今日の一言「メモ帳を持ち歩いていないと色々忘れている」
※以下小見出しごとの記事は複数日のまとめのため関連性はあまり無い
今日は、面白そうなブログさんを、2つぐらい見つけた。更新チェッカーに登録。しかし、この情報に辿り着くまでに、1時間以上かかっている。無駄が多い。
そして、どうにも、期待している人のブログとかサイトとかは、「更新されたかな~」と、何度も足を運んでしまうのである。その無駄を省くために更新チェッカーを導入したのだ。
つまり、更新チェッカー以外に、ブックマークは使用しない、と決めてもいい気がする。
あと、まとめ系サイトの、関連する記事、とかいうのも、あれ危険だ。次から次へと気になるキャッちーなタイトルにつられてクリックしてしまう。が、大した内容じゃないことが9割である。
大した内容なのか、そうじゃないのかは、かなり主観的なものであって、運要素が大きい部分だ。
だからこそ、いい情報を掘り当てるのではないかと、そんな期待によって、欲望が制御されているわけだ。
アフォーダンスという概念は、椅子に座るのではなく、椅子が座れるように促しているのだ、というもの。うーん、これに関しての数百頁に渡る書籍を読んで、もっと深い概念だった気がするけれども、5~6年前の情報記憶などこの程度だということか。もう一度本を開けば、いろいろ溢れてくるのだろうけれども、何もないと何も浮かばない。知識は、引き出しにしまわれているというよりも、数珠つなぎのように、マトリックス上に複雑に絡み合っているので、その一本を引き抜こうとすると、関連する知識情報がもじゃもじゃと一緒にくっついてくるのである。
んー、というのは、またしても傲慢で痛い子だなぁ。いやそれというのも、最近「不幸」とかくと大げさだけれども、様々な生活状況において、苛々の火種が爆発しているのである。
先日はひどかった。さすがの自分も(何が「さすが」だ、気持ち悪い奴め)、苛々を通り越して怒り、そうとう口汚く相手を罵った。しかし、相手の方が殴りかかってきたし、もっとひどいことを言ってきたりした。恐ろしいことである。おかげで、次の日も何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかと、人混みが怖かったぐらいだ。明日はどうだろうか……長く続くようならPTSDだぞほんと。
しかし、そのできごとは、相手がもう完全に論理破綻(いやそもそもそういう次元じゃなかった)していて、その矛盾を怒鳴りながらだけれども明確に発することができたことは、「お、意外と俺、やるじゃん?」という変な感覚も生まれたりもした……が、もうそれを超越して腹立たしかった!(と、書いていてまた怒りが復活してくるかっこわらい)
その日、かなり具体的なエピソードを書いたのだが、結局、予約投稿にしておいて、公開前に消した。
理由はいろいろあるけれども、まぁ、あんまり具体的な話を書いても仕方がないし、今みたいに苛立ちを増幅させることを敢えてする必要はあるまい。
年末になると、忙しくて、頭のおかしい人が増えるのだろうか。何とも、世界の平和と人類の幸福を願わずにはいられない。ハッピーメリークリスマス。
コーヒーは、カフェラテにしてもブラックにしても、自分で作った奴の方が美味しいし、果物や野菜ジュースも、自分で買ってきた奴の方が美味しい。
まぁそれでも、3時間で1000円ぐらいなので、漫画3冊でも読めば、単行本500円としたら、まぁ効率はよい気がする。
問題は、その読んだ作品を、どれだけ摂取し、「役立てられるか」ということだと思うけれども、この「役に立つかどうか」という視点も、これまた非常に繊細に扱わなければいけない概念のため、ここでは保留。
※以下小見出しごとの記事は複数日のまとめのため関連性はあまり無い
ネットサーフィンの効率化
情報収集のために、ブックマークを整理しようかなと思い始めてきた。今日は、面白そうなブログさんを、2つぐらい見つけた。更新チェッカーに登録。しかし、この情報に辿り着くまでに、1時間以上かかっている。無駄が多い。
そして、どうにも、期待している人のブログとかサイトとかは、「更新されたかな~」と、何度も足を運んでしまうのである。その無駄を省くために更新チェッカーを導入したのだ。
つまり、更新チェッカー以外に、ブックマークは使用しない、と決めてもいい気がする。
あと、まとめ系サイトの、関連する記事、とかいうのも、あれ危険だ。次から次へと気になるキャッちーなタイトルにつられてクリックしてしまう。が、大した内容じゃないことが9割である。
大した内容なのか、そうじゃないのかは、かなり主観的なものであって、運要素が大きい部分だ。
だからこそ、いい情報を掘り当てるのではないかと、そんな期待によって、欲望が制御されているわけだ。
アフォーダンスという概念は、椅子に座るのではなく、椅子が座れるように促しているのだ、というもの。うーん、これに関しての数百頁に渡る書籍を読んで、もっと深い概念だった気がするけれども、5~6年前の情報記憶などこの程度だということか。もう一度本を開けば、いろいろ溢れてくるのだろうけれども、何もないと何も浮かばない。知識は、引き出しにしまわれているというよりも、数珠つなぎのように、マトリックス上に複雑に絡み合っているので、その一本を引き抜こうとすると、関連する知識情報がもじゃもじゃと一緒にくっついてくるのである。
誰か俺を楽しませてくれよ
たまには、他者への期待について書いてみたりする。んー、というのは、またしても傲慢で痛い子だなぁ。いやそれというのも、最近「不幸」とかくと大げさだけれども、様々な生活状況において、苛々の火種が爆発しているのである。
先日はひどかった。さすがの自分も(何が「さすが」だ、気持ち悪い奴め)、苛々を通り越して怒り、そうとう口汚く相手を罵った。しかし、相手の方が殴りかかってきたし、もっとひどいことを言ってきたりした。恐ろしいことである。おかげで、次の日も何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかと、人混みが怖かったぐらいだ。明日はどうだろうか……長く続くようならPTSDだぞほんと。
しかし、そのできごとは、相手がもう完全に論理破綻(いやそもそもそういう次元じゃなかった)していて、その矛盾を怒鳴りながらだけれども明確に発することができたことは、「お、意外と俺、やるじゃん?」という変な感覚も生まれたりもした……が、もうそれを超越して腹立たしかった!(と、書いていてまた怒りが復活してくるかっこわらい)
その日、かなり具体的なエピソードを書いたのだが、結局、予約投稿にしておいて、公開前に消した。
理由はいろいろあるけれども、まぁ、あんまり具体的な話を書いても仕方がないし、今みたいに苛立ちを増幅させることを敢えてする必要はあるまい。
年末になると、忙しくて、頭のおかしい人が増えるのだろうか。何とも、世界の平和と人類の幸福を願わずにはいられない。ハッピーメリークリスマス。
ネカフェのPC性能
昔は、自宅にはノートPCしかなく、ネットカフェのほうが断然性能がよいものだった。
今となっては、ネカフェのPCの方が断然性能が悪く、動作の遅さに非常に辟易してしまう。
もともと、遠藤浩輝先生の新連載ソフトメタルヴァンパイアを読みに来たのだったが、置いてなかった。正確には、検索にはヒットするけれども、どこにも見当たらなかった。
代わりに、進撃の巨人の最新刊を読んだ。21巻はずいぶんと話が広がった。進展した、というよりも、広がったという感じ。
ここまで広げてしまって、逆に大丈夫か、と心配になるぐらいであった。
テラフォーマーズも読んだ。うしじまくんとか、うそくいとかも読もうかなぁと思ったけど、気乗りしなかった。
飲み物も、昔は、飲み放題だなんてすごいな! と思っていた。けれども、1杯か2杯くらいで十分。あんまり飲んでもお腹が具合よくなくなる。それに、正直あまり美味しいと思えなくなっている。コーヒーは、カフェラテにしてもブラックにしても、自分で作った奴の方が美味しいし、果物や野菜ジュースも、自分で買ってきた奴の方が美味しい。
まぁそれでも、3時間で1000円ぐらいなので、漫画3冊でも読めば、単行本500円としたら、まぁ効率はよい気がする。
問題は、その読んだ作品を、どれだけ摂取し、「役立てられるか」ということだと思うけれども、この「役に立つかどうか」という視点も、これまた非常に繊細に扱わなければいけない概念のため、ここでは保留。
サイトの方は、過去の利用者さんのメッセージなどで、思うところがあった。評価とか、感想とか。
想像上の秩序
想像上の秩序、ということで、客観と、主観と、共同主観の三つがあるということだ。サピエンス全史より。
うん、面白いな。漫画とかアニメとか、小説もいいけれども、この本は面白い。明日は上巻全部読破したいな。
脳に悪い習慣として、「ああ、これは大体わかってる」と思うと、記憶力が低下するのである。しかし、この本は、ああ、わかっていた、と、そう感じさせる表現が多い。
もっと早く出会っていたらよかったか? いや、このタイミングが望ましかった。
いろいろと経験し、チャレンジし、ぶつかってみて、その結果としてフィードバックされた結果があるから、一文一文が面白いと感じるのだろう。
体が、痛い。
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今日の一言「久しぶりに作品見て泣いた」
「心配」
という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。
しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?
よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。
たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。
突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。
こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。
感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。
頑張ることは無意味だ、と最近書いている。
しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」
今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、
まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。
けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。
東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?
一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。
ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。
貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。
なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。
特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。
取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。
僕もうるっときた。
その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
変なの。
何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。
イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。
なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。
みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?
今年も残りわずか。
どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。
いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。
その両方かもしれない。
ヘルプミーである。
ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?
人生に自分を全力でぶつけているだろうか。
残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。
ミスリードが多すぎて見事に引っかかった
やられた……。まさか、8話目がそういうことだとは全然気付かなかった。「心配」
という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。
しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?
よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。
たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。
突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。
いい感想じゃあないな
どういうシーンが、どうであったから、こう感じた、というのが正しい感想なのだろうが、ネタバレ的な感じも何だか今の気分に合わないし、まぁ、最後まで見てよかった、という感想を残しておこう。こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。
感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。
頑張ることは無意味だ、と最近書いている。
しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」
今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、
まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。
何かいいこと書きたい気分
何か書きたい気分になった。けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。
東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?
一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。
ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。
貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。
なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。
特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。
取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。
メリークリスマス
5歳の難病で死にかけた男の子に、サンタさんがやってきてくれたというニュースがやっていた。大反響で、いい話だなぁとなったということだ。僕もうるっときた。
その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
変なの。
何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。
イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。
なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。
みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?
今年も残りわずか。
どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。
非常に憂鬱な気分に
あぁ……。書いていると段々ハイになっていて、苛々とかそういった感情もなくなっていく、というのが最近分かったことだが、逆に、「感動した」ということを書いていくと、だんだんその感動が劣化し、苛々……というよりも、非常に鬱屈した、鬱々とした、憂鬱な気分になっていく、のだろうか。いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。
その両方かもしれない。
ヘルプミーである。
ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?
人生に自分を全力でぶつけているだろうか。
残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。
1.こうやって人はかわれなくなっていく
http://blog.tinect.jp/?p=28396
2.ほとんどの場合「意志」ではなく環境が決める
http://blog.tinect.jp/?p=34512
僕も受験期に、テレビはもちろん、ゲームもパソコンも全部ゴミ袋に入れて段ボールの奥底にしまって、勉強しかできない環境をつくっていた。学校が終わっても、家にはまっすぐ帰らずに、自習室に通って勉強した。
問題は、1.の方の記事である。結局、結論的に何を言いたい記事かはよく分からないけれども、ただ、物語としてはとても秀逸だと思ったから取り上げた。
なんか、苦しめばそのうちいいことあるみたいな、そんな淡いことを考えていたのか?
否、否。もはや、それしかなかった。今考えると、いや、誰がみてもアホにしか思えないが、大学受験失敗したらもう死ぬしかないと思っていた。結構マジでだ。そういう意味で、よく「死ぬ」という言葉が登場するけれども、死ぬ死ぬ詐欺みたいではあるけれども、結構身近な感覚だったといえる。
だから別に、今、仕事において、評価されなかったり、問題が起きたことの責任をきせられたりしても、「あーそもそも、部活でいじめられたりはじかれたり、使えねー奴だとか面と向かって言われたり、まぁ色々あったことを思えば、別に普通だよな(笑)。むしろあの頃に比べたら人生イージーモードだな(かっこわらい)」とすら思う。
すぐさま、いつも言っているように、他者と比較することは無意味であり、それはもちろん、過去の自分と比較することも意味はないのだから、これは完全に思考及び感情エラーである。
まぁそうなんだけれども、色々と、コンサルさんの記事を読んでいて思い出したというか、思ったわけだ。
そもそも、ものすごい嫌なことが最近あったから、マイナス思考的状態であるというのは一つ誘因である。
ただ、ここでは書いておく。
頑張っても、努力しても、苦しんでも無駄だ。
もっと言えば、苛々しても、悲しんでも、悩んでも無駄だ。アホのすることだ。
と。
まぁ、いろいろ批判があることだろう。何せ、70億人もの人がいるのだ。日本にも、未だ1億2千万ぐらいは人がいる。言葉をしゃべれない赤ん坊や、ボケてしまった老人たちを除いても、1億ぐらいは人だろう。
そんな中、凡人の一個人の発言が、1億人の心に響いて感動させるなんて、そんな小説でもそんな描写ができるとは思えない。
だから、他者の評価や感じ方なんてどうでもいい。僕が所有していた250ccのバイクは、やたら批判されている。見た目だけで性能が悪くてださい、と。そもそも非常に爆発的に売れているから、「良い」と感じる人が多いのであって、そういった批判をする人は、マイノリティとしての存在感で優越に浸りたい部分があるというわけだ。しかし、流行にはブームがある。最近読んでいるサピエンス全史は、ベストセラーだそうだが、やっぱり面白いと思った。まだ、上巻の半分ぐらいだけど。
ただ、「がんばる」こと、それ自体に全くもって意味が無いということは、よく理解しておく必要がある。
ノルマとか成果とか、そんな言葉に嫌悪を覚えるけれども、そもそも、だ。何か「生産」できていなければ、無駄、である。
(補足、すぐさま書いておくべきは、ある方がコメントしてくださっていたが、外面上生産していないようでも、それは生産行為の可能性がある、ということについて、絶対に忘れてはならない。そういう意味においても、やはり、頑張る、ということは無意味であるのだが、もう少し表現を続けてみよう)
つまり、言いたいことというか、表現したいこととしては、ストイックさの否定ではなく、「つらい」という感情を重視することの「愚かさ」加減について、ということだ。
俺は兎に角、マイナス思考人間のようにしか思えない表現を重ねているが、とんでもなくポジティブ人間であることは、きっと誰も分からない。
いや逆に、ポジティブ過ぎて、一切の「不都合」が、無駄であり、イライラの根源に思ってしまうところが、生きづらさの一つ原因にも思えるが。
ランニングとか、筋トレとか。身体的苦しさってのが重要なのは、その後のカタルシスがあるからだ。
身体を鍛えて何か楽しいか? むかつくデブに絡まれなくなる? そんな消極的な理由で続けられるほど、逆に甘いものじゃないだろう。
ある方にこういった言い方をしたら、そんなの努力とは言わない、と言われた。
うむ……そうかもしれない、が、少し、目的や目標と、現実行為との距離感という問題についての、認識合わせがきっと足りないのだろうと、思う。
何故鬱になるのか。
脳の病気? まぁそういった科学的(医学的)なことは置いておいて、憂鬱な状態というのは、「無気力」とか、やる気が起きない、という状態を現す。
何故やる気が起きないのか?
やる気が起きないときのチェックリスト
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/touch/20121118/1353244629
上のチェックリストはちょっと面白かった。
ただ、まぁ、複雑な条件分岐で分析しても、取りあえず、実際の行動に結び付ける現実的方策を考えれば、「行動」に対する「報酬」の明確化である。
1.まず単純に作業的でつまらない
2.達成したとしても別に当たり前で、評価があるわけでも、報酬が増えるわけでもない
3.やったらやったで、もっと大変になるのが目に見えている
という理由が挙げられる。
やりたくないけど、やらざるをえない。
そういうときは、その「やらざるをえない」という感覚の明確化が足りないわけだ。
何でやらざるをえないのか? やらないと自分の信頼が下がり、給料が下がり、挙句クビになるかもしれないからだ、としよう。
その結果と、実際に今の自分の感覚とを比較したときに、「しかたねーなー、やるかー」となるかどうか、そのせめぎ合いというわけだ。
しかし、鬱というのは、それが、明確な原因が既に存在しなくなり始める状態である。
死ぬ、という気力さえおきない。
ただ、目が覚めてすべてが消え去ってくれていたらいいのに。
そんな感覚になった人は、どれほどいるだろうか。
割かし上に書いてきたように、「死ぬかぁ」みたいに思って完全自殺マニュアルとか買ってみたり、「死にたいとは思わないけど、消えたいと思う」ということを言ってる人がいて、「はぁ、ふざけんな、中途半端なこと思ってんじゃねぇ」ととんがって思っていた時期もあったけれども、今はどちらかというと後者に近い。
さすがにひかれるか……。ここまで書くとキモチワルイを通り越しておかしな人に思われるだろうか。
だが、先日体当たりをかましてきたクソ野郎に比べたら、人畜無害のクリーンな人間だと思うが、そういった感覚すら、この社会というのには存在しないという意味で、変だなぁ、おかしいなぁ、と思うわけだが、まぁ、この記事を投稿するかどうかは別途検討しよう。
完全自殺マニュアル買ったり、精神科にいってみたり、まぁいろんなことやってみて、「あーもうどうでもいいわ。ちょっと最後に頑張ってみるか」となって、大学時代に初めて彼女ができて、一時期もうこの世の最高のように楽しく人生過ごして、それも半年ぐらいで終わったとかいうのも、まぁ懐かしい話であるシミジミ。
それをきいて、中流家庭で幸せに育ってきた僕は、きっとダメなんだろうな、もっともっと頑張んなきゃ、と思ったりもするけれども。
まぁ、大した経験など、実際していないわけである。
僕自身も、そう思う。
だから、先輩たちの、もっと頑張れよ、という言葉を真摯に受け止めるわけだけど、でも、最近、ほんと、メンタルポイントの消費が激しくなっている。
実際問題。
上の、「まぁ割かし死のうか思っとりました」ということについて、70億でもいいし、1億人でもいいけれども、「修羅場ランキング」というか、「苦労経験ランキング」みたいなので、数値化できたとしよう。
僕はどれぐらいだろうか? 多分、中間ぐらいな気がする。ふつー、ってことだ。
そりゃあ、もっと楽々人生やってきた人もいるだろう。逆に、もっと貧困にあえいで苦しんできた人もいるだろう。いっぱいいるだろうさ。
だから、何?
よし、もう、クロームやめよう。先日すすめて頂いた、スレイプニールというブラウザ試してみるか。
――。インストール完了。
おー、文字が、全然、違う(笑)。見やすいか、というと、うーん、なんか、慣れないけれども、まぁ、何となくきれいな気がする。
これで、しばらく使ってみてクラッシュしなければ、常用ブラウザにスピード出世だ! おめでとう!
何だっけ。
なんか、すげーくだらないことをつらつら、つらつーら、書いていた気がする。あまりにも苛々しすぎて、帰ってきてもやっぱりイライラがとれずに、お酒をたくさん飲んでしまった。ジンベースブルドックおいしいな。はぁ、明日は明日とて責任重大な仕事があり、来週も大変であり、再来週も……いや、再来週は、もう年末で三日だけか。
はぁ……、もうちょい、頑張るかなぁ。って、頑張ることを否定する記事だった気がするけれども(かっこわらい)。
http://blog.tinect.jp/?p=28396
2.ほとんどの場合「意志」ではなく環境が決める
http://blog.tinect.jp/?p=34512
物語の重要性
2.の記事は、軽く読んで見るとよいと思う。僕も納得である。人は、自分の「意志」というよりも、環境によって大きな変化をしたり、行動したりする。僕も受験期に、テレビはもちろん、ゲームもパソコンも全部ゴミ袋に入れて段ボールの奥底にしまって、勉強しかできない環境をつくっていた。学校が終わっても、家にはまっすぐ帰らずに、自習室に通って勉強した。
問題は、1.の方の記事である。結局、結論的に何を言いたい記事かはよく分からないけれども、ただ、物語としてはとても秀逸だと思ったから取り上げた。
頑張ることの無意味性
努力。苦しいこと。悩み。頑張ること。なんか、苦しめばそのうちいいことあるみたいな、そんな淡いことを考えていたのか?
否、否。もはや、それしかなかった。今考えると、いや、誰がみてもアホにしか思えないが、大学受験失敗したらもう死ぬしかないと思っていた。結構マジでだ。そういう意味で、よく「死ぬ」という言葉が登場するけれども、死ぬ死ぬ詐欺みたいではあるけれども、結構身近な感覚だったといえる。
だから別に、今、仕事において、評価されなかったり、問題が起きたことの責任をきせられたりしても、「あーそもそも、部活でいじめられたりはじかれたり、使えねー奴だとか面と向かって言われたり、まぁ色々あったことを思えば、別に普通だよな(笑)。むしろあの頃に比べたら人生イージーモードだな(かっこわらい)」とすら思う。
すぐさま、いつも言っているように、他者と比較することは無意味であり、それはもちろん、過去の自分と比較することも意味はないのだから、これは完全に思考及び感情エラーである。
まぁそうなんだけれども、色々と、コンサルさんの記事を読んでいて思い出したというか、思ったわけだ。
そもそも、ものすごい嫌なことが最近あったから、マイナス思考的状態であるというのは一つ誘因である。
努力しても無駄とはどういうことか?
この言葉は、正直、僕に部下ができたとしても、後輩ができたとしても、子どもができたとしても何であれば、絶対伝えないだろう。ただ、ここでは書いておく。
頑張っても、努力しても、苦しんでも無駄だ。
もっと言えば、苛々しても、悲しんでも、悩んでも無駄だ。アホのすることだ。
と。
まぁ、いろいろ批判があることだろう。何せ、70億人もの人がいるのだ。日本にも、未だ1億2千万ぐらいは人がいる。言葉をしゃべれない赤ん坊や、ボケてしまった老人たちを除いても、1億ぐらいは人だろう。
そんな中、凡人の一個人の発言が、1億人の心に響いて感動させるなんて、そんな小説でもそんな描写ができるとは思えない。
だから、他者の評価や感じ方なんてどうでもいい。僕が所有していた250ccのバイクは、やたら批判されている。見た目だけで性能が悪くてださい、と。そもそも非常に爆発的に売れているから、「良い」と感じる人が多いのであって、そういった批判をする人は、マイノリティとしての存在感で優越に浸りたい部分があるというわけだ。しかし、流行にはブームがある。最近読んでいるサピエンス全史は、ベストセラーだそうだが、やっぱり面白いと思った。まだ、上巻の半分ぐらいだけど。
努力しても無駄なのは時間が限られているから
努力が無駄だ、というと、本当に何も「がんばる」ということをしなくていいと思ってしまう人がいるから、この発言は禁句である。ただ、「がんばる」こと、それ自体に全くもって意味が無いということは、よく理解しておく必要がある。
ノルマとか成果とか、そんな言葉に嫌悪を覚えるけれども、そもそも、だ。何か「生産」できていなければ、無駄、である。
(補足、すぐさま書いておくべきは、ある方がコメントしてくださっていたが、外面上生産していないようでも、それは生産行為の可能性がある、ということについて、絶対に忘れてはならない。そういう意味においても、やはり、頑張る、ということは無意味であるのだが、もう少し表現を続けてみよう)
つまり、言いたいことというか、表現したいこととしては、ストイックさの否定ではなく、「つらい」という感情を重視することの「愚かさ」加減について、ということだ。
俺は兎に角、マイナス思考人間のようにしか思えない表現を重ねているが、とんでもなくポジティブ人間であることは、きっと誰も分からない。
いや逆に、ポジティブ過ぎて、一切の「不都合」が、無駄であり、イライラの根源に思ってしまうところが、生きづらさの一つ原因にも思えるが。
ランニングとか、筋トレとか。身体的苦しさってのが重要なのは、その後のカタルシスがあるからだ。
身体を鍛えて何か楽しいか? むかつくデブに絡まれなくなる? そんな消極的な理由で続けられるほど、逆に甘いものじゃないだろう。
楽しい努力とは?
努力というのは、反転して、「楽しいもの」である必要がある。ある方にこういった言い方をしたら、そんなの努力とは言わない、と言われた。
うむ……そうかもしれない、が、少し、目的や目標と、現実行為との距離感という問題についての、認識合わせがきっと足りないのだろうと、思う。
何故鬱になるのか。
脳の病気? まぁそういった科学的(医学的)なことは置いておいて、憂鬱な状態というのは、「無気力」とか、やる気が起きない、という状態を現す。
何故やる気が起きないのか?
やる気が起きないときのチェックリスト
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/touch/20121118/1353244629
上のチェックリストはちょっと面白かった。
ただ、まぁ、複雑な条件分岐で分析しても、取りあえず、実際の行動に結び付ける現実的方策を考えれば、「行動」に対する「報酬」の明確化である。
自己報酬神経群
難しいことを書けるほど頭がよくない。簡単な話であって、「あー、この仕事やりたくねぇな」というとき、それは何故かと言えば、1.まず単純に作業的でつまらない
2.達成したとしても別に当たり前で、評価があるわけでも、報酬が増えるわけでもない
3.やったらやったで、もっと大変になるのが目に見えている
という理由が挙げられる。
やりたくないけど、やらざるをえない。
そういうときは、その「やらざるをえない」という感覚の明確化が足りないわけだ。
何でやらざるをえないのか? やらないと自分の信頼が下がり、給料が下がり、挙句クビになるかもしれないからだ、としよう。
その結果と、実際に今の自分の感覚とを比較したときに、「しかたねーなー、やるかー」となるかどうか、そのせめぎ合いというわけだ。
しかし、鬱というのは、それが、明確な原因が既に存在しなくなり始める状態である。
鬱
やる気が起きない。死ぬ、という気力さえおきない。
ただ、目が覚めてすべてが消え去ってくれていたらいいのに。
そんな感覚になった人は、どれほどいるだろうか。
割かし上に書いてきたように、「死ぬかぁ」みたいに思って完全自殺マニュアルとか買ってみたり、「死にたいとは思わないけど、消えたいと思う」ということを言ってる人がいて、「はぁ、ふざけんな、中途半端なこと思ってんじゃねぇ」ととんがって思っていた時期もあったけれども、今はどちらかというと後者に近い。
さすがにひかれるか……。ここまで書くとキモチワルイを通り越しておかしな人に思われるだろうか。
だが、先日体当たりをかましてきたクソ野郎に比べたら、人畜無害のクリーンな人間だと思うが、そういった感覚すら、この社会というのには存在しないという意味で、変だなぁ、おかしいなぁ、と思うわけだが、まぁ、この記事を投稿するかどうかは別途検討しよう。
完全自殺マニュアル買ったり、精神科にいってみたり、まぁいろんなことやってみて、「あーもうどうでもいいわ。ちょっと最後に頑張ってみるか」となって、大学時代に初めて彼女ができて、一時期もうこの世の最高のように楽しく人生過ごして、それも半年ぐらいで終わったとかいうのも、まぁ懐かしい話であるシミジミ。
修羅場
修羅場をくぐってきてない奴は使えない奴だ、とか、上司とか先輩が言ってたりする。それをきいて、中流家庭で幸せに育ってきた僕は、きっとダメなんだろうな、もっともっと頑張んなきゃ、と思ったりもするけれども。
まぁ、大した経験など、実際していないわけである。
僕自身も、そう思う。
だから、先輩たちの、もっと頑張れよ、という言葉を真摯に受け止めるわけだけど、でも、最近、ほんと、メンタルポイントの消費が激しくなっている。
実際問題。
上の、「まぁ割かし死のうか思っとりました」ということについて、70億でもいいし、1億人でもいいけれども、「修羅場ランキング」というか、「苦労経験ランキング」みたいなので、数値化できたとしよう。
僕はどれぐらいだろうか? 多分、中間ぐらいな気がする。ふつー、ってことだ。
そりゃあ、もっと楽々人生やってきた人もいるだろう。逆に、もっと貧困にあえいで苦しんできた人もいるだろう。いっぱいいるだろうさ。
だから、何?
おー、また消えた
また、ブラウザクラッシュで途中まで書いていたのが消えてしまった。よし、もう、クロームやめよう。先日すすめて頂いた、スレイプニールというブラウザ試してみるか。
――。インストール完了。
おー、文字が、全然、違う(笑)。見やすいか、というと、うーん、なんか、慣れないけれども、まぁ、何となくきれいな気がする。
これで、しばらく使ってみてクラッシュしなければ、常用ブラウザにスピード出世だ! おめでとう!
何だっけ。
なんか、すげーくだらないことをつらつら、つらつーら、書いていた気がする。あまりにも苛々しすぎて、帰ってきてもやっぱりイライラがとれずに、お酒をたくさん飲んでしまった。ジンベースブルドックおいしいな。はぁ、明日は明日とて責任重大な仕事があり、来週も大変であり、再来週も……いや、再来週は、もう年末で三日だけか。
はぁ……、もうちょい、頑張るかなぁ。って、頑張ることを否定する記事だった気がするけれども(かっこわらい)。
今日の一言「え、もうこんな日付・時間なの?!」
先週の日曜日以来だろう。
早いねぇ。時間が過ぎるのが早い。先週は、睡眠時間も毎日4~5時間ぐらいだった。
それが長いか短いか、まぁ結局人の感じ方によるものだろう。月に残業200時間だとしても、「若いうちはそれぐらい普通だよな!」とかどっかの偉い教授さんが言っていたということも聞く。
ほんっとに、人と比較することって、むなしいよな、とよく思う。
それなのに、やれ競争だ、資本主義だ、お金だ、とか。
あ、いやいや、そういうことを書きたいのではなく、とにかく、これらを書く暇が殆どなかったということだ。
やっぱり、ブログを書くことができる時間があるというのは、恵まれている状態だといえるだろう。ブログでも、ローカルな日記でも何でもいいが、書くということをしていないと、何だかとてもとても、自分というものが消えていくようにすら思える。
ある方は、「ブログ何て書いている暇があったら、小説書いてた方が有意義に思えてしまうんですよね」と仰っていた。僕もそう思う、小説でなくても、別のもっと有意義なことをした方がいいんじゃないか、とすら思う。
思うが、しかし。
というのは、例の、何だかいいこと書かなきゃいけない症候群的な奴だと思う。
ああ、そう、最近ある方が記事にされていたのだけれども、「妄想テレパシー」という4コマ漫画が、ものすげー面白かった。
他者の心の中、頭で考えていることを分かってしまう女子高生の物語。
なんというかな、とある場面、2か所ぐらいで、泣いてしまったよ。俺、なんつーかな、これまた表現が難しいけれど、嫌なこととか哀しいことって、結構慣れているから、あんまそういうので涙することないんだよな。だから、そういうんじゃない、何というか、あたたかいというか、切ないというか、きれいだというか、そんな感じで、泣いてしまったよ。
その記事にされていた方は、「さくって読めて面白い」って表現されていたけれど、僕はとても感動したね、うん。一気に読んでしまった。それがゆえに時間がないのか、なるほどな~(放心)。
そんな当たり前のことが、僕は結構重かったりつらかったりするんだよなぁと、ふと思った。
その主人公の女の子じゃないけれど、結構、他者の考えていること「分かる」んだよな。いや、「今頭に思い浮かべた数字を当ててみなさい」というのは違うけれど、喜怒哀楽的な簡単な感情から嫉妬とか憎しみとかちょっと発展した感情という話し。別に僕だけじゃなくて、誰でも分かることだ。何故なら、感情とは、そもそも、人が上手く生活を送るために脳がつくりだした機能だからだ。感情が、他者に一切伝わらないものだとしたら、それは、何ら役に立つ機能ではない。
何だっけ? また脱線したな。
ええと、あれだ、基本的に、このブログは、99.9%ぐらい、心の声を反映している。
リアルタイム筆記である。
0.1%というのは、タイピングスピードと思考とのラグだったり、文章表現と思考表現との違いだったりするけれども、基本的に、思い浮かべたことをありのままに記述しているつもりだ。もちろんそれでも、自分の知らない部分があるかもしれないから、100%そのまま表現できるなんてできないと思う。
ただ、僕がここで、楽しかった、と書けば、それは本当なのであり、無理して友達たちにあわせて、笑顔を作っていたりなんて、そんなことはないのだ。
優しい嘘、悪意のある嘘、それらにかかわらず、人は思ったことを口にしない。
その場で適切な振る舞いをする。当たり前だ、そうやって人は社会生活を送る。
仕事中めんどくせえとか言ってたら、速攻首だ!
と、言いながら、そもそも、その「めんどくせえ」とかいう感情だって、言語ラベリングされたものに過ぎない。
めんどくせえ、って、何? その面倒さって、ひたすら資料をコピーとるめんどくささと、お客さんに分かりやすい資料にするにはどうしたらいいんだろうと頭を悩ませるめんどうくささと、同じだろうか?
一言で面倒、といってしまうと、その機微が分からなくなる。
だから、感情言語は、非常にデリケートに扱った方がいい。
……とかいう話しの流れで、満足できればいいのだが、僕はさらに疑問になる。
デリケートに扱う? でもさ、感情って危機を避けるためにあるものでもあって、「これはこういう感情なのだろうか?」なんて考えていたら、危険回避に遅れてしまうかもしれない。
喜! 怒! 哀! 楽! と、明確に、単純に、自分を判断して行動した方が、よっぽど役に立つのではなかろうか。(特に生きるか死ぬかの戦闘において)
本当に疲れたのか? もっとやれるんじゃないか? もっと頑張れよ、ほら!
あーうるさいなぁ、もう。
今日は、クレジットカードの住所変更を行い、クリーニングを出したり、目薬を買ったり、生活費の口座間調整をしたりと、それなりに活動したじゃないか。いいじゃないか。
部屋のカオスさは広まってきているが……。
取りあえず、明日も予定があり早いし、今日はもうルーチンやって寝るとしよう。
そういや、ルーチンも続けられているな。次の壁は、3か月目あたりだろう。
あぁ、この記事面白くないだろうなぁ……。
久しぶりのブログ記事
ものすごく、久しぶりにブログを書いている気がする。先週の日曜日以来だろう。
早いねぇ。時間が過ぎるのが早い。先週は、睡眠時間も毎日4~5時間ぐらいだった。
それが長いか短いか、まぁ結局人の感じ方によるものだろう。月に残業200時間だとしても、「若いうちはそれぐらい普通だよな!」とかどっかの偉い教授さんが言っていたということも聞く。
ほんっとに、人と比較することって、むなしいよな、とよく思う。
それなのに、やれ競争だ、資本主義だ、お金だ、とか。
あ、いやいや、そういうことを書きたいのではなく、とにかく、これらを書く暇が殆どなかったということだ。
やっぱり、ブログを書くことができる時間があるというのは、恵まれている状態だといえるだろう。ブログでも、ローカルな日記でも何でもいいが、書くということをしていないと、何だかとてもとても、自分というものが消えていくようにすら思える。
ある方は、「ブログ何て書いている暇があったら、小説書いてた方が有意義に思えてしまうんですよね」と仰っていた。僕もそう思う、小説でなくても、別のもっと有意義なことをした方がいいんじゃないか、とすら思う。
思うが、しかし。
書きたいことと書くべきこと
久しぶりだと、何だか、何を書こうか、少し困ってしまう。というのは、例の、何だかいいこと書かなきゃいけない症候群的な奴だと思う。
ああ、そう、最近ある方が記事にされていたのだけれども、「妄想テレパシー」という4コマ漫画が、ものすげー面白かった。
他者の心の中、頭で考えていることを分かってしまう女子高生の物語。
なんというかな、とある場面、2か所ぐらいで、泣いてしまったよ。俺、なんつーかな、これまた表現が難しいけれど、嫌なこととか哀しいことって、結構慣れているから、あんまそういうので涙することないんだよな。だから、そういうんじゃない、何というか、あたたかいというか、切ないというか、きれいだというか、そんな感じで、泣いてしまったよ。
その記事にされていた方は、「さくって読めて面白い」って表現されていたけれど、僕はとても感動したね、うん。一気に読んでしまった。それがゆえに時間がないのか、なるほどな~(放心)。
感情という機能
なんというか、心の中の言葉と、実際に発言する言葉って、人間みんな違うわけじゃないか。そんな当たり前のことが、僕は結構重かったりつらかったりするんだよなぁと、ふと思った。
その主人公の女の子じゃないけれど、結構、他者の考えていること「分かる」んだよな。いや、「今頭に思い浮かべた数字を当ててみなさい」というのは違うけれど、喜怒哀楽的な簡単な感情から嫉妬とか憎しみとかちょっと発展した感情という話し。別に僕だけじゃなくて、誰でも分かることだ。何故なら、感情とは、そもそも、人が上手く生活を送るために脳がつくりだした機能だからだ。感情が、他者に一切伝わらないものだとしたら、それは、何ら役に立つ機能ではない。
何だっけ? また脱線したな。
ええと、あれだ、基本的に、このブログは、99.9%ぐらい、心の声を反映している。
リアルタイム筆記である。
0.1%というのは、タイピングスピードと思考とのラグだったり、文章表現と思考表現との違いだったりするけれども、基本的に、思い浮かべたことをありのままに記述しているつもりだ。もちろんそれでも、自分の知らない部分があるかもしれないから、100%そのまま表現できるなんてできないと思う。
ただ、僕がここで、楽しかった、と書けば、それは本当なのであり、無理して友達たちにあわせて、笑顔を作っていたりなんて、そんなことはないのだ。
優しい嘘、悪意のある嘘、それらにかかわらず、人は思ったことを口にしない。
その場で適切な振る舞いをする。当たり前だ、そうやって人は社会生活を送る。
仕事中めんどくせえとか言ってたら、速攻首だ!
と、言いながら、そもそも、その「めんどくせえ」とかいう感情だって、言語ラベリングされたものに過ぎない。
めんどくせえ、って、何? その面倒さって、ひたすら資料をコピーとるめんどくささと、お客さんに分かりやすい資料にするにはどうしたらいいんだろうと頭を悩ませるめんどうくささと、同じだろうか?
一言で面倒、といってしまうと、その機微が分からなくなる。
だから、感情言語は、非常にデリケートに扱った方がいい。
……とかいう話しの流れで、満足できればいいのだが、僕はさらに疑問になる。
デリケートに扱う? でもさ、感情って危機を避けるためにあるものでもあって、「これはこういう感情なのだろうか?」なんて考えていたら、危険回避に遅れてしまうかもしれない。
喜! 怒! 哀! 楽! と、明確に、単純に、自分を判断して行動した方が、よっぽど役に立つのではなかろうか。(特に生きるか死ぬかの戦闘において)
疲れた……
その、疲れたってのもそうだ。本当に疲れたのか? もっとやれるんじゃないか? もっと頑張れよ、ほら!
あーうるさいなぁ、もう。
今日は、クレジットカードの住所変更を行い、クリーニングを出したり、目薬を買ったり、生活費の口座間調整をしたりと、それなりに活動したじゃないか。いいじゃないか。
部屋のカオスさは広まってきているが……。
取りあえず、明日も予定があり早いし、今日はもうルーチンやって寝るとしよう。
そういや、ルーチンも続けられているな。次の壁は、3か月目あたりだろう。
あぁ、この記事面白くないだろうなぁ……。
良い文章とは何か?
昨日の、複数日の短文を混ぜこぜにした記事は、これでもかというくらい分かりづらくなった。本来、ブログとは「公開」が前提とされていて、誰しも読むことができるものだ。これが、日記文学などといわれ、例えば兼好法師の徒然草だとか、昔から伝えられるものと異なる点だ。
上の文章を分かりやすく書くと、
⇒ブログは、「公開」が前提とされていることが、従来の日記(例えば兼好法師の徒然草など)と異なる点である。
となる。
どちらが、良い文章かといえば、後者である。しかし、改善はもっとできるだろう。兼好法師の徒然草を強調したいのか、日記文学について書きたいのか、ブログの「公開性」について書きたいのか、それによって、表現の「正解」は変わってくる。
つまり、文章は、実は短文のみでは、何が正解かは決まらないものなのだ。
文脈の流れの中で、筆者の伝えたいことを明確に、正確に、簡潔に伝えられるものが、良い文章の条件となる。
思考ブログの難点
上の小見出しにおいては、「良い文章とは何か?」に対応する表現である。ポイントは二点ある。一つは、一文、二文、といった短い文章だけでは、その文章全体が「正しい」のかどうか、判断できるものではない、ということ。もう一つは、良い文章とは、明確で正確に、かつ簡潔に伝えられるものであるということだ。しかしだ、条件はそれだけではない。
人の来歴――いわゆる知識だとか、感情傾向、立場など属性によっても、その文章の理解度が変わる。
この文字による伝達については、サピエンスという人類種が、虚構の言語を用いるようになった7万年前の認知革命によって、表現が無限大に広がった結果である。
ある方が、「よい感想とは何か」という問題定義をされていた。僕なりにこれの答えや、見解といったものはあって、いずれ整理した記事をサイトの方で掲載したいという目標もあるのだけれども、今のところ優先順位は低い。
もったいぶったこと書いてしまったが、結局、作品を構築された作者さんにとって、「何らかプラスになるもの」というのが良い感想だと思っているに過ぎない。書くべきは、具体的にどうしたら、その目的に近づけるか、ということであり、ここに力を注ぐべきだとは思っている。
閑話休題。話しがズレた。
良い文章とは何か、ということについて、それは中々難しいものだ、ということ。その点が確認できれば、長々と書き続ける必要はない。
この小見出しにおいて記載すべきは、その「良い文章」を、ブログにおいて、必ずしも目指さなくてもよい、という、反逆児的な表現である。
「そんな駄文はローカルな日記でやってろ!」
という批判はもっともである。しかし僕は、思考の過程の記述、というのは、それもまた、ブログでこそ表現可能なものではないか、と思っている。
目的無きブログの存在
ここら辺の表現は難しくて、本当の意味で虚無、何ら目的がない、というのであれば、残念ながら、それは「理想的に」無意味でしかない。しかし、現実世界と自己は、結局のところ相互作用を受け続ける関係であることからも、「完全な虚無」というものは存在しない、と思っている。主語無き文章は減点である。左の記述は、「あくまで私はそう思っている」というだけだ。
例えば、いつも書いているように、ゲームして無駄にダラダラ過ごしてしまったとか、ネットサーフィンで無駄時間費やしたとか、昼まで寝過ごした、とか。それらは無価値な行為だったかもしれないが、その「無価値さ」というのは、何らかの目標や目的に照らしてこそ、本当に無価値であったという判断がくだされることとなる。
ダラダラと書いてしまっているが、結論はこうだ。
ダラダラと書いたっていいじゃないか、と。
では、何故僕が、他者のそういったダラダラした(と書くと表現が悪いが、もちろん否定的な意味で書いているのではない)記事を面白いと思うかというと、そこに、「思考の過程」が含まれているからだ。
ぶっちゃけ。率直に申し上げれば、答えを知るということなど、もはや興味があまりわかないのである。
答えなんて、いくらでも知っている。大げさか? いいや、そんなことはない。生きる上で必要な、本当に必要な答えなんてのは、驚くほど少ないのだ。
そんな、真理を悟りました、的な表現をしていながら、何を俺は苦悩しているのか。そもそも、自分で苦悩とか言っちゃうところが、まぁ変態である。ナルシストだとか、まぁその他たくさんの批判が可能な状態、人間、人格といえるだろう。
それは置いておいて、まず、「僕は苦しんでいる」という前提をしいて、その前提と、「答えを知っている」ということの矛盾とは何か、を書いてみる。
答えの実感問題
アリストテレスという哲学者、……関係ないことをまた書きたくなった。僕が面白いと思うブログは、「前提」を限りなく低くしいているものだ。
前提とは、換言すれば、間口の広さともいえる。専門的なことだとか、難解なことがテーマになっていることが問題なのではない。そのとっかかりが、その使われる言語、キーワードが、分かりやすく配慮されていることである。
アリストテレスなんて、そんな、紀元前4世紀ぐらいのギリシア時代の哲学者で、プラトンの弟子だが形而上学だけでなく形而下学も重視しただとか、ニコマコス倫理学という本を書いたとかアレクサンダーの先生だったとか、まぁそれぐらい当たり前だろうと(いや、僕は今無い知識を適当にならべただけだけど)、それぐらい読者の皆さんはご存知ですよね? みたいな大上段で書かれたブログは、ちょっと敬遠してしまう。
他にも、とある作品の、登場人物を並び立てて、それがかっこよかったとかどうだっとか、表層的になってしまっていたり、芸能人の誰それがどうしたからどうだとか、はたまたローカルなコミュニティの人を挙げてそれがどうした、だとか。
そういうのが間口の狭い記事である。
僕が面白いと思った記事だとか、すごいなぁと感じた方だとかを、敢えて「だれだれさんが~」と書かないのは、そういう意味でもある。
何か、自分の知らない人が絶賛褒められていても、「え、別におれはその人しらねーし」と、距離感を覚えるだけである。
いわゆる、感情の押し付け、押し売りみたいなものになってしまう。そういう傾向があるブログ記事は、いくら「思考の過程」が面白くても、継続して読みたいとは中々思わない。
おお……、小見出しとまた、全然違うことを書いてしまった。
(本当は、アリストテレスのアクラシアという概念で、分かっちゃいるけどやってしまう、的な状況があるから、「答え」(真理、善のイデアみたいなの)だけが重要ではない、という方向にもっていったことを書きたかったのだが……(苦い笑い))
でも、書きたくなったのだ、いや、書いておかねばならないと、そう思ったのだ。
この感覚。
「俺、そもそも何を書きたいのか、何をしたいのか、よく分かんねぇ」
「あー何だか、苛々する。面倒だ。何もしたくない」
「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」
「つまらない。何で生きてるんや」
とか。
こうした状態に陥ったとき、取りあえず書くのである。それが思考の過程である。
だから、まぁ、これは致命的な欠点であるのだけれども、どうしても「長く」なってしまうし、逆に、短いと、その大きな目的が機能しなくなるのである。
とはいいつつ、もっと効率化したいという思いもある。
そのためには、もう、「インプット」を強化するしかない。自分の記事を、だ。自分で書いたことをちゃんとインプットするのだ。さもなければ、永遠と、トートロジー、同じことを反復し続けてしまうだろう。
メモとしての記事
メモ、としては、これも、ある尊敬する方が、新しくブログを開始されたので期待と嬉しかったということでもある。リンクも追加した。俺はすぐさま、「尊敬って何だっけ?」と思ってしまう、サイコパスかアスペルガーか分からないがおかしな人間なのかもしれないが、「尊敬」とは、すごいなぁと感じる人、参考にさせて頂きたいなと思う人、のことだと思う。好敵手、ライバルというのとは違うのか、何か違う。他に実感表現がない。やっぱり、尊敬という言い方で正しいと思う。
あ、また出てきた、「正しい」という表現。ここでいう正しいは、「自分の実感において」という意味である。はい、主語ない文章、減点、である。ふむ、分かりやすい文章道とはかくも大変なものである。
いや、そもそも、だ、メモとしてであれば、箇条書きの方が適しているではないか、ということになる。
これも、違うのだ。メモしておくべきことは、単に「事実」ではない。その事実において発生した自己の感覚、感情である。
なんか先日、苛々しすぎて、なぜ人は争うのか! みたいなことを書いていたけれども、あれはあれで、結構実感言語だったりする。
いやほんと、みんな仲良くすりゃええやん。楽しめばいいじゃん。と、ホント思うんだけどね、そうはいかないものなのだ。哀しき哉。
貴方の夢はなんですか?
世界平和に貢献することです。
いや、ホントそう思うよ。一方で、昨今増えてきている電車でお年寄りに席を譲らない人でもある。親を亡くした子供たちのための募金活動をみても素通りしてしまう人でもある。
これが、「答え」と、「実感」との乖離であり、長々と文章を書かなければいけない理由である。
答え、なんて、もう高度化した社会で殆ど役に立たないと思うんだ。
「あ、ライオンだ! 逃げろ!」
その程度で、情報伝達としての言語表現は十分なんだ。
とか、そんな言語表現を絶望した人が、数学者とか、数式など自然科学にのめりこんで成果をあげるのかもしれない。……なんて完全に思い付きで余談であるが。こういうのが、ツイッター的つぶやきである。
甚だメンドクサイ生き方な気がする。
こんなのモテないだろうな、と、以前どっかの記事に、数年前に、書いた気がするが、やっぱりホントそう思うわ(かっこわらい)。
でも、だ。それが「めんどくさい」のなら、何故僕は、こんな時間(26時)に眠りもせず、書き続けているのか。
それは、これまた矛盾しているようだが、きっと、「楽しい」のだと思う。
変な奴だな。仕事は嫌で、重くて、プレッシャーで、めんどくさくて、やりたくないな、朝が憂鬱だな、と思って、こうやって、めんどくさい思考は、めんどくさいのに睡眠時間を削ってまでやっている。
まぁでも、最近の傾向として、せいぜい30分~45分ぐらい、1時間いかないぐらい書いていると、だんだん落ち着いてくる。
結論は、毎回どうなるか分からない。いちおう、良い文章講座的には、起承転結でオチをつけねばなるまいと、思うのだけれども、そもそも、いつも書き始めたときに書こうと思っていたことから、どんどん変わっていく。だから、たまたま最後に、最初に書き始めたことと関連する終わり方に近づいたときは、「奇跡的に初めに戻った!」的な感覚表現をしているのである。
今日はどうだろうか?
ふむ……ダメだ、全然関連性が浮かばない。
今後の予定を
まぁ、あれやな、「眠れない夜に思考の整理を行う」というタイトルからすると、妥当な気もする。はぁ、……、ああ、しかし、
1.12/3(土)、12/4(日)
2.12/10、12/11
3.12/17、12/18
4.12/24、12/25
5.12/31、1/1
先日のこの予定表。2と3も予定が入っている。
ので、次にやってくるお休み、3日、4日は、結構貴重だ。
この日に、サイトの改修と、物語の構築をある程度進めたい。
そのためには、家事的な準備や、食糧の備蓄、部屋の片づけ、ルーチンの実施、早期の帰宅、帰宅のための仕事の段取り、早めの就寝……などなど、今から色々準備する必要があるだろう。
これも先日、「そもそも生きる上で、仕事とプライベートを完全にわけてしまってよいのだろうか。仕事における自分も、プライベートにおける自分も、同じ自分なのであって、その総体が人生そのものではなかろうか」と書いたわけだけど、そんなカッコつけたこと正直どうでもいいわ(かっこわらい)。
休みが、土日があるから仕事も頑張れる(この頑張るという表現も、先日書いた通り「努力」というマイナス言語で用いている)し、成果もあげられる、ということも、やっぱりあるだろう。
仕事くそめんどくせえやってらんねぇ仕事上の付き合いとかやってらんねぇ、とかね、まぁそこまで思ってるかどうかも別としてだけど(自分でもよく分からない、何せ苛々してパニック状態であるから)、それを切り離した生活、生き方もまた、悪くないと思うよ。
思うけど、これは、あまり何回も書いたことはないけれど、その、明確な切り替えってのは逆に危険もあって、例えば、サザエさん症候群とか、ブルーマンデー症候群とかが、ものすごく重くなったりするわけ。最近はやりだと、新型うつとかね。
新型うつとか、悪意のある伝えられ方のやつを間にうけると、ふざけんな甘えだ! と思うわけだけど、まぁでも、「趣味的なプライベートが楽しければ楽しいほど、そのギャップ的に仕事が重く憂鬱になる」という感覚は、僕は分かる気がする。
だから、あんまり明確に仕事とプライベート、という分けはしない方がいい気がするなぁ、的な、そんな程度の感覚で、「仕事における自分も、プライベートにおける自分も、同じ自分なのであって、その総体が人生そのものではなかろうか」とか書いちゃうところが、本当に二流的なアホだなぁと、自嘲する限りである。