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自分へのお疲れ様
2016/10/28 00:23 | Comments(0) | 思考及び書くこと
人の紡ぐ文章は面白いなぁ。記憶言語学(?)を学び翻訳家をされている人のブログを拝見し、それに寄せられていたコメントと、それに対する返信、やりとりを読んでいて、何だかすげーレベルで会話してるな! かっけぇな! よくわかんねーけど! と思った。

この「理解」というのは、長らく、僕にとっても課題というか、問題であり続けた。
クオリア、というのは、認識や感覚の「質感」のこと、「青を青を感じるそれ自体の感覚」のことであると理解している。そして、そのクオリアというのが、誰しも持っているものだろうか、という懐疑が哲学的ゾンビという考え方である。

僕は、どうしたら、人と人がお互いを理解しあえるのだろうと、割かし真剣に考えていた。
そして、パレートの法則じゃなくて、ええと、何だっけ、人は言葉よりも表情やジェスチャーの方でコミュニケーションの意味を理解しているという、アレだ、ダメだすぐ思い出せない。
あ、今日も20分程度の時間制限付きで書いてます。

とにかく、理解って、何だろなと思う。そして、俺が論理的でなくて、学者にもなれないのは、その理解を突き詰めようとは思わなかった点だ。
結局、感覚的なことも重要なんだろ、と思ってしまうのだ。そして、論理的であることが必ずしも、僕の「目的」に合致しないだろうという思いもある。まぁもちろんこれは、単なる諦念、慢心、逃避とも言えるから、断言はできない。

ただ、先日の記事で、仏教は「感動」も否定する、ということを知ったと書いたが、僕は、「感動」は大事だと思うのだ。その感動とか、欲求というものを求める心性というのは、「ああ、若い人だねぇ」と見られるかもしれないが、それは心外である。
僕はむしろ、逆に今まで、その「感動」とかいったものを、可能な限り排除しようと試みてきた。僕の造語でいえば、感情のコントロールである。理性と論理性で、感情を思い通りに操ろうとしたのだ。

それが、昨今、僕は逆転している。逆に、その感情ってもんを、いわゆる「実感」を大事にしようという方策に変わっている。

とか、そういう表現、これら、実は、8年前ぐらいにかなり詳細に書いていたことが分かって驚いた。

ブログの意味

思うに、――最近、拍手押して頂ける場合が増えてとっても嬉しいけれども――ブログの意味とは、やっぱり、未来の自分への遺産みたいなもんだと思った。

誰かに読んでもらえる、誰かに影響を与えられる可能性があるというその希望、これは、それが事実だろうがどうだろうが、その可能性だけで僕に充足感を与えてくれる。(とかいう表現は、実は恥ずかしいから、今までできる限り抑えようとしていた)

そう考えると、何年も前の僕の記事は、本当に、あれ、何のためやってたんだろうと、意味不明である。

と思って読み進めると、「書いていることそれ自体の楽しさ」に触れた記事もあった。
「理想自己と現実自己の乖離」なんて概念も、2008年ぐらいからあった。

2008年、かなり、僕にとって激動であった。


正直、自分大好き人間みたいで気持ち悪くて、自己陶酔、ナルシスト、うーん兎に角バカみたいだなぁという思いが同時に起こりながら、僕は、過去の記事が面白いと思ってしまった。


面白いなって思うのは、今回が初めてじゃないけれど、特に、何だか、「お疲れ様」って思いがわいてきた。これはきっと初めてだと思う。

自分に対して、お疲れ様って、これ、今まで、うん、やっぱり無いな。
残念ながら、今のこの瞬間の僕に対しては、正直そんな風に思えない。

ただ、過去の、8年前の僕に対しては、お疲れ様って思う。


いや、もっといえば、それよりも前の自分があったわけで。


うーん、何だろ、直接的な自分のことになると、語るべき言葉が浮かんでこない。
ただ、今日、メモしようと、書いておこうと思ったのは、過去の、何年も前の自分からのメッセージで、結構励まされたというか、暇な時間をつぶせたというか、有意義な時間になったという思いを頂いたということから、

僕は、今、この書いていることなどが、10年後の僕に対して、何らか、意味あるものになって欲しいと、そう思ったのだ。

正直、こんなこと書いている、現時点の俺に対しては、何も感慨もない。
何へかは分からないが、もっと頑張れるんじゃないか、なんて思う。もっと効率的な時間の使い方があるんじゃないかなんても思う。

だけれども、8年前の僕に対しては、素直に、お疲れ様、まぁゆっくり休みなよ、と、そんな優しい言葉をかけてあげられそうなのだ。

明日への言葉

ああ、もう、時間切れか。
なんだ、もっと、その、未来の、そんな10年とか後じゃなくても、せめて明日の俺に対してでも、何か声をかけてあげたい。

ええと、なんだ、その、頑張れ……?

頑張れって言葉好きじゃない、頑張れって何だよ、それってつまり、「苦しめ」ってこと? アホちゃう? 苦しむこと、悩むことが目的じゃないだろ? 何か目的のために、そのプロセスとして、過程として苦しんだり悩んだりすることは必要かもしれない。でも、頑張れって何? 思考停止な言葉だよな。具体的に、何をしろ、と、はっきり明確に言ってやれよ。
同じく、「気を付けてね♪」なんても嫌いな言葉だ。何を気を付けりゃええねん。

すぐさま書いておくべきは、別に、口語表現として、単なる挨拶としての言葉として、別に否定するまでもない。おはようございます~。お疲れ様でした~。え、何がおはようなの、おはようって何? お疲れ様って、何が疲れてんの? 疲れてると思ってんのにお前先に帰ろうってんの? ――とか、そんなこと思わない。言葉ってのは、「意味」を伝える言葉と、「感情」を伝える言葉があって、それは別である。

ただ、こうした、ブログとか日記とかログとかいったものにおいて、頑張れとか気を付けてとか、自分を信じてとか、そんな抽象まとった言葉なんて、不要である。書くだけ無駄である。
(すぐさま書いておくべきは……別に、そういったことを書いたところでダメじゃあない。そもそも、こうやって、「あー」とか「ええとー」「そのー」とか、そんなこと書いている時点で無駄ばっかである。ここで書きたいこと、メモしたいことはそうじゃなくて……だが、上手い表現が見つからないからカット)


非常に脱線した。
時間も切れた。

そう、明日の自分への言葉だ。
取りあえず、筋トレ音読ストレッチのルーチンは今日もOK。

明日も多分大丈夫だろう。問題は、4時起きぐらいになりそうな土曜日だ。
そんな土日を乗り切ると、もう11月になるわけだ。

早いなぁ。

今日も一日、後は寝るだけしか残っていない。

いやぁ、そんな風に思って、朝まで起きていようとか思ったことも、一度や二度ではなかった気がする。結局、明け方にものすごい睡魔に苦しむことになるから、もうやらないけれど……。
歳をとって夜更かしができなくなったなぁとかいう人を聞いたことあるけれど、正直、俺は今までずっと徹夜なんてまともにできた試しはない。

睡眠は大事だよ。残業すりゃ偉いなんてそんなのも前近代的だ。とはいえ、「効率」というだけではなくて、結局人の感情ってのが大きな影響を与えるものだってことも、別に敢えて書かずとももう分かってることなんだけど、ただ、ここで、このタイミングで書いておくのが、やっぱり、後で読んだ時の優しさになるわけだが。

目標について

いやそうじゃなくて、何だ、その、早いなぁ。
そろそろ、来年の目標……できれば、目的を立てなきゃ、間に合わなそうだ。

目標を公言して、実際に行動して、やり遂げようとしている方がいて、僕も見習わなければならない。
目標、大事だよやっぱり、うん、その、何というか、「目標」という言葉にしてしまうと、うわ、なんか面倒だ……と思ってしまうものだけれども、でも、間違いなくこれがあるかどうかで生き方は変わると思う。決して、自己啓発ブログなんてもんじゃなくて、どっちかというとダメブログ系なもんなんだが、そんなこと関係なく、目標は大事だ、どう大事かって、書いてきたっけっか。また今度確認してみるか。

うん、そうだな、まず、今立てるべきは、目標を立てるって目標を立てた方がよいだろう。本当は、目的を見つける、というのが最終目標なんだが、それは、エレファントテクニックで、細かく分解しなければ到底たどり着けないほど遠そうな気がしている。

そう、目標ってのは、何も面倒なものではない。
何せ、目標は、本当に、自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことを目指すものだからだ。

だから、目標が短ければ短いほど、それは直感的な快楽、嬉しさ、気持ちよさ、楽しさに漸近する。
例えば、サツマイモとカボチャの煮つけを作って食べる、という目標を立てたとしよう。1時間もすれば、目標は達成され、美味しい料理を食べれるという快楽が待っている。


だから、逆を言えば、今現時点最高に幸せで満足であれば、全然目標なんて立てる必要はないのである。
いまその瞬間を精一杯楽しんでれば、それで人生大正解だ。

(この、今書いていることは、あくまで、人々の個々、個人的なベースにおいて、現実規定(物理環境)に応じた上でという制約付きなことをメモして置かなければならないだろう。当たり前だが、快楽殺人嗜好者の幸福追求は、認められるものではない。さて、では、快楽殺人嗜好者が、社会規定を前提とした上で幸せに生きるには、いったいどういった方法が考えられるだろうか。残念ながら、早いところ死んでもらった方がいい、となる。これはかなり極端な想定なのだけれども、この点、後々かなり重要性が帯びてくる。即ち、果てしない理想をもって、その理想を諦められず縋るしかない人がいたときに、その人にとっての真の幸せは、恐らく、可及的速やかな自死では無かろうか、という点である。この点、この内容については、今日はとても書ききれない。だが、いずれしっかり思考し書く必要があるだろう、もしくは、過去記事の中で同様のテーマで触れているものがないか探し出す必要があるだろう)


逆に、だ。
目標を必要とするというのは、何らかの「不満」があるということだ。

その不満があるというのは、「欲求」があるということだ。

欲求があるという時は、それを解決する何らかの行動が必要になるということ、そして、むしろ逆に、解決する方法があるだろうということだ。

卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたが、兎に角、目標、欲求、感情、の発生する流れを鋭く感じ取り、それを相互関連させながら明確な、確固たる目標やそれに対する行動方策を立てていく必要があるだろう。


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