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現実以外のものの価値のなさ
2016/10/03 21:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
あるアーティストが、インスタグラムかなにかに、ポエミーなことを書いたら、女性のアイドルから、何が言いたいか分からない、気持ち悪い、と言われたとのことだ。

今思い描いてた28歳には程遠い、消えてしまいそうなものを追いかけるだけではダメだったのかな、なぁ自分よ。


的な内容とのこと。あはは、その程度で気持ち悪いなら、このブログ、ほとんどエイリアンとか汚物のような気持ち悪さだろう。

別にそのアーティストを擁護するものではない、多くのファンがいて、とっかえひっかえ女性と付き合ったりしていたとのことで、このリア充が! と、切り捨てる。興味もない。

ただ、こうした言葉ってものが、いわゆる他者とのコミュニケーションの目的のみにとらえるのであれば、分かりにくい表現はすべて唾棄すべきものだ。

思考だって、現実をよくするためだけに使うべきだし、愚痴的な表現はなんら必要ない。


そんな、唯物的な思考を、否定する気はないが、俺には選択できないし、そしてつまらないと思っていた。


ところが、あるブログにおけるコメントを読んで、とても面白いと思った。


アリのたとえ



アリは、餌のために努力し働く。そのアリを見て、人間は、何かむなしさを感じたとして、それはもっと大きな意味というものを求める心性なのではないかと。


なるほど。虫が好きでない僕はそんなアリなんてじっくり見たくもないが、確かに、ありが必死に、死んだ蝶の死骸を巣に運んでいる姿など、そんなことして何になるのかな、と、そんな無常さが思えるかもしれない。



思うに、アリは、自身が、自身の行動が意味あるものなのかなど、考えもしないだろう。きっとそんな脳機能はない。
が、しかし、万が一そのアリが、自己の、自我の、自分自身の存在を思ったら、どうだろうか。

それほどの悲劇はないのではないか。


アリは、思考があろうがなかろうが、アリでしかない。その身体的な限界性は、何があろうと覆らない。
しかし、そのアリが、他の虫の、例えば蝶の羽ばたくのに憧れたり、人間の巨大な身体に憧れたら……

自分の矮小さ、その理想的な自己と現実の自己とのギャップに絶望してしまうに違いない。


努力至上主義



勝間さんと、香山さんとは、正反対で相容れないという。勝間さんは、努力で幸せを手にいれるのが人間的だといって、香山さんは頑張らない生き方もあるのではといって、双方が歩み寄ることはない。

前々から僕が書いているように、この、頑張る頑張らないとか、幸せとか不幸せとか、そんな相対概念自体つまらないしくだらないということ、それは前提とし、念頭においたまま書いていけば、努力や、ストイックさは、人生を楽しむに当たって必要なことだ。

一方で、例えばアリが、人間の生活に憧れるのは、悲劇的でいずれ絶望の淵に貶めることである。




と、僕は、そのブログをみて思った。
アリの生き方か。なるほど、自分の思考からはきっと何十年たっても浮かぶこどなかったろう。
やはり、他者に触れることは非常に重要だ。

しかし、やはり、冒頭にもどるが、リアル世界においては、こうした価値観や思考は、気持ち悪い、と両断され打ち捨てられる。

徐々に現実に価値が見いだせなくなっていくような哀しいこともよぎる。


以前書いた、僕を救ってくれた人の一人は、多いからね、現実が嫌いな人……といっていた。

その意味するところを突き詰めてきいてはいないが、それは反語的な使用なのだろう、すなわち、現実を嫌いになっても仕方がない、おろかだ、ということなのだろう。



僕はずるいので、ここで、この現実を、こうして二次元的に表現することも含めて、現実に他ならないとする。
そうすれば、その方がいう現実が嫌いな人にはならない、という作戦だ。


人の善性は、それはまた真理である。負の側面だけに目を向ける必要はない、同時に、プラスだけでもないのだが、そもそも、クオリア的に他者の存在など、その存在が実在しようがしまいが、結局その他者は自らの思考の結果の生成物であるとの立場にたてば、結局、他者はどこまでも信じ続けるしか現実方策はなくなる。

分かりやすく下らない例えを書けば、この仕事終わらせてくれたんだね! ありがとう! と、言われたとき、相手に、ちっ、余計なことを、後で俺がやっとこうと思ったのに、とか思われていないだろうか、なんてことを考えるのは、その推測がエラーだろうが正解だろうが、そんなのどうでもよくて、感謝してもらったと、素直に喜んでおけばいいのだ。


裏切りの所在



騙されることなんてない。裏切りなんてない。

そう言い切った人が、例の僕の思考面に影響を与えた、現実界にはいなかった人だけど、そのときは、ぶっちゃけ、よく分からなかった。
今も、それは、実感レベルとしては分からない。


けれども、今なら、その、意味するところは分かる。


もし、裏切られたとか、騙されたと思ったら、それは、自分の、その考えや感覚が不十分だっただけだ。真実を直視せず、都合のよい世界をみていただけなのだ。

人の存在は限りなく真実であり、先般書いたように、他者もまた意思を持ち感情をもっていることも事実なのだけれども、それでもなお、世界は、どこまでいっても、自己に限定され続けるのである。



マナシキとアラヤシキ



そこで、仏教の惟識派は、自己に執着する意識を、マナシキと読んだ。
でも、深層のアラヤシキでは、アカシックレコードのように、全世界の全人類の記憶が蓄積されているのだ。


現実の些末性



ああ、しかし……、このブログなんの意味あんねん、という、ふざけた思いがよぎる。

なんだか、到底、誰か自分以外の人に、面白いとか、それが、嘲笑だったとしても、役に立つとか思って頂けなければ、本当に書く気力がなくなる。



と、思ったのは、感情エラーだと思う。

きっと、僕はどこかに、愚痴を吐き出したいのだ。でも、現実世界では、気持ち悪いと言われるから、人知れず、インターネットの辺境で、愚痴愚痴と暗がりで、孤独にいい続けるのだ。


だから、人がみてくれようが、そうでまいが、関係ないのだ。


本当にそうか。




話がかなり、ぶったぎれてるが、思うに、ここが、最後の場所になりそうだ。

この場所が、何らかでなくなったとき、もはやローカルのログしか残されてないだろうが、きっともうそれでは、満足できないだろう。


このずたぼろな記事が、誰かの目に止まって、100人に1人が面白いとか役に立つと思ってくれる可能性、可能性、その希望、確信、希う感覚や気持ち、それが信じられなくなったとき、僕は







 



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