おはようございます、と、朝に書く記事は、ではどんなカテゴリになるのかと。
やっぱり、想像が付かず、考えてる時間に思考が雲散霧消していく。
であれば、浮かんだことを取り合えずメモしてもいいじゃないか、これがゼロ秒思考メモである。
あ、そうか、じゃあ、その思考メモというカテゴリ作ってしまえばいいか。うーん、ただそうなると、日常、生活、カテゴリみたいに、分類する気持ちが働きにくくて、楽な方に流れそうだ。
認知革命の章が終わりそう。七万年前、虚構の言語の出現。
三万年前、ネアンデルタール人絶滅。フローレス人も五万年前くらいに絶滅したとすれば、サピエンス種オンリーとなる。
その後、食糧生産革命が、自分の記憶だと、一万二千年前ごろ。
神殿とか、集団の結束って、農業始めたことが原因だと思っていたから、その前から認知革命が起こって、150人以上が協力できる下地ができた、というのは、完全に新しい知識になった。それだけで買ってよかった。いや、まだ50ページぐらいで、下巻は開いてすらないが。
突発的に本を買えるだけの資産があるのはいい。
最近欲しいのは、概念形成を助けてくれる作品全般だ。
映像作品はそれはそれで素晴らしいが、本という媒体は、繰り返し、自分のペースで理解を進められるのがよい。
ものすごい遅読の実践。
一方、ビジネス本とか、軽い奴は200ページとかあっても15分くらいで読めてしまう。
大体目次読めば内容が推測でき、実際ちょっと読めばそれが正解か判断できる。
そもそも、ビジネス本とかは、答えが先にあって、その説明があとに続く文章構成だから、二三行読めばことたりるのだ。
正直、面白い漫画とか読んだ方がまし、に思えるが、まったくその系統を読んだことない人は、新しい発見もあるだろうから、否定するものではない。
ただ、ありふれるコラムとかニュースとか、新しい概念形成には、もう役に立たないと切り捨てるのは、僕はいまは、アリだと思ってる。
概念とはなんだろうか。それは、事実や事象を抽象的にまとめて名前をつけたものだ。
僕は、いま、結婚というもの、人というもの、人間というもの、生きるというもの、友人というもの、学ぶということ、創作ということ、それら、人生の根幹をなす概念を問いかけている。
普通、生活する上では、当たり前のものだ。
それに、マジで研究するなら、学者にでもなった方がいい。ただ、興味が煩雑で幅広すぎてだめだろう。
地震があって、ああ、これは終末のそれなのか、とふと思った。
そうすると、今まで生きてきた、昨日もぐだぐだ書いていたことが、ああ、なんと恵まれたことであったのか、と思った。
日常が終わり、ただ生きることだけに時間を使うだけの日々。
創作も、ゲームもない。本もない。資本主義もない。
ただ、瓦礫をかきわけ、食べるものと飲むものだけを探し求め、飢えと乾きに苦しみ、秩序が崩壊した世界をあてもなく生きるのだ。
うわめんどくさい。
それだったら、満員電車で、上司やお客さんに叱られ嫌みを言われ気分の悪い思いをしながら、帰ってジントニックを飲むぐらいでましじゃなかろうか。
いやましじゃねーよ。この世界は地獄だよ。
として、今日も今日とて自殺する人もいる。
多分、物理世界に、自己とのギャップが生じたことのない人は、自殺しようとする人の感覚は分からないだろう。
ああ分からんねそんな奴。そんな軟弱興味もない。そんな奴がいたら、ぶん殴ってもぜってぇ助けてやる。
とか言いそうなキャラクターが浮かんだ。
そのキャラクターに感動して惹かれるキャラも同時に浮かび、そして、それをうぜぇ、と思うキャラも浮かんだ。
うん、もう少し、自分の物語を考える上で、人物設定、キャラクターを考えるという試みもいいかもしれない。
あるかたが、小説つくるときにやったやり方として、まず、10人だか20人だかのキャラクターのプロフィールを詳細につくった、ということを仰っていて、うわすごいな、と思った。
僕はどちらかというと、現象とか、できごと、イベント、ストーリーの方が書きたいことが浮かぶから、あまりキャラクターを綿密に考えてはいない気がする。
そこが、僕の作品が決定的に面白くない原因なんだろう。やっぱり、物語って、人だよね。
ということになってくると、やはり、人間嫌いとかいう表現は、そもそも感情エラーなのだという証明にもなるわけだ。
はぁ、なんか朝から疲れた。
書きたいことはまだある気がするけど、眠いし頭痛とお腹が痛いからかここで唐突の終わり。
やっぱり、想像が付かず、考えてる時間に思考が雲散霧消していく。
であれば、浮かんだことを取り合えずメモしてもいいじゃないか、これがゼロ秒思考メモである。
あ、そうか、じゃあ、その思考メモというカテゴリ作ってしまえばいいか。うーん、ただそうなると、日常、生活、カテゴリみたいに、分類する気持ちが働きにくくて、楽な方に流れそうだ。
食糧生産革命
認知革命の章が終わりそう。七万年前、虚構の言語の出現。
三万年前、ネアンデルタール人絶滅。フローレス人も五万年前くらいに絶滅したとすれば、サピエンス種オンリーとなる。
その後、食糧生産革命が、自分の記憶だと、一万二千年前ごろ。
神殿とか、集団の結束って、農業始めたことが原因だと思っていたから、その前から認知革命が起こって、150人以上が協力できる下地ができた、というのは、完全に新しい知識になった。それだけで買ってよかった。いや、まだ50ページぐらいで、下巻は開いてすらないが。
資産
突発的に本を買えるだけの資産があるのはいい。
最近欲しいのは、概念形成を助けてくれる作品全般だ。
映像作品はそれはそれで素晴らしいが、本という媒体は、繰り返し、自分のペースで理解を進められるのがよい。
ものすごい遅読の実践。
一方、ビジネス本とか、軽い奴は200ページとかあっても15分くらいで読めてしまう。
大体目次読めば内容が推測でき、実際ちょっと読めばそれが正解か判断できる。
そもそも、ビジネス本とかは、答えが先にあって、その説明があとに続く文章構成だから、二三行読めばことたりるのだ。
正直、面白い漫画とか読んだ方がまし、に思えるが、まったくその系統を読んだことない人は、新しい発見もあるだろうから、否定するものではない。
ただ、ありふれるコラムとかニュースとか、新しい概念形成には、もう役に立たないと切り捨てるのは、僕はいまは、アリだと思ってる。
概念形成
概念とはなんだろうか。それは、事実や事象を抽象的にまとめて名前をつけたものだ。
僕は、いま、結婚というもの、人というもの、人間というもの、生きるというもの、友人というもの、学ぶということ、創作ということ、それら、人生の根幹をなす概念を問いかけている。
普通、生活する上では、当たり前のものだ。
それに、マジで研究するなら、学者にでもなった方がいい。ただ、興味が煩雑で幅広すぎてだめだろう。
カタストロフ
地震があって、ああ、これは終末のそれなのか、とふと思った。
そうすると、今まで生きてきた、昨日もぐだぐだ書いていたことが、ああ、なんと恵まれたことであったのか、と思った。
日常が終わり、ただ生きることだけに時間を使うだけの日々。
創作も、ゲームもない。本もない。資本主義もない。
ただ、瓦礫をかきわけ、食べるものと飲むものだけを探し求め、飢えと乾きに苦しみ、秩序が崩壊した世界をあてもなく生きるのだ。
うわめんどくさい。
それだったら、満員電車で、上司やお客さんに叱られ嫌みを言われ気分の悪い思いをしながら、帰ってジントニックを飲むぐらいでましじゃなかろうか。
いやましじゃねーよ。この世界は地獄だよ。
として、今日も今日とて自殺する人もいる。
多分、物理世界に、自己とのギャップが生じたことのない人は、自殺しようとする人の感覚は分からないだろう。
創作キャラクター
ああ分からんねそんな奴。そんな軟弱興味もない。そんな奴がいたら、ぶん殴ってもぜってぇ助けてやる。
とか言いそうなキャラクターが浮かんだ。
そのキャラクターに感動して惹かれるキャラも同時に浮かび、そして、それをうぜぇ、と思うキャラも浮かんだ。
うん、もう少し、自分の物語を考える上で、人物設定、キャラクターを考えるという試みもいいかもしれない。
あるかたが、小説つくるときにやったやり方として、まず、10人だか20人だかのキャラクターのプロフィールを詳細につくった、ということを仰っていて、うわすごいな、と思った。
僕はどちらかというと、現象とか、できごと、イベント、ストーリーの方が書きたいことが浮かぶから、あまりキャラクターを綿密に考えてはいない気がする。
そこが、僕の作品が決定的に面白くない原因なんだろう。やっぱり、物語って、人だよね。
ということになってくると、やはり、人間嫌いとかいう表現は、そもそも感情エラーなのだという証明にもなるわけだ。
はぁ、なんか朝から疲れた。
書きたいことはまだある気がするけど、眠いし頭痛とお腹が痛いからかここで唐突の終わり。
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逆算の思考とは、ある目的を達成した瞬間から遡って考えることである。
このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。
その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。
僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。
いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。
ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!
世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。
ああ素晴らしきかな!
ついに、僕はたどり着いたのだ!!
世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!
二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、
それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。
仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。
悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。
まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。
僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。
最高の状態。
真理とかいった言葉。
よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。
僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。
仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。
対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。
だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。
思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。
例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。
資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。
確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。
僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。
どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。
懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。
固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。
その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。
それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。
以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、
思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、
と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。
風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。
人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。
しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。
それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。
それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。
口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。
もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。
さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。
となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。
家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。
にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。
ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。
例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。
もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。
だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。
逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)
だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。
すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?
とか、そんな批判がとんでくる。
だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、
そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、
なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。
もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。
このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。
その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。
僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。
いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。
ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!
世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。
ああ素晴らしきかな!
ついに、僕はたどり着いたのだ!!
世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!
悟りゲーム
二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、
それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。
仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。
悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。
まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。
僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。
最高の状態。
真理とかいった言葉。
よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。
僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。
仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。
対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。
だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。
懐疑主義との対抗
思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。
例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。
資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。
確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。
僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。
呪いの解除
どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。
懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。
固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。
その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。
それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。
コメントなどの感謝
以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、
思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、
と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。
風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。
人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。
しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。
温かい家庭
それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。
それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。
口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。
もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。
さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。
となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。
思考との決別
家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。
にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。
ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。
例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。
もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。
だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。
逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)
だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。
すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?
とか、そんな批判がとんでくる。
だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、
そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、
なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。
もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。
最近ルーチンの、筋トレストレッチ音読のことをあまり書いていないが、続けられている。
そして、一年前の記事とか読んでいると、やっぱり、ちょうど「ルーチン再開するぜ!」とか書いてある。その時は、英文の音読と単純計算練習だった。歴史は繰り返す。
それにしても、短い映画感想の記事が多く、過去の記事から遡っていると、中身のなさにイライラさせられる。何だろう、映画の分析とか、そんなの別に興味はない、それをみてどう思ったか、どうしようと思ったか、その感情を書き残しておいて頂かなければ、わざわざクリックして開いた労力に見合わない。ということで、20~30ぐらい削除したりしたけれども、まだまだ沢山あって、途中で放棄した。
ので、「思考の垂れ流しだって未来の自分には役に立つかもよ~♪」なんて甘っちょろい考えは、捨てよう。メモはメモでいいのだけれど、それは、感情レベルで想起可能な内容を書き残しておくべきであって、それができないのであれば、そもそも投稿ボタンを押すべきではない。
これは、文章の長いか短いか、ではないけれども、短いとやっぱり価値は薄い……いや、他の方のブログは短いながら非常にウィットに富んでいて、面白く楽しませてくれるのだけれども、基本的に僕が書く記事は、短ければ短いほど価値が薄い気がする。
ある方からコメント頂いて、「よくまぁ毎日こんな長文書けるねぇ」と言って頂いたが、(まぁそれが皮肉なのかどうなのかと、一応同時思考的には生じるけれども、結論的には嬉しい感情に収まった)逆に、短いと意味が希薄なのである。
例えば、上のことだけで終わってしまうと、数日後にこの記事を開いた僕は、イラっとするわけである。
昨日もだけれど、今日もかなり苛々しながらの帰宅であった。何だろ、中々人の心は難しいね、じゃなくて、思い通りに事が運ぶってのは難しいなぁと、今、落ち着いてみるとそんな達観した、他人ごとな感情だけれども、いざ渦中にいると結構面倒なものである。
これまでの経験上、このさかだった気持ちを抑えてくれるのは、ゲームとかテレビとか、ぼけーっと頭を使わないような行為であった。
しかし、イライラしようが、疲れていようが、おなかが痛かろうが、眠かろうが、とにかく、筋トレストレッチ音読はする! と強い気持ちで、それを実行すると、何だか少し落ち着くのだということが、昨日と今日とで分かった。
ひたすら筋トレと、ポジティブ思考を説くブログとか、何だか、某有名テニスプレーヤーの「頑張れ頑張れがんばれ! お前ならできる! 絶対できる! 諦めるな! 頑張れ! できるできるできる! 頑張れ!!」という、熱いエール、応援のようで、うぜぇ……って気持ちになるわけだけれども、まぁ、言ってることとかやってることは、間違いじゃあないと思う。
これも他のある方の記事で読んだけれども、「自殺するくらいなら筋肉を殺せ!」というのも、生きる方策の一つであるだろう。
と、そういうのは認めておいて、やっぱり、タイミングは重要で、ほんとに落ち込んでるときにそのような熱い気持ちは、その人の絶望を、むしろ深めてしまう可能性についても考慮しなければならない……と書いておきながら、いや結局、そんなタイミングなんて、他人のことを100%完全理解などできないのだから、気にしていては何も始まらない。
悩んで何もしないぐらいなら、何かやって失敗した方がまし。という諺のようなものだ。
いやそれもまた、その失敗が取り返しのつかないものだったり、その失敗が人生のかなり深いところでトラウマ的な傷になって、一生引きずっていかざるえなくなってしまったりと、それもまたタイミングである。
そこから導き出されることは何か?
というタイトルにするまで、結構悩んだものだった。
いや、考えてどうすんだよ、という感情。
この感情は、どう考えても、否定できるものではない。
いや、すぐにね、例えば、
「戦略の失敗は戦術でカバーできるものではないし、戦術の失敗は戦闘でカバーできるものではないのだ」
という、目的や目標、全体をとらえることや深い思考の重要性を説く言説、諺、諧謔、標語、モットーなど、探せばたくさん見つけることはできる。
むしろ、大きな考え方、それを他の表現で、「信念」とか表現してもいいけれども、その信念があるから、現実の個々の事象、日常の判断のスピードを高速にすることができ、それが仕事の能率や達成率に影響するのだ、ということも言える。
だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり、普段、うだうだ、あー仕事めんどーだなーとか、あいつむかつくよなーとか、今日のお昼は何たべよっかなーとか、そんなことに時間使ってるのはもったいないということなのである。
結論:考えることは無駄じゃない。しかし、日常個々の事象に対する思考は無駄である。
しかし、そんなカッコつけるまでもなく、単純に、僕は、この考えるということ、思考というものと決別することに失敗したのである。
「君、キモチワルイよ?」
と言われようが、である。
だから、「ファイトファイト! 頑張れば何でもできるよ!!」という記事よりも、むしろダメブログと言われる系の方に共感というか、面白みを覚えたわけである。
けれども、同時思考的に、その、「思考の垂れ流し」に対する劣等感と、「無駄じゃね?」という思いと、常に戦いながら書かなければいけないところが、少しばかり苦しいところ。段々書いているうちにテンションが上がってくるときは、徐々に楽しくなっていくのだけれども、例えば今日とか、書いていてあまり楽しくないのである。
で、このあまり楽しくないときに書いた記事が、翌日以降読んで、逆に面白かった時もあるし、やっぱり面白くなかったときもある。
だから、「無駄」というのだけれども、この無駄ってのも非常に曖昧な概念でしかないと僕は思うのだ。
最初の方に書いた、イライラをゲームに充てて時間を無駄にしたなぁ、というコメントについても、ゲーム自体、エンターテイメントとか、物語を摂取するのに重要な要素だと思うし(相州戦神館學園というPCゲームがあることを最近知ったけれども、何だか面白そうである。テレビは無いけれどPCゲームならいける)、そのイライラを鎮静する意味を考えれば、単純に無駄とはいえないだろう。すぐさま書いておくべきは、他の目標があったとき、その逃避的行動は目標に対して「無駄」である。
ので、無駄というのは、達成すべき目標に対しての相対的な概念であるのだ。
さらに書いておけば、その「無駄認定」を、仕事場など、共同生活においては、よく他者から指定、規定されるものである。
それが、ストレスチェック的な用語を使えば、「自己コントロール感」の不全に繋がり、ストレスになる、という構造である。
また情けないことを書けば、いやそれは、メモしておかなければという思いからなのだけれど、面白いかどうかって、結局、自分の感情だけで判断は難しいものである。
ある方が、自身の作品について、これ面白いんかなぁ……どうなんだろ、と呟かれていて、いやぁ、あなたの作品だったら絶対面白いッスよ、と思うのだけれど、ただ、その感覚は分かるのである。
(でた! 「分かる」という上から目線! お前何様だぜ! ……という思考の邪魔だてはここでは無視しよう)
さらに、一つ話をすっ飛ばして書くと、「面白いですよ!」という他者の評価があったとしても、その「信頼性」というのが問題になってきて、この「懐疑」という感情は何ともやっかいなものである(僕はもう呪いという表現を使っている)。
その、面白いかどうか、ということについて、僕がこの小見出しの冒頭、情けないこと、と書いたのは、読了ボタンが押されていないと、「あれ、俺、なんかダメなこと書いちゃったの? 面白くなかったか……いやそうだよな、普段も別に面白くなんてないし、役に立つことなんてちっともないけれど、頑張ってボタンは押してくださってた方がいたってだけなんだよな。ああ、ほんとごめんなさい、いやでもほんと、何かダメなこと書いちゃったかな、ぁぁぁぁどうしよう!」
みたくなるのである(いや、ちょっと誇張している気がするけれど……)。
そして、こんなこと書くと、もはや、どんな言い訳を書いても、コメント乞食とか、拍手乞食とか、まぁそんなことになるわけだ。自分の発言には責任をもちましょう♪ というわけだ。
が、しかし、こういった、情けない部分の表現も含めて、余すところなく表現していくことが、徹底的に、という表現だと、またいつもの「言い訳」なのだけれども、まぁ必死に言い訳しようじゃないか、ということである。
ただまぁ、指標としては、結局、明日の自分、もっともっと先の未来の自分が、面白いと、役に立つと、そう思えるかどうかが重要な点なので、拍手やコメントといったものは、付加要素(いやとっても嬉しいものなんだけど)に過ぎないことを意識しておくべきである。
と、スピリチュアルとかありがたい法話などで説かれたりするものだ。
その付随する思考がいかに胡散臭いものであって、ビジネス的であろうが、僕はこの考えは重要だと思っている。
いや、いつも書いているように、幸せって何ぞよ、というのは別の次元の話しだ。
取りあえず、「良い状態、気持ち良い状態、心地よい状態」という事象自体を幸せとしたとき、「上へ上へ!」という思考は、その基盤となっている大切なものを見過ごしてしまう可能性が潜んでいる。
そのあたりに、「頑張れ頑張れファイト行ける! やればできる!」的な熱いメッセージというものへの懐疑が生じる所以でもある。
何というか、ランナーズハイのように、その走ることとか、頑張ることそれ自体が「気持ち良いこと」など、幸せであるという次元に昇華できるのであればよいのだが、何かの目標に対しての努力なのであれば、その努力は、できるだけ無い方がよいと思う。
いやそんなこというと、「苦しんだものが救われる」とかいう、物語の王道から外れてしまうわけで、それってつまんねーじゃん、ともなりかねない。
そもそも、僕が前の記事で書いた「死は別にバッドエンドではない。のうのうと人を騙して蹴落として好き勝手やった奴が嫁や子供に囲まれて幸せな生活を送る、とかいうのがバッドエンドに他ならない」というのに反するのではなかろうか。
やっぱり、苦しんで、悩んで、頑張って、そのあげくにつかむ幸せっていう、そういった物語が、僕たちのハートを掴むんじゃあなかろうか。
おっと、小見出しと話しがまたズレてきた。
でもこの部分、結構重要だわな。
とかっこつけて書いたのも、最近の記事だった気がするけれど、でも、努力しないで、他人をこきつかって、楽に出世して、周りを苦しめながら楽しく気持ちよくなるようなこと、それってホントに正しいといえるのか、ってことだ。
僕は、そんなつもりで書いていたわけではないが、まぁ、初めてその記事を読んだ人は、そう感じても仕方がないな。もし批判コメントがなされるなら、そういった部分なのだろう。
ただそれに対して、きっと僕は面食らうわけだ。え、何をいってんの? そんなわけないじゃん? と思うわけだ、だが、文章上、記事から読み取れる内容としては、そういった批判はまさに的を射ているわけだ。
文章表現の限界性なのかもしれないが、ここを諦めるのは、本末転倒である。
いやぁ、しかし、もう今日は終わりにするか。
何だか、書いていてあまり楽しくなかったし、やっぱり疲れたよ……。
これで、明日読んでも面白くなかったら、まったく「無駄」な時間だったなぁ……と、なるのだろうか? という、それに対しての疑義、という意味はあったのかもしれない。
着々と仕事して、作品つくって、彼女つくって、結婚して、子どもつくって頑張っている人もいるいっぽう、俺は夜な夜なこんな記事ばっか書いていると。
で、他のブロガーさんのように、同士をみつけて、一緒に鍋パーティーやったり、オフ会で街を探索したりとか、有意義なことに活用しているわけでもなく、ただ一人、永遠と自分の止まらない思考をせっせと表現するだけ。
いやほんと、止まらんのだよな、今、日本全国全体レベルでは速い部類のタイピング速度に合わせて書いているとはいえ、思考的には浮かんでは消え浮かんでは消えとにかくカオスに溢れている。
その溢れる思考を、一定の表現にすることで、道筋を立てようというのが、この無駄に長い記事たちの役割なのだけれど、一体、いつになったら前に進めるのだろうか。
そのヒントを探すために、過去記事を読んだりしているが、何だろうか、着眼点や、取り巻く環境の違いから表現される言葉や文章は異なるとはいえ、この膨大に垂れ流される思考を何とかアウトプットしようとしているその試みは通底している気がする。
って書くと、さもいつも高尚なこと考えてますよ、的な印象になるような気もするが、いや、高尚な人は、こんなことしないわけだ。
高尚な人は、どうやったら世界の貧困問題が救えるのか、医療水準をあげられるのか、経済を発展させられるのか、国を守れるのかとか、そんな偉いことにリソースを使うのである。
いやそれはもちろん、僕も、他の人の役に立ちたいし、誰かから感謝されたら嬉しいし、もっと頑張ろうとか、それは思うのだろうけれど、何だろう、何なんだ、何だっけ、その、うーん、こう、表現が浮かばないときは頭が真っ白になってしまうのだが、ええと、「目的」みたいなものが、今消えてしまっているというか、失われたというのか、どっかいっちゃった感じである。
こうやって、ぐちゃーっと、書きなぐりながら、時に泣いて、時に苛々して、むかついて、怒り、奮い立たせ、鼓舞し、何とか色々やってきた。
ダメブログ界的には、「ケッエリートが」「たまたま運がよかったんだろ」「裕福なお坊ちゃんめ」みたいに散々非難轟轟なのだろう。そうなんだろう、僕は恵まれていて、運が良かったんだろう。その恵まれて幸せな環境やリソースを使って、もっともっと上昇していけばいいことなんだろう。
でも、何か違う。
ここで、その時々で、僕がどんだけ悩んで苦しんでいたか、という表現は、多分今無理やり作り出さなくても、当時の記録があるだろうから探して貼り付ければすむだろう。
ただ、そうやって表現したところで、「なに? 悲劇の主人公気分? うわキモ☆」「あー、惨めな自分に浸ってキモチよくなりたいってことだね~」という批判にしかならないだろう。
そうなんだよな。
可哀そうだね、よしよし、と慰めてくれるのは、誰しも母親ぐらいなもんだろう。いや、母親でさえもこんな記事読んだら「キモッ!」ってなるかもしれまい。
という意味から、やっぱり、ホントに致命的な重要な問題については、他者に愚痴いっても解決なんてしないよ、という、なんとも寂しい結論を、僕は自分自身で強化肯定してしまうのであるが、何だろう、ここら辺について、なんか、物語に期待する部分でもある。
「愛ってめんどくせーもんだけど、でも、悪いだけのもんじゃないぜ」
とある方が言っていて、僕は非常に感銘を受けた。その言葉の前にあった、人ってホントにダメでどうしようもない奴も多いけれども、でも、人の善意なるものも、それもまた人の本性なんだ、という流れからの話し。
ホントそうだよ、その通りだよ。
悪い部分にだけ目を向けてたって仕方がない。いいところ、美しいところ、綺麗なところ、素晴らしいところ、耽美煌々、法悦恍惚、人の発展により培われた文化はまたその一つの在り方なのだ。
が。
違和感だ。
この、現実という規定において、この生活において、この「無目的性」において、違和感が強くなる。
……恐ろしい、何だか、戦慄した、身の毛がよだった。
ああ、だから、本当に、ぐだぐだ苛々なんてしている場合じゃなくて、
物語のインプットと、
人生の目的(生きる意味)を、
もっと真剣に、もっと早急に突き詰めていく必要があるのだ。
僕の書いた記事がよくなかったから拍手してもらえなかったのかとか、
僕が言った言葉が相手をどんな気持ちにさせてしまったとか、
そんなこと考えてる暇なんてないんだ。
とにかく、寝よう。寝ることの重要性もまた、疑う余地のない対応方針の一つだ。
そして、一年前の記事とか読んでいると、やっぱり、ちょうど「ルーチン再開するぜ!」とか書いてある。その時は、英文の音読と単純計算練習だった。歴史は繰り返す。
それにしても、短い映画感想の記事が多く、過去の記事から遡っていると、中身のなさにイライラさせられる。何だろう、映画の分析とか、そんなの別に興味はない、それをみてどう思ったか、どうしようと思ったか、その感情を書き残しておいて頂かなければ、わざわざクリックして開いた労力に見合わない。ということで、20~30ぐらい削除したりしたけれども、まだまだ沢山あって、途中で放棄した。
ので、「思考の垂れ流しだって未来の自分には役に立つかもよ~♪」なんて甘っちょろい考えは、捨てよう。メモはメモでいいのだけれど、それは、感情レベルで想起可能な内容を書き残しておくべきであって、それができないのであれば、そもそも投稿ボタンを押すべきではない。
これは、文章の長いか短いか、ではないけれども、短いとやっぱり価値は薄い……いや、他の方のブログは短いながら非常にウィットに富んでいて、面白く楽しませてくれるのだけれども、基本的に僕が書く記事は、短ければ短いほど価値が薄い気がする。
ある方からコメント頂いて、「よくまぁ毎日こんな長文書けるねぇ」と言って頂いたが、(まぁそれが皮肉なのかどうなのかと、一応同時思考的には生じるけれども、結論的には嬉しい感情に収まった)逆に、短いと意味が希薄なのである。
例えば、上のことだけで終わってしまうと、数日後にこの記事を開いた僕は、イラっとするわけである。
仕事の苛々とルーチンの効用
自己啓発ブログ何かになりたくないけれども、このルーチンというのは、やっぱり役に立つなぁと思う。そして、これは取りあえず書いておく必要があるだろう。昨日もだけれど、今日もかなり苛々しながらの帰宅であった。何だろ、中々人の心は難しいね、じゃなくて、思い通りに事が運ぶってのは難しいなぁと、今、落ち着いてみるとそんな達観した、他人ごとな感情だけれども、いざ渦中にいると結構面倒なものである。
これまでの経験上、このさかだった気持ちを抑えてくれるのは、ゲームとかテレビとか、ぼけーっと頭を使わないような行為であった。
しかし、イライラしようが、疲れていようが、おなかが痛かろうが、眠かろうが、とにかく、筋トレストレッチ音読はする! と強い気持ちで、それを実行すると、何だか少し落ち着くのだということが、昨日と今日とで分かった。
ひたすら筋トレと、ポジティブ思考を説くブログとか、何だか、某有名テニスプレーヤーの「頑張れ頑張れがんばれ! お前ならできる! 絶対できる! 諦めるな! 頑張れ! できるできるできる! 頑張れ!!」という、熱いエール、応援のようで、うぜぇ……って気持ちになるわけだけれども、まぁ、言ってることとかやってることは、間違いじゃあないと思う。
これも他のある方の記事で読んだけれども、「自殺するくらいなら筋肉を殺せ!」というのも、生きる方策の一つであるだろう。
と、そういうのは認めておいて、やっぱり、タイミングは重要で、ほんとに落ち込んでるときにそのような熱い気持ちは、その人の絶望を、むしろ深めてしまう可能性についても考慮しなければならない……と書いておきながら、いや結局、そんなタイミングなんて、他人のことを100%完全理解などできないのだから、気にしていては何も始まらない。
悩んで何もしないぐらいなら、何かやって失敗した方がまし。という諺のようなものだ。
いやそれもまた、その失敗が取り返しのつかないものだったり、その失敗が人生のかなり深いところでトラウマ的な傷になって、一生引きずっていかざるえなくなってしまったりと、それもまたタイミングである。
そこから導き出されることは何か?
考えたって無駄である
「生きる意味を徹底して考える」というタイトルにするまで、結構悩んだものだった。
いや、考えてどうすんだよ、という感情。
この感情は、どう考えても、否定できるものではない。
いや、すぐにね、例えば、
「戦略の失敗は戦術でカバーできるものではないし、戦術の失敗は戦闘でカバーできるものではないのだ」
という、目的や目標、全体をとらえることや深い思考の重要性を説く言説、諺、諧謔、標語、モットーなど、探せばたくさん見つけることはできる。
むしろ、大きな考え方、それを他の表現で、「信念」とか表現してもいいけれども、その信念があるから、現実の個々の事象、日常の判断のスピードを高速にすることができ、それが仕事の能率や達成率に影響するのだ、ということも言える。
だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり、普段、うだうだ、あー仕事めんどーだなーとか、あいつむかつくよなーとか、今日のお昼は何たべよっかなーとか、そんなことに時間使ってるのはもったいないということなのである。
結論:考えることは無駄じゃない。しかし、日常個々の事象に対する思考は無駄である。
無駄とは何か
その、大きいこと、信念とか、生きる意味ってのを僕が探し求めようとするのは、上に書いた結論のような呪縛のせいかもしれない。しかし、そんなカッコつけるまでもなく、単純に、僕は、この考えるということ、思考というものと決別することに失敗したのである。
「君、キモチワルイよ?」
と言われようが、である。
だから、「ファイトファイト! 頑張れば何でもできるよ!!」という記事よりも、むしろダメブログと言われる系の方に共感というか、面白みを覚えたわけである。
けれども、同時思考的に、その、「思考の垂れ流し」に対する劣等感と、「無駄じゃね?」という思いと、常に戦いながら書かなければいけないところが、少しばかり苦しいところ。段々書いているうちにテンションが上がってくるときは、徐々に楽しくなっていくのだけれども、例えば今日とか、書いていてあまり楽しくないのである。
で、このあまり楽しくないときに書いた記事が、翌日以降読んで、逆に面白かった時もあるし、やっぱり面白くなかったときもある。
だから、「無駄」というのだけれども、この無駄ってのも非常に曖昧な概念でしかないと僕は思うのだ。
最初の方に書いた、イライラをゲームに充てて時間を無駄にしたなぁ、というコメントについても、ゲーム自体、エンターテイメントとか、物語を摂取するのに重要な要素だと思うし(相州戦神館學園というPCゲームがあることを最近知ったけれども、何だか面白そうである。テレビは無いけれどPCゲームならいける)、そのイライラを鎮静する意味を考えれば、単純に無駄とはいえないだろう。すぐさま書いておくべきは、他の目標があったとき、その逃避的行動は目標に対して「無駄」である。
ので、無駄というのは、達成すべき目標に対しての相対的な概念であるのだ。
さらに書いておけば、その「無駄認定」を、仕事場など、共同生活においては、よく他者から指定、規定されるものである。
それが、ストレスチェック的な用語を使えば、「自己コントロール感」の不全に繋がり、ストレスになる、という構造である。
面白いとは何か
さて、この記事は、明日読んで面白いんだろうか。また情けないことを書けば、いやそれは、メモしておかなければという思いからなのだけれど、面白いかどうかって、結局、自分の感情だけで判断は難しいものである。
ある方が、自身の作品について、これ面白いんかなぁ……どうなんだろ、と呟かれていて、いやぁ、あなたの作品だったら絶対面白いッスよ、と思うのだけれど、ただ、その感覚は分かるのである。
(でた! 「分かる」という上から目線! お前何様だぜ! ……という思考の邪魔だてはここでは無視しよう)
さらに、一つ話をすっ飛ばして書くと、「面白いですよ!」という他者の評価があったとしても、その「信頼性」というのが問題になってきて、この「懐疑」という感情は何ともやっかいなものである(僕はもう呪いという表現を使っている)。
その、面白いかどうか、ということについて、僕がこの小見出しの冒頭、情けないこと、と書いたのは、読了ボタンが押されていないと、「あれ、俺、なんかダメなこと書いちゃったの? 面白くなかったか……いやそうだよな、普段も別に面白くなんてないし、役に立つことなんてちっともないけれど、頑張ってボタンは押してくださってた方がいたってだけなんだよな。ああ、ほんとごめんなさい、いやでもほんと、何かダメなこと書いちゃったかな、ぁぁぁぁどうしよう!」
みたくなるのである(いや、ちょっと誇張している気がするけれど……)。
そして、こんなこと書くと、もはや、どんな言い訳を書いても、コメント乞食とか、拍手乞食とか、まぁそんなことになるわけだ。自分の発言には責任をもちましょう♪ というわけだ。
が、しかし、こういった、情けない部分の表現も含めて、余すところなく表現していくことが、徹底的に、という表現だと、またいつもの「言い訳」なのだけれども、まぁ必死に言い訳しようじゃないか、ということである。
ただまぁ、指標としては、結局、明日の自分、もっともっと先の未来の自分が、面白いと、役に立つと、そう思えるかどうかが重要な点なので、拍手やコメントといったものは、付加要素(いやとっても嬉しいものなんだけど)に過ぎないことを意識しておくべきである。
幸福の限界効用逓減
当たり前の幸せに気付こう。と、スピリチュアルとかありがたい法話などで説かれたりするものだ。
その付随する思考がいかに胡散臭いものであって、ビジネス的であろうが、僕はこの考えは重要だと思っている。
いや、いつも書いているように、幸せって何ぞよ、というのは別の次元の話しだ。
取りあえず、「良い状態、気持ち良い状態、心地よい状態」という事象自体を幸せとしたとき、「上へ上へ!」という思考は、その基盤となっている大切なものを見過ごしてしまう可能性が潜んでいる。
そのあたりに、「頑張れ頑張れファイト行ける! やればできる!」的な熱いメッセージというものへの懐疑が生じる所以でもある。
何というか、ランナーズハイのように、その走ることとか、頑張ることそれ自体が「気持ち良いこと」など、幸せであるという次元に昇華できるのであればよいのだが、何かの目標に対しての努力なのであれば、その努力は、できるだけ無い方がよいと思う。
いやそんなこというと、「苦しんだものが救われる」とかいう、物語の王道から外れてしまうわけで、それってつまんねーじゃん、ともなりかねない。
そもそも、僕が前の記事で書いた「死は別にバッドエンドではない。のうのうと人を騙して蹴落として好き勝手やった奴が嫁や子供に囲まれて幸せな生活を送る、とかいうのがバッドエンドに他ならない」というのに反するのではなかろうか。
やっぱり、苦しんで、悩んで、頑張って、そのあげくにつかむ幸せっていう、そういった物語が、僕たちのハートを掴むんじゃあなかろうか。
おっと、小見出しと話しがまたズレてきた。
でもこの部分、結構重要だわな。
努力の否定は悪人の肯定か
「努力信仰の否定!」とかっこつけて書いたのも、最近の記事だった気がするけれど、でも、努力しないで、他人をこきつかって、楽に出世して、周りを苦しめながら楽しく気持ちよくなるようなこと、それってホントに正しいといえるのか、ってことだ。
僕は、そんなつもりで書いていたわけではないが、まぁ、初めてその記事を読んだ人は、そう感じても仕方がないな。もし批判コメントがなされるなら、そういった部分なのだろう。
ただそれに対して、きっと僕は面食らうわけだ。え、何をいってんの? そんなわけないじゃん? と思うわけだ、だが、文章上、記事から読み取れる内容としては、そういった批判はまさに的を射ているわけだ。
文章表現の限界性なのかもしれないが、ここを諦めるのは、本末転倒である。
いやぁ、しかし、もう今日は終わりにするか。
何だか、書いていてあまり楽しくなかったし、やっぱり疲れたよ……。
これで、明日読んでも面白くなかったら、まったく「無駄」な時間だったなぁ……と、なるのだろうか? という、それに対しての疑義、という意味はあったのかもしれない。
眠い目をこすりながら明日以降を考える
しかし、11月の初旬が終わろうとしている。時間、本当にまったなしだ。着々と仕事して、作品つくって、彼女つくって、結婚して、子どもつくって頑張っている人もいるいっぽう、俺は夜な夜なこんな記事ばっか書いていると。
で、他のブロガーさんのように、同士をみつけて、一緒に鍋パーティーやったり、オフ会で街を探索したりとか、有意義なことに活用しているわけでもなく、ただ一人、永遠と自分の止まらない思考をせっせと表現するだけ。
いやほんと、止まらんのだよな、今、日本全国全体レベルでは速い部類のタイピング速度に合わせて書いているとはいえ、思考的には浮かんでは消え浮かんでは消えとにかくカオスに溢れている。
その溢れる思考を、一定の表現にすることで、道筋を立てようというのが、この無駄に長い記事たちの役割なのだけれど、一体、いつになったら前に進めるのだろうか。
そのヒントを探すために、過去記事を読んだりしているが、何だろうか、着眼点や、取り巻く環境の違いから表現される言葉や文章は異なるとはいえ、この膨大に垂れ流される思考を何とかアウトプットしようとしているその試みは通底している気がする。
って書くと、さもいつも高尚なこと考えてますよ、的な印象になるような気もするが、いや、高尚な人は、こんなことしないわけだ。
高尚な人は、どうやったら世界の貧困問題が救えるのか、医療水準をあげられるのか、経済を発展させられるのか、国を守れるのかとか、そんな偉いことにリソースを使うのである。
いやそれはもちろん、僕も、他の人の役に立ちたいし、誰かから感謝されたら嬉しいし、もっと頑張ろうとか、それは思うのだろうけれど、何だろう、何なんだ、何だっけ、その、うーん、こう、表現が浮かばないときは頭が真っ白になってしまうのだが、ええと、「目的」みたいなものが、今消えてしまっているというか、失われたというのか、どっかいっちゃった感じである。
違和感
一人暮らしするぞ。大学入るぞ。友達つくるぞ。資格取るぞ。彼女つくるぞ。就職するぞ。結婚するぞ。お金稼ぐぞ。こうやって、ぐちゃーっと、書きなぐりながら、時に泣いて、時に苛々して、むかついて、怒り、奮い立たせ、鼓舞し、何とか色々やってきた。
ダメブログ界的には、「ケッエリートが」「たまたま運がよかったんだろ」「裕福なお坊ちゃんめ」みたいに散々非難轟轟なのだろう。そうなんだろう、僕は恵まれていて、運が良かったんだろう。その恵まれて幸せな環境やリソースを使って、もっともっと上昇していけばいいことなんだろう。
でも、何か違う。
ここで、その時々で、僕がどんだけ悩んで苦しんでいたか、という表現は、多分今無理やり作り出さなくても、当時の記録があるだろうから探して貼り付ければすむだろう。
ただ、そうやって表現したところで、「なに? 悲劇の主人公気分? うわキモ☆」「あー、惨めな自分に浸ってキモチよくなりたいってことだね~」という批判にしかならないだろう。
そうなんだよな。
可哀そうだね、よしよし、と慰めてくれるのは、誰しも母親ぐらいなもんだろう。いや、母親でさえもこんな記事読んだら「キモッ!」ってなるかもしれまい。
という意味から、やっぱり、ホントに致命的な重要な問題については、他者に愚痴いっても解決なんてしないよ、という、なんとも寂しい結論を、僕は自分自身で強化肯定してしまうのであるが、何だろう、ここら辺について、なんか、物語に期待する部分でもある。
「愛ってめんどくせーもんだけど、でも、悪いだけのもんじゃないぜ」
とある方が言っていて、僕は非常に感銘を受けた。その言葉の前にあった、人ってホントにダメでどうしようもない奴も多いけれども、でも、人の善意なるものも、それもまた人の本性なんだ、という流れからの話し。
ホントそうだよ、その通りだよ。
悪い部分にだけ目を向けてたって仕方がない。いいところ、美しいところ、綺麗なところ、素晴らしいところ、耽美煌々、法悦恍惚、人の発展により培われた文化はまたその一つの在り方なのだ。
が。
違和感だ。
この、現実という規定において、この生活において、この「無目的性」において、違和感が強くなる。
……恐ろしい、何だか、戦慄した、身の毛がよだった。
ああ、だから、本当に、ぐだぐだ苛々なんてしている場合じゃなくて、
物語のインプットと、
人生の目的(生きる意味)を、
もっと真剣に、もっと早急に突き詰めていく必要があるのだ。
僕の書いた記事がよくなかったから拍手してもらえなかったのかとか、
僕が言った言葉が相手をどんな気持ちにさせてしまったとか、
そんなこと考えてる暇なんてないんだ。
とにかく、寝よう。寝ることの重要性もまた、疑う余地のない対応方針の一つだ。
人の紡ぐ文章は面白いなぁ。記憶言語学(?)を学び翻訳家をされている人のブログを拝見し、それに寄せられていたコメントと、それに対する返信、やりとりを読んでいて、何だかすげーレベルで会話してるな! かっけぇな! よくわかんねーけど! と思った。
この「理解」というのは、長らく、僕にとっても課題というか、問題であり続けた。
クオリア、というのは、認識や感覚の「質感」のこと、「青を青を感じるそれ自体の感覚」のことであると理解している。そして、そのクオリアというのが、誰しも持っているものだろうか、という懐疑が哲学的ゾンビという考え方である。
僕は、どうしたら、人と人がお互いを理解しあえるのだろうと、割かし真剣に考えていた。
そして、パレートの法則じゃなくて、ええと、何だっけ、人は言葉よりも表情やジェスチャーの方でコミュニケーションの意味を理解しているという、アレだ、ダメだすぐ思い出せない。
あ、今日も20分程度の時間制限付きで書いてます。
とにかく、理解って、何だろなと思う。そして、俺が論理的でなくて、学者にもなれないのは、その理解を突き詰めようとは思わなかった点だ。
結局、感覚的なことも重要なんだろ、と思ってしまうのだ。そして、論理的であることが必ずしも、僕の「目的」に合致しないだろうという思いもある。まぁもちろんこれは、単なる諦念、慢心、逃避とも言えるから、断言はできない。
ただ、先日の記事で、仏教は「感動」も否定する、ということを知ったと書いたが、僕は、「感動」は大事だと思うのだ。その感動とか、欲求というものを求める心性というのは、「ああ、若い人だねぇ」と見られるかもしれないが、それは心外である。
僕はむしろ、逆に今まで、その「感動」とかいったものを、可能な限り排除しようと試みてきた。僕の造語でいえば、感情のコントロールである。理性と論理性で、感情を思い通りに操ろうとしたのだ。
それが、昨今、僕は逆転している。逆に、その感情ってもんを、いわゆる「実感」を大事にしようという方策に変わっている。
とか、そういう表現、これら、実は、8年前ぐらいにかなり詳細に書いていたことが分かって驚いた。
誰かに読んでもらえる、誰かに影響を与えられる可能性があるというその希望、これは、それが事実だろうがどうだろうが、その可能性だけで僕に充足感を与えてくれる。(とかいう表現は、実は恥ずかしいから、今までできる限り抑えようとしていた)
そう考えると、何年も前の僕の記事は、本当に、あれ、何のためやってたんだろうと、意味不明である。
と思って読み進めると、「書いていることそれ自体の楽しさ」に触れた記事もあった。
「理想自己と現実自己の乖離」なんて概念も、2008年ぐらいからあった。
2008年、かなり、僕にとって激動であった。
正直、自分大好き人間みたいで気持ち悪くて、自己陶酔、ナルシスト、うーん兎に角バカみたいだなぁという思いが同時に起こりながら、僕は、過去の記事が面白いと思ってしまった。
面白いなって思うのは、今回が初めてじゃないけれど、特に、何だか、「お疲れ様」って思いがわいてきた。これはきっと初めてだと思う。
自分に対して、お疲れ様って、これ、今まで、うん、やっぱり無いな。
残念ながら、今のこの瞬間の僕に対しては、正直そんな風に思えない。
ただ、過去の、8年前の僕に対しては、お疲れ様って思う。
いや、もっといえば、それよりも前の自分があったわけで。
うーん、何だろ、直接的な自分のことになると、語るべき言葉が浮かんでこない。
ただ、今日、メモしようと、書いておこうと思ったのは、過去の、何年も前の自分からのメッセージで、結構励まされたというか、暇な時間をつぶせたというか、有意義な時間になったという思いを頂いたということから、
僕は、今、この書いていることなどが、10年後の僕に対して、何らか、意味あるものになって欲しいと、そう思ったのだ。
正直、こんなこと書いている、現時点の俺に対しては、何も感慨もない。
何へかは分からないが、もっと頑張れるんじゃないか、なんて思う。もっと効率的な時間の使い方があるんじゃないかなんても思う。
だけれども、8年前の僕に対しては、素直に、お疲れ様、まぁゆっくり休みなよ、と、そんな優しい言葉をかけてあげられそうなのだ。
なんだ、もっと、その、未来の、そんな10年とか後じゃなくても、せめて明日の俺に対してでも、何か声をかけてあげたい。
ええと、なんだ、その、頑張れ……?
頑張れって言葉好きじゃない、頑張れって何だよ、それってつまり、「苦しめ」ってこと? アホちゃう? 苦しむこと、悩むことが目的じゃないだろ? 何か目的のために、そのプロセスとして、過程として苦しんだり悩んだりすることは必要かもしれない。でも、頑張れって何? 思考停止な言葉だよな。具体的に、何をしろ、と、はっきり明確に言ってやれよ。
同じく、「気を付けてね♪」なんても嫌いな言葉だ。何を気を付けりゃええねん。
すぐさま書いておくべきは、別に、口語表現として、単なる挨拶としての言葉として、別に否定するまでもない。おはようございます~。お疲れ様でした~。え、何がおはようなの、おはようって何? お疲れ様って、何が疲れてんの? 疲れてると思ってんのにお前先に帰ろうってんの? ――とか、そんなこと思わない。言葉ってのは、「意味」を伝える言葉と、「感情」を伝える言葉があって、それは別である。
ただ、こうした、ブログとか日記とかログとかいったものにおいて、頑張れとか気を付けてとか、自分を信じてとか、そんな抽象まとった言葉なんて、不要である。書くだけ無駄である。
(すぐさま書いておくべきは……別に、そういったことを書いたところでダメじゃあない。そもそも、こうやって、「あー」とか「ええとー」「そのー」とか、そんなこと書いている時点で無駄ばっかである。ここで書きたいこと、メモしたいことはそうじゃなくて……だが、上手い表現が見つからないからカット)
非常に脱線した。
時間も切れた。
そう、明日の自分への言葉だ。
取りあえず、筋トレ音読ストレッチのルーチンは今日もOK。
明日も多分大丈夫だろう。問題は、4時起きぐらいになりそうな土曜日だ。
そんな土日を乗り切ると、もう11月になるわけだ。
早いなぁ。
今日も一日、後は寝るだけしか残っていない。
いやぁ、そんな風に思って、朝まで起きていようとか思ったことも、一度や二度ではなかった気がする。結局、明け方にものすごい睡魔に苦しむことになるから、もうやらないけれど……。
歳をとって夜更かしができなくなったなぁとかいう人を聞いたことあるけれど、正直、俺は今までずっと徹夜なんてまともにできた試しはない。
睡眠は大事だよ。残業すりゃ偉いなんてそんなのも前近代的だ。とはいえ、「効率」というだけではなくて、結局人の感情ってのが大きな影響を与えるものだってことも、別に敢えて書かずとももう分かってることなんだけど、ただ、ここで、このタイミングで書いておくのが、やっぱり、後で読んだ時の優しさになるわけだが。
そろそろ、来年の目標……できれば、目的を立てなきゃ、間に合わなそうだ。
目標を公言して、実際に行動して、やり遂げようとしている方がいて、僕も見習わなければならない。
目標、大事だよやっぱり、うん、その、何というか、「目標」という言葉にしてしまうと、うわ、なんか面倒だ……と思ってしまうものだけれども、でも、間違いなくこれがあるかどうかで生き方は変わると思う。決して、自己啓発ブログなんてもんじゃなくて、どっちかというとダメブログ系なもんなんだが、そんなこと関係なく、目標は大事だ、どう大事かって、書いてきたっけっか。また今度確認してみるか。
うん、そうだな、まず、今立てるべきは、目標を立てるって目標を立てた方がよいだろう。本当は、目的を見つける、というのが最終目標なんだが、それは、エレファントテクニックで、細かく分解しなければ到底たどり着けないほど遠そうな気がしている。
そう、目標ってのは、何も面倒なものではない。
何せ、目標は、本当に、自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことを目指すものだからだ。
だから、目標が短ければ短いほど、それは直感的な快楽、嬉しさ、気持ちよさ、楽しさに漸近する。
例えば、サツマイモとカボチャの煮つけを作って食べる、という目標を立てたとしよう。1時間もすれば、目標は達成され、美味しい料理を食べれるという快楽が待っている。
だから、逆を言えば、今現時点最高に幸せで満足であれば、全然目標なんて立てる必要はないのである。
いまその瞬間を精一杯楽しんでれば、それで人生大正解だ。
(この、今書いていることは、あくまで、人々の個々、個人的なベースにおいて、現実規定(物理環境)に応じた上でという制約付きなことをメモして置かなければならないだろう。当たり前だが、快楽殺人嗜好者の幸福追求は、認められるものではない。さて、では、快楽殺人嗜好者が、社会規定を前提とした上で幸せに生きるには、いったいどういった方法が考えられるだろうか。残念ながら、早いところ死んでもらった方がいい、となる。これはかなり極端な想定なのだけれども、この点、後々かなり重要性が帯びてくる。即ち、果てしない理想をもって、その理想を諦められず縋るしかない人がいたときに、その人にとっての真の幸せは、恐らく、可及的速やかな自死では無かろうか、という点である。この点、この内容については、今日はとても書ききれない。だが、いずれしっかり思考し書く必要があるだろう、もしくは、過去記事の中で同様のテーマで触れているものがないか探し出す必要があるだろう)
逆に、だ。
目標を必要とするというのは、何らかの「不満」があるということだ。
その不満があるというのは、「欲求」があるということだ。
欲求があるという時は、それを解決する何らかの行動が必要になるということ、そして、むしろ逆に、解決する方法があるだろうということだ。
卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたが、兎に角、目標、欲求、感情、の発生する流れを鋭く感じ取り、それを相互関連させながら明確な、確固たる目標やそれに対する行動方策を立てていく必要があるだろう。
この「理解」というのは、長らく、僕にとっても課題というか、問題であり続けた。
クオリア、というのは、認識や感覚の「質感」のこと、「青を青を感じるそれ自体の感覚」のことであると理解している。そして、そのクオリアというのが、誰しも持っているものだろうか、という懐疑が哲学的ゾンビという考え方である。
僕は、どうしたら、人と人がお互いを理解しあえるのだろうと、割かし真剣に考えていた。
そして、パレートの法則じゃなくて、ええと、何だっけ、人は言葉よりも表情やジェスチャーの方でコミュニケーションの意味を理解しているという、アレだ、ダメだすぐ思い出せない。
あ、今日も20分程度の時間制限付きで書いてます。
とにかく、理解って、何だろなと思う。そして、俺が論理的でなくて、学者にもなれないのは、その理解を突き詰めようとは思わなかった点だ。
結局、感覚的なことも重要なんだろ、と思ってしまうのだ。そして、論理的であることが必ずしも、僕の「目的」に合致しないだろうという思いもある。まぁもちろんこれは、単なる諦念、慢心、逃避とも言えるから、断言はできない。
ただ、先日の記事で、仏教は「感動」も否定する、ということを知ったと書いたが、僕は、「感動」は大事だと思うのだ。その感動とか、欲求というものを求める心性というのは、「ああ、若い人だねぇ」と見られるかもしれないが、それは心外である。
僕はむしろ、逆に今まで、その「感動」とかいったものを、可能な限り排除しようと試みてきた。僕の造語でいえば、感情のコントロールである。理性と論理性で、感情を思い通りに操ろうとしたのだ。
それが、昨今、僕は逆転している。逆に、その感情ってもんを、いわゆる「実感」を大事にしようという方策に変わっている。
とか、そういう表現、これら、実は、8年前ぐらいにかなり詳細に書いていたことが分かって驚いた。
ブログの意味
思うに、――最近、拍手押して頂ける場合が増えてとっても嬉しいけれども――ブログの意味とは、やっぱり、未来の自分への遺産みたいなもんだと思った。誰かに読んでもらえる、誰かに影響を与えられる可能性があるというその希望、これは、それが事実だろうがどうだろうが、その可能性だけで僕に充足感を与えてくれる。(とかいう表現は、実は恥ずかしいから、今までできる限り抑えようとしていた)
そう考えると、何年も前の僕の記事は、本当に、あれ、何のためやってたんだろうと、意味不明である。
と思って読み進めると、「書いていることそれ自体の楽しさ」に触れた記事もあった。
「理想自己と現実自己の乖離」なんて概念も、2008年ぐらいからあった。
2008年、かなり、僕にとって激動であった。
正直、自分大好き人間みたいで気持ち悪くて、自己陶酔、ナルシスト、うーん兎に角バカみたいだなぁという思いが同時に起こりながら、僕は、過去の記事が面白いと思ってしまった。
面白いなって思うのは、今回が初めてじゃないけれど、特に、何だか、「お疲れ様」って思いがわいてきた。これはきっと初めてだと思う。
自分に対して、お疲れ様って、これ、今まで、うん、やっぱり無いな。
残念ながら、今のこの瞬間の僕に対しては、正直そんな風に思えない。
ただ、過去の、8年前の僕に対しては、お疲れ様って思う。
いや、もっといえば、それよりも前の自分があったわけで。
うーん、何だろ、直接的な自分のことになると、語るべき言葉が浮かんでこない。
ただ、今日、メモしようと、書いておこうと思ったのは、過去の、何年も前の自分からのメッセージで、結構励まされたというか、暇な時間をつぶせたというか、有意義な時間になったという思いを頂いたということから、
僕は、今、この書いていることなどが、10年後の僕に対して、何らか、意味あるものになって欲しいと、そう思ったのだ。
正直、こんなこと書いている、現時点の俺に対しては、何も感慨もない。
何へかは分からないが、もっと頑張れるんじゃないか、なんて思う。もっと効率的な時間の使い方があるんじゃないかなんても思う。
だけれども、8年前の僕に対しては、素直に、お疲れ様、まぁゆっくり休みなよ、と、そんな優しい言葉をかけてあげられそうなのだ。
明日への言葉
ああ、もう、時間切れか。なんだ、もっと、その、未来の、そんな10年とか後じゃなくても、せめて明日の俺に対してでも、何か声をかけてあげたい。
ええと、なんだ、その、頑張れ……?
頑張れって言葉好きじゃない、頑張れって何だよ、それってつまり、「苦しめ」ってこと? アホちゃう? 苦しむこと、悩むことが目的じゃないだろ? 何か目的のために、そのプロセスとして、過程として苦しんだり悩んだりすることは必要かもしれない。でも、頑張れって何? 思考停止な言葉だよな。具体的に、何をしろ、と、はっきり明確に言ってやれよ。
同じく、「気を付けてね♪」なんても嫌いな言葉だ。何を気を付けりゃええねん。
すぐさま書いておくべきは、別に、口語表現として、単なる挨拶としての言葉として、別に否定するまでもない。おはようございます~。お疲れ様でした~。え、何がおはようなの、おはようって何? お疲れ様って、何が疲れてんの? 疲れてると思ってんのにお前先に帰ろうってんの? ――とか、そんなこと思わない。言葉ってのは、「意味」を伝える言葉と、「感情」を伝える言葉があって、それは別である。
ただ、こうした、ブログとか日記とかログとかいったものにおいて、頑張れとか気を付けてとか、自分を信じてとか、そんな抽象まとった言葉なんて、不要である。書くだけ無駄である。
(すぐさま書いておくべきは……別に、そういったことを書いたところでダメじゃあない。そもそも、こうやって、「あー」とか「ええとー」「そのー」とか、そんなこと書いている時点で無駄ばっかである。ここで書きたいこと、メモしたいことはそうじゃなくて……だが、上手い表現が見つからないからカット)
非常に脱線した。
時間も切れた。
そう、明日の自分への言葉だ。
取りあえず、筋トレ音読ストレッチのルーチンは今日もOK。
明日も多分大丈夫だろう。問題は、4時起きぐらいになりそうな土曜日だ。
そんな土日を乗り切ると、もう11月になるわけだ。
早いなぁ。
今日も一日、後は寝るだけしか残っていない。
いやぁ、そんな風に思って、朝まで起きていようとか思ったことも、一度や二度ではなかった気がする。結局、明け方にものすごい睡魔に苦しむことになるから、もうやらないけれど……。
歳をとって夜更かしができなくなったなぁとかいう人を聞いたことあるけれど、正直、俺は今までずっと徹夜なんてまともにできた試しはない。
睡眠は大事だよ。残業すりゃ偉いなんてそんなのも前近代的だ。とはいえ、「効率」というだけではなくて、結局人の感情ってのが大きな影響を与えるものだってことも、別に敢えて書かずとももう分かってることなんだけど、ただ、ここで、このタイミングで書いておくのが、やっぱり、後で読んだ時の優しさになるわけだが。
目標について
いやそうじゃなくて、何だ、その、早いなぁ。そろそろ、来年の目標……できれば、目的を立てなきゃ、間に合わなそうだ。
目標を公言して、実際に行動して、やり遂げようとしている方がいて、僕も見習わなければならない。
目標、大事だよやっぱり、うん、その、何というか、「目標」という言葉にしてしまうと、うわ、なんか面倒だ……と思ってしまうものだけれども、でも、間違いなくこれがあるかどうかで生き方は変わると思う。決して、自己啓発ブログなんてもんじゃなくて、どっちかというとダメブログ系なもんなんだが、そんなこと関係なく、目標は大事だ、どう大事かって、書いてきたっけっか。また今度確認してみるか。
うん、そうだな、まず、今立てるべきは、目標を立てるって目標を立てた方がよいだろう。本当は、目的を見つける、というのが最終目標なんだが、それは、エレファントテクニックで、細かく分解しなければ到底たどり着けないほど遠そうな気がしている。
そう、目標ってのは、何も面倒なものではない。
何せ、目標は、本当に、自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことを目指すものだからだ。
だから、目標が短ければ短いほど、それは直感的な快楽、嬉しさ、気持ちよさ、楽しさに漸近する。
例えば、サツマイモとカボチャの煮つけを作って食べる、という目標を立てたとしよう。1時間もすれば、目標は達成され、美味しい料理を食べれるという快楽が待っている。
だから、逆を言えば、今現時点最高に幸せで満足であれば、全然目標なんて立てる必要はないのである。
いまその瞬間を精一杯楽しんでれば、それで人生大正解だ。
(この、今書いていることは、あくまで、人々の個々、個人的なベースにおいて、現実規定(物理環境)に応じた上でという制約付きなことをメモして置かなければならないだろう。当たり前だが、快楽殺人嗜好者の幸福追求は、認められるものではない。さて、では、快楽殺人嗜好者が、社会規定を前提とした上で幸せに生きるには、いったいどういった方法が考えられるだろうか。残念ながら、早いところ死んでもらった方がいい、となる。これはかなり極端な想定なのだけれども、この点、後々かなり重要性が帯びてくる。即ち、果てしない理想をもって、その理想を諦められず縋るしかない人がいたときに、その人にとっての真の幸せは、恐らく、可及的速やかな自死では無かろうか、という点である。この点、この内容については、今日はとても書ききれない。だが、いずれしっかり思考し書く必要があるだろう、もしくは、過去記事の中で同様のテーマで触れているものがないか探し出す必要があるだろう)
逆に、だ。
目標を必要とするというのは、何らかの「不満」があるということだ。
その不満があるというのは、「欲求」があるということだ。
欲求があるという時は、それを解決する何らかの行動が必要になるということ、そして、むしろ逆に、解決する方法があるだろうということだ。
卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたが、兎に角、目標、欲求、感情、の発生する流れを鋭く感じ取り、それを相互関連させながら明確な、確固たる目標やそれに対する行動方策を立てていく必要があるだろう。
今日は、久々に早く帰ってくることができた、と思ったら、もう21時か。外食して帰ってきてお風呂に入ってストレッチ、音読して、後はボーっとしていた。
時間、あっというまだな。
筋トレ、先にやってしまうか。……よし、今日の日課終わり。
一週間続けられると、軌道に乗る。あとは、特殊事象にどう対応するかが問題だ。目下、今週の土日を乗り切れるか。後は、今年の正月あたりの帰省とかかな。いや、その前の忘年会シーズンも危険だ。とか考えると、一人でいた方がよほど自己研鑽には良いのではないか、と思いますが、いえいえ、人との会話が脳を活性化させるのですよ。別に他者がいなくても、声に出して、自分との対話でもいいと思いますよ、やったことありませんが。でも、こうやって、文章において自分会議はよく試しております。中々、続かないものなのですがね、これもまた。
俺、幸せな人間か?
ああ、そう思う。だから、俺の人生とお前の人生とっかえてくれ。
と、ギャンブルで自己破産された人にもちかけられたら、俺は無碍に断るだろう。相手にもしない。と、いうより、人に「騙される」というのが非常に好きじゃない。その「騙される」というのが嫌なので、逆にもう、人を「信じるしかできない」状態にまでなってきているが、一方で、「何も信じられていない」ともいえる。いわば、「裏切る」行為含めた信用なのであるが、それって、心から信じてないよね、とか批判もある。ただ、そういった、「こころから」とか、そういう表現はもう相手にしないことにしている。いや、口語として「あり」なのは分かるが、言語表現として、文章として、言葉として、所詮露に忽ち消え去る幻想でしかない。
……というのが、僕が、両親を事故でなくした人とか、50歳で天涯孤独で猫と暮らす女性とか、親や弟からお金を無心されてつつ派遣社員として頑張る30代の人とかのブログを読んで思った感想だ。
どこが感想なんだ……と自分でも思うけれども、結局なんだろう、一番僕の実感に近い言葉を選ぶなら、タイトルに挙げた、「きりのなさ」になると思う。
なんだろう。僕の、みじめで非リア充的なくだらない人生の表現を読んで、少しでも元気出たり、楽しんでもらうような、そんな役立て方してもらえたらいいな、ぐらい考えていたけれども、なんてことない。失恋したーとか離婚したーとか会社で上司に使えねぇ奴扱いされたーとか、その程度、なんら珍しくも何ともなくて。
うーん、じゃあ、ポジティブ日記でも書けばいいのだろうか。
「人生を好転させる7つの習慣」とか、「これで大丈夫! 物ぐさな人でも計画倒れを無くす方法」とか、そんなの書けばいいんだろうか。
いや、そもそも、書かんでいいよ、勝手にローカルな記事で自己満ひたってろ、ってことだろうか。
……ああ、こうなると、過去記事、
を参照する。
うーむ、まとめ、で、やっぱり、「役に立ちたい」と書いている。その「役に立つ」というのが、今揺らいできた。
そうすると、「整理しやすい」「後から読みやすい」「カテゴリ分け便利」の、表面的な理由だけが残ってくる。
それだけで、本当に続けてよいのか。
そう、前提として、やっぱり、こうして書いているのは、楽しいのである。結構、優位に楽しいのである。ゲームとかやってるより楽しかったりするのである。
だから、今後も、書くこと自体は多分、死ぬまで続くような気がする。まぁそれはいい、ただ、それを公開して何になるんやねん、と、そういうことだ。
そういう感覚のまま書いてるときって、たいてい、後から読んでも非常に面白くない。ある意味、「黒歴史」的な、後から読んで、「あああああうぁああぁ!!」と赤面し穴を掘って入りたくなるようなものになりがちである。
意外と、恋について云々最近書いている奴は、やべぇかなと思っていたけれども、案外、平気だった。それは多分、完全に傍観者になってしまってるからだというのと、それらを書いていた時、確かに、非常に不快な気持であったからだと思う。
それが、甘美な幻想、懐古的なエクスタシーの中で書いていたら、きっとおぞましいものに仕上がった気がする、恐ろしい。
だから本来、これらの記事は、文章は、言葉は、未来や過去の僕との対話であるべきであって、決して、他者へ向けたものであってはいけないと思う。いや故にそれが、どこかしら引っかかりになって、誰かの思考に幾何かでも影響を与えられたら、それは嬉しいことなのであって、そのことが、まさに、ブログやめようとしてたときにメッセージくれた二人の方への紛れもない、久々に思考の介在しない感謝の気持ちとなったわけだけれども、それは、いわば偶然の、幸運な出来事であったのであり、そこに、私の行為としての影響があったわけではないのだ。
思い出してきた、そう、僕が今日朝に思ったのは、努力信仰の否定、である。
思った、のだけれども、表現がすっ飛んでしまった。何だっけ? 思い出せない、まぁいいや。
結論だけ書くとすれば、「努力」として頑張っても、それは失敗する、ということだ。
努力自体を楽しみながらやらねばならない、と、そういうことだ。すぐさま、批判が飛んでくる、こわぇえ、ええと、そうだよな、人生そんな甘いもんじゃないよな、苦しいこともあるのが人生だよな、シッダールタさんも、一切皆苦って言ってたもんな。
仰る通りだ、認める、俺が間違っている……が、それでも、努力なんてもう知らん、と、言い切る。いや、お前が最近始めた、まぁ一般的には大したことない日課、ルーチンとか、仕事とか、何なの? それは、努力って言わないの?
まず、ルーチンは、「習慣」のためにやってることであり、努力とは違う。いや、今は確かに、努力なのかもしれないが、努力が目的ではない。洗濯や部屋の掃除は努力か? まぁ、汚部屋とかゴミ屋敷においては努力になるだろうが、じゃあ、歯を磨くとか、風呂に入るとか、それは努力か? 今日とか段々寒くなってくると、風呂に入るのも面倒になってくるが、別にそれを努力とは言わない。普通にするのが習慣だ。
習慣にする過程に、わずかばかり、努力があるかもしれない。けれども、努力は、できる限り「無い」方がいい。だから、努力なんてしない方がいい、ということだ。
努力はしない方がいい、と書いた。
でも、じゃあ、やりたくない仕事、面倒な仕事を、お金稼ぐために頑張ってやるのって、それ、努力というんじゃないのか、と。そして、そういうのひっくるめて、人生って奴で、それは必要なことだろう、好きなことばっかり追求するのって、そんなの無茶だろうと、前の記事で書いた。
これは、矛盾じゃなかろうか。
まず、これはくだらないレベルのことになるけれども、この世は、ポジティブとネガティブと、どっちがいいんだっけ? ポジティブだ。徹底して、ポジティブであるのが、この世界の「正解」である。
んじゃあ、面倒な勉強とか、やりたくない仕事を、無理やり嫌々やることは、正解か? 否。ダメなことだ。
であれば、やっぱり、楽しいこと、好きなことをとことんやって生きていくのが、至上である、ということになる。
これが前提だ。そして、これは正しい。正論だ。覆らない。「自分は、自分が不幸なのが幸せです♪」なんて人がいたとしても、何のことは無い、やっぱり、それは「幸せ」なのだ。
苦しい、イヤだ、めんどくさい、心配だ、焦り。
それらネガティブな感情は、何故あるのだろうか? それは、リスクヘッジ、危機回避のために必要な心の働きである。
生きたい、という本能のために、自己保存するために、人は、危険を回避しようと頭を使う。
メンドクサイという感情から、もっと効率的な行動方策を考え出し、焦りからは、スピーディーなアウトプットパフォーマンスを発揮させる。
であれば、常に満々大満足ハッピー超サイコー、な状態など、原理的に不可能である。
と、同時に、最初の前提のとおり、やっぱり、楽しいこと・好きなことが、正解である。矛盾、矛盾。
その矛盾を調整するのが、人間が行うべきすべての行動、思考である。
だから、人間は、どう生きるかというと、その、現実と、発生する感情とを勘案し、可及的速やかに、そしてどこまでもポジティブに、明るく、好きで、楽しく、幸せにしていくのが、正しい生き方なのである。
俺はダメな人間だ。
頑張ったって成果はでない。
ぶさいくだし体格もよくない。
頭も悪い。
一芸に秀でてるわけでない。
流されやすい。
疲れやすい。
などなど、ネガティブなことを書いたり言ったり、やったり考えたりしては、一瞬たりともダメなのだ。
世界は、自分の頭の中で創造した物語などではない。
いくら、発生する負の感情を抑圧しようと、それは収まることを知らない。
その負の感情を利用して、現実的な行動方策(それは時に攻撃的なものであったろう)に昇華してきたが、その方針は、精神力(MP)を大量に消費することになる。
メンタルポイント(MP)は、嬉しいことや楽しいことがあったりすると少し回復するけれども、その均衡が崩れ始めると、ゼロサムゲームどころか、人生のあらゆる場面において、何ら楽しいとか気持ちいとかそんな感情が発生しなくなっていくのである。
無味乾燥。まだ、何も感じなくなるのであればいいが、だんだん、すべてに不満や、怒りをもつようになる。そのもじゃもじゃ、ぐちゃぐちゃ、トゲトゲが、外に向かえば他者を物理的に傷つけるし、自分に向かえば自殺に繋がったりする。
こうなると、もう、単純に救い出すことは困難だ。
人は変われない、とか、大人になると変われなくなるとか、巷では言われるけれども、俺は嫌いな言葉だ。人はいつ、どんなときでも、変わることができる。いや、その言い方すらバカバカしい、人は常に変わっている。
ただ、その、人を人足らしめるもの、それは前々の記事などでも書いてきたが、「記憶」と「感情」、それは、長年蓄積され、構築されたものは、変わりにくい、否むしろこれについては、変わらないと言っていい。積み重なった思いから、感情が抜け落ちたとしても、それは、記憶として残り続ける。無かったことには、リセットされることには、ならないのだ。
だが、その、記憶や感情を用いるのは、ほかならぬ、今、現存している、この瞬間の、僕たちだ。
今、この瞬間にも、考え方を変えることはできるのだ。僕は、それを信じてやまない。
けれども、そうなのだけれども、負の感情に支配されてしまうと、MPの回復は相当困難になってしまう。
それは、ポジティブであるのが至上命題だからだ。
現実と自己をポジティブな方向に調整するのが正しい生き方だ。
しかし、負の感情の発生は避けられない。
負の感情それ自体は、人間の生存方策上必要なものだからだ。
だが、負の感情に支配されてしまうと、人は正しい生き方ができなくなる。
じゃあ、お前の日記は、何故いつもネガティブなことを書くのか。
アンサー、それは、発生する感情を無視しても、それは逆効果だと分かっているからだ。
自分のこと、本気でいい人間だと思っていられる人はいい。
だが、自分の内から発せられる言葉を無視して、周囲から求められる人間像であろうとし続けたとき、発生することは容易に想像できる、というよりも、俺は、もう欲求がなくなっていった。
何に対しても興味をなくしてしまった。
そう、負の感情の無視は、負の感情だけでなく、すべての感情をそぎ落としてしまうのである。
感情感情、と、異なる言葉を使ってきたが、最近の僕の言葉からすれば、「実感」というのと同義である。実感と感情を大事にしようということだ。
スゲー人いっぱいいる。
ポジティブな方面はもちろんだけど、ネガティブな方面も、突き抜けてすごい人がいっぱいいる。
一凡人の俺の考えなんて、何になるってんだ、いや何にもならんじゃないか……。
という思いを、無視しちゃならん、ということだ。
いや、今も、そう思うし、正直不快な状態であるのは間違いないけれども、でも、でもだ。
それを表現し、カタチにしておくのは、非常に重要であるということだ。
なにせ、感情とか実感とか、大事だ大事だいってるわりに、その感情とか実感ってのが、「なんんなのか」さっぱり分からんからだ。
タイトルに表現したように、上見ても下見てもきりがないから、だから、とにかく自分の気持ちを大事にしようぜ、ということ、それが、今この瞬間表現できたから、「ああ、俺、そうか、そういう気持ちだったんだな」となるのであって、これをしないと、「うーん、何だか、よく分からないけど、他の人の記事読んでたら焦りというか不安というか、なんだか不快な気分になってきたなぁ……」となって、強い酒でも飲んで忘却しようと試みるかもしれない。
「忘れることは大事さ」
「酒ってのが、人生には必要なもんだよ」
という、人生の先輩の教訓はあるかもしれない、だが、僕は、それらには反抗する。
徹底して考えてやる、表現してやる、と、そういう宣戦布告である。
そのうえで、ハッピーエンドを迎える、そういうシナリオだ。
だから、俺のこれまでの記事は、そしてこれからの記事も、全部、ハッピーハッピー超ハッピーなものなのだけれども、残念ながらそれが伝わらずに、気持ち悪い、何言ってるか分からない、さようなら、となることもあったわけで、これからもあろうことと思うので、何とも恐怖なのであるけれど。
いやぁ、ハッピーエンドじゃない物語なんて、読みたくないじゃん?
確かに、昔、バッドエンドだってありだ、と思っていた。20代前半くらいだったろうか。いや、ここでいうバッドエンドってのは、「俺の人生失敗ばかりだった。今日も僅かばかりの日当をもらうためバイトに行き、一日の締めくくりはコンビニ弁当だ。こんな孤独な人生、もう嫌だ。俺は一人寂しく、大量の睡眠薬を口に運んだ」という物語があったとして、その事細かな心理描写がしっかりされていたら、それは、単純なバッドエンドとは俺は思わない気がする。
彼、は、そこで死を選んだのだとしても、彼のその悲惨で目も当てられない辛い人生に、ようやく安寧が訪れたとしたら、それはそれで、不謹慎極まりないが、かっこつきの「ハッピーエンド」と解釈できまいか、いや、そう解釈したい、いや、俺はする。そうじゃなきゃ、彼が可哀そう……かわいそう? 同情? くだらん感情だ、いや、まぁそうだとしても、とにかく、上の物語はハッピーエンドだと、俺はしたい。
本当のバッドエンドってのは、ネトラレ、はどうか分からないが、人騙して私服こやすクソ野郎が、結局何のお咎めなく幸せに年取って孫に看取られて死ぬとか、それは本当の意味のバッドエンドだ。そんな物語読みたくない、いや害悪だとすら思うだろう。屑には相応の報いがあって欲しいと思う。(まー、その、屑とかクソ野郎とかいう定義もまた、とくに明確なわけじゃなくて、その時々で変わる感覚的なものに過ぎないわけだけれど)
少し話がずれたが、別に、死そのものがバッドエンドってわけじゃない。
仏教聖典において、ブッダがクシナガラで入滅したのが、弟子たちはみな涙して惜しむだろうけれども、別にバッドエンディングなんかじゃないだろう、
(キリストさんは何か復活しちゃうから、ここでの例えがちょっと違う気がした)
まぁ……その、なんだ。
割かし、なんか、このブログ続けてどうすんだ、と、本気で思ってしまっていたが、取りあえず、ハッピーエンドにするまで、もう少し続けさせて頂きたい。
連載中止、打ち切りとか、嫌だ。
どんなものであれ、完結、完成したものってのは、価値があるものだと思う。
小学校ぐらいに作曲した稚拙な曲であっても、逆に、今それよりはもっと良いのを作れると思うのであれば、それはそれでとても価値があることだ。
何事も、諦めないで最後までやり通すことが大事なのだ……
……と、何だかきれいな感じで終わろうとしたけれども、またすぐさま、「諦めるということの重要性と、その使い方について」とか浮かんでしまった。
うーん……、どうしても、何だか、表現するたびに違和感が残るんだよな。
確かに、「理想と現実のギャップ」とか、「実感の重要性」とか、違和感がなくなってきた表現もあるのだけれども、総体として何か事象を表現しようとしたとき、又は、ある事象から抽象的にして応用できるように試みたとき、どうしても様々な違和感が発生していくのである。
例えば、「真理なんてない」という何度か書いてみた表現も、それはそれでやはり違和感なのである。そんな理由を考えながら殆ど指を止めずに書いていると、気づいたら、おぉ?! 1時間半も過ぎている、というわけか。
――命は光陰に移されて暫くも停め難し。
時間、あっというまだな。
筋トレ、先にやってしまうか。……よし、今日の日課終わり。
一週間続けられると、軌道に乗る。あとは、特殊事象にどう対応するかが問題だ。目下、今週の土日を乗り切れるか。後は、今年の正月あたりの帰省とかかな。いや、その前の忘年会シーズンも危険だ。とか考えると、一人でいた方がよほど自己研鑽には良いのではないか、と思いますが、いえいえ、人との会話が脳を活性化させるのですよ。別に他者がいなくても、声に出して、自分との対話でもいいと思いますよ、やったことありませんが。でも、こうやって、文章において自分会議はよく試しております。中々、続かないものなのですがね、これもまた。
ネガティブ日記を読んで
なんだろう、例えば、お外でラーメン食べてきました、超美味しかったです、と書いたとして、それに対して、「なんだお前、リッチじゃないか。こちとら、カップラーメンだって贅沢で、袋めんしか食えないんだぞ」とかコメントされても、正直複雑な表情しかできん。俺、幸せな人間か?
ああ、そう思う。だから、俺の人生とお前の人生とっかえてくれ。
と、ギャンブルで自己破産された人にもちかけられたら、俺は無碍に断るだろう。相手にもしない。と、いうより、人に「騙される」というのが非常に好きじゃない。その「騙される」というのが嫌なので、逆にもう、人を「信じるしかできない」状態にまでなってきているが、一方で、「何も信じられていない」ともいえる。いわば、「裏切る」行為含めた信用なのであるが、それって、心から信じてないよね、とか批判もある。ただ、そういった、「こころから」とか、そういう表現はもう相手にしないことにしている。いや、口語として「あり」なのは分かるが、言語表現として、文章として、言葉として、所詮露に忽ち消え去る幻想でしかない。
……というのが、僕が、両親を事故でなくした人とか、50歳で天涯孤独で猫と暮らす女性とか、親や弟からお金を無心されてつつ派遣社員として頑張る30代の人とかのブログを読んで思った感想だ。
どこが感想なんだ……と自分でも思うけれども、結局なんだろう、一番僕の実感に近い言葉を選ぶなら、タイトルに挙げた、「きりのなさ」になると思う。
なんだろう。僕の、みじめで非リア充的なくだらない人生の表現を読んで、少しでも元気出たり、楽しんでもらうような、そんな役立て方してもらえたらいいな、ぐらい考えていたけれども、なんてことない。失恋したーとか離婚したーとか会社で上司に使えねぇ奴扱いされたーとか、その程度、なんら珍しくも何ともなくて。
うーん、じゃあ、ポジティブ日記でも書けばいいのだろうか。
「人生を好転させる7つの習慣」とか、「これで大丈夫! 物ぐさな人でも計画倒れを無くす方法」とか、そんなの書けばいいんだろうか。
いや、そもそも、書かんでいいよ、勝手にローカルな記事で自己満ひたってろ、ってことだろうか。
……ああ、こうなると、過去記事、
何故ブログを書くのか
・整理しやすいから・後から読みやすいから・カテゴリ分けが便利これらは表面上の理由。じゃあ非公開でもいいじゃないか、となる。・公開を意識することで、文章が読みやすくなり、結果あとから自分が読んだ時も理解しやすい・少しでも、自分の苦悩などが、誰かの役に立ってほしい(笑いでも、カタルシスでも、参考としてでも)<まとめ>役に立ちたい、その思いから、ブログを書き、公開している。
を参照する。
うーむ、まとめ、で、やっぱり、「役に立ちたい」と書いている。その「役に立つ」というのが、今揺らいできた。
そうすると、「整理しやすい」「後から読みやすい」「カテゴリ分け便利」の、表面的な理由だけが残ってくる。
それだけで、本当に続けてよいのか。
そう、前提として、やっぱり、こうして書いているのは、楽しいのである。結構、優位に楽しいのである。ゲームとかやってるより楽しかったりするのである。
だから、今後も、書くこと自体は多分、死ぬまで続くような気がする。まぁそれはいい、ただ、それを公開して何になるんやねん、と、そういうことだ。
結局単なる自慢になってはいないか
常々、気を付けなければと思うのは、「俺、こんなこと考えられますよ、すごいでしょw」的な感覚になってはいまいか、という心配。そういう感覚のまま書いてるときって、たいてい、後から読んでも非常に面白くない。ある意味、「黒歴史」的な、後から読んで、「あああああうぁああぁ!!」と赤面し穴を掘って入りたくなるようなものになりがちである。
意外と、恋について云々最近書いている奴は、やべぇかなと思っていたけれども、案外、平気だった。それは多分、完全に傍観者になってしまってるからだというのと、それらを書いていた時、確かに、非常に不快な気持であったからだと思う。
それが、甘美な幻想、懐古的なエクスタシーの中で書いていたら、きっとおぞましいものに仕上がった気がする、恐ろしい。
だから本来、これらの記事は、文章は、言葉は、未来や過去の僕との対話であるべきであって、決して、他者へ向けたものであってはいけないと思う。いや故にそれが、どこかしら引っかかりになって、誰かの思考に幾何かでも影響を与えられたら、それは嬉しいことなのであって、そのことが、まさに、ブログやめようとしてたときにメッセージくれた二人の方への紛れもない、久々に思考の介在しない感謝の気持ちとなったわけだけれども、それは、いわば偶然の、幸運な出来事であったのであり、そこに、私の行為としての影響があったわけではないのだ。
思い出してきた、そう、僕が今日朝に思ったのは、努力信仰の否定、である。
努力信仰の否定
今日朝に書いた内容において、お金がなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。彼女ができなくて困ってる人はそれを得るために努力せよ。しかし、現実の存在規定は忘れるな。国家予算レベルの金を手にするのは個人では無理だし、アイドルレベルの美貌の女の子と付き合うのは無理だ。しかし、現実への働きかけと、自らの存在規定の変化によって、理想自己と現実自己のかい離を小さくすることはできる。それを人は努力といい、イキイキしているといい、前向きだといい、頑張ってるといい、かっこいいという。と書いたけれども、その「努力」を、実はすぐさま否定しなければならないと、書き終わって駅の中を歩きながら思っていた。
思った、のだけれども、表現がすっ飛んでしまった。何だっけ? 思い出せない、まぁいいや。
結論だけ書くとすれば、「努力」として頑張っても、それは失敗する、ということだ。
努力自体を楽しみながらやらねばならない、と、そういうことだ。すぐさま、批判が飛んでくる、こわぇえ、ええと、そうだよな、人生そんな甘いもんじゃないよな、苦しいこともあるのが人生だよな、シッダールタさんも、一切皆苦って言ってたもんな。
仰る通りだ、認める、俺が間違っている……が、それでも、努力なんてもう知らん、と、言い切る。いや、お前が最近始めた、まぁ一般的には大したことない日課、ルーチンとか、仕事とか、何なの? それは、努力って言わないの?
まず、ルーチンは、「習慣」のためにやってることであり、努力とは違う。いや、今は確かに、努力なのかもしれないが、努力が目的ではない。洗濯や部屋の掃除は努力か? まぁ、汚部屋とかゴミ屋敷においては努力になるだろうが、じゃあ、歯を磨くとか、風呂に入るとか、それは努力か? 今日とか段々寒くなってくると、風呂に入るのも面倒になってくるが、別にそれを努力とは言わない。普通にするのが習慣だ。
習慣にする過程に、わずかばかり、努力があるかもしれない。けれども、努力は、できる限り「無い」方がいい。だから、努力なんてしない方がいい、ということだ。
生き方について
本当は、「生きる意味」を考えたいところだが、多分、「生き方」を書いているうちに時間切れというか、限界になりそうだ(頭と体が)。努力はしない方がいい、と書いた。
でも、じゃあ、やりたくない仕事、面倒な仕事を、お金稼ぐために頑張ってやるのって、それ、努力というんじゃないのか、と。そして、そういうのひっくるめて、人生って奴で、それは必要なことだろう、好きなことばっかり追求するのって、そんなの無茶だろうと、前の記事で書いた。
これは、矛盾じゃなかろうか。
まず、これはくだらないレベルのことになるけれども、この世は、ポジティブとネガティブと、どっちがいいんだっけ? ポジティブだ。徹底して、ポジティブであるのが、この世界の「正解」である。
んじゃあ、面倒な勉強とか、やりたくない仕事を、無理やり嫌々やることは、正解か? 否。ダメなことだ。
であれば、やっぱり、楽しいこと、好きなことをとことんやって生きていくのが、至上である、ということになる。
これが前提だ。そして、これは正しい。正論だ。覆らない。「自分は、自分が不幸なのが幸せです♪」なんて人がいたとしても、何のことは無い、やっぱり、それは「幸せ」なのだ。
現実とのギャップ
次に、何それ、できんの、それ? 現実的なの? という問い。苦しい、イヤだ、めんどくさい、心配だ、焦り。
それらネガティブな感情は、何故あるのだろうか? それは、リスクヘッジ、危機回避のために必要な心の働きである。
生きたい、という本能のために、自己保存するために、人は、危険を回避しようと頭を使う。
メンドクサイという感情から、もっと効率的な行動方策を考え出し、焦りからは、スピーディーなアウトプットパフォーマンスを発揮させる。
であれば、常に満々大満足ハッピー超サイコー、な状態など、原理的に不可能である。
と、同時に、最初の前提のとおり、やっぱり、楽しいこと・好きなことが、正解である。矛盾、矛盾。
その矛盾を調整するのが、人間が行うべきすべての行動、思考である。
だから、人間は、どう生きるかというと、その、現実と、発生する感情とを勘案し、可及的速やかに、そしてどこまでもポジティブに、明るく、好きで、楽しく、幸せにしていくのが、正しい生き方なのである。
俺はダメな人間だ。
頑張ったって成果はでない。
ぶさいくだし体格もよくない。
頭も悪い。
一芸に秀でてるわけでない。
流されやすい。
疲れやすい。
などなど、ネガティブなことを書いたり言ったり、やったり考えたりしては、一瞬たりともダメなのだ。
感情の処遇
と、そんなこと言っても、感情は発生する。世界は、自分の頭の中で創造した物語などではない。
いくら、発生する負の感情を抑圧しようと、それは収まることを知らない。
その負の感情を利用して、現実的な行動方策(それは時に攻撃的なものであったろう)に昇華してきたが、その方針は、精神力(MP)を大量に消費することになる。
メンタルポイント(MP)は、嬉しいことや楽しいことがあったりすると少し回復するけれども、その均衡が崩れ始めると、ゼロサムゲームどころか、人生のあらゆる場面において、何ら楽しいとか気持ちいとかそんな感情が発生しなくなっていくのである。
無味乾燥。まだ、何も感じなくなるのであればいいが、だんだん、すべてに不満や、怒りをもつようになる。そのもじゃもじゃ、ぐちゃぐちゃ、トゲトゲが、外に向かえば他者を物理的に傷つけるし、自分に向かえば自殺に繋がったりする。
こうなると、もう、単純に救い出すことは困難だ。
人は変われない、とか、大人になると変われなくなるとか、巷では言われるけれども、俺は嫌いな言葉だ。人はいつ、どんなときでも、変わることができる。いや、その言い方すらバカバカしい、人は常に変わっている。
ただ、その、人を人足らしめるもの、それは前々の記事などでも書いてきたが、「記憶」と「感情」、それは、長年蓄積され、構築されたものは、変わりにくい、否むしろこれについては、変わらないと言っていい。積み重なった思いから、感情が抜け落ちたとしても、それは、記憶として残り続ける。無かったことには、リセットされることには、ならないのだ。
だが、その、記憶や感情を用いるのは、ほかならぬ、今、現存している、この瞬間の、僕たちだ。
今、この瞬間にも、考え方を変えることはできるのだ。僕は、それを信じてやまない。
けれども、そうなのだけれども、負の感情に支配されてしまうと、MPの回復は相当困難になってしまう。
まとめ
努力なんてしてはいけない。それは、ポジティブであるのが至上命題だからだ。
現実と自己をポジティブな方向に調整するのが正しい生き方だ。
しかし、負の感情の発生は避けられない。
負の感情それ自体は、人間の生存方策上必要なものだからだ。
だが、負の感情に支配されてしまうと、人は正しい生き方ができなくなる。
じゃあ、お前の日記は、何故いつもネガティブなことを書くのか。
アンサー、それは、発生する感情を無視しても、それは逆効果だと分かっているからだ。
自分のこと、本気でいい人間だと思っていられる人はいい。
だが、自分の内から発せられる言葉を無視して、周囲から求められる人間像であろうとし続けたとき、発生することは容易に想像できる、というよりも、俺は、もう欲求がなくなっていった。
何に対しても興味をなくしてしまった。
そう、負の感情の無視は、負の感情だけでなく、すべての感情をそぎ落としてしまうのである。
感情感情、と、異なる言葉を使ってきたが、最近の僕の言葉からすれば、「実感」というのと同義である。実感と感情を大事にしようということだ。
スゲー人いっぱいいる。
ポジティブな方面はもちろんだけど、ネガティブな方面も、突き抜けてすごい人がいっぱいいる。
一凡人の俺の考えなんて、何になるってんだ、いや何にもならんじゃないか……。
という思いを、無視しちゃならん、ということだ。
いや、今も、そう思うし、正直不快な状態であるのは間違いないけれども、でも、でもだ。
それを表現し、カタチにしておくのは、非常に重要であるということだ。
なにせ、感情とか実感とか、大事だ大事だいってるわりに、その感情とか実感ってのが、「なんんなのか」さっぱり分からんからだ。
タイトルに表現したように、上見ても下見てもきりがないから、だから、とにかく自分の気持ちを大事にしようぜ、ということ、それが、今この瞬間表現できたから、「ああ、俺、そうか、そういう気持ちだったんだな」となるのであって、これをしないと、「うーん、何だか、よく分からないけど、他の人の記事読んでたら焦りというか不安というか、なんだか不快な気分になってきたなぁ……」となって、強い酒でも飲んで忘却しようと試みるかもしれない。
「忘れることは大事さ」
「酒ってのが、人生には必要なもんだよ」
という、人生の先輩の教訓はあるかもしれない、だが、僕は、それらには反抗する。
徹底して考えてやる、表現してやる、と、そういう宣戦布告である。
そのうえで、ハッピーエンドを迎える、そういうシナリオだ。
だから、俺のこれまでの記事は、そしてこれからの記事も、全部、ハッピーハッピー超ハッピーなものなのだけれども、残念ながらそれが伝わらずに、気持ち悪い、何言ってるか分からない、さようなら、となることもあったわけで、これからもあろうことと思うので、何とも恐怖なのであるけれど。
ハッピーエンド
大丈夫か、なんか、話しが最初メモしておこうと思ったこととずれてないか? まぁいい、とにかく、思いつくままメモしておこう。いやぁ、ハッピーエンドじゃない物語なんて、読みたくないじゃん?
確かに、昔、バッドエンドだってありだ、と思っていた。20代前半くらいだったろうか。いや、ここでいうバッドエンドってのは、「俺の人生失敗ばかりだった。今日も僅かばかりの日当をもらうためバイトに行き、一日の締めくくりはコンビニ弁当だ。こんな孤独な人生、もう嫌だ。俺は一人寂しく、大量の睡眠薬を口に運んだ」という物語があったとして、その事細かな心理描写がしっかりされていたら、それは、単純なバッドエンドとは俺は思わない気がする。
彼、は、そこで死を選んだのだとしても、彼のその悲惨で目も当てられない辛い人生に、ようやく安寧が訪れたとしたら、それはそれで、不謹慎極まりないが、かっこつきの「ハッピーエンド」と解釈できまいか、いや、そう解釈したい、いや、俺はする。そうじゃなきゃ、彼が可哀そう……かわいそう? 同情? くだらん感情だ、いや、まぁそうだとしても、とにかく、上の物語はハッピーエンドだと、俺はしたい。
本当のバッドエンドってのは、ネトラレ、はどうか分からないが、人騙して私服こやすクソ野郎が、結局何のお咎めなく幸せに年取って孫に看取られて死ぬとか、それは本当の意味のバッドエンドだ。そんな物語読みたくない、いや害悪だとすら思うだろう。屑には相応の報いがあって欲しいと思う。(まー、その、屑とかクソ野郎とかいう定義もまた、とくに明確なわけじゃなくて、その時々で変わる感覚的なものに過ぎないわけだけれど)
少し話がずれたが、別に、死そのものがバッドエンドってわけじゃない。
仏教聖典において、ブッダがクシナガラで入滅したのが、弟子たちはみな涙して惜しむだろうけれども、別にバッドエンディングなんかじゃないだろう、
(キリストさんは何か復活しちゃうから、ここでの例えがちょっと違う気がした)
まぁ……その、なんだ。
割かし、なんか、このブログ続けてどうすんだ、と、本気で思ってしまっていたが、取りあえず、ハッピーエンドにするまで、もう少し続けさせて頂きたい。
連載中止、打ち切りとか、嫌だ。
どんなものであれ、完結、完成したものってのは、価値があるものだと思う。
小学校ぐらいに作曲した稚拙な曲であっても、逆に、今それよりはもっと良いのを作れると思うのであれば、それはそれでとても価値があることだ。
何事も、諦めないで最後までやり通すことが大事なのだ……
……と、何だかきれいな感じで終わろうとしたけれども、またすぐさま、「諦めるということの重要性と、その使い方について」とか浮かんでしまった。
うーん……、どうしても、何だか、表現するたびに違和感が残るんだよな。
確かに、「理想と現実のギャップ」とか、「実感の重要性」とか、違和感がなくなってきた表現もあるのだけれども、総体として何か事象を表現しようとしたとき、又は、ある事象から抽象的にして応用できるように試みたとき、どうしても様々な違和感が発生していくのである。
例えば、「真理なんてない」という何度か書いてみた表現も、それはそれでやはり違和感なのである。そんな理由を考えながら殆ど指を止めずに書いていると、気づいたら、おぉ?! 1時間半も過ぎている、というわけか。
――命は光陰に移されて暫くも停め難し。