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正しさと手続きの重要性について
2011/02/06 12:46 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
不愉快になることはよくある。
それは仕方が無いだろう。何せ他人で溢れた世界、何が良くて悪いかもよく分からない。

例えば、かなり込み合った駅構内で、右に左によったよた、かたをいからせて歩いている中年男性。
追い越そうとしたとき、僕のかばんがその男性に当たった。
その男性は舌打ち。僕は無視。

交通ルール的には、追越した方が悪いとなりそうですが、蛇行運転している方も危険運転。
ただ、歩行の場合に制限速度は無いし、駅構内に追い越し車線も走行車線もない(当たり前かw)。
ただ、「左側通行にご協力ください」とあるので、僕はちゃんと右から追い越したのだけど。


んじゃどっちが悪いの? という話。

今の例じゃなくても、往々にして、自分が「善」と考えることにおいて、それを破るような人を見かけたり遭遇したとき、さも鬼の首をとったかのように「叩き出す」人が多くいる。
僕も基本的には、その「叩く」人の主張が理解できるし、それが「正しい」だろうと思う。

けれども、顔を真っ赤にして怒っているその人に対して、僕は不愉快だったりするのだ。
「顔を真っ赤に」というのは比喩だけど、結局その人は、「自分の不快感」に対して怒り、他者に攻撃をしているのだ。
だから、丁寧に(もちろん厳しさは問わない)対応しているなら、僕はただ、その主張の「正しさ」だけで考慮するだろう。

「(優しく)言ってもきかない奴がいる!」
それはそうだけど、上記のような場合において、それを判断するのは、一体誰だ?


自分の場合であれば、「舌打ちされた」ことに対して不愉快は30分は続くけれども、ただ、華麗にその中年男性を、アクロバティックに避けられなかった僕自身が悪いと思う。そもそも、僕の歩く速度が普通の人よりも速いというのも問題であったりするかもしれないし。

もちろん、僕としては、例えば、目の前に4~5人の女子高生が並んで、ぺっちゃくちゃ話しながらゆっくりゆっくり歩いている様を想像して欲しい。体当たりしてでも通過したくなる。
けれども、そういう場合は、ちゃんと「すみません(通して頂けますか?)」と言うようにしている。たいていそれで、道をあけてくれるし、いい子だったら、「ごめんなさい」の一言くらいも言ってくれる。
ティム・バートンのコープスブライドのように、結婚詐欺で殺されてしまっても、僕は相手を恨まないようにしたいと思う。何せそれは、相手が「そういう人」だということを見破れなかった、自分の能力不足でもあるからだ。
何故そういう風にしないといけないかといえば、「そういう人」は、とてもたくさん、残念なほどたくさんいるからだ。
だから僕は、よく「人間嫌い」とか、「誰も信頼できない」とか言うけれども、それが日常生活で困るほどのことにはなっていない。つまり、そもそもにおいての基準が高いだけであって、次元の問題だ。

全く関係ないけれど、だから僕は、「先生」とか「心のやさしい人」なんかがよく言う、「最近の子どもたちは友人関係が希薄になっている。うわべだけで、濃密な関係をつくろうとしない。『優しい関係』といわれる、お互いの悪いところなどを言い合ったりする昔は一般的であった友人関係を構築できない」という主張は、事実のように思うけれども、「――であって、それがダメなことだと言いたいのか?」と逆に問いたい。
そうした、うわべだけの付き合いという関係について、異議は当然ある。道端で倒れた人を、みんな見てみぬふりをする社会、そんなものが正しいわけはない。
だけれども、では、「大人」たちは、果たして、それほど濃密な付き合いをしているというのだろうか。
比較的に考えたところで意味は無いけれども、だからこそ、その一つ一つ個別の事象について深く考えなければいけない。

「浅い付き合い」ということに関して言えば、僕は(人間嫌いとよく言うのにも関わらず)普段、「みんな友達」とも言う。それに対して、心の浅ましい人(しかし、その人は非常に多くの友人をもち、気がきき、優しいのだ)は、「えーそんなはずないじゃん。寂しいね」と言う。
つまり、その深い友人づきあいをしている人にとっては、友人とは、ある種、「排他的」なのである。
それに対し、浅い付き合いをしている私にとっては、「みんな友達」なのである。

言っておくが、「心の浅ましい人」「深い友人づきあい」という言葉を用いたが、大して意味は無いことに留意しなければいけない。
つまり、本心的には、「どうでもいい」ことなのだ。

diversity(ダイバーシティ)
最近、diversityという言葉を企業で聞くようになりました。
日本語訳は「多様性」とのこと。
すんごく簡単にいうと、
「男性ばかり採用するとか、日本人ばかり採用するとかってどうなの?」
という考え方です。
これに関しては、日本は本当に遅れてるなぁと感じます。
多様性とはつまり「違いを認める」ということに尽きるかと思いますが、
日本語の「違う」という言葉は、different(異なる)の意味とwrong(正しくない)の両方の意味が含まれているのが現状。
すごいところは、中途採用もとらずに、新卒の生え抜きだけしか社員にしない!
ってところもありますもんね・・・
個人的な考えでは、
「地球全体の人間の割合」が、そのまま「社員の割合」となるような状態が、最も強いのではと思ってます。



ある方の日記を引用させてもらいましたが、そう、多様なのです。
善悪の判断を、どこまでも保留にするのは、非常におそろしいことではありますが、他者を認めるというのは、そのレベルでしなければいけないと、僕は思うわけです。

秋葉原の通り魔殺人の加害者を擁護するなら、自分の家族が殺されても同じことを思うのか、そこを考えなければいけない。きっと、家族が殺されたらつらい、でも、加害者の気持ち分かる、そういった流れでいけば、そうした悲劇が怒らない「可能性」が生まれる。
単に、「オタク死ね」という「感情」しか起こせないような人であれば、僕は、加害者と大して変わらない印象しか抱けないのです(もちろん、全く違います。当たり前ですが、こういうことを書くとどうしても誤解が発生する)。

というより、僕が書いたこのことが、誰かに伝わるとは到底思えない。何故なら、これは全体として、繰り返し否定と肯定を継続しているに過ぎないからであり、単体の文章を読むだけでは確実に「誤解」が生じる。だけれども、その構造まで含めて読むような人はいない(もちろん、えらい学者さんの書いた文章であれば、たくさんの人が解読しようとする)。

なのでまぁ、一般的には、「みんな大好き♪」と言ってれば「正解」である。



ぐだぐだ長く書いてしまうのが悪い癖だけど、総括すれば、善悪の正しさと同様に、その「手続き」も重要であるということだ。
「正論しか語れない奴に興味は無い」

と、書くと、これはこれで、僕が書いた今回のお話に抵触する。
つまり、そういう日記。
日記といっても、実際の出来事はかなり前の話。そういう話をリアルタイムに書くのはよくないと、個人的に思っているので。
何故かというと、僕も「攻撃的」になってしまうからです。

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