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ブログ整理に意味はあるのか
2016/11/09 00:22 | Comments(2) | 思考及び書くこと
最近ルーチンの、筋トレストレッチ音読のことをあまり書いていないが、続けられている。
そして、一年前の記事とか読んでいると、やっぱり、ちょうど「ルーチン再開するぜ!」とか書いてある。その時は、英文の音読と単純計算練習だった。歴史は繰り返す。

それにしても、短い映画感想の記事が多く、過去の記事から遡っていると、中身のなさにイライラさせられる。何だろう、映画の分析とか、そんなの別に興味はない、それをみてどう思ったか、どうしようと思ったか、その感情を書き残しておいて頂かなければ、わざわざクリックして開いた労力に見合わない。ということで、20~30ぐらい削除したりしたけれども、まだまだ沢山あって、途中で放棄した。

ので、「思考の垂れ流しだって未来の自分には役に立つかもよ~♪」なんて甘っちょろい考えは、捨てよう。メモはメモでいいのだけれど、それは、感情レベルで想起可能な内容を書き残しておくべきであって、それができないのであれば、そもそも投稿ボタンを押すべきではない。

これは、文章の長いか短いか、ではないけれども、短いとやっぱり価値は薄い……いや、他の方のブログは短いながら非常にウィットに富んでいて、面白く楽しませてくれるのだけれども、基本的に僕が書く記事は、短ければ短いほど価値が薄い気がする。

ある方からコメント頂いて、「よくまぁ毎日こんな長文書けるねぇ」と言って頂いたが、(まぁそれが皮肉なのかどうなのかと、一応同時思考的には生じるけれども、結論的には嬉しい感情に収まった)逆に、短いと意味が希薄なのである。


例えば、上のことだけで終わってしまうと、数日後にこの記事を開いた僕は、イラっとするわけである。

仕事の苛々とルーチンの効用

自己啓発ブログ何かになりたくないけれども、このルーチンというのは、やっぱり役に立つなぁと思う。そして、これは取りあえず書いておく必要があるだろう。

昨日もだけれど、今日もかなり苛々しながらの帰宅であった。何だろ、中々人の心は難しいね、じゃなくて、思い通りに事が運ぶってのは難しいなぁと、今、落ち着いてみるとそんな達観した、他人ごとな感情だけれども、いざ渦中にいると結構面倒なものである。

これまでの経験上、このさかだった気持ちを抑えてくれるのは、ゲームとかテレビとか、ぼけーっと頭を使わないような行為であった。
しかし、イライラしようが、疲れていようが、おなかが痛かろうが、眠かろうが、とにかく、筋トレストレッチ音読はする! と強い気持ちで、それを実行すると、何だか少し落ち着くのだということが、昨日と今日とで分かった。

ひたすら筋トレと、ポジティブ思考を説くブログとか、何だか、某有名テニスプレーヤーの「頑張れ頑張れがんばれ! お前ならできる! 絶対できる! 諦めるな! 頑張れ! できるできるできる! 頑張れ!!」という、熱いエール、応援のようで、うぜぇ……って気持ちになるわけだけれども、まぁ、言ってることとかやってることは、間違いじゃあないと思う。

これも他のある方の記事で読んだけれども、「自殺するくらいなら筋肉を殺せ!」というのも、生きる方策の一つであるだろう。


と、そういうのは認めておいて、やっぱり、タイミングは重要で、ほんとに落ち込んでるときにそのような熱い気持ちは、その人の絶望を、むしろ深めてしまう可能性についても考慮しなければならない……と書いておきながら、いや結局、そんなタイミングなんて、他人のことを100%完全理解などできないのだから、気にしていては何も始まらない。

悩んで何もしないぐらいなら、何かやって失敗した方がまし。という諺のようなものだ。

いやそれもまた、その失敗が取り返しのつかないものだったり、その失敗が人生のかなり深いところでトラウマ的な傷になって、一生引きずっていかざるえなくなってしまったりと、それもまたタイミングである。

そこから導き出されることは何か?

考えたって無駄である

「生きる意味を徹底して考える」
というタイトルにするまで、結構悩んだものだった。
いや、考えてどうすんだよ、という感情。

この感情は、どう考えても、否定できるものではない。

いや、すぐにね、例えば、

「戦略の失敗は戦術でカバーできるものではないし、戦術の失敗は戦闘でカバーできるものではないのだ」

という、目的や目標、全体をとらえることや深い思考の重要性を説く言説、諺、諧謔、標語、モットーなど、探せばたくさん見つけることはできる。

むしろ、大きな考え方、それを他の表現で、「信念」とか表現してもいいけれども、その信念があるから、現実の個々の事象、日常の判断のスピードを高速にすることができ、それが仕事の能率や達成率に影響するのだ、ということも言える。


だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり、普段、うだうだ、あー仕事めんどーだなーとか、あいつむかつくよなーとか、今日のお昼は何たべよっかなーとか、そんなことに時間使ってるのはもったいないということなのである。


結論:考えることは無駄じゃない。しかし、日常個々の事象に対する思考は無駄である。

無駄とは何か

その、大きいこと、信念とか、生きる意味ってのを僕が探し求めようとするのは、上に書いた結論のような呪縛のせいかもしれない。

しかし、そんなカッコつけるまでもなく、単純に、僕は、この考えるということ、思考というものと決別することに失敗したのである。
「君、キモチワルイよ?」
と言われようが、である。

だから、「ファイトファイト! 頑張れば何でもできるよ!!」という記事よりも、むしろダメブログと言われる系の方に共感というか、面白みを覚えたわけである。


けれども、同時思考的に、その、「思考の垂れ流し」に対する劣等感と、「無駄じゃね?」という思いと、常に戦いながら書かなければいけないところが、少しばかり苦しいところ。段々書いているうちにテンションが上がってくるときは、徐々に楽しくなっていくのだけれども、例えば今日とか、書いていてあまり楽しくないのである。

で、このあまり楽しくないときに書いた記事が、翌日以降読んで、逆に面白かった時もあるし、やっぱり面白くなかったときもある。


だから、「無駄」というのだけれども、この無駄ってのも非常に曖昧な概念でしかないと僕は思うのだ。
最初の方に書いた、イライラをゲームに充てて時間を無駄にしたなぁ、というコメントについても、ゲーム自体、エンターテイメントとか、物語を摂取するのに重要な要素だと思うし(相州戦神館學園というPCゲームがあることを最近知ったけれども、何だか面白そうである。テレビは無いけれどPCゲームならいける)、そのイライラを鎮静する意味を考えれば、単純に無駄とはいえないだろう。すぐさま書いておくべきは、他の目標があったとき、その逃避的行動は目標に対して「無駄」である。

ので、無駄というのは、達成すべき目標に対しての相対的な概念であるのだ。
さらに書いておけば、その「無駄認定」を、仕事場など、共同生活においては、よく他者から指定、規定されるものである。
それが、ストレスチェック的な用語を使えば、「自己コントロール感」の不全に繋がり、ストレスになる、という構造である。

面白いとは何か

さて、この記事は、明日読んで面白いんだろうか。

また情けないことを書けば、いやそれは、メモしておかなければという思いからなのだけれど、面白いかどうかって、結局、自分の感情だけで判断は難しいものである。

ある方が、自身の作品について、これ面白いんかなぁ……どうなんだろ、と呟かれていて、いやぁ、あなたの作品だったら絶対面白いッスよ、と思うのだけれど、ただ、その感覚は分かるのである。
(でた! 「分かる」という上から目線! お前何様だぜ! ……という思考の邪魔だてはここでは無視しよう)

さらに、一つ話をすっ飛ばして書くと、「面白いですよ!」という他者の評価があったとしても、その「信頼性」というのが問題になってきて、この「懐疑」という感情は何ともやっかいなものである(僕はもう呪いという表現を使っている)。


その、面白いかどうか、ということについて、僕がこの小見出しの冒頭、情けないこと、と書いたのは、読了ボタンが押されていないと、「あれ、俺、なんかダメなこと書いちゃったの? 面白くなかったか……いやそうだよな、普段も別に面白くなんてないし、役に立つことなんてちっともないけれど、頑張ってボタンは押してくださってた方がいたってだけなんだよな。ああ、ほんとごめんなさい、いやでもほんと、何かダメなこと書いちゃったかな、ぁぁぁぁどうしよう!」
みたくなるのである(いや、ちょっと誇張している気がするけれど……)。
そして、こんなこと書くと、もはや、どんな言い訳を書いても、コメント乞食とか、拍手乞食とか、まぁそんなことになるわけだ。自分の発言には責任をもちましょう♪ というわけだ。


が、しかし、こういった、情けない部分の表現も含めて、余すところなく表現していくことが、徹底的に、という表現だと、またいつもの「言い訳」なのだけれども、まぁ必死に言い訳しようじゃないか、ということである。


ただまぁ、指標としては、結局、明日の自分、もっともっと先の未来の自分が、面白いと、役に立つと、そう思えるかどうかが重要な点なので、拍手やコメントといったものは、付加要素(いやとっても嬉しいものなんだけど)に過ぎないことを意識しておくべきである。

幸福の限界効用逓減

当たり前の幸せに気付こう。

と、スピリチュアルとかありがたい法話などで説かれたりするものだ。
その付随する思考がいかに胡散臭いものであって、ビジネス的であろうが、僕はこの考えは重要だと思っている。

いや、いつも書いているように、幸せって何ぞよ、というのは別の次元の話しだ。

取りあえず、「良い状態、気持ち良い状態、心地よい状態」という事象自体を幸せとしたとき、「上へ上へ!」という思考は、その基盤となっている大切なものを見過ごしてしまう可能性が潜んでいる。

そのあたりに、「頑張れ頑張れファイト行ける! やればできる!」的な熱いメッセージというものへの懐疑が生じる所以でもある。

何というか、ランナーズハイのように、その走ることとか、頑張ることそれ自体が「気持ち良いこと」など、幸せであるという次元に昇華できるのであればよいのだが、何かの目標に対しての努力なのであれば、その努力は、できるだけ無い方がよいと思う。

いやそんなこというと、「苦しんだものが救われる」とかいう、物語の王道から外れてしまうわけで、それってつまんねーじゃん、ともなりかねない。
そもそも、僕が前の記事で書いた「死は別にバッドエンドではない。のうのうと人を騙して蹴落として好き勝手やった奴が嫁や子供に囲まれて幸せな生活を送る、とかいうのがバッドエンドに他ならない」というのに反するのではなかろうか。

やっぱり、苦しんで、悩んで、頑張って、そのあげくにつかむ幸せっていう、そういった物語が、僕たちのハートを掴むんじゃあなかろうか。

おっと、小見出しと話しがまたズレてきた。


でもこの部分、結構重要だわな。

努力の否定は悪人の肯定か

「努力信仰の否定!」
とかっこつけて書いたのも、最近の記事だった気がするけれど、でも、努力しないで、他人をこきつかって、楽に出世して、周りを苦しめながら楽しく気持ちよくなるようなこと、それってホントに正しいといえるのか、ってことだ。

僕は、そんなつもりで書いていたわけではないが、まぁ、初めてその記事を読んだ人は、そう感じても仕方がないな。もし批判コメントがなされるなら、そういった部分なのだろう。
ただそれに対して、きっと僕は面食らうわけだ。え、何をいってんの? そんなわけないじゃん? と思うわけだ、だが、文章上、記事から読み取れる内容としては、そういった批判はまさに的を射ているわけだ。


文章表現の限界性なのかもしれないが、ここを諦めるのは、本末転倒である。


いやぁ、しかし、もう今日は終わりにするか。
何だか、書いていてあまり楽しくなかったし、やっぱり疲れたよ……。

これで、明日読んでも面白くなかったら、まったく「無駄」な時間だったなぁ……と、なるのだろうか? という、それに対しての疑義、という意味はあったのかもしれない。

眠い目をこすりながら明日以降を考える

しかし、11月の初旬が終わろうとしている。時間、本当にまったなしだ。

着々と仕事して、作品つくって、彼女つくって、結婚して、子どもつくって頑張っている人もいるいっぽう、俺は夜な夜なこんな記事ばっか書いていると。

で、他のブロガーさんのように、同士をみつけて、一緒に鍋パーティーやったり、オフ会で街を探索したりとか、有意義なことに活用しているわけでもなく、ただ一人、永遠と自分の止まらない思考をせっせと表現するだけ。

いやほんと、止まらんのだよな、今、日本全国全体レベルでは速い部類のタイピング速度に合わせて書いているとはいえ、思考的には浮かんでは消え浮かんでは消えとにかくカオスに溢れている。

その溢れる思考を、一定の表現にすることで、道筋を立てようというのが、この無駄に長い記事たちの役割なのだけれど、一体、いつになったら前に進めるのだろうか。

そのヒントを探すために、過去記事を読んだりしているが、何だろうか、着眼点や、取り巻く環境の違いから表現される言葉や文章は異なるとはいえ、この膨大に垂れ流される思考を何とかアウトプットしようとしているその試みは通底している気がする。

って書くと、さもいつも高尚なこと考えてますよ、的な印象になるような気もするが、いや、高尚な人は、こんなことしないわけだ。
高尚な人は、どうやったら世界の貧困問題が救えるのか、医療水準をあげられるのか、経済を発展させられるのか、国を守れるのかとか、そんな偉いことにリソースを使うのである。


いやそれはもちろん、僕も、他の人の役に立ちたいし、誰かから感謝されたら嬉しいし、もっと頑張ろうとか、それは思うのだろうけれど、何だろう、何なんだ、何だっけ、その、うーん、こう、表現が浮かばないときは頭が真っ白になってしまうのだが、ええと、「目的」みたいなものが、今消えてしまっているというか、失われたというのか、どっかいっちゃった感じである。

違和感

一人暮らしするぞ。大学入るぞ。友達つくるぞ。資格取るぞ。彼女つくるぞ。就職するぞ。結婚するぞ。お金稼ぐぞ。



こうやって、ぐちゃーっと、書きなぐりながら、時に泣いて、時に苛々して、むかついて、怒り、奮い立たせ、鼓舞し、何とか色々やってきた。

ダメブログ界的には、「ケッエリートが」「たまたま運がよかったんだろ」「裕福なお坊ちゃんめ」みたいに散々非難轟轟なのだろう。そうなんだろう、僕は恵まれていて、運が良かったんだろう。その恵まれて幸せな環境やリソースを使って、もっともっと上昇していけばいいことなんだろう。

でも、何か違う。

ここで、その時々で、僕がどんだけ悩んで苦しんでいたか、という表現は、多分今無理やり作り出さなくても、当時の記録があるだろうから探して貼り付ければすむだろう。
ただ、そうやって表現したところで、「なに? 悲劇の主人公気分? うわキモ☆」「あー、惨めな自分に浸ってキモチよくなりたいってことだね~」という批判にしかならないだろう。

そうなんだよな。
可哀そうだね、よしよし、と慰めてくれるのは、誰しも母親ぐらいなもんだろう。いや、母親でさえもこんな記事読んだら「キモッ!」ってなるかもしれまい。

という意味から、やっぱり、ホントに致命的な重要な問題については、他者に愚痴いっても解決なんてしないよ、という、なんとも寂しい結論を、僕は自分自身で強化肯定してしまうのであるが、何だろう、ここら辺について、なんか、物語に期待する部分でもある。

「愛ってめんどくせーもんだけど、でも、悪いだけのもんじゃないぜ」

とある方が言っていて、僕は非常に感銘を受けた。その言葉の前にあった、人ってホントにダメでどうしようもない奴も多いけれども、でも、人の善意なるものも、それもまた人の本性なんだ、という流れからの話し。


ホントそうだよ、その通りだよ。

悪い部分にだけ目を向けてたって仕方がない。いいところ、美しいところ、綺麗なところ、素晴らしいところ、耽美煌々、法悦恍惚、人の発展により培われた文化はまたその一つの在り方なのだ。



が。

違和感だ。

この、現実という規定において、この生活において、この「無目的性」において、違和感が強くなる。

……恐ろしい、何だか、戦慄した、身の毛がよだった。


ああ、だから、本当に、ぐだぐだ苛々なんてしている場合じゃなくて、

物語のインプットと、

人生の目的(生きる意味)を、

もっと真剣に、もっと早急に突き詰めていく必要があるのだ。



僕の書いた記事がよくなかったから拍手してもらえなかったのかとか、
僕が言った言葉が相手をどんな気持ちにさせてしまったとか、
そんなこと考えてる暇なんてないんだ。

とにかく、寝よう。寝ることの重要性もまた、疑う余地のない対応方針の一つだ。


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コメント

『だから、思考自体が無駄、というよりも、大きな思考は重要であり』
たしかに、その通りだと思います。
感情的なことや日常のルーチン的なことは単純な思考回路で考えてるあまり意味のないことだと思いますが、複雑なことや高尚なことなど知性や理性で深く考えるのは脳の無意識的な単純な思考回路では生み出されない人間の自由意志にもとづく貴重なことだと思います。
これからも頑張って下さい!
posted by うーたんat 2016/11/09 20:56 [ コメントを修正する ]
昔は思考に押し潰されがちでしたが、思考オタク、になってはいなんな、と最近はおもってます。その思考というものが、現実へどうフィードバックできるのか、そこまで頭をまわすようにと思ってます。

ただ、なかなか、溢れる感情があるときは、それをおさえるため、分析するため、表現するためにリソースが、多く必要になってしまい、じゃあ具体的にどうしよう、というのが中々たどりつけません。

そういえば、うーたんさんの2014年あたりの、神への信仰と、努力することとの関連について書かれた記事など、非常に興味深く読ませていただきました。
ありがとうございます。


posted by 遠藤at 2016/11/10 20:13 [ コメントを修正する ]

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