忍者ブログ
   
楽に生きるということ
2011/01/23 16:16 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと

生きていることがつまらないのは、そう思考してしまうからだ。
そんなこと当たり前だが…。
そんなことにも気付かないのは、生きているのが楽しいかつまらないかということは自分が決める
ことだったんだ。
たとえ幻想でも信じ抜くことが出来れば、孤独でも独りでも楽しくなれるはず。


という記事を読んだ。
それに対して、
「毎日楽しいだけ、なんて人なんてどこにもいないよ! そうしたアピールが上手い奴ってのはいるけど」
という意見、それに続いて、

私は毎日が楽しくて仕方がありません。
でも、別に楽しくなくてもいいと思っています。生きている必要さえないと思っています。
「どうなろうと構わない」
生きている以上、「死ぬ」という逃げ道があるのだから、人生はとても優しいと思います。
死んでもなお苦痛が続く可能性があるので、死ぬのは怖いです。
といった考えは、若いとありがち。歳をとるにつれて、死ぬのが怖くなる。

今がよければそれでいい。今がよくなければどうでもいい。


という書き込み。


変わることって、誰しも怖いことだと思う。
でも結局、変化をしない人間なんていない。僕は、それを分かっているから、ロボットやAIなどに憧れるのかもしれない。
(ただし、昨日見た『WALL・E(ウォーリー)』のように、その行動原理が何らかの影響で変化をする……、そうしたシチュエーションも好きだったりする)

だったら、変化をすべて受け入れたらいいと思うのは、とても短絡的な考えだ。
実際、そんなこと不可能に近い。なにせ、その「受け入れる」主体というのが、一体どこにいってしまうのか、疑問だ。
そう、だから、その主体そのものを取っ払ってしまえばいい。

「自分」というものに拘ることが、どうしても苦痛の原因になる。
いやその主張は、「いじめ」を続けられても、それを「笑い」「ネタ」にし続け、結局崩壊、自殺した子どもたちを見捨てることになる。絶対的に、自己と環境は、切っても切り離せないと思う。

つまり、自分と環境を常にいったりきたり、アクション&フィードバックさせ続ける、そうした試みが必要だということだ。
いやもちろん、そんなこと、誰しも自然にやっている。しかし、それを敢えて意識的に、もう一人の自分を作成し、そいつが常に自分をモニタリング(監視)するようにする。徹底的な客観視。

自分がある程度、どう見られているかを「自覚」「分析」する。自己分析というものだ。
それは、エントリーシートに書くような、文面だけのものではない。自分の話し方、ルックス、身長体重、匂い、そうした全情報を要素としてインプットする。


「自分を変える」というのを、よく、資格をとるだとか、勉強するだとか、そうした「後付け」のことのように感じてしまう人が多い。
変えるというのは、根本的にだ。整形しろというわけではないが、それくらいの覚悟は必要のことだ。(まぁ、整形がそれほど覚悟がいるかどうかは、また別の話。整形が覚悟がいる、というように考えてしまう「自分」がいるということだ。)

常に変えろ、というのでもない。変える必要が無いと「判断」できたのなら、する必要など無い。

ここで、その「判断」が、如何にされるか、それが問題になる。
それこそ、「自分」だけだ。

変わり続ける自分、だが、その面、そのときそれぞれに現れる「自分」というのは、確かに存在する。
そいつに聞けばいい。

「今、僕(私)は、大丈夫なのですか?」

そうした考えが、「無責任すぎる」と批判もされようが、しかしながら、その時々の自分は、確かに「自己責任」を取っている。

拍手[0回]

PR

トラックバック

トラックバックURL:

コメント

コメントを投稿する






Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字 (絵文字)



<<発言ミス | HOME | 追跡者(夢日記)>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング