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過去の記事と日記という媒体
2016/10/10 07:09 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先日の記事で、GOMAさんの本を買って読んで、日記が、苦悩よりもポジティブな表現ばかりで、現実味がなくて不満だったと、そんな風な事書いた。

じゃあ自分は、ちゃんとその「苦悩」なるものを表現できてるのか、と思って、過去の、ローカルなものも含めて探して、読んでみた。うーむ……読むにたえない、が、確かに、よくまぁ、飽きもせず書いていたものだ。先日の記事で、仕事の論文は書けないが、くだらない記事ならいくらでも量産できると豪語していたが、まぁ、それは嘘ではなさそうだ、何の意味もないけどな!


先週の木曜日ぐらいから、のどが痛くなり、体調が悪化。少し買い物にはでかけたが、三連休は殆どを家の中で。早めに寝たせいで、目覚めは0:30ぐらいだった。しかし、それから、いろいろ整理したり、ポイントになりそうな記事を投稿したりしていたら、もう5時間過ぎたのか。はえーな。本当は、仕事終わらせて、ゆっくり余暇を過ごそうと思ったのだが。

ただ、今回ばかしは、まぁ、少しは、仕事とも関係ある。やっぱり、自分の生き方ってのを、しっかり見つめなおさないと、どうにも、言葉が全く出てこない。

夜明けの時間

こうして、朝早く、もはや朝なのか分からない時間から起きて、遊ぶでもなく、文字に触れていると、受験勉強していたときや、大学のレポート作っていたころのことが思い浮かぶ。
そういや、そんな家で、自分を追い込んで何かするなんて、もうここ何年もなかったな。会社で日付変更までいることは何度もあったけれど、それとこれって、全く違う。

漫画で学ぶ人生訓、みたいなサイトで、MAJORという野球漫画で、「いいんじゃないかお前が努力したって思えるなら。努力なんて、人から言われてするようなものじゃないけどな」みたいな台詞があって、うひゃぁと思ったけど、まぁ、そういうものだと思う。

仕事は、やらなきゃいけないからやっているが、受験勉強なんて、ありゃあ、確かに、「やらなきゃいけない環境」というか風土というか圧力は確かにあったが、別に絶対なわけではなかった……と書きながら、やっぱり、自分の中では絶対的圧力があったな、と思う。

100時間残業で過労死した東大卒の20代の女性について、かわいそうだなぁと思いつつ、その本人と思われるツイッターで、他人をバカにするような発言があったりして、あんまり共感できねぇなぁと思いつつ、それと過労死はやっぱ別だよなと思いながら、複雑な感情になった。
この複雑さが、法律とか、裁判の判決と世論とのギャップだったりするのだろうなぁとか、またしても一般論というか、人ごとに頭が切り替わっていくのをグッっと戻し戻し。

家族のこと

過去の、ローカルな記事読んでると、家族のこととか、話題にたまにあがる。
あんまり、公開の日記に書くのはなぁと思っていたが、先日好きだったおじいちゃんが亡くなったとかも書いたし、まぁもう解禁だろうとのことで、昔、初孫ということですごく自分を可愛がってくれたおばあちゃんが、認知症で、僕のことを分からなくなっていて、ショックを受けたみたいなことも書いたきがする。

GOMAさんの高次脳障害ではないが、認知症は新しいことを覚えられなくなる。
恐らく、僕の姿が、完全に「おっさん」になっていたから、子供のころの愛らしい姿しか記憶になく、僕のことをもう分からなくなっているのだろう、という持論。

そんな持論でいたからか、先日、夢をみたとき、病室で寝たきりになって、何も分からなくなった祖母に近寄り、僕だよ、と、自分の名前をいうと、何度も何度も僕の名前を読んでくれて、僕が好きだったお寿司屋さんに連れて行こうとしてくれた……そんな夢をみた。

さらに、これも書いた気がするが、結局、認知症とは、「死の恐怖」への心の対処なのではないだろうか、と。

考える生き方の著者は、55歳になって、もう、自分が若くないのだということを、鏡をみた自分からも実感するようになったという。




もう、心がどうこうじゃなくて、自分の身体が完全に、若くないのだと自覚し、さらにそれが進んだとき、自分が、よぼよぼの老人だと実感する。

そのとき、必ず、徐々に大きくなるのが、「死」についてだ。

確かに、僕の昔の記事を見れば、「死」についての表現が出てくる。
しかし、それは、若い身体をもった僕のとらえるそれと、もうすぐ終わりを迎えようとしている身体から生じるそれとは、全く異なるものだろう。

認知症は、最近のことが分からなくなる、それは、いやおうなしに突き付けられる、老、死という現実を、「理解」させないための、心の防衛機制なのではないだろうか、と。

介護のこと

「極道ヘルパー」というドラマがあった気がするが、介護の問題は、他人ごとではない、とはいえ、そんなこと、若い子供たちに教えたって、「実感」が伴わない「知識」に過ぎないだろう。

現実問題として、例えば、自分の親を介護していて、しかし、もはや自分のことを、どっかから派遣されてきた介護の職員としか思ってないとしたら、そんな悲劇ってあるだろうか。
この前、アリは、アリとしての生き方をすべきであり、それが人間について憧れをもったら悲劇だと書いたが、今度は逆に、「分からないこと」が悲劇だ。

無償の愛?

ここまで育ててくれた恩?


人間の善性を信じることは大事だと思う、が、そんなもので制度をつくっていては、社会主義や共産主義のように凋落することは目に見えている、いや、資本主義が至上というわけではないけれども、やっぱり、人間って、善悪両方持ち合わせているわけであって、見ず知らずの人よりは自分の家族の方が大事なわけで。

しかしその大事な家族が、自分のことをもう認識できないとしたら。

ドラマなんかでは、一瞬だけ記憶が戻って、感動的な場面を描くのだろうが、365日中の1日だけそんな時間があったところで、焼け石に水的な、賞味5分の感傷にしかならないだろう。

おいおいマイナス思考過ぎないか

物語が必要だ。
物語?
それは、絶対にハッピーエンドになるソレか?

そう、人生は物語である、個々に意味はない、けれども、その意味を自ら選び取って、ハッピーを掴むのが人生だ。

幸せ、なんだそりゃってことを、なんとまぁ、10年前ぐらいから既に考え始めていたってのが、さっきまでの整理で分かった。

どうやら、そのころの自分としては、大好きな人ができて、その人と楽しくイチャイチャ幸せに暮らすんだ、みたいな、小学校高学年女子の結婚願望みたいなものを信じていたようだ。

実際問題、童貞野郎としては、そうした愛する人とともに歩む人生ってのに、憧れを抱くものだろう。灰色だった高校時代も、彼女がいたらきっと明るかった、みたいな、そんな無いものねだりだ。

でまぁ、結果から逆算して書いていけば、彼女がいないから不幸なんだ、自分に満足できないんだ、人生がつまらないんだ、でも彼女ができない……死のう、いやいや、どうせ死ぬなら、せいぜい足掻いて、100人くらいナンパして頑張ってから死ぬって選択肢でいいだろうと、結果的に彼女ができて、わーいハッピーと何か月かはなって、しばらくして手痛い失恋して、うわーもうだめだやっぱり俺なんかダメダメ人間なんだーと落ち込んで、いやいややっぱり、好きなことして頑張ってキラキラ輝いて女性と付き合って結婚して幸せになるんだーっていって、実際結婚して、わーいわーいめでたしめでたし~としばらくして、結果的に性格の不一致、離婚、と。

な、なんだってー!(かっこわらい)

こうやって書いてみるとギャグだなぁ。 

目標設定・目的設定

まず、端的にダメなところは、例えば、「彼女つくる」とか、「結婚する」とか、それを目標・目的にしていたところだ。

就職するってのもそうだ。

もっとさかのぼれば、受験勉強の時代も、「大学に合格する」って目標もアホの極みである。

いや、「目標」としてはいいのだ。

目標とは、具体的に、数値化できる達成すべき到達点のことだ。
であれば、テストで何点とって、志望校に合格するってのは、アリだ。
3人に声かけて、デートして、彼女つくって、3年以内に結婚するとか、それもありだ。


が、これまで、まぁプラス面もあるとか、経験もまた重要だとか、そんな慰めの言葉を一切とっぱらって、俺の人生すべて失敗だらけだったとして、その原因は、としたとき、一つ、今、思っているのは、思えたのは、「目的」設定のなさ、だ。


目標を達成することは、これまで、失敗なく、よくやってきた。
素晴らしい、その点は褒めてあげよう。

だが、過去の記事、ログ、日記読んで気づいたが、コイツ(自分)は、本当に昔から、「目的」ってもんがなかったんだ。空虚な、操り人形だ。
目的がなく、目標だけをこなす機械人形。ロボット。

目的を設定するとは

まぁ、こう考えると、よく目的もなく、これまでやってこれたわけだ。
内的欲求とかよく分からないままきたもんだ。


で、なんでこんなことになったんだ、ってのを考えると、さきほど投稿したのよりもっと古いログを読んだりすると、やっぱり初恋がうまく実らなかったことに起因するんじゃねぇかなぁって思う。

ここらへんの表現は、新海誠先生の作品がよく表現されている。最新作の「君の名は」はみてないけど、秒速5cmはひとり身の時(今もだけど!)見て、うわぁっと鬱になったもんだ。

こんな、初恋に今も恋い焦がれてます~みたいなこと、とてもじゃないけど恥ずかしくて、誰も書けないはずだ。僕も書けない。いや今書いてるじゃないか、そう、これは、一応彼女ができたという事実があるから書けるのだ。この点で、身体も然り、経験もまた、思考と密接に関連していることの示唆である。
それと、さすがに、もう初恋の人の顔もよく思い出せないし、その人の名前を思い浮かべても、特段なんの感情も生じなくなっていることも一つだろう。


しかし、それはそうと、その、「本当に欲しかったものが手に入らなかった」という経験は、深層心理、潜在意識のなかに深く刻まれているのだろう。

この辺は、EDENという作品のなかで、あるマフィアのボスにまで上り詰めた女が、自分の身体で子供が生めなくなって、そのことを回顧する中でよく表現されている。


とはいえ、初恋が実らなかった人全員が、じゃあみんな目的を失ったゾンビみたいな生き方をしているかというと、そんなはずはないだろう。だから、それは単に一つの要因に過ぎず、もっと様々なことが起因しているのだろう。

ただ、確信していいのは、大体その辺の「思春期」的な時代において、人格形成がなされたのではないか、ということだ。

人格形成

ただ、うーんそうかな、と少し疑問でもある。
正直、中学生ぐらいの、自我が芽生えたあたりの思考からして、あんまり変わってない気がする。

この辺りを、「考える生き方」の著書の中で、時間の停滞といった表現があって面白いと思った。
55歳の著者は、36歳で結婚するまで、自意識的にずっと25歳だったという。大学院を卒業したあたりの意識をずっと引きずっていたのだと。
結婚して、異なる身体をもつ相手と性的な生活も送っているうちに、人格的にも歳を取ったのだと。


なるほどなぁ。


思うに、先日書いた通り、「思考」をアウトプットするのは、かなり言語表現に歪められるから、結局、過去の記事や文章を読んだところで、その「感情」的なものは、中々読み取れない。

だから、「何歳のときに」「どんな状況のときに」書いたのか、というのが、結構重要だと思う。

そういう意味で、最初、「考える生き方」を読んだときは、その文章を中心に読んだけど、その奥にいる、55歳の作者を考えたときに、この本ってやっぱり貴重だな、と思った。


結局、過去の自分の記事とか読んで、あー同じこと書いてるな、ってのは(その過去の記事の中に、まさにそのさらに過去の記事を読んで、あー同じこと書いてるなって書いてあって、合わせ鏡みたいで吹き出してしまった)、それを読んだ自意識によって、都合よい解釈によって、「ああ同じだな」と感じさせているのかもしれない。


先日、俺はプログラミング少しできるんだぜ! って書いて、非常に恥ずかしくなって、ああ、この記事投稿したくないなぁと思いながら、いや逆にここで投稿しないことが「逃げ」でしかないだろうと思った記事、そのときは本当に嫌だったけれども、今読んでみると、まぁ、それほど嫌悪感はなかった。

過去の記事の多くは、目を覆いたくなるようなくらい恥ずかしいものでありながら、まぁ、そういう時代もあったんだな、とどこか他人ごとのような感覚すら覚える。


と、ここまでで1時間か。

中断

取りあえず、目と身体を休めようか。0時30分から、活動して、基本、午前中は、4時間しか仕事をしなくていいんだ。昼休みがあるだけでましな会社だとかいうのもあるかもしれないが。

そう、そういった、いろんな言説。

そういうのに、かなり惑わされていた自分は、確かにいた、それは愚かだった。もっと好き勝手やってもよかったんだ。
人間関係とか、ブラック企業とか、生涯未婚とか、どうでもよかった。

そんな目先の問題なんかより、もっと、もっと深く、もっと真剣に、その、自分の、自分自身の、人生の、生きていることそのものの、その意味を、ちゃんと、考えればよかった。


いやいやいや、まてまて、そんな、感動的な終わり方にしてどうする、そりゃあ違うだろ。
それは、今にして思えば、思考が足りてなかった部分があるかもしれない、ただ、そうじゃないだろ。その頃の自分は、自分で、過去の記事から好意的に読み取れば、確実に、必死に考えていただろ。
それを否定してどうするんだよ。

逆に、その、考えた結果として、まさに、認知症、ボケとか、「死」という問題があるのであって。


考えに考えた故に、ああ、やっぱり、その未来とは、人生とは、終わりにゆっくりと、着実に近づいていくのであって。

にもかかわらず、ろうそくの最後の灯、輝かしくあろうとするその意志……


物語が必要だ。

ああ、もったいぶって、次の記事に書こうとか思ったけれども、もう、最後まで書いてしまおうか。

カバネリ最後までみた

昨日、「甲鉄城のカバネリ」を、全12話、見終わった。

うーむ、気分が晴れやかな時だったら、「面白かった」とコメントするところだが、残念だった。
間違いなく、1話目は面白かった。2話目、3話目もよかったが、しかし、徐々にその面白さが薄れていった。
VIVA!様(黒幕・敵)が出てきたあたりから、徐々に受けいれられなくなっていった。

それに最後、主人公を助けやがって、なんじゃそりゃ、悪なら悪を貫けや! いやそもそも、父親自分で殺しておいて、殺し終わった後、過去の、父と馬を駆けた郷愁なんて頭によぎらせやがって。自分を慕う綺麗なお姉さんもバケモノにして最後あっさりと殺すし! まぁそれはそれでいいけど、その戦う理由も、父に嫌われて初陣で補給絶たれて死にかけたとか、まぁそりゃあ恨みもつだろうが、関係ない領民まであっさりカバネに喰らわせるとか非道な癖に中途半端なんやオメーはよ!! 

うーん、そういう意味だと、この作品の存在を教えてくれた方の作品の方が、読了感よかったし、人物のつくり込みというか、設定もしっかりしてたと思う(すげー上から目線だ!)。

設定、という意味だと、結局ゾンビたちと人との争いで、ゾンビと人とのハイブリットが活躍するって話で、あんまり目新しさはない。いや産業革命後に発生したそのカバネというゾンビに覆いつくされて、蒸気機関をもとに発展した日ノ本の世界観というのは面白かったし、映像がきれいでよかった。城と呼ばれる機関車もかっこいいよね、最初の登場シーンとか、血みどろにぐちゃぐちゃカバネを轢き潰していく場面とか圧倒的だったし。

最初がよかったがゆえに、期待値があがりすぎてダメだったのかなぁ。


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カバネリとGOMAさん
2016/10/09 12:04 | Comments(2) | 思考及び書くこと
タイトルは、これから書こうと思った内容のメモであるけれども、そのうち、書いていると、書きたいことが変わってくることは多くある。

そして、仕事の一環で、仕事に関する論文を書かなくてはならなくなったのだけれど、いざ、何か書こうとすると何も書けなくなる。このブログに載せてある記事以外にも、ローカルのものを含め、非常にたくさんの文字を書いてきた。それでも、「書かなければいけないこと」については、何も書けないのだと、自分の能力のなさに愕然とする。

論理的思考力と、こうした、ダラダラとした、ぐちぐちとした、カオスな文字とは、全く異なることなのだ。
だから、いくら文字を書く量を増やしたところで、お金を稼ぐ能力には何ら繋がらない。

……と、ここで思考を止めてしまうことも可能だ。「だから」、論理的思考力を高めるような文章を沢山練習するべきだと。

これに対して、「否」と、僕の心は言った。「こころ」とか、赤面するような表現だが、それでも、仕事に対する率直な思い、例えば、専門的な知識を身に着けようとしないで、日々のルーチン業務で満足し、自分の仕事だけに固執し、周りを助けて、組織全体がよくなるように考える人が少ない、いわゆる一般的なコンセプチュアル(概念)化スキルが重要だとして、現場を見ようとせず、深く考えようとせず、場当たり的で、分からないことを恥とも思わず……。

驚くほど、言葉があふれてくる。正直、今も、これほど長いことを書こうと思ったわけではなかった。
アウトプット。このアウトプットは、「恐怖」によって抑圧される。

つまり、「こう言ったら、こう思われるだろう」という、他者を気にする気持ちだ。
この気持ちは、良い言葉で言えば、「思いやり」と表現することも可能であって、人として、前頭前野が発達した人間にとってなくてはならないことだ。前頭前野なんて言葉を織り込んだが、論文的には不要である。僕の言いたいこととも異なる、ただ、記憶の定着として、使ってみただけだ。こんな表現も不要だ、しかし、この「不要さ」こそが、本当の表現したいことに繋がっているのではないかと思う。

ゼロ秒思考

思いついたことを、そのまま表現するということは、不可能である。それは、何らかの方法、例えば、録音であっても、文章であっても、思考として生じたことを「表現する」(=アウトプットする)ことによって、何らか歪められて……歪めるとは悪い表現に思えるが、そうではなくて、何らかの整形が行われているという意味である。

前に、自分の記事の中で、面白いと思ったのは、「思考を表現するというのは、真実と虚飾とに苛まれることである」とか、……なんか違うな、やはり、ふと思いついた表現は、「記憶」として定着していないのだと思う。ちょっと調べてみる。ああ、これこれ、
自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。

そう、何故、最初に書いた、論文的なのに対して、何ら言葉が浮かばなくなったかというと、「良いことを書こう」「上司にウケる文章を書こう」「共感してもらえるものを書こう」と、「自分本来の気持ち」から離れたところに「思考」が生じたからである。

本来、文章とは、まさに、自己の表現なのであるのだが、往々にして、学校の作文の授業でもなんでも、「書いていけないこと」「書いていいこと」の指導となってしまう。
朝起きて歯を磨いてトイレに行って学校に行って時任くんと話しをして帰ってハンバーグを食べて9時に寝ました、という日記は、読んで何も面白くないということは、小学校で初めに学ぶことであるが、しかし、その「記録」が果たして無駄かどうか、そこをよく考えるべきだ。
いや、その書いた本人が、「何か日記を書きなさい」という宿題のために無理をして書いているのであれば、ゴミでしかない言葉だ。しかし、日記とは、自己の記録としての意味をもっているはずだ。

ディジュリドゥ奏者GOMA氏の本






『失った記憶 ひかりはじめた僕の世界 ―高次脳機能障害と生きるディジュリドゥ奏者の軌跡2016/8/1』

を読んだ。
GOMAさんがどんな人かは、
http://www.cinra.net/interview/201608-goma

↑こちらの記事を読むと分かるし、本の内容についても、ある程度記載されているから、僕の感じたことを書く。

この本の存在と、この方の存在は、先日、あるブログで、とても面白い(面白いという言葉はときに侮辱となるが、僕の頭に最初に浮かんだのはこの表現だ、じっくりと、相手に不快な気持ちにならないような表現を考えることはできる。ただ、その行為自体はまさに、この記事で書こうとしていることそのものに反するのである)記事を沢山書いている方に出会って、その方の記事で取り上げられていたものだ。

興味を持って、早速購入して読んだ。
本は、GOMA氏が事故にあってから書き始めた日記が中心だ。日付と、その日記内容が書かれている。
日記はほとんど、手書きだったというが、殆どは活字化されている。時おり、手書きの、たくさん修正が入ったような、真っ黒な日記原本も掲載されていて、こちらのリアリティは強く感じた。

故に、活字化されているがため、その「現実性」というものをあまり感じられなかった。

が、時おり挿入される、GOMA氏の奥さんの日記が、重要な役割を果たしている。


僕が非常に気に入ったブログ主さんが取り上げてくださっていた方の本なので、あまり批判的なことを書くのはどうなのかと、悩んで、この記事を書くまで時間がかかった。しかし、仕事の論文のことと相まって、やっぱり、もう、思ったことを無理やり捻じ曲げて、誰かに合わせて生きてくってのは、「いやこれからもそうやって生きていくしかないような気がするけれども」、せめて、このブログの中ではやめようと、思ったのだ。

そう思ったのは、反転して、GOMA氏のその日記集の本を読んだためでもあった。


それは、複雑な思いだ。というのは、そもそも、彼の本に不満をもったのは、その言葉の大半が、「ポジティブ」「前向き」「他者への感謝」「生きていることの喜び」であったからだ。
妻や娘に支えられて、去っていった友人たちもいるなか、ずっと向き合ってくれる友人に支えられて、新しい記憶がほとんど覚えられない中、社会復帰のために、身体のトレーニングや、ディジュリドゥの練習、ライブや絵画の個展、映画化に向けた目標・目的を定めて必死に努力していく姿。素晴らしい。素晴らしいゆえに、僕は感動できなかった。共感できなかった。

しかし、最後の方になると、この日記群は、新しい記憶ができないが故の、外部記録装置としての意味、即ち、現時点の自分としては、過去の自分が思い出せないから、その過去の自分から今の自分への、「頑張れ!」というメッセージなのだという、そんな表現を読んで、なるほど、と思った。

恐らく、彼は、やはり、相当苦しんでいるのであって、だからこそ、体の痛みや、脳の機能しない自分自身について、何でこんな目にあうのか、消えてしまいたい、逃げたいという思いで、体や頭を覆いつくしてしまうのだろう。だからこそ。
だからこそ、日記を書くことで、それを読み返すことで、前向きに、頑張れ、みんな応援してくれている、自分一人じゃないんだと、そう言い聞かせるようにして、一歩一歩進んでいるのだ。



それが読み取れたからこそ

だからこそ、不満だったのだ、僕は、もっと、その苦悩の表現をしっかりして欲しかった。いやしかし、今まさにこう書いた表現が、多くの人に「キモチワルイ」と印象を与えるだろうし、そんなマイナス思考的な表現を出版するなど、ほとんど意味のない、デメリットばかりなことだろうので、望めぬことだろう。
その点で、唯一、妻の日記は、客観的な視点からのもので、ほとんど、GOMA氏彼の言葉からは読み取れないのだが、爆発的なエネルギーが生じて暴力的・感情的になりがちなGOMA氏のことをしっかり書いている。同じ人物に対しての内容なのに、彼自身から見える世界と、奥さんから見える世界が異なっている点が面白かった。

要点

って、なんだこの感想。面白かったのか面白くなかったのかよく分からないが、一つまとめておけば、

いらないもの捨て去って、自分自身として生きることの大切さ

というのは感じることができた。
GOMA氏の障害は、はたから見ると全く分からないので、実際会話してみたときのちぐはぐさなどで、「あれ?」といった印象を与えるのだろう。だから、そうした、他者に変な目でみられるとか、上手くコミュニケーションとれないのでは、といったそんな思いで、社会にでていくのが、復帰するのが怖かったと書かれていた。でも、そんなことに恐れていてはダメだと。

僕はGOMAさんのようにイケメンでもなければ愛する守るべき生きがいになる娘もいないから分からないけれども、ただ、その生き方、姿勢というのは、共感というか、そうあるべきだと、実感として思った。

というわけで、仕事の論文も、どう感じられるかとか、評価がどうかとか、そんなこと関係なく、「本当の自分の思っていること」をベースに書こうと思う。一応仕事なのだから、「論理化」はするが。

で、その論理化するにあたって、そのベースとなる要素、カオスな言葉の群れは、やはり、ゼロ秒思考でどんどん作り出していこう。

カバネリ

ああ、やはり、書いているうちに最初の予想と異なっていく。
本当は、「甲鉄城のカバネリ」の感想と、GOMAさんの本の感想とを、半々ぐらいに書くつもりだったが、取りあえず時間切れだ。

取りあえずメモとして、この作品も、とある非常に面白いブログの中で紹介されていて、気になってみてみたのだ。アマゾンプライムで見れるぜという情報も後押しした。もう1、2年前になるだろうが、アマゾンプライムの無料期間みたいなのがあって、それで申し込んだら、あまりの便利さに抜けさせなくなってそのまま会員だった。
最近、映像も無料で見れるらしいことは分かっていたけれども、特に気にしていなかった。
けれども、意外に映像きれいだし、ストリーミングも早いし、やるじゃんアマゾンプライム、と思った。

いやそんなことじゃなくて、カバネリの作品のことだ、いやこれ面白い。取りあえず1話みて、久しぶりに最後まで見てみようという気にさせてくれた作品だ。攻殻機動隊ARISEも面白いが、その面白さは、ある意味予想内の範囲で、十分ではあったが飛びぬけてはいなかった。
やっぱり、原作のアニメーションじゃなくて、オリジナル作品ってのは、ストーリーや映像構成からアニメーション用に考えられてつくれるから、面白い作品がつくれるって、コードギアスの監督さんだかが言っていた記事を最近読んだけれど、なるほどなーと思った。

最後までみたらまた感想でも書こうかな。





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現実以外のものの価値のなさ
2016/10/03 21:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
あるアーティストが、インスタグラムかなにかに、ポエミーなことを書いたら、女性のアイドルから、何が言いたいか分からない、気持ち悪い、と言われたとのことだ。

今思い描いてた28歳には程遠い、消えてしまいそうなものを追いかけるだけではダメだったのかな、なぁ自分よ。


的な内容とのこと。あはは、その程度で気持ち悪いなら、このブログ、ほとんどエイリアンとか汚物のような気持ち悪さだろう。

別にそのアーティストを擁護するものではない、多くのファンがいて、とっかえひっかえ女性と付き合ったりしていたとのことで、このリア充が! と、切り捨てる。興味もない。

ただ、こうした言葉ってものが、いわゆる他者とのコミュニケーションの目的のみにとらえるのであれば、分かりにくい表現はすべて唾棄すべきものだ。

思考だって、現実をよくするためだけに使うべきだし、愚痴的な表現はなんら必要ない。


そんな、唯物的な思考を、否定する気はないが、俺には選択できないし、そしてつまらないと思っていた。


ところが、あるブログにおけるコメントを読んで、とても面白いと思った。


アリのたとえ



アリは、餌のために努力し働く。そのアリを見て、人間は、何かむなしさを感じたとして、それはもっと大きな意味というものを求める心性なのではないかと。


なるほど。虫が好きでない僕はそんなアリなんてじっくり見たくもないが、確かに、ありが必死に、死んだ蝶の死骸を巣に運んでいる姿など、そんなことして何になるのかな、と、そんな無常さが思えるかもしれない。



思うに、アリは、自身が、自身の行動が意味あるものなのかなど、考えもしないだろう。きっとそんな脳機能はない。
が、しかし、万が一そのアリが、自己の、自我の、自分自身の存在を思ったら、どうだろうか。

それほどの悲劇はないのではないか。


アリは、思考があろうがなかろうが、アリでしかない。その身体的な限界性は、何があろうと覆らない。
しかし、そのアリが、他の虫の、例えば蝶の羽ばたくのに憧れたり、人間の巨大な身体に憧れたら……

自分の矮小さ、その理想的な自己と現実の自己とのギャップに絶望してしまうに違いない。


努力至上主義



勝間さんと、香山さんとは、正反対で相容れないという。勝間さんは、努力で幸せを手にいれるのが人間的だといって、香山さんは頑張らない生き方もあるのではといって、双方が歩み寄ることはない。

前々から僕が書いているように、この、頑張る頑張らないとか、幸せとか不幸せとか、そんな相対概念自体つまらないしくだらないということ、それは前提とし、念頭においたまま書いていけば、努力や、ストイックさは、人生を楽しむに当たって必要なことだ。

一方で、例えばアリが、人間の生活に憧れるのは、悲劇的でいずれ絶望の淵に貶めることである。




と、僕は、そのブログをみて思った。
アリの生き方か。なるほど、自分の思考からはきっと何十年たっても浮かぶこどなかったろう。
やはり、他者に触れることは非常に重要だ。

しかし、やはり、冒頭にもどるが、リアル世界においては、こうした価値観や思考は、気持ち悪い、と両断され打ち捨てられる。

徐々に現実に価値が見いだせなくなっていくような哀しいこともよぎる。


以前書いた、僕を救ってくれた人の一人は、多いからね、現実が嫌いな人……といっていた。

その意味するところを突き詰めてきいてはいないが、それは反語的な使用なのだろう、すなわち、現実を嫌いになっても仕方がない、おろかだ、ということなのだろう。



僕はずるいので、ここで、この現実を、こうして二次元的に表現することも含めて、現実に他ならないとする。
そうすれば、その方がいう現実が嫌いな人にはならない、という作戦だ。


人の善性は、それはまた真理である。負の側面だけに目を向ける必要はない、同時に、プラスだけでもないのだが、そもそも、クオリア的に他者の存在など、その存在が実在しようがしまいが、結局その他者は自らの思考の結果の生成物であるとの立場にたてば、結局、他者はどこまでも信じ続けるしか現実方策はなくなる。

分かりやすく下らない例えを書けば、この仕事終わらせてくれたんだね! ありがとう! と、言われたとき、相手に、ちっ、余計なことを、後で俺がやっとこうと思ったのに、とか思われていないだろうか、なんてことを考えるのは、その推測がエラーだろうが正解だろうが、そんなのどうでもよくて、感謝してもらったと、素直に喜んでおけばいいのだ。


裏切りの所在



騙されることなんてない。裏切りなんてない。

そう言い切った人が、例の僕の思考面に影響を与えた、現実界にはいなかった人だけど、そのときは、ぶっちゃけ、よく分からなかった。
今も、それは、実感レベルとしては分からない。


けれども、今なら、その、意味するところは分かる。


もし、裏切られたとか、騙されたと思ったら、それは、自分の、その考えや感覚が不十分だっただけだ。真実を直視せず、都合のよい世界をみていただけなのだ。

人の存在は限りなく真実であり、先般書いたように、他者もまた意思を持ち感情をもっていることも事実なのだけれども、それでもなお、世界は、どこまでいっても、自己に限定され続けるのである。



マナシキとアラヤシキ



そこで、仏教の惟識派は、自己に執着する意識を、マナシキと読んだ。
でも、深層のアラヤシキでは、アカシックレコードのように、全世界の全人類の記憶が蓄積されているのだ。


現実の些末性



ああ、しかし……、このブログなんの意味あんねん、という、ふざけた思いがよぎる。

なんだか、到底、誰か自分以外の人に、面白いとか、それが、嘲笑だったとしても、役に立つとか思って頂けなければ、本当に書く気力がなくなる。



と、思ったのは、感情エラーだと思う。

きっと、僕はどこかに、愚痴を吐き出したいのだ。でも、現実世界では、気持ち悪いと言われるから、人知れず、インターネットの辺境で、愚痴愚痴と暗がりで、孤独にいい続けるのだ。


だから、人がみてくれようが、そうでまいが、関係ないのだ。


本当にそうか。




話がかなり、ぶったぎれてるが、思うに、ここが、最後の場所になりそうだ。

この場所が、何らかでなくなったとき、もはやローカルのログしか残されてないだろうが、きっともうそれでは、満足できないだろう。


このずたぼろな記事が、誰かの目に止まって、100人に1人が面白いとか役に立つと思ってくれる可能性、可能性、その希望、確信、希う感覚や気持ち、それが信じられなくなったとき、僕は







 



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筆記と口頭の違いと感情の刹那性
2016/10/01 13:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
前述の、ジョルジュさんの書を読む。
仕事から帰るとき、特に遅い時間になったときは、特に、何もしなくても、言葉が、不快感が、苛立ちが、焦燥が、後悔が、希望のなさが僕に言葉を生じさせるのであるが、昨日は、何も生まれなかった。

手持ちぶさたさが、本を手に取らせたのだ。

適当なページ、それは170ページぐらいからだった。

やはり、死は、生きることを考えるときに避けては通れない。
そこに、生きる自我と死にゆく自我という言葉をもって語られている。どうにも、やはり分かりづらいが、言葉を追うのではなく、感情に語りかけると、途端に分かりやすい言葉に見えてくるのだが、それが果たして、正確な、科学的な、学問的な読み方なのかはわからない。

ただ、自我とは、すなわち、自分自身のこと、私が私であると思うこと、その記憶のことであるが、それらは所謂生きる自我である。

私は私であって、他の誰でもないという自己意識、それは誰しも強烈にあるものだと。 
これは、矛盾したような表現にならざるをえないが、誰しも自我をもつがゆえに、その誰しもが自我をもつことを、なかなか信じられないのである。



ああ、しかし、この矛盾した所謂知識を、やはりひとつ、真実だと思う必要があるのだろう。

死にゆく自我

死が持っているあの不安をそそる性格は、人間が不安に対して抱く欲求を意味している。この欲求がなければ、死は人間にとって容易なものと見えるであろう。人間は苦しんで死ぬことによって自然から遠ざかり、幻想上の、人間的な、芸術のために作りなされた一世界を生み出す。私たちは悲劇的な世界に、わざとらしい人工の雰囲気の中に生きている。「悲劇」がこの世界の、この雰囲気の完成された形式だ。動物にとっては何事も悲劇的ではない。動物は、自我の罠にはまらない。

何か、文章を読んで、思ったことを、瞬時に書き留めておくということは、中々難しいことだ。
次の瞬間には、自分の感情はあらぬ方向にいき、ひどいときには、帰ったら何を食べようかなどと思考から遠ざかることもまた少なくない。

自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。

真実的な思考とは何か。
今、自分が考えていることが、果たして、真実性を帯びているのか。現実の言葉なのか。実感を伴った言葉なのか。

精神病患者に対して、認知療養として、ものごとの考え方を改めさせようとする方法がある。同じ事象でも、その捉え方、例えば同じ時間量でも「しか」なのか「まだ」なのかによって、受ける印象は異なる。

しかし、そうした、認知によって変化可能な認識というものが、自分の真実的な心のうちなのか。
このことを考えるには、とにかく、自分の思いの内を、すべて書き出す必要があるだろう。

これは、恐らく、口に出して、言葉にしてみるという方法と方針は同様に思える。
しかしながら、口に出した言葉は、砂上の楼閣のように朝露のように消えてゆく。ICレコーダーに保存してみるという手も考えたが、その「想起性」(再び見たり聞いたりすること)の頻度が著しく低下することだろう。

確かに、文章を書くよりは、同じ内容を口に出した方が速い。が、口に出すよりも、黙読の方がなお速い。

リアルタイムの思考を記述するのは、口頭がベストだが、ICレコーダーから書き起こすなど作業が発生するのであれば、結局、最初から書いた方がよい。
もう一つ理由記述の優れた点をあげれば、口頭の録音は、結局、スピーディーな語りにはならないということだ。「あー」とか「えー」とか、沈黙。文章は、このまとまりがどれほどの時間単位なのか意識させない。
ここで例えば、小見出しの前は昨日書いた記事であり、小見出し以降はノンストップで書いているというメモを残さなければ、「一つの文章」としてしかの認識を与えることは無い。

死にゆく自我2

同じ、小見出しにしてしまうというのは、ミスである、何がみすかといえば、完全に前の小見出し部分が、本来書こうとしたことから外れたことによる。
本当は、純粋に、かっこつけた言葉とかいらなくて、引用の「死にゆく自我」という表現が面白いと思ったということだ。

何が面白いかと言えば、ショーペンハウエルでもないが、まさに、人の創りだした芸術が「悲劇」であるという点だ。悲劇、ここでは、「死」という避けられない事象を「忘れさせる」ための全ての尊い、あえかなる人の行為。

何故、同じことを表現するのに、複数の表現があるのか、言葉があるのか。そして、確かに、その与える言葉は、聴く人に厳密な違いの認識はできなくても、確かな「違い」を意識させるのである。

それは、死とは別のところに、確かなる幻想を創り出したかったからではないか。

自我の確証

……とかいうことを、僕が本当に、昨日読んだときに思ったかどうか、それがもはや分からない。

この感覚、つまり、例え口に出してレコーダーに録音してまさに、同じ発言をしていたとしても、それは「僕自身」=「自我」なのか、その確証がない。

これは、非常にずるい言い訳だ。つまり、「僕は僕の発言に一切の責任を持たない」との宣言なのだ。

これでは、一切の他者との相互行為、取引が不可能だろう。
何せ、信頼・信用が起こりえない。何を言って、何を約束しても、それは実は僕の本心ではありませんでしたと、逃げられることが発生する。

こんなことが許されるはずがない。

しかし逆に、何故、人は……というより、僕は、僕自身から逃げ出そうとするのか。
(という疑問提起すら疑問の域をでなくなってくる、本当に、剥いても剥いても「コア」があらわれない玉ねぎのようだ)

そして逆に、つまり、「本当の自分」といったものを探すことの無意味性を強く思うのである。
ここまでの記述において、恐らく読んだ感想としても、非常に、自己に執着した人間(自分大好き人間!)のように思える。
しかし、その、大好きであるべき自分など、一体どこに表現されているというのか。

ここではむしろ、その自分の不在性を嘆く表現ではないかとすら思える。


自分とは何か。

この問いは、まさに「生きる意味は何か」という問いに直結するものだ。

しかし同時に、こう書いてきて気づいたのは、その自分というものへの無頓着である。


実感できること、感情、それは確かにある、が、その感情というものを表現する自分を想定したとき、その感情は「解釈可能なもの」となり下がる。
前の記事で同じく前出書を読んで書いたことだが、「恍惚」「法悦」といった、神的体験、エクスタシーは、例えば「私は神を見た」といった瞬間から、隷属的なものになり下がる。

感情は、確かに、その人をその人として規定する一つの要素であるが、感情が表現されたとき、もはやそれは、その人としての要素、部品からは除外されているのである。

記憶の同一人物性

昨日の自分と今日の自分が、同じ自分であるということ、それが「自我」であるが、その自我とは、いったい何にもとづいているのか。

記憶である、としている。これは珍しく、疑ってはいない。僕は遠藤という名前であり、30代であり、独身だという属性情報の認識が、ああ、確かに僕は僕であると、そうした感覚を生じさせるのである。

では、感情とはなにか。
感情もまた、その人の属性情報である、ただし数値化も可視化も、そして表現もできるものでない。

表現をした瞬間に、それは、自我を構成する要素としてのそれではなくなる。
であったとき、その瞬間、刹那において、まさにその時そのモノとしてのもの、それが自我の要素としての感情である。


そうしたとき、かなりシンプルに、自分という存在についての考え方については理解できる。
ところが結局、その表現の不可能性によって、反転して自分という存在を覆い隠すのである。







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決意とは裏腹に
2016/09/28 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
体調が悪いのはおいておいても、精神的にささくれだっている。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。

とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。



いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。

にもかかわらず、何故、書くのか。


有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。 

なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。


ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。


そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。


しかし、しかし、



そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。

いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。


しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。

この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。

あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。


そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。


この問題は一日にして発生するのではなく



こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。

初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。

このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。

客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。


たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。

客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。


自己イメージ



なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。

最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。

まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。

まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。

むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。



仮想現実



腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。

インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、

僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。

親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。

しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、

それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。


裸の付き合い


もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。

大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。


話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。


このブログとして生き残ったわけ



だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。

文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。

しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。

不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。



といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。

チャット



まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。

そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。

ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。


逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。


SNS



次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。

その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。



そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。

その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。

この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。

否定はしない。


ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。


ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。

茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。



そしてもっと



それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。

この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。


人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。


人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。



この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。


未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。

先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。


そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。

逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。


僕は、よくわからない、この先、どうなるか。

でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。

いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。



そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。

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