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比較的な感覚
2011/02/08 21:37 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
実際に起こってほしくないことは望まない。
しかし結局、一般的な破滅に陥るのは珍しくない。ポジティブシンキングが上手くいかないのは、そのテクニックの表層をなぞるからだ。

例えば恋愛のテクニック。飲み会で何も言わずレモンを唐揚げにかける女はダメだとか、遠慮ぎみに服をつかむとキュンとくるとか、挙げればきりがない。

基本的にそういったテクニックは間違ってない場合が多いが、用いた人のたいはんは失敗する。
これは実は矛盾などではない。
テクニックを、その骨子を知らず用いるのが生兵法なのだ。

モテテクから優しくしたり、笑顔を向けられても嬉しくないどころか、不信ばかりつもるだろう。


しかしながら、結局、骨子とは人間性である。


今のは単なる例だけれど、ポジティブシンキングも同じである。

つまり煎じ詰めると、モテることや、明るくなることなど、「不可能」なのだ。


一般人の怖さについて述べたことがあるが、人の「自然さ」を感じ取る能力は凄まじい(もっとも表現できるわけではない)。

これは他者にだけではない。
「自分」に対しても、だ。


つまり、自分を騙すことはできないが、自分を騙していることに徹底して自覚的であれば、それは自然的である。

騙すなど卑屈な言葉でなく肯定的な言葉を用いたとしても同様である。


ようやく比較思考の話しに入れる。
板挟みは、立場上で発生するのがたいていだが、身近なレベルでも実は発生している。

仲良し3人組!から既に発生は見て取れるが、これはやや難しい。

だが、存在認識を一度してしまえばあとは容易だ。

否、問題なのは、その調整である。
大好きな2人が実は仲が悪かったら?
陰で悪口を言っていたら…。珍しいことではない。

あなたは、どちらの味方をするか迫られるかもしれない。
戦国時代であればその選択が人生どころか命の存否を決める。戦国時代じゃなくとも、競争が激しい会社の出世争いでも同様だろう。


さぁどうする?
ここでようやく「自己」が必要になる。
逆にいえば、それまで自己などくだらないどころか邪魔である。

いやいや!
そんな邪険にし続けた自己が、今更役に立つのか?


途中

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正しさと手続きの重要性について
2011/02/06 12:46 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
不愉快になることはよくある。
それは仕方が無いだろう。何せ他人で溢れた世界、何が良くて悪いかもよく分からない。

例えば、かなり込み合った駅構内で、右に左によったよた、かたをいからせて歩いている中年男性。
追い越そうとしたとき、僕のかばんがその男性に当たった。
その男性は舌打ち。僕は無視。

交通ルール的には、追越した方が悪いとなりそうですが、蛇行運転している方も危険運転。
ただ、歩行の場合に制限速度は無いし、駅構内に追い越し車線も走行車線もない(当たり前かw)。
ただ、「左側通行にご協力ください」とあるので、僕はちゃんと右から追い越したのだけど。


んじゃどっちが悪いの? という話。

今の例じゃなくても、往々にして、自分が「善」と考えることにおいて、それを破るような人を見かけたり遭遇したとき、さも鬼の首をとったかのように「叩き出す」人が多くいる。
僕も基本的には、その「叩く」人の主張が理解できるし、それが「正しい」だろうと思う。

けれども、顔を真っ赤にして怒っているその人に対して、僕は不愉快だったりするのだ。
「顔を真っ赤に」というのは比喩だけど、結局その人は、「自分の不快感」に対して怒り、他者に攻撃をしているのだ。
だから、丁寧に(もちろん厳しさは問わない)対応しているなら、僕はただ、その主張の「正しさ」だけで考慮するだろう。

「(優しく)言ってもきかない奴がいる!」
それはそうだけど、上記のような場合において、それを判断するのは、一体誰だ?


自分の場合であれば、「舌打ちされた」ことに対して不愉快は30分は続くけれども、ただ、華麗にその中年男性を、アクロバティックに避けられなかった僕自身が悪いと思う。そもそも、僕の歩く速度が普通の人よりも速いというのも問題であったりするかもしれないし。

もちろん、僕としては、例えば、目の前に4~5人の女子高生が並んで、ぺっちゃくちゃ話しながらゆっくりゆっくり歩いている様を想像して欲しい。体当たりしてでも通過したくなる。
けれども、そういう場合は、ちゃんと「すみません(通して頂けますか?)」と言うようにしている。たいていそれで、道をあけてくれるし、いい子だったら、「ごめんなさい」の一言くらいも言ってくれる。

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想定内であること
2011/02/01 21:24 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
余裕は無いが大した問題ではないのは、想定外ではないからだ。
大変なのは自分の能力の問題で、であるなら尺度は身体性に帰属するのだから、思考は意味をなさない。

日付変更前に帰れるなら余裕だとしていたので、早く帰れてよかったと思う。
思った以上に周囲がつらそうだが、であればどこまでも明るくいる元気がでる。


というよりむしろ切り替えが不要どころか害になる。身体的影響がなければ気持ちの切り替えは容易だが、敢えて維持すべきだ…と言い切れば、やや結果が気になるものの、余裕はないということにしておこう。


甘えた気持ちが残っているのが残念だ。仕事としても人間としても尊敬できるなら、全力でトレースする。

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楽に生きるということ
2011/01/23 16:16 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと

生きていることがつまらないのは、そう思考してしまうからだ。
そんなこと当たり前だが…。
そんなことにも気付かないのは、生きているのが楽しいかつまらないかということは自分が決める
ことだったんだ。
たとえ幻想でも信じ抜くことが出来れば、孤独でも独りでも楽しくなれるはず。


という記事を読んだ。
それに対して、
「毎日楽しいだけ、なんて人なんてどこにもいないよ! そうしたアピールが上手い奴ってのはいるけど」
という意見、それに続いて、

私は毎日が楽しくて仕方がありません。
でも、別に楽しくなくてもいいと思っています。生きている必要さえないと思っています。
「どうなろうと構わない」
生きている以上、「死ぬ」という逃げ道があるのだから、人生はとても優しいと思います。
死んでもなお苦痛が続く可能性があるので、死ぬのは怖いです。
といった考えは、若いとありがち。歳をとるにつれて、死ぬのが怖くなる。

今がよければそれでいい。今がよくなければどうでもいい。


という書き込み。


変わることって、誰しも怖いことだと思う。
でも結局、変化をしない人間なんていない。僕は、それを分かっているから、ロボットやAIなどに憧れるのかもしれない。
(ただし、昨日見た『WALL・E(ウォーリー)』のように、その行動原理が何らかの影響で変化をする……、そうしたシチュエーションも好きだったりする)

だったら、変化をすべて受け入れたらいいと思うのは、とても短絡的な考えだ。
実際、そんなこと不可能に近い。なにせ、その「受け入れる」主体というのが、一体どこにいってしまうのか、疑問だ。
そう、だから、その主体そのものを取っ払ってしまえばいい。

「自分」というものに拘ることが、どうしても苦痛の原因になる。
いやその主張は、「いじめ」を続けられても、それを「笑い」「ネタ」にし続け、結局崩壊、自殺した子どもたちを見捨てることになる。絶対的に、自己と環境は、切っても切り離せないと思う。

つまり、自分と環境を常にいったりきたり、アクション&フィードバックさせ続ける、そうした試みが必要だということだ。
いやもちろん、そんなこと、誰しも自然にやっている。しかし、それを敢えて意識的に、もう一人の自分を作成し、そいつが常に自分をモニタリング(監視)するようにする。徹底的な客観視。

自分がある程度、どう見られているかを「自覚」「分析」する。自己分析というものだ。
それは、エントリーシートに書くような、文面だけのものではない。自分の話し方、ルックス、身長体重、匂い、そうした全情報を要素としてインプットする。


「自分を変える」というのを、よく、資格をとるだとか、勉強するだとか、そうした「後付け」のことのように感じてしまう人が多い。
変えるというのは、根本的にだ。整形しろというわけではないが、それくらいの覚悟は必要のことだ。(まぁ、整形がそれほど覚悟がいるかどうかは、また別の話。整形が覚悟がいる、というように考えてしまう「自分」がいるということだ。)

常に変えろ、というのでもない。変える必要が無いと「判断」できたのなら、する必要など無い。

ここで、その「判断」が、如何にされるか、それが問題になる。
それこそ、「自分」だけだ。

変わり続ける自分、だが、その面、そのときそれぞれに現れる「自分」というのは、確かに存在する。
そいつに聞けばいい。

「今、僕(私)は、大丈夫なのですか?」

そうした考えが、「無責任すぎる」と批判もされようが、しかしながら、その時々の自分は、確かに「自己責任」を取っている。

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米の流通
2010/12/28 22:39 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
1999年、米の輸入関税化、つまり、民間でも関税を払えば米を輸入できるようになった。

それまでは、政府米といい、政府が米の販売ルートや、生産者価格(農家の販売価格)と消費者価格(私たちの米の購入価格)を決めていた。

それ以外のルートの米は、ヤミ米として違法だった。


外国米はまずい……

この消費者感情は、実は政府の世論操作であった、そういう説がある。

1980年代の、ニクソンショックとプラザ合意、つまり、貿易摩擦の問題が深刻になっていた、その流れにおいて、米を含む農産物の輸入自由化が諸外国の圧力で進められた。

もはや抗うすべはない……そこで政府は、外国米はまずいという感情を生じさせ、外国米を消費者自身が排除するように仕向けた。

米といっても、品種によって傾向が全く違う。それぞれに適した調理方法もある。だが、ブレンド米は、それぞれの味が珍妙にまざりあい、すべてに不向きとされた。

まずいものは、いくら安くても買わない。
やはり米は、日本のものが一番だ!


ひいては、それは、日本の農家を守るため……。

そこにおいて、ブレンド米をおいしく頂ける調理方法をあみだす料理人は非国民だ。外国米はまずくなくてはいけないのだ。



空気を読むというのは、実に高度な業なのだ。
それには、複雑な知識と、演繹、帰納的な思考、素早い判断力などが要求される。

それが社会性、協調性だ。

自分勝手な判断は許されないと同時に、即断的行動力も必要となる。


私は、常にそのような対応ができない自分に腹立っている、しかし、そうしなくてもよい人も見つけられた、だがしかし、そのような人へ与えてしまった不快感情は、強い自分の痛みとなって反射される。

だから私は、せめてツールを明らかにすることで楽になろうとする。

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