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神なき世界で生きる日本人
2011/04/21 21:28 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
例えば欧米が個人主義といわれるが、それでもなお孤立はしないことに注意しなければいけない。

飲み会の後の寂しさを思う、だけど、欧米ではそうならない、何故なら、常に手を取り一緒にいてくれる神がいるからだ。

冷酷な、時に殉教を厭わない宗教者たちを日本人は理解できない、けれども、自殺者の数を考えれば大した問題ではない。

自己をもつ人間は少ない。むしろ自由意志(意思)を否定する考え方もある。

果たして自分は自己をもっているか?
バリバリ仕事で活躍する自分、妻や子どもを愛し家庭を守る自分、誰もが自分についての認識はもっている。
しかしそれらは自己の証明にはならない、いや、その信仰具合ではもはや自己自身でもありえるが。
ただし、自己は、上記の自分の見出している価値に対して、自分を含めて再度価値を見いだす、いわばメタ価値をもって、初めてようやく朧気な輪郭がみえてくる。

そして重要なのは、その構造が再帰的であることだ。
常に自分を認識し続ける、そのプロセスこそ自己だし、人だといっていい。


この視点をもっている人は少なくはないと信じたいが、意外にもその表現者は少ないように思える。
ただこれは付加価値のようなもので、他者にこれらを求めるわけではない。



統括者なき思考は暴走し溺死するが、統括者に任せるのはともかく、統括者の存在を知らないのはドールである。

ちなみに重要なのは、かといって人に価値を見いだすべきという主張ではないということである。

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日記とかmixiとか
2011/04/20 19:09 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
書きたいことを書くわけだけれど、そういった呟きレベルでの面白さを感じさせてくれるものが非常に少ない。

呟きレベルで、複数の想定や思考を書いて欲しい、できなくても示唆くらいはして欲しいものだ。

主観的なのも客観的なのも面白くない。

けれどもこれだけでは面白くない。


くだらないカテゴリーだからこそ、その中で面白い人は目立つわけだけれど。



歳をとるほどに発生する安定思考というのが好きではないが、これだけ言えば勘違いされる、私は安定が大好きだ。
つまり自己を確定的に信じていくプロセスに興味がない。


わたしってこういうキャラだから~

あの子ってこういうタイプだよね~


こういうこという人は非常につまらない。
関係ないが、あの頃はよかったな~的なことをいう人にも辟易する。

非常に不愉快なことがあった日も絶対思わない。だって戻ったらまた体験だ(笑)

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4日、思考者のはなし
2011/04/04 23:59 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
たすけて


重い鬱を患ったものに言われていた。
だけれども、わたしは、それでも生きて下さい、といえるほどに、世界を善いものとは思っていなかった。

むしろ思うのは憎しみであり、復讐のために生きているようなものであった。


あぁ…それにしても、楽しそうに見える人が、一般人が知らないほどに暗黒に墜ちているとしたら!

嬉しそうな明るいメール!その裏で、声もあげずに泣いていたとしたら!


苦しみをもたない人など人かどうかも疑問だ。
幸せは罪悪なのだと苦しむ人々…!


それにもかかわらずポジティブを喧伝する社会、精神病を治そうとする医者、薬で気持ちを保とうとする人々…


絶望せよ

だけれども、誰も苦痛など望まない。


醜い世界である。



復讐せよ



そして幸せを享受した人々は、永遠に凋落を恐怖し続けるのだ。


どちらを選ぼうが自由な、その自由さが日本の優れたところだ、一億総精神病社会の優れたところだ、勘違いしてはいけない、これは皮肉ではない。

みたまえ、ゴミのように使い捨てられる人々を。
無意味な紛争で、無意味に死んでいく人々を。

死ぬ権利さえない人々を。


つまりわたしたちは幸せだ、そして多数の被救済者を見捨て続け、欺瞞と自己満足で生き続ける。


そして気付く。

選ぶ権利も意志もないことに。

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ミラーニューロンといらいら
2011/03/29 22:28 | Comments(0) | 思考及び書くこと
僕がいらいらするというのはありません、であれば一連の愚痴とは一体なんなのでしょう。
それはトレースです。感情の共有です、つまり、あるコミュニティーにおいての平均の感情をとるというわけです。

否、これは私に特別なことではなく、多くのコミュニティーや人々にいえることです。何故なら人には、ミラーニューロンというものをもっているからです、まぁ理由はともかく(笑)。

例外はもちろん身体性です。デカルトのように身体と精神が二分されるという考えは分かりやすいですが、痛みの中でなお思考に身を任せられる人は英雄レベルとなります。

ですから、その差し引きを考えて、ある程度平均を目指していれば多くの問題は回避されます。
それを意図的にするかどうか、これがコミュニケーション能力の一要素となります。

君はさもコミュニケーションに長けているのだね!

このアイロニーには苦笑いです。
能力や才能、先天性の問題も、当然例外として考えるべきとなります。

身体性と上記要素を抜けば、残るものなど何もないとの直感は正しいでしょう。


つまり結局、つらいことに、煎じ詰めると何も残らないのです。
この意味においてのみ、私は一貫した自己というものを信じられます。

矛盾としか思われないでしょう、詭弁だとの鋭い指摘が飛びますが、この「正しさ」は、もはや完結して主張できないのです。

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極端な選択の提示による調整
2011/02/09 22:04 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
毎日22時近くまでサービス残業し、もう帰るのかと言われると大変であるが、家が隣であれば大したことないだろう。

一時間の片道は思考整理にあてられるが、食事はとりたいところだ。

不愉快なのは能力のなさであり、その問題がすべての行動を制限する。時期的なものもあり、ここで相当ハードと言いたいが、新規事業や転職をしたとすればこの程度だろう。陰湿なイジメがないのでとても幸せである。


というのが先日述べた比較思考であるが、これは単に不快感情を増幅するだけであるが、まさにそれこそが目的であったりする。


中途半端な不快ならば変換処理するし、それで処理オチするならば、最大限増幅するだけだ。

イライラはピークに、それは増幅過程であれば、他者に感じ取られる。ピークまで一気にかけのぼらせるのが肝要だ。
その際取り返しのつかない、自殺や暴行…否、自傷も含めた損害は中途半端であるので、やるとしたら自らの息の根を完全に止める必要がある。

この目標提示により、現状がまだ余裕であると判断できる。




思うに、エジプトで死んだ民衆よりは余裕である。

結局のところ、努力は結果でしか判断のされようがない。
通常思考の中で、人は自分が絶対と認識する。ゆえに比較思考が重要なのだ。

風邪をひいたのに頑張った、それはむしろ風邪をひいたミスが問題視されるだけである。
癌にでもならなければ心配はされない。それに癌も治る医療技術のおかげで大したことがない。


繰り返すが努力に意味はない。自分で頑張ったと思ったならば末期である。確実に明るさを失っていく。

明るくあるならば絶対に努力してはならない。


頑張ることが目的なのか考えてみればよい。自傷して悦に入るオナニー猿に過ぎない。
努力した成果と、楽した成果を比較したとき、努力した成果を認めたがるのが人である。私もそうするだろう、ところが、その苦楽の評価を誰がするのかが問題なのである。


そういうわけで、電車で座るようになった自分にがっかりするだけなのだ。

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