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信頼について
2010/12/24 21:30 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
自己肯定感を失ったくらいで、自我崩壊するほど経験が無いわけでも、弱くもない。

今日、自分の信頼の低さを感じる出来事に遭遇したが――だが、それも、業務として考えれば、何ら間違ってはいないと断言できる。私がむしろ、躊躇することだ、だから、なおさらに、尊敬すらできる。当然、私は、「傷つくべきだ」。

だが、「当然」である、そういう事態だ。ここに、私の感情は必要ない。何故ならば、業務に本来感情は余分である。

私は思うに、楽しい仕事というものを一切想定していなかった、だが、それは、単調な仕事が面倒だとか言う、その次元の話しではない、私はもっと過酷なものを想像していた。
感情がついえ、身体に不調をきたし、何も動けなくなったらそれでいい、ようやく私の「勝ち」だ。



だが、それすら、唯一の希望である自虐すら否定された――そうなれば、私は生きているかどうかも分からなくなる。
私という人格の否定――構わない、そう思っていたが、幾分に堪える。

大分痛みになる事象だと気付くが、それすら処理の範囲内であるとしたとき、――結局、私は、「鬱」なるものを既に一切信じられはしないのだ。その人が自殺してしまえば、ようやく、「つらかったね」と、一言――たった一言、搾り出せる、冷酷な人間――そこまでしないと自我を保てない、弱い人間だ。


つまり、ここから読み取れるのは、強い人間ほど弱いという逆接、つまり、なよなよしていた方が実はしぶとく生き延びる、これはエンターテイメントでの鉄則でもあるが、あながち非現実的でもない。


私は、失ったとしても、それは、自らのせいとすべて帰属する――これは正しいかどうかの問題ではなく、むしろ処世術的に維持する方策でしかない、ゆえに普遍性はない。

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子は親を選べない、が
2010/12/12 23:59 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
 パン屋さんでの話だ。 

タイムセールで、レジ前は長蛇の列。私の横にも商品が置いてある。 

後ろの男の子(小学低学年くらい)=S「あのパンだよ」 

S父「どれだよ」 

S「人が並んでるから取れないんだよ。並びながら取るよ」 

S父「だからどれだって言ってんだよ」 

S「あの、ガーリックパン、130円の奴だよ」 

S父「とってこい」 

S「でも、人が……」 

S父「いいから取って来い。お父さんがいるから」 

Sくん、しぶしぶ私の横に無理やり入ってきて、手を一生懸命伸ばしてガーリックパンを取る。 


――列が進み、レジの近くまで来た。 

S父「空いたから、あっちのレジに行きなさい」 

※レジは二つ。だが、一つの列で、順番に、空いた方の列にいく状態。そうすると、もし奥のレジが先に空くと、順番は私の番だけれども、Sくんがあちらのレジに行くと、仮に奥のレジが先に空くと、私の順番が飛ばされる。 

S「ダメだよ、順番だよ」 

S父「いいから行って来い」 

S「ダメだってば」 

俺「あんたね、子どもの方が常識あるってどういうこと? せっかく子どもがまともに育ってるのに、あんたの悪い教育のせいで、この子の道徳性がひんまがったらどうするつもりなの?」 

――と言いかけて振り返ろうとしたら、手前のレジが空いて私の会計の番になった。 

追記だが、「悪い教育」という言葉もおかしいと思う。教育なんてもんじゃないだろう。 

追記だが、イートインスペースで、S君の父親は、「S、お父さんの分のお茶ももってこい」と命令していた。S君は、文句もいわず、黙ってお茶を用意しようとしていたが、その父親は、「返事しろよ」と怒鳴っていた。 



――思うに、悲劇は、子どもは親を選べないことではないか。 

――というのは一般に言われることだ。しかし、よく考えれば、親だけではない。自分の出自など選びようが無い。 

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愛を語る不届き者
2010/11/15 00:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
真に愛している者は、愛について語らない。
ある愛している男がいる。彼は自らの彼女に、自分は如何に貴方を愛しているのかと雄弁に語るのである。
彼女はそれを聞き、夢見心地にうっとりとその言葉の流れに身を任せるだろう。
その当人たちを包む愛という形は、見まごうことない真実の愛である。
だがしかしながら、一つ間を置いてそれを見る者の目には、欺瞞しか写らない。
愛は、語るものなどではなく、現にそこにあるものだからだ。
愛に説明など必要ない。愛は、愛であるがゆえに、愛であるのだ。
実のところ、愛を熱烈に語る者は、その者自身、愛していないのである。
敬虔なキリスト者は、神の存在を疑わない。
ある牧師が神について何らかの証明をしようとしたとき、牧師の信仰は欺瞞に包まれる。
即ち、真実はそこにただあるがゆえに真実なのであって、真実を認識しようとした瞬間に、真実は消えてなくなるのである。

呪われたものは、真実の消えた虚無の世界に貶められる。
デーモンの仕業か、否、信仰をなくした哀れなるものへの神の怒りか。

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呪いと世界との関係性について
2010/11/14 23:14 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
気付いたら、本心・本音・「本当の自分」なんてものを失っていた。 多元解釈の呪い、それは、既に自分自身にも及んでしまったのだった。 彼は、彼という存在を信じられない。 感情――それが、効率よく他者と協力するための機能であることを知ったとき、彼は、その機能の欠陥を思った。 しかしながら、彼に対して、強烈な楔を打ち込むことも可能である。 貴方の考える理解というものは、貴方の幻想に過ぎないのですよ、と。 彼の狂気に満ちたその言動は、彼の目に映る魑魅魍魎がゆえに。 しかしそれは、誰の目にも映ることはありえないのである。 彼は、呪われた自分を呪った。 しかしその時彼は、まだ本心というものをもっていた。 彼が、自己を失ってしまったのは、自己を縛る呪いすら相対化してしまったからだ。 ここで彼は、劇的に変化を遂げる。 彼の世界には、主観も、客観も生じなくなる。 ただ、その時、そのものすべてが世界なのであって、即ちそれが自分自身なのである。 世界は傍若無人な絶対者から転じ彼自身になった――否、彼が、世界の一部に溶け込んだのか。 解説 「胸毛すっきりしたい!」  彼は思い立った。  果たして、胸毛をすっきりさせて、自信をもって女の子に告白をする。女の子は、二つ返事で喜んでくれた。自分も、天にものぼる幸せをかみ締める。  しかし同時に彼を襲う思考がある。 (俺は、胸毛をすっきりさせて彼女をGETできた。しかし、本当の俺は、胸毛がボーボーだ。俺の彼女は、「俺自身」を好きになったのではない……)  彼は、我慢ならず、胸毛を元に戻した。否、前にもましてひどいボーボーである。即ち彼は、最低の行為をしたのだ。彼女を、試したのだった。  しかし彼女の反応は、驚くべきものであった。 「ケイくん、そんなこと気にしてたんだ。バカだねー。わたし、毛、こゆい人、好きだよ」  口元に手を当てて上品に、などということは全くなくて、彼女は、本当にふきだしていた。  その、女性としては少しはしたない姿を見て、彼は安心したのだった。  ところが、既に、彼は手遅れだったのである。  彼は、彼女を、胸毛ボーボーの自分でも愛してくれる存在、としてしか思えなくなったのである。即ちこういうことだ。彼は、変化する自分自身に気付いてしまったのだ。同時に彼は、自分の多面性にも気付いてしまう。  あろうことか、ついに彼は、彼女すら疑ってしまう。  心を穏やかにしてくれる彼女の笑顔。――それが、張り付いた冷酷な嘲笑である可能性を、彼は否定できなくなった。  彼女といくら身体を重ねあっても、いくら千の愛の言葉を交わそうとも、彼は彼女を――否、流転する自己そのものを、到底に信じられなくなったのであった。  本文は、その後のお話です。誰の? ケイくんの、です。

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幸福について
2010/02/09 21:19 | Comments(0) | 思考及び書くこと

書かねばなるまい、そうした、強い強迫観念のようなものに突き動かされて書く文章ほど面白い。

しかし、それが独善に陥っている、と感じられてはならない。

――独善? 自分は「善」だと思うこと、もしそうであれば、独善など畏れるに足りない。

おそろしいのは、根源となる、足場となるものが何もないとする思考である。


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