稚拙だが、面白い物語しか書けないのである。

 え? 俺は、面白い物語を書けるのか? 否。そうではない。かけないから、書けていないのであるこれは、詰みではなかろうか。面白い物語しか書けない。しかし、自分では面白い物語を書けない。以上終了。


 ……。うわー! ちくしょう、どうしたらいいんだ。
 書くしかねえ。
 面白くなくても、書くしかねえ。
 書かないと、面白い物語は書けねえ。



 俺は別に、物語を書いて、それで生計を立てようと思ってるわけじゃあない。
 単に、俺自身が面白いと思える物語をかけるようになりたいのだ。人生で例えるなら、自給自足である。

 自分で野菜作って、畜産して、発電して生きていきたいのである。
 しかし、そのためには、自分の力不足がはんぱねええ。

 努力するしかなかろう。


(かっこ書きである。うーむ。だめだ。面白い文章が書けない。――だが、まぁ、仮にだ、この感覚で書いた文章が何かの役に立つのであれば、うれしいことである。まぁそういった感覚は傲慢なのであるけれども、8年前、2010年の記事など読めば、まぁ、書いておいてよかったのではなかろうかと思う。8年、か。長いようで短い。過去の自分は、まだ、自分がその先どういったイベントに出会うかを知らなかった。その先のイベントを知った今の自分が見れば、――その描いている文章に、字面以上の感慨を覚えるのである。この感覚は、「日記」という媒体の、その著者しか味わうことのできないものである。僕は、若い人に何ら人生訓なるものを授けるほど、できた人間ではないけれども、「日記」を書くということは勧めてもよいと思っている。もちろん、この日記とは、ブログのように公開を前提としなくてもよい。そして、巷にいわれるような「事象」を淡々と書くものではない。そうしたイベントの記述は、手帳にでも書いておけばよい。要するに、思考のプロセスの記述である。これ、大事。何に対して、何を、どのような順序で考え、感じるのか。それをメモしておくことが、重要に思う。少なくても、僕のように人生の迷子になってしまった人にとっては。――人生の迷子! これまた、20代で書くのと、30代で書くのは全く意味が違うだろう。いや良い意味では当然なくて、悪い意味で。深刻な意味で。いや、それはダメでしょう、といった意味で。ふむ、しかし、酔いがまわってくれば、それすらも呑み込んでやろう、という気にもなってくる。うぬぼれもさえもそれは才能、である)




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創作と生きる意味を考えること以外はどうでもよい
2017/12/20 00:20 | Comments(3) | イライラ対処
今日の一言「これはイライラ対処か」「書くことで気持ちを落ち着けるという意味か」

他者に対しての攻撃性

 ううむ、忙しいと、いろいろと周囲に対して怒りを覚えるようになる。
 そういうときに、部下の残業を減らすために管理職の残業が増えて過労死したとか、そのようなニュースを目にしたりすると、イライラに拍車がかかる気がする。

 クリスマスイブはデートに行こう、そうしよう。リア充爆発しろ? しかし、自分自身、そこを大事に思えない。

 モンスターハンターワールドは面白そうだけれども、シュタインズゲートのゲームも全然すすめられていないけれども、それどころではない。

 大事なものは何か。
 創作することと、生きる意味を考えることの、この二つである。

創作することの重要性

 何故その二つが大事なのだろうか?

 創作することは、それ自体がやはり楽しいのだ。確かに、よい表現が浮かばずに悩んだり苦しんだりすることもある。ただ、それ自体が自分の血肉になっているような気がするし、何せ、その結果として成し遂げられた「作品」という完成品は、とても貴重なものだ。その作品が、果たして、「客観的」たる価値が認められなかろうが、しかし、その作品は「自分」という存在が成し遂げた「存在(事物)」なのである。

 作品をつくりあげるということは、すなわち、それこそが、「自分」たる存在証明のようなものなのだ。何故ならば、その作品は、絶対的に、「自分」でしかつくれなかったのだから。


 ちなみに、ここでの「創作」というのは、プログラムでサイトをつくるのもそうだし、ブログを書くのもそうだし、仕事で資料をつくるのだってそうだ。

 だから逆に、「レポート」という体系にように、「自己」「自分」という主体を排して、「客観性」たるものを満たさなければいけないドキュメントなどは、作品とは言えない。いやでは学術論文はどうなのか? そこらへんの微細な分類を考えるほど暇ではないし、面白そうには思えない。

 とにかく、自分という存在の表現が為されたものが「作品」であるのだ。コピペ? 言語道断である。

生きる意味を考えることの重要性

 創作を突き詰めることができれば、僕は、これからも生きることができるかもしれない。

 ところが、人生はそれだけではままならないものである。いや、創作という生き方――たとえば、音楽家なり、小説家なり、いわゆる芸術家なる生き方をしたとしても、人との軋轢はさけられない。

 いや、人と関わらなければならないということだけでなく、葛藤というものは、人生から取り除くことはできない。
 悩み苦しみも含めて、人生なのである。

 ――同時に、僕は上のことを否定する、と以前書いた。苦しみ悩みながら時折の満足を得ながら生きる姿……ただ、実存として生きることが大事だという考え方を、僕は受け入れられていない。

 何故、今すぐ死ぬということを肯定してはならないのか。この問いは強力な、禁断の呪術のようである。これは、神という概念や、死後の概念を信じられない人にとっては、恐ろしい言葉でありながら、一方で福音の可能性もある。福音の可能性……そう、だから、良いことの可能性もあるというその可能性、蓋然性、よく分からないということ自体が、一切の思考を止めることができなくなるのである。

 これに対する処方箋は、やはりニーチェの永劫回帰(永遠回帰)ということになろうか。
 すなわち、この先苦しんだ結果、「そうだ、やはり人生に意味はない。死のう」として命を絶ったとして、結局、それは、再び、繰り返されるのである。「自分」は、永遠に「自分」なのである。苦しもうが悲しもうが、痛かろうが辛かろうが、それは変えられない。同じ頻度で、同じ順序で、まったく同じ内容のことが、永遠に、いつまでもいつまでも繰り返されるのである!! ――これが永劫回帰の思想だ。

 とすれば、自殺という手段が、決して、救済にもならなければ、正解ともいえないことが分かるだろう。いや、もっと恐ろしいことに!! 正解も失敗も、この世には、人生には一切存在しないのである。


 で、あるならば、これから先……否、この瞬間に! 今なさんとすることについて、それは、本当に、これから先何度も何度も、ずっとずっと繰り返すに値する行為なのかと! 次の、お前の、次に書こうとしているその文章が、指の動きが、思考の流れが、判断が、感情が、すべてすべてすべてすべて! 本当に成すべきことなのかと!!

てなことを考えでもしなければ理不尽さに潰れそうだ

 ああ……上のようなことを考えることが、なんと愚かなようにうつることであろう。こんなこと、デートの会話にはふさわしくなかろう。友人との忘年会にはふさわしくなかろう! だが、しかし、でも。

 もうこれは、俺にとっては、必須である、まったなしに必要なことである。でなければ、今にも怒りやその他もろもろの感情で自壊しそうである。


 だから、珍しく結論としてこの記事においては、もう創作と生きる意味を考えること以外は、些末事として切り捨てる、ということを記そうと思う。
 ああ、しかし、思ったのだ。この、苛立ちというか怒りというかは、とても、ある意味「楽」だなぁと。

 僕は昔から、他者との関係に気を使ってきた。その気の使い方が、適切だったのかどうか、そんなことはどうでもいいし、きっと、「変わったやつだなぁ」という感覚は与えてしまっていただろう。
 だが、それは、気を使っていたからなのだ。この感覚までは、「わかるわかる」って言ってくれる人も何人か見つけたことはある。
 そして、この感覚について、怒りがたかまるにつれて、どうでもよくなっていくのだ。つまり、人に嫌われることや、敵を作ることや、対立することが、怖くなくなっていくのである。

 これが冒頭に書いた、攻撃性というやつだ。でも、自分がこう、攻撃的になってわかったのは、「人のせいにするって、楽なんだな」ということだ。
 だから、理不尽に怒っているような奴をみつけたら、「ああ、あいつ、楽してんな~」と思ってやればいい。まぁ、その「あいつ楽してるな」というのが逆に、「なんであいつだけ楽してるんだ!」と逆に、怒りを増幅する原因にもなるだろうが(かっこわらい)。


(かっこ書きである。ここまで書いて、やっぱりカテゴリをイライラ対処にした。まぁその、書くことで感情を落ち着けられるというのは、やっぱり効果あるなぁと思った。とりあえず、風呂に入ってこようという気持ちになることはできた。ま、こういう記事をだ、何故わざわざ書いて公開しなきゃならねぇのかってのは、いつも思うことである。でもまぁ、こういう、頭がおかしくなりかかっている人の記事って、ちょっと面白いんじゃなかろうか、って思う。だって、先日取りあげた本だって、有名な人のブログとかだって、そりゃあもう、立派なことが書いてあるわけじゃあなかろうか。ごちゃごちゃした、くだらない考えや感情をたれながしたようなものなんて、あんまなかろうよ。……けどまぁしかし、なんか、「くだらない考えや感情の垂れ流し」というのは、確かにあるし、逆に面白くないなぁと思うこともある。この違いが俺はよく分からない。なんだろうか、そのくだらない「表現」が、ただの「コピペ」的であると、面白くないのである。そして、完全に「感情」に支配されてしまうと、これまた面白くないのである。かっこつけて、フロイト流に書いてみれば、エス(衝動・欲動)と、スーパーエゴ(理性)とのせめぎあいの中で書かれる文章が面白いのである。欲動だけでは面白くない(というか、何いってるのか全く不明。これは「いわんとしたことが分からない」というのではなく、文字通り外国語・宇宙語的な意味不明になってしまうということだ)し、理性だけでは、レポートのようで面白くない。レポートなんて、「これこれこういう条件だと、こうなります」というだけだ。その「こうなります」に興味がなければ、その時点で面白くなどない。あああ、しかし、この記事は、この俺の記事は面白いのか? いや、面白いと思う人が多いはずはないことは分かっているのだが、面白いと思ってくれる人は存在するのか? いやいやいや、お前はどれほどを望んでいる? 一人でも面白いと思ってくれる人がいたらOKなのか? それとも、それ以上を望んでいる? それは高望みじゃあなかろうか。せめて、たった一人、未来の自分でも、少しでも面白いと思ってくれるなら、それで満足すべきなのではなかろうか。ああ、しかし、またしても、だらだら・どんどんと続きそうなので、今日はここで強制終了)


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イライラ対処とか時間の無駄である
2017/12/05 00:13 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「毎日疲れたとかやる気ないとかつまらないとか言ってる気がする」「言ってはいない、思ってるだけだ」

疲れた

 どうして、こう、やること、なすこと、会う人、話す人、読んだり、聞いたり、――その他いろいろ、イライラさせられるのか。
 穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。

 しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。

 とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。

 じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?


 ――放っておいて欲しい、のだろうと思う。


 こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。

「話せばすっきりするさ!」

 って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。

矛盾注意報

 おま、放っておいて欲しいとかいっておいて、ブログ書くのは何なんだ、と思う。

 なんなんだろうな。

 ――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
 対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。

 抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。

 これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。

ニヒリズム

 他者の言葉を受け入れられない、他者を認められない……というのは、反転した全許容のせいもある。
 自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。

 これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。

 本当に正しいことって、必要なんじゃないか?

 ――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。

 ――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。


 人生は永遠回帰なのだと。
 お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
 そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
 やる気になるのだとすれば、やればよい。
 そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。

分かりやすい人生訓である

 超人になれとニーチェさんは言うけれども、どうやったらなれるんだ、と。

 確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。

 ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。

 すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。

 人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。

悩むということ

 判断が難しいのは、時間が未来に向かって常に流れ続けていることも一つ原因だ。

 時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
 今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。

 しかし、人は、未来を想像する。
 例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。

 未来。

 しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?

 明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?

 なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。

 しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。



 今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。

わかりやすい記事にしよう

 昨日の記事は、分かりやすかった。
 今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。

 分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。

 ええと、素直に書くと、疲れた。

 疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。

 とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
 親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。

 ――なんでこう、人を怖がるのだろう?

 怖い? 俺が? 人を? 何故?

 てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。

 イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?

 うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。


 とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
 そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。


 
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)




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やる気がわかない最近のメモ
2017/11/29 23:14 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「やる気が起きない」「この記事は何のオチもないだろうつまらないだろう」

面白いことがない

 ある方が、「充実感は必ずしも必要ではない」と仰っていた。
 僕は、充実感はあった方がよいと思う。が、今は、それどころか、そもそも、面白いと思うことがない。意欲がわかない。やる気が起きない。空虚である、無気力である……。

 ……といった表現も適切かどうかわからないほど、何だか感覚がない。

 先日車内トラブルに見舞われて少々痛い思いもしたため、怒りというかイライラは高まった。
 おいしいごはん食べたり、疲れてお布団にザバッと倒れこむのは気持ち良かったりする。

 いろいろと、感情はあると思う。だから、僕は正常だ。……という言葉自体むなしい。



 善い人になりたい。
 ――というのとおなじぐらい、「せいじょう」という言葉もまた空虚である。空しい。

 言葉が虚しい。

 感覚が虚しい。

好きな女性ということ

 僕に好意を示してくれる女性が二人ほどいる。
 一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりしている。

 楽しいし、よい人だなぁとも思う。

 ただ、それが、「好き」ということなのかというとよく分からない。
 好きという気持ちがよく分からない。分からなくなった? そもそも最初から分かっていない?

 その、なんか、「最近の若者は、自分から女性に告白をしなくて、相手から告白されるのをひたすら待っている」といった言説も聞いたり読んだりする。僕も、はたからみたらきっとそういう存在に思われるのだろうけれども、僕は本当に付き合いたいとか思ったら特に躊躇いなく告白する。

 結婚したことがあるということで、そういう女性との付き合い方とか、コミュ能力あるんでしょ、みたいに言われることもある。誤解である。告白してダメだったり、何度もふられたり、そもそも相手にされなかったり、いろいろである。いろいろやってみた中で、成功したこともたまたまあるというだけである。

 努力したのである。

 努力家なのである。

 継続することは得意なのである。

 頑張ることはできるのである。



 ――それらがいま、反転して僕の様々な意欲を、やる気を、動機を奪っている。そんな気がする。

頑張れば何でもできるの幻想

 努力は大切だ。
 しかし、頑張れば何でもできる――というのは嘘である。頑張れば、「それなりに」「その人にあった程度に」できる、のである。

 だからこそ、だれにとっても努力は必要なのであるが、しかし、同時に、心身に不相応な欲求は叶わない。

 ――同時に、その「不相応な」といったレベルは、誰も分からない。勝手に自分で線を引くだけである。しかし、その線……できることレベルは、時間の経過とともに低くなっていく。減っていく。

 キャリアアップとか、投資の増大とか、逆に時間経過とともに増やすことができるものもあるではないか? と思われるだろう。それはそうだ。ただ、僕が言いたいのは、「無限の可能性」的な意味においてである。

 優れた科学者は、更に偉大な研究をするかもしれない。ただ、野球選手として大成する可能性は、小学校の頃よりは少ないはずだ。そんな、当たり前のことを言っているに過ぎない。こういった例であれば誰しも頷くだろう。

 つまり、可能性の深さは深まる可能性はあるが、可能性の幅は狭くなっていくということである。

 逆に、大人になるというのは、その可能性の幅をおのずから狭くして、「俺が(私が)生きる道はここだ」と、胸を張っていえるようになることだ。

「何者でもない」うちは、いくらお金を稼いでいても、結婚していても、顔が老けていても、子供なのだ。

仕事が忙しいのもある

 働き始めて、2年目から3年目ぐらいが、ものすごく忙しかった気がする。泊まり込みで……みたいなことも何回かあった気がする。
 それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。

 でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。
 土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。




 何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。

 何もしたくない。

 ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。



 疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。

それでも文字おこしするのは何故?

 何もしたくないといいながら、何故ブログを書いているのか。記事を書いているのか。

 僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。

 ブログを書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッド見たり、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。
 なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。

 でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。

 寝る、ということすらそうだ。
 土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。


 唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。
(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)

 たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。
 今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。

 でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。


(かっこ書きである。――ので、こういう無気力期間がやってくるので、「ルーチン」が必要なのである。ルーチンは、もはや、体の一部である。心の一部である。どれほど調子が悪かろうと、意欲がわかなかろうと、無意識であっても行動できる――それがルーチンだ。意識してルーチンをやってるうちは、まだ、最終形態ではない。1か月ぐらい続けられたら、十分、その調子で長期間続けられる可能性が大きくなるが、突如訪れる無気力感によって、簡単に崩壊してしまうものである。ルーチンという横文字使ってかっこ悪いが、要は、習慣化、ということである。んで、その習慣化というのが、大人になるにつれ、難しくなる。それが可能性の幅を縮める原因でもある。でも、可能性の幅が小さいのが大人の特徴でもあるので、それはそれでよい。つまり、子供のうちに、良い習慣をたくさん身に着けていた方が、大人になってからも有利だ、ということだ。別に習慣というのは、筋トレとかそういったものだけではない。ポジティブなモノの考え方とか、あいさつやありがとうごめんなさいをちゃんと言えるだとか、そういった目に見えにくい習慣というのもある。ので、「考える力」なんてものより、十分な習慣を身に着ける教育の方が大事だ――みたいなことをいって、「いややっぱり考える力が必要だよ」みたいな論争というか意見交換をある方としたのも最近だったような気がする。ま、その、「良い習慣」というものじたい、社会環境や時代によって変わったりするから、それを見定める力、見出す力として「考える力」というのは大切だとは思う。けど、そんなもん、子供にわかるはずないのだから、教育という視点でいけば、まずは優先すべきは、習慣化であると考えている。ってまぁ、そんな他人のことはどうでもいいのである。まずは、俺が、自分が、どうやって、なんで、なんのために、なにをするのか、ということだ。――知らん。とりあえず風呂入って寝る。あぁ……PSVITAも買ったのに全然やってないし、なんかいろいろやる気が起きない)

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タイトル考える時間すらもったいない
2017/11/21 23:37 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「でもあえて言おう。指が重い、疲れた」「この記事では『疲れた』が頻発するため、ネガティブを完璧に排除すべきという思考体系をお持ちの方は読まない方がよい」

この疲れたことの表現を

 その、ツイッターとか、一昔前のSNS(ミクシィ)なんかだと、「疲れたー」といった一言の記事が投降されたりする。アメーバブログも、なんだかそういった傾向がある気がするのは偏見かもしれない。

 そういった短い記事に、僕は価値を見出せないのである。
 長くないと、ダメだ。

 それも、「疲れた疲れた疲れた」などと、コピペですむような奴はだめだ。しっかりと異なる表現で、それでいて、意味は破綻していなくて(論理的である必要などはない。ただ、そこに何らかのつながりがなければ、A.I.でなくても、単語の組み合わせと乱数を使えば簡単に「会話もどき」マシーンが作り出せるだろう)。


 しかし、今、僕がこのブログにおいて、この記事において表現「したい」ことといえば、「疲れた」という3文字になるだろう。

 どんなに頭をひねって、雅な言葉をつむぎだそうとしたとしても、その「テーマ性」は「疲れた」なのだ。

 それはどんだけ面白くないことだろうか。

夢をみた

 昔の、夢だった。夢とは、夜に見る奴のほうだ。「将来の夢」的なのではない。
 知人と、女性関係の話について語っていたので、その影響だろうか。
 起きてから、いやな気分になった。

 その夢の内容が良いか悪いかと言ったら、悪くはなかった。
 けれども、基本的に夢とは、良いものではないと思う。その夢が「良いもの」であろうが、「悪いもの」であろうが、それは「夢」であり、虚ろであるため、現実ではなく、いざ目が覚めて現実に戻った時、それは一概に虚しさを与えるのである。

 その一時の快楽について、「ああよかった。気持ちよかった」と満足できる人は幸いである。
 そういった人こそ、本当の悟りを得ているのかもしれない。


 何の話だ?

キノの旅

 お、アマゾンプライムで、キノの旅のアニメの新作やってるじゃないか。旧作はあるのを見つけて、時間をみつけて少しずつ見ていた。
 この作品は好きである。喋るモトラド(バイク)と旅人キノが、いろんな、変な……特徴のある国を旅をして、いろんな人と関わっていく。なんやかんや、ライトノベル的なのを初めて読んだのって、この作品だった気がする。

 お、前からある方が語っていて気になっていた、マジェスティックプリンスも出てるじゃないか。こりゃ「いぬやしき」なんてみている場合じゃねえ。でもキノの旅は気になる。

書かねばならぬ

 ところで、もう今すぐ寝たいぐらい眠い。
 目があまり開いていない。
 でも、書いている。何故か? はたからみたらお馬鹿さんである。でも、僕は、これが今すべき最重要課題であると認識している。

 書くことが。
 いただいたラインによるメッセージや、同窓会の案内に対する回答、友人グループからの忘年会の誘いへの回答、など……それら、現実におけるプライベート的なすべきことよりも、こうやって書くことが優先だというのか?

 そうだ、と僕は、その点は自信をもって言う。この判断は間違っていない。その根拠は、「これまでそうだったから」だ。つまり経験である。それも個人的な。だから、誰にでも当てはまるわけではない。そんなこと書き残して何になる? さぁな。でも、この、断片さ、壊れ具合が、人の話をシャットアウトしようというその姿勢が、「疲れた」というテーマ性をよく表現しているような気がする。

生きる意味がない

 若者を騙して何人も殺害した容疑者が、「生きる意味がない」などと、父親にもらしていたことが分かったという。
 何をどうして、そういった経緯が分かったのかは知らないが、やめてほしいものだ。

 生きる意味……なんてものを考えたりする人たち――すなわち僕のような人が、ますます奇異な目で、犯罪者のような軽蔑した目でみられるではないか。やめてほしい。
 僕は自動二輪車が好きで乗っているが、爆音のうるさい奴らが大嫌いである。まぁ、自動二輪車が嫌いな人にとっては同じ穴のムジナだろうが、なんでもかんでもひとくくりにされるのは気分がよくない。なにその、小学校の頃の連帯責任とか。え、小学校だけじゃなく、大人でもそういうのあるって? なにそれ、江戸時代の5人組なの?

 どうでもいいことを書いてしまった。これも疲れている証拠である。
 あの、「人生に絶望した」という表現について、よく犯罪者から引き出して大々的に報道しようとしたりする気がするけど、犯罪の動機を何故人は欲しがるのだろうか?
「納得」したいからだ。
「あいつは、犯罪を犯すような動機があった」と、理解したいからだ。

「そういう奴ら」というのを、スクリーニングの(ふるいにかける)ための方法を欲しているのだ。

 だから、アニメばっかりみていたとか、ゲームばっかりしていたとか、そういう「分かりやすい」理由を欲するのである。そういうのを好きな人と付き合わなければ、自分たちは安全なのだと、意識的・無意識的に思っているのである。

 ただ、いまやゲームもアニメも、それほど忌避されるものではなくなってきている。だからより一層、「犯罪者たるもの」が必要になってきている。

 次にスポットがあてられるとしたら、「絶望」である。

絶望とは

 絶望、と一言で表現したけれども、どっちかというと、精神科医フランクル氏のいうところの、「実存的空虚感」である。もっと砕くと、「生きている意味がわからない」的な感覚である。

 正直。この疲れた思考と身体においては、頑張ろうが頑張らまいが、生きようが死のうが、気持ちよかろうが悪かろうが、大した意味はないと思っている。

 そして同時に、こういった思考がよくないものだと、言われていることも分かっている。
 いやお前、それは「わかっている」とは言わないのだぞと言われるが、分かることは分かるのだ。ただ、それが「間違っている」とは思えない状態である、というだけだ。

 ちなみに、何故間違っているのだろうか。それは、答えがないからだ。証明できないからだ。客観的ではないからだ。そういうものを考えることは、思うことは、感じることは、「間違っている」のである。


⇒いやお前、そんな、楽しいことばかりじゃないぞ。いやな思いや、苦しいと思うことも含めて、人間なんだ、感情なんだぞ?

 否。明確に否定する。それは、お前、それこそ人間の可能性に対する否定だぞ。――この表現嫌いだが、あえて使おう。その「人生楽ありゃ苦もあるさ」ってのは、諦めである。いいことも悪いこともあるのが人生? お前、そりゃ結果的に悪いこともあるかもしれないが、「悪いことがあっていい」というのは、お前らが嫌いな、「必要悪」みたいな考え方に過ぎないじゃないか。

 違うだろ。本当は、すべて良いことであるべきだ。悪いことなどあっちゃならないのだ。



 ……などといったことも含めて、「どうでもいい」という感覚。空虚感。そういった表現。


 例えば、僕が何らかの悪いことを犯したとして、このブログの記事が発見されたとしたら、まぁまぁ、きっと、「ああ、なるほどな」と、何が「なるほど」なのかも分からないままに、みんな「納得」するのである。ニュース報道的には、「会社や友人環境など恵まれていたようですが、ある一面で悩みを抱えていたようです」みたいにキャスターが言うのである。

 ま、確かに。生きる意味がない、ってのは、無気力ってのは、「人の命なんてどうでもいい」とか思ってそうに感じられるかもしれない。意味がないから殺してもよい、と思っているとか。

 そんなの、無気力でも、絶望でもなんでもない。
 無気力や絶望ってのは、「人を殺したい」という欲求すら浮かばない。いやむしろ、いくら絶望していたとしても、人を殺した瞬間、それは、欲求に変化するのである。(ここで「いや、人がどれぐらいで死ぬのか試してみたかったとか言うやつもいるじゃん」という反論があるとしたら、それはもともと無気力でも絶望もしていないので関係ない)

 何か、行動をしたいという思い、そして、その行動自体の意味について、意義を失っている状態、それが無気力である。
 絶望とは、欲求がなくなった状態である。

睡眠欲には勝てない

 ――だめだ。目が明かない。もうタッチタイピングで書くしかない。誤変換が多発するだろう。

 ああ、その、なんだ、「疲れた」という表現をするため、それなりの長さになったわけだが、さらに疲れた。でも、睡眠欲と闘いながら、書くということを優先させたのは、――そして、こんな意味のつながりがおかしい記事を投稿するのは……。


(かっこ書きである。何故書くのか。それは、書くことが、唯一、僕の現在の心(精神というか、目的というか、目標というか)において、「ダメ」と言われないことだからである。仕事をすることも、友人などと遊ぶことも、ゲームをやることも、ダメとは言われないけれども、なんだか、罪悪感や焦燥感が与えられるのだ。だからたぶん、消費的な行為行動で満足して生きることができるなら、それはもう満足した豚であって、悪いことではない。不満足なソクラテスが本当によいかは僕は分からない。でも、ただ食って寝て増えてといった本能的なものだけで人間が生きているのだとしたら、――いやむしろ、そうだとしたら、人類が抽象化の言語を獲得し、他のホモ属を淘汰し、地球の食物連鎖ピラミッドの頂点に達したのだろうか。……どうでもいいや、眠い)

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