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筆記と口頭の違いと感情の刹那性
2016/10/01 13:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
前述の、ジョルジュさんの書を読む。
仕事から帰るとき、特に遅い時間になったときは、特に、何もしなくても、言葉が、不快感が、苛立ちが、焦燥が、後悔が、希望のなさが僕に言葉を生じさせるのであるが、昨日は、何も生まれなかった。

手持ちぶさたさが、本を手に取らせたのだ。

適当なページ、それは170ページぐらいからだった。

やはり、死は、生きることを考えるときに避けては通れない。
そこに、生きる自我と死にゆく自我という言葉をもって語られている。どうにも、やはり分かりづらいが、言葉を追うのではなく、感情に語りかけると、途端に分かりやすい言葉に見えてくるのだが、それが果たして、正確な、科学的な、学問的な読み方なのかはわからない。

ただ、自我とは、すなわち、自分自身のこと、私が私であると思うこと、その記憶のことであるが、それらは所謂生きる自我である。

私は私であって、他の誰でもないという自己意識、それは誰しも強烈にあるものだと。 
これは、矛盾したような表現にならざるをえないが、誰しも自我をもつがゆえに、その誰しもが自我をもつことを、なかなか信じられないのである。



ああ、しかし、この矛盾した所謂知識を、やはりひとつ、真実だと思う必要があるのだろう。

死にゆく自我

死が持っているあの不安をそそる性格は、人間が不安に対して抱く欲求を意味している。この欲求がなければ、死は人間にとって容易なものと見えるであろう。人間は苦しんで死ぬことによって自然から遠ざかり、幻想上の、人間的な、芸術のために作りなされた一世界を生み出す。私たちは悲劇的な世界に、わざとらしい人工の雰囲気の中に生きている。「悲劇」がこの世界の、この雰囲気の完成された形式だ。動物にとっては何事も悲劇的ではない。動物は、自我の罠にはまらない。

何か、文章を読んで、思ったことを、瞬時に書き留めておくということは、中々難しいことだ。
次の瞬間には、自分の感情はあらぬ方向にいき、ひどいときには、帰ったら何を食べようかなどと思考から遠ざかることもまた少なくない。

自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。

真実的な思考とは何か。
今、自分が考えていることが、果たして、真実性を帯びているのか。現実の言葉なのか。実感を伴った言葉なのか。

精神病患者に対して、認知療養として、ものごとの考え方を改めさせようとする方法がある。同じ事象でも、その捉え方、例えば同じ時間量でも「しか」なのか「まだ」なのかによって、受ける印象は異なる。

しかし、そうした、認知によって変化可能な認識というものが、自分の真実的な心のうちなのか。
このことを考えるには、とにかく、自分の思いの内を、すべて書き出す必要があるだろう。

これは、恐らく、口に出して、言葉にしてみるという方法と方針は同様に思える。
しかしながら、口に出した言葉は、砂上の楼閣のように朝露のように消えてゆく。ICレコーダーに保存してみるという手も考えたが、その「想起性」(再び見たり聞いたりすること)の頻度が著しく低下することだろう。

確かに、文章を書くよりは、同じ内容を口に出した方が速い。が、口に出すよりも、黙読の方がなお速い。

リアルタイムの思考を記述するのは、口頭がベストだが、ICレコーダーから書き起こすなど作業が発生するのであれば、結局、最初から書いた方がよい。
もう一つ理由記述の優れた点をあげれば、口頭の録音は、結局、スピーディーな語りにはならないということだ。「あー」とか「えー」とか、沈黙。文章は、このまとまりがどれほどの時間単位なのか意識させない。
ここで例えば、小見出しの前は昨日書いた記事であり、小見出し以降はノンストップで書いているというメモを残さなければ、「一つの文章」としてしかの認識を与えることは無い。

死にゆく自我2

同じ、小見出しにしてしまうというのは、ミスである、何がみすかといえば、完全に前の小見出し部分が、本来書こうとしたことから外れたことによる。
本当は、純粋に、かっこつけた言葉とかいらなくて、引用の「死にゆく自我」という表現が面白いと思ったということだ。

何が面白いかと言えば、ショーペンハウエルでもないが、まさに、人の創りだした芸術が「悲劇」であるという点だ。悲劇、ここでは、「死」という避けられない事象を「忘れさせる」ための全ての尊い、あえかなる人の行為。

何故、同じことを表現するのに、複数の表現があるのか、言葉があるのか。そして、確かに、その与える言葉は、聴く人に厳密な違いの認識はできなくても、確かな「違い」を意識させるのである。

それは、死とは別のところに、確かなる幻想を創り出したかったからではないか。

自我の確証

……とかいうことを、僕が本当に、昨日読んだときに思ったかどうか、それがもはや分からない。

この感覚、つまり、例え口に出してレコーダーに録音してまさに、同じ発言をしていたとしても、それは「僕自身」=「自我」なのか、その確証がない。

これは、非常にずるい言い訳だ。つまり、「僕は僕の発言に一切の責任を持たない」との宣言なのだ。

これでは、一切の他者との相互行為、取引が不可能だろう。
何せ、信頼・信用が起こりえない。何を言って、何を約束しても、それは実は僕の本心ではありませんでしたと、逃げられることが発生する。

こんなことが許されるはずがない。

しかし逆に、何故、人は……というより、僕は、僕自身から逃げ出そうとするのか。
(という疑問提起すら疑問の域をでなくなってくる、本当に、剥いても剥いても「コア」があらわれない玉ねぎのようだ)

そして逆に、つまり、「本当の自分」といったものを探すことの無意味性を強く思うのである。
ここまでの記述において、恐らく読んだ感想としても、非常に、自己に執着した人間(自分大好き人間!)のように思える。
しかし、その、大好きであるべき自分など、一体どこに表現されているというのか。

ここではむしろ、その自分の不在性を嘆く表現ではないかとすら思える。


自分とは何か。

この問いは、まさに「生きる意味は何か」という問いに直結するものだ。

しかし同時に、こう書いてきて気づいたのは、その自分というものへの無頓着である。


実感できること、感情、それは確かにある、が、その感情というものを表現する自分を想定したとき、その感情は「解釈可能なもの」となり下がる。
前の記事で同じく前出書を読んで書いたことだが、「恍惚」「法悦」といった、神的体験、エクスタシーは、例えば「私は神を見た」といった瞬間から、隷属的なものになり下がる。

感情は、確かに、その人をその人として規定する一つの要素であるが、感情が表現されたとき、もはやそれは、その人としての要素、部品からは除外されているのである。

記憶の同一人物性

昨日の自分と今日の自分が、同じ自分であるということ、それが「自我」であるが、その自我とは、いったい何にもとづいているのか。

記憶である、としている。これは珍しく、疑ってはいない。僕は遠藤という名前であり、30代であり、独身だという属性情報の認識が、ああ、確かに僕は僕であると、そうした感覚を生じさせるのである。

では、感情とはなにか。
感情もまた、その人の属性情報である、ただし数値化も可視化も、そして表現もできるものでない。

表現をした瞬間に、それは、自我を構成する要素としてのそれではなくなる。
であったとき、その瞬間、刹那において、まさにその時そのモノとしてのもの、それが自我の要素としての感情である。


そうしたとき、かなりシンプルに、自分という存在についての考え方については理解できる。
ところが結局、その表現の不可能性によって、反転して自分という存在を覆い隠すのである。







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