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過去の記事と日記という媒体
2016/10/10 07:09 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先日の記事で、GOMAさんの本を買って読んで、日記が、苦悩よりもポジティブな表現ばかりで、現実味がなくて不満だったと、そんな風な事書いた。

じゃあ自分は、ちゃんとその「苦悩」なるものを表現できてるのか、と思って、過去の、ローカルなものも含めて探して、読んでみた。うーむ……読むにたえない、が、確かに、よくまぁ、飽きもせず書いていたものだ。先日の記事で、仕事の論文は書けないが、くだらない記事ならいくらでも量産できると豪語していたが、まぁ、それは嘘ではなさそうだ、何の意味もないけどな!


先週の木曜日ぐらいから、のどが痛くなり、体調が悪化。少し買い物にはでかけたが、三連休は殆どを家の中で。早めに寝たせいで、目覚めは0:30ぐらいだった。しかし、それから、いろいろ整理したり、ポイントになりそうな記事を投稿したりしていたら、もう5時間過ぎたのか。はえーな。本当は、仕事終わらせて、ゆっくり余暇を過ごそうと思ったのだが。

ただ、今回ばかしは、まぁ、少しは、仕事とも関係ある。やっぱり、自分の生き方ってのを、しっかり見つめなおさないと、どうにも、言葉が全く出てこない。

夜明けの時間

こうして、朝早く、もはや朝なのか分からない時間から起きて、遊ぶでもなく、文字に触れていると、受験勉強していたときや、大学のレポート作っていたころのことが思い浮かぶ。
そういや、そんな家で、自分を追い込んで何かするなんて、もうここ何年もなかったな。会社で日付変更までいることは何度もあったけれど、それとこれって、全く違う。

漫画で学ぶ人生訓、みたいなサイトで、MAJORという野球漫画で、「いいんじゃないかお前が努力したって思えるなら。努力なんて、人から言われてするようなものじゃないけどな」みたいな台詞があって、うひゃぁと思ったけど、まぁ、そういうものだと思う。

仕事は、やらなきゃいけないからやっているが、受験勉強なんて、ありゃあ、確かに、「やらなきゃいけない環境」というか風土というか圧力は確かにあったが、別に絶対なわけではなかった……と書きながら、やっぱり、自分の中では絶対的圧力があったな、と思う。

100時間残業で過労死した東大卒の20代の女性について、かわいそうだなぁと思いつつ、その本人と思われるツイッターで、他人をバカにするような発言があったりして、あんまり共感できねぇなぁと思いつつ、それと過労死はやっぱ別だよなと思いながら、複雑な感情になった。
この複雑さが、法律とか、裁判の判決と世論とのギャップだったりするのだろうなぁとか、またしても一般論というか、人ごとに頭が切り替わっていくのをグッっと戻し戻し。

家族のこと

過去の、ローカルな記事読んでると、家族のこととか、話題にたまにあがる。
あんまり、公開の日記に書くのはなぁと思っていたが、先日好きだったおじいちゃんが亡くなったとかも書いたし、まぁもう解禁だろうとのことで、昔、初孫ということですごく自分を可愛がってくれたおばあちゃんが、認知症で、僕のことを分からなくなっていて、ショックを受けたみたいなことも書いたきがする。

GOMAさんの高次脳障害ではないが、認知症は新しいことを覚えられなくなる。
恐らく、僕の姿が、完全に「おっさん」になっていたから、子供のころの愛らしい姿しか記憶になく、僕のことをもう分からなくなっているのだろう、という持論。

そんな持論でいたからか、先日、夢をみたとき、病室で寝たきりになって、何も分からなくなった祖母に近寄り、僕だよ、と、自分の名前をいうと、何度も何度も僕の名前を読んでくれて、僕が好きだったお寿司屋さんに連れて行こうとしてくれた……そんな夢をみた。

さらに、これも書いた気がするが、結局、認知症とは、「死の恐怖」への心の対処なのではないだろうか、と。

考える生き方の著者は、55歳になって、もう、自分が若くないのだということを、鏡をみた自分からも実感するようになったという。




もう、心がどうこうじゃなくて、自分の身体が完全に、若くないのだと自覚し、さらにそれが進んだとき、自分が、よぼよぼの老人だと実感する。

そのとき、必ず、徐々に大きくなるのが、「死」についてだ。

確かに、僕の昔の記事を見れば、「死」についての表現が出てくる。
しかし、それは、若い身体をもった僕のとらえるそれと、もうすぐ終わりを迎えようとしている身体から生じるそれとは、全く異なるものだろう。

認知症は、最近のことが分からなくなる、それは、いやおうなしに突き付けられる、老、死という現実を、「理解」させないための、心の防衛機制なのではないだろうか、と。

介護のこと

「極道ヘルパー」というドラマがあった気がするが、介護の問題は、他人ごとではない、とはいえ、そんなこと、若い子供たちに教えたって、「実感」が伴わない「知識」に過ぎないだろう。

現実問題として、例えば、自分の親を介護していて、しかし、もはや自分のことを、どっかから派遣されてきた介護の職員としか思ってないとしたら、そんな悲劇ってあるだろうか。
この前、アリは、アリとしての生き方をすべきであり、それが人間について憧れをもったら悲劇だと書いたが、今度は逆に、「分からないこと」が悲劇だ。

無償の愛?

ここまで育ててくれた恩?


人間の善性を信じることは大事だと思う、が、そんなもので制度をつくっていては、社会主義や共産主義のように凋落することは目に見えている、いや、資本主義が至上というわけではないけれども、やっぱり、人間って、善悪両方持ち合わせているわけであって、見ず知らずの人よりは自分の家族の方が大事なわけで。

しかしその大事な家族が、自分のことをもう認識できないとしたら。

ドラマなんかでは、一瞬だけ記憶が戻って、感動的な場面を描くのだろうが、365日中の1日だけそんな時間があったところで、焼け石に水的な、賞味5分の感傷にしかならないだろう。

おいおいマイナス思考過ぎないか

物語が必要だ。
物語?
それは、絶対にハッピーエンドになるソレか?

そう、人生は物語である、個々に意味はない、けれども、その意味を自ら選び取って、ハッピーを掴むのが人生だ。

幸せ、なんだそりゃってことを、なんとまぁ、10年前ぐらいから既に考え始めていたってのが、さっきまでの整理で分かった。

どうやら、そのころの自分としては、大好きな人ができて、その人と楽しくイチャイチャ幸せに暮らすんだ、みたいな、小学校高学年女子の結婚願望みたいなものを信じていたようだ。

実際問題、童貞野郎としては、そうした愛する人とともに歩む人生ってのに、憧れを抱くものだろう。灰色だった高校時代も、彼女がいたらきっと明るかった、みたいな、そんな無いものねだりだ。

でまぁ、結果から逆算して書いていけば、彼女がいないから不幸なんだ、自分に満足できないんだ、人生がつまらないんだ、でも彼女ができない……死のう、いやいや、どうせ死ぬなら、せいぜい足掻いて、100人くらいナンパして頑張ってから死ぬって選択肢でいいだろうと、結果的に彼女ができて、わーいハッピーと何か月かはなって、しばらくして手痛い失恋して、うわーもうだめだやっぱり俺なんかダメダメ人間なんだーと落ち込んで、いやいややっぱり、好きなことして頑張ってキラキラ輝いて女性と付き合って結婚して幸せになるんだーっていって、実際結婚して、わーいわーいめでたしめでたし~としばらくして、結果的に性格の不一致、離婚、と。

な、なんだってー!(かっこわらい)

こうやって書いてみるとギャグだなぁ。 

目標設定・目的設定

まず、端的にダメなところは、例えば、「彼女つくる」とか、「結婚する」とか、それを目標・目的にしていたところだ。

就職するってのもそうだ。

もっとさかのぼれば、受験勉強の時代も、「大学に合格する」って目標もアホの極みである。

いや、「目標」としてはいいのだ。

目標とは、具体的に、数値化できる達成すべき到達点のことだ。
であれば、テストで何点とって、志望校に合格するってのは、アリだ。
3人に声かけて、デートして、彼女つくって、3年以内に結婚するとか、それもありだ。


が、これまで、まぁプラス面もあるとか、経験もまた重要だとか、そんな慰めの言葉を一切とっぱらって、俺の人生すべて失敗だらけだったとして、その原因は、としたとき、一つ、今、思っているのは、思えたのは、「目的」設定のなさ、だ。


目標を達成することは、これまで、失敗なく、よくやってきた。
素晴らしい、その点は褒めてあげよう。

だが、過去の記事、ログ、日記読んで気づいたが、コイツ(自分)は、本当に昔から、「目的」ってもんがなかったんだ。空虚な、操り人形だ。
目的がなく、目標だけをこなす機械人形。ロボット。

目的を設定するとは

まぁ、こう考えると、よく目的もなく、これまでやってこれたわけだ。
内的欲求とかよく分からないままきたもんだ。


で、なんでこんなことになったんだ、ってのを考えると、さきほど投稿したのよりもっと古いログを読んだりすると、やっぱり初恋がうまく実らなかったことに起因するんじゃねぇかなぁって思う。

ここらへんの表現は、新海誠先生の作品がよく表現されている。最新作の「君の名は」はみてないけど、秒速5cmはひとり身の時(今もだけど!)見て、うわぁっと鬱になったもんだ。

こんな、初恋に今も恋い焦がれてます~みたいなこと、とてもじゃないけど恥ずかしくて、誰も書けないはずだ。僕も書けない。いや今書いてるじゃないか、そう、これは、一応彼女ができたという事実があるから書けるのだ。この点で、身体も然り、経験もまた、思考と密接に関連していることの示唆である。
それと、さすがに、もう初恋の人の顔もよく思い出せないし、その人の名前を思い浮かべても、特段なんの感情も生じなくなっていることも一つだろう。


しかし、それはそうと、その、「本当に欲しかったものが手に入らなかった」という経験は、深層心理、潜在意識のなかに深く刻まれているのだろう。

この辺は、EDENという作品のなかで、あるマフィアのボスにまで上り詰めた女が、自分の身体で子供が生めなくなって、そのことを回顧する中でよく表現されている。


とはいえ、初恋が実らなかった人全員が、じゃあみんな目的を失ったゾンビみたいな生き方をしているかというと、そんなはずはないだろう。だから、それは単に一つの要因に過ぎず、もっと様々なことが起因しているのだろう。

ただ、確信していいのは、大体その辺の「思春期」的な時代において、人格形成がなされたのではないか、ということだ。

人格形成

ただ、うーんそうかな、と少し疑問でもある。
正直、中学生ぐらいの、自我が芽生えたあたりの思考からして、あんまり変わってない気がする。

この辺りを、「考える生き方」の著書の中で、時間の停滞といった表現があって面白いと思った。
55歳の著者は、36歳で結婚するまで、自意識的にずっと25歳だったという。大学院を卒業したあたりの意識をずっと引きずっていたのだと。
結婚して、異なる身体をもつ相手と性的な生活も送っているうちに、人格的にも歳を取ったのだと。


なるほどなぁ。


思うに、先日書いた通り、「思考」をアウトプットするのは、かなり言語表現に歪められるから、結局、過去の記事や文章を読んだところで、その「感情」的なものは、中々読み取れない。

だから、「何歳のときに」「どんな状況のときに」書いたのか、というのが、結構重要だと思う。

そういう意味で、最初、「考える生き方」を読んだときは、その文章を中心に読んだけど、その奥にいる、55歳の作者を考えたときに、この本ってやっぱり貴重だな、と思った。


結局、過去の自分の記事とか読んで、あー同じこと書いてるな、ってのは(その過去の記事の中に、まさにそのさらに過去の記事を読んで、あー同じこと書いてるなって書いてあって、合わせ鏡みたいで吹き出してしまった)、それを読んだ自意識によって、都合よい解釈によって、「ああ同じだな」と感じさせているのかもしれない。


先日、俺はプログラミング少しできるんだぜ! って書いて、非常に恥ずかしくなって、ああ、この記事投稿したくないなぁと思いながら、いや逆にここで投稿しないことが「逃げ」でしかないだろうと思った記事、そのときは本当に嫌だったけれども、今読んでみると、まぁ、それほど嫌悪感はなかった。

過去の記事の多くは、目を覆いたくなるようなくらい恥ずかしいものでありながら、まぁ、そういう時代もあったんだな、とどこか他人ごとのような感覚すら覚える。


と、ここまでで1時間か。

中断

取りあえず、目と身体を休めようか。0時30分から、活動して、基本、午前中は、4時間しか仕事をしなくていいんだ。昼休みがあるだけでましな会社だとかいうのもあるかもしれないが。

そう、そういった、いろんな言説。

そういうのに、かなり惑わされていた自分は、確かにいた、それは愚かだった。もっと好き勝手やってもよかったんだ。
人間関係とか、ブラック企業とか、生涯未婚とか、どうでもよかった。

そんな目先の問題なんかより、もっと、もっと深く、もっと真剣に、その、自分の、自分自身の、人生の、生きていることそのものの、その意味を、ちゃんと、考えればよかった。


いやいやいや、まてまて、そんな、感動的な終わり方にしてどうする、そりゃあ違うだろ。
それは、今にして思えば、思考が足りてなかった部分があるかもしれない、ただ、そうじゃないだろ。その頃の自分は、自分で、過去の記事から好意的に読み取れば、確実に、必死に考えていただろ。
それを否定してどうするんだよ。

逆に、その、考えた結果として、まさに、認知症、ボケとか、「死」という問題があるのであって。


考えに考えた故に、ああ、やっぱり、その未来とは、人生とは、終わりにゆっくりと、着実に近づいていくのであって。

にもかかわらず、ろうそくの最後の灯、輝かしくあろうとするその意志……


物語が必要だ。

ああ、もったいぶって、次の記事に書こうとか思ったけれども、もう、最後まで書いてしまおうか。

カバネリ最後までみた

昨日、「甲鉄城のカバネリ」を、全12話、見終わった。

うーむ、気分が晴れやかな時だったら、「面白かった」とコメントするところだが、残念だった。
間違いなく、1話目は面白かった。2話目、3話目もよかったが、しかし、徐々にその面白さが薄れていった。
VIVA!様(黒幕・敵)が出てきたあたりから、徐々に受けいれられなくなっていった。

それに最後、主人公を助けやがって、なんじゃそりゃ、悪なら悪を貫けや! いやそもそも、父親自分で殺しておいて、殺し終わった後、過去の、父と馬を駆けた郷愁なんて頭によぎらせやがって。自分を慕う綺麗なお姉さんもバケモノにして最後あっさりと殺すし! まぁそれはそれでいいけど、その戦う理由も、父に嫌われて初陣で補給絶たれて死にかけたとか、まぁそりゃあ恨みもつだろうが、関係ない領民まであっさりカバネに喰らわせるとか非道な癖に中途半端なんやオメーはよ!! 

うーん、そういう意味だと、この作品の存在を教えてくれた方の作品の方が、読了感よかったし、人物のつくり込みというか、設定もしっかりしてたと思う(すげー上から目線だ!)。

設定、という意味だと、結局ゾンビたちと人との争いで、ゾンビと人とのハイブリットが活躍するって話で、あんまり目新しさはない。いや産業革命後に発生したそのカバネというゾンビに覆いつくされて、蒸気機関をもとに発展した日ノ本の世界観というのは面白かったし、映像がきれいでよかった。城と呼ばれる機関車もかっこいいよね、最初の登場シーンとか、血みどろにぐちゃぐちゃカバネを轢き潰していく場面とか圧倒的だったし。

最初がよかったがゆえに、期待値があがりすぎてダメだったのかなぁ。


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