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一呼吸つけた
2017/11/25 23:35 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「休日がとても大切」

何もしない時間が必要

 友人との飲み会をぶっちした。ぶっちってなんだろう。さぼり、という意味。行けるけれども行かなかったという意味。
 しかし、少し落ち着いて考えてみる。飲み会に行くことで、時間が使われる。何かを行うという時間だ。それを行うことで、精神の落ち着きが取れなくなるとしたら、それは「ぶっち」なのではなくて、正当な「行けない理由」ではなかろうか。

 つまるところ、何に時間を使うかは、自由である。

 この自由は、とても素晴らしいものだけれども、時に、自由には「責任」が伴うので、その自由自体が重いものになる。
 飲み会に行けなかった……のではなく、会社の強制参加の飲み会のように、絶対に行かなければならないようなものであれば、「ああ、面倒くさいなぁ」と思いながらも、その結果生じること(例えば、体調が悪くなったり、精神的に落ち着かなかったり)の責任は、自分にはない。何せ、選択ができなかったからである。

 一方。行くも自由、行かないも自由だったときに、その責任をかぶるのは、自分一人だ。

お金について

 友人と遊ぶのも自由。
 恋人をつくるのも自由。
 仕事をするのも自由。

 本当にそうか?

 たぶん、そうではない。自由の幅は、過去専制君主時代に比べれば広がっていても、自然や社会の中で人が生きるのであれば、その自由は必ず制限される。

 その制限される自由の幅は、資本主義社会であれば、「お金」というツールによって広がったり狭まったりする。

 一般的、卑近には、お金は欲求を満たす手段である。よい寝床も、よい食事も、よい異性もお金がないと手に入らない。
 しかし、お金の価値は三つあるといわれるが、そのうちの一つは、「価値を保存できること」である。
 欲しいものなんて、そうそうすぐには生じない。必要なものなんて、すべて理解しているわけでもない。
 突然必要になったり、欲しくなったりする。その際に、手に入れられるかどうかの選択の幅を広げてくれるのがお金だというわけだ。

 だから、お金は、あればあったほどよい。

人脈について

 お金は目に見えるから分かりやすい。
 では、俗に言われる人脈というものはどうか。

 確かに、人は一人では生きていけないので、助けてくれる人は多いほうが良い。ビジネスをするにあたっても、初対面の人よりも、顔見知りの方が頼みやすかったりする。

 だから、人脈もあればあったほうだけよい。

有限性と将来性について

 お金も、人脈もあればあった方が良い。

 では、幸せはどうか?

 幸せもあればあった方が良い。理由はない。幸せという言葉の定義は、「あればあったほうだけ」豊かであったり、うれしかったり、気持ち良かったりするものだからだ。そういう定義なのである。そういった概念なのである。
 だから、幸せを求めるのは自然なことである。

 問題は、その幸せという言葉の「中身」である。

 幸せがよいか、不幸がよいかという問いの立て方は無駄である。
 しかし、一方、生きることがよいか、死ぬことがよいかという問いは無駄ではない。
 生きる意味を考えるべきか、考えないほうがよいかというのも無駄ではない。

 そういったすべての上に立つのが、「幸せ」という言葉である。

 ――だから故に、幸せについて考えることは無駄である。

 もっと簡単に書けば、幸せについて考えることは無駄である。何故なら、幸せであるしかないからだ。幸せでなければ失格だ。失敗だ。間違いだ。

 だから、選択を迫られたとき、難しく考える必要はない。その選択が幸せであるか、そうでないか、それだけを考えればよい。

 ところが、有限性の中では、その選択が正しかったかどうか、その判断ができない可能性がある。
 10年先の選択としては正しかったことが、5年先で方向転換を余儀なくされたとしたら、その選択は失敗だったことになる。

選択の難しさ

 何故選択することが難しいのか。
 判断基準は、「幸せ」であるかどうか、だけである。それなのに、何故?
 その理由は、選択が、「いま・このとき」のためだけにあるものではないからだ。

 人間が、抽象的な言語を使用するようになったこと――いいかえれば、抽象的な言語を使えるから人間だともいえるが、それゆえに、人は、「未来」を想像することができる。


 何故人は悩むのか。

 未来があるからだ。

 未来がなければ、選択など簡単である。いま、このとき、瞬間における幸せを選び取ればよいだけである。

 しかし、理想的な身体を手に入れるため、病気にならない健康な体を手に入れるため、食事制限したり、ダイエットしたり、筋トレしたりするのである。それ自体は、「いま・このとき」の幸せの放棄である。諦めである。



 何故物語を書くのか。
 手っ取り早く、だれかほかの人のつくった物語に興じればよいではないか。ゲームやアニメ、ドラマや映画、様々なエンターテイメントがある。

 自分の頭で考えるのはとても大変だ。
 それは、未来に、楽しい面白い物語をつくれたときの、だれかほかの人を楽しませられた時の未来の幸せを求めているからだ。

何もしない時間

 テレビも、人との会話も、勉強も、仕事も、睡眠も、全部やめてしまって、何もない時間が欲しい。

 実は、そんな時間がとても貴重なのだ。

 何もない時間。

 何も考えなくてよい時間。

 何もしなくてよい時間。

 ただ、あったかい部屋で、コーヒーと少しの甘いものをつまみ、椅子に深く腰掛け、外の流れる雲を見つめる。ゆったりとした音楽と、風のそよぐ音が耳をかすめていく。
 そんな時間がとても素敵だと思う。

 古い一軒家の縁側に座る老人のようか。

 何も生産しない時間。

 一般には無駄だといわれるような時間。



 僕は、何か、「目的」や、「目標」なるものを目指して、――いや、目指さなければならないと思っていた。いや、今も思っている。

 ただ、それは何らかの「もの」や「こと」なのではなくて、むしろ、「なにもないもの」や「なにもないこと」なのかもしれない。


 努力すること、頑張ることというのは、何かを手に入れるための手段である。
 僕は、それにどうしても本気になれないでいる。

 それは、本当に欲するものではない気がしているからだ。

 でも、少し考え方を変えて、「なにもないもの」を求めるための努力であれば、もう少し本気になれるかもしれない。

なにもないものと死とは違うのか

 何もしないことをよしとするなら、それは死人と同じではないか。

 しかし、何かに対して感動すること……その、ゆったりとした時間に身体をまかせるということ、それ自体は決して、死人とは違う。

 無であるが、無ではない。――四句否定、テトラレンマ。

 

 しかし、今のように、凪のような心でいられない時間帯もある。
 こういうときはどうしたらよいのか。酒だ、酒をもってこい。
 昔、10年くらい前に、発泡酒というか、第三のビールというかを飲んだ時は、まずいな、と思った。最近は、確かに普通のビールとの違いは分かるけれども、発泡酒とかも、これはこれでおいしいなと思う。それで100円ぐらいなのだから、安い。
 ちなみに、第三のビールは、「リキュール」って書いてあるとそれらしい。発泡酒とは違うらしい。難しいね。

 でも、なんでアルコールが必要なのか。別においしい果物ジュースでもよいのではないか。

 僕もそう思っていた。けれども、やっぱり、アルコールがあると、気分がよくなるのである。「お酒飲んでる感」があるのである。これは何故なんだろうか。

 気持ちをリセットするのに、お酒が必要なんだろうか。そういう意味で、タバコを吸う人も同じなのだろうか。――またしても極論だが、煙草も麻薬も、その違いはあんまりないと思ってる。違いは単に、体への悪影響さだろう。

 鎮静剤だって、使い方を誤れば毒になる。薬と毒の違いもあんまりない。益虫も害虫も、「人にとってどうか」という判断のもとに下された区別だ。

どうでもいいことを書いているのは気分が良い

 ああ……ほんと、どうでもいいな。
 だから何だって話だ。

 でも、この「どうでもいい」という気持ちがわいてくると、すぐに、生きていること自体も、そんなに意味があるようには思えない。

 だから逆に、この「どうでもいい」ことを大切にしたいと思ったりする。

 役に立つこと、無駄なこと、有益なこと無駄なこと。効率が良いこと悪いこと。

「良いこと」

 が、よいことだとみんな思っている。僕もそう思っている。でも、良いことを求めても、きっとそれはイコール、幸せではないと思っている。

 何度も書いているけれども、良いことと悪いこと……その区別が、そもそも問いとして無意味だ。

 幸せという概念は、ただそれ自体が良いものである。
 良いという概念は、ただそれ自体が良いものである。

 良いものがよいか、悪いものがよいかという問いは無意味である。良いものは良い。ただ、その「良い」の中身は分からない。


 中身。

 そう考えていけば、まさに、中身なのである。つまり、抽象的な思考は無意味である。

 演繹的に、最高の真理からトップダウン的に生き方を示すなんて、無理なのだ。

 漸進的に、失敗しながら、調整しながら、それでも良い方向性を探しながら進んでいく。それしかないんだ。


 そうなんだ……、なんか、すごく憂鬱である。


(かっこ書きである。憂鬱な理由は次回記事に書こう。ウォーキングデッド見進める。退屈な部分も多いので早送りしながら見る。これ、ゾンビじゃなくてもよい気がしてくる。つまりが、世界というルールがなくなった場合の男女というか、社会集団のあり様を表現した作品だと思う。ゾンビはわき役である。社会ルールがなくなったとき、人はどう行動するかという社会実験である。保安官のリックさんは、道徳の化身。善というのは、時に現実と矛盾する場面に出くわす。そんな中、家族と仲間と道徳と、そのはざまで悩むリックさんの決断は時に遅く、イライラさせられたり、逆に不条理に思ったりするけれども、こういう人がリーダーじゃないと人間集団って上手く機能しないのかもしれないなぁと思ったり。一方、同じく保安官のショーンさんは、「合理的」の化身。仲間も、必要に応じて殺しちゃう(ゾンビの囮として見殺しにしちゃう)。その行動は時に短期にうつったり、非情にうつったりするけれども、極限状態で悩んでたら自分が喰われちゃう。まぁ仕方がないかなぁと思ったりする。その結果よいほうこうに事が運んだりもするし。でも彼がリーダーになったら、きっと弱肉強食的なモヒカン的世界になるんだろうと思う。『暴力の人類史』を読んで面白かったのは、その、強いものが支配するという構造に、人間集団は必ずしもならなかった、という点である。その理由について、「それがまた一方で合理的であった」からだという説明は、納得しそうで、ちょっと腑に落ちない部分もあるけれども、でも面白いと思った。人間としての尊厳という言葉や、命の尊さって言葉が、なんか空虚に感じることがあると思う。平和が大切とみんな知ってるはずなのに、ナショナリズムは横行して、テロリズムでまた中東の方で何百人が死んだとかニュースが流れる。それでも、人は、「正義」ってものを信じられるんだろうか。――いや、ここで正義という言葉を持ち出すのは不適切だ。テロリズムもまた、その集団においては正義だったりする。そうでなければ、多くの人は、顔をみたまま人を殺せるようには生物的にインプットされていない(と信じたい)。人の顔には、「汝殺すなかれ」という表現が組み込まれているといったことを、何かで読んだことがある気がする。だから、スイッチ一つで何万人も殺せるような装置はやっぱり危険だと思う。面と向かって人を殺すというのは、やっぱり、特殊な訓練が必要だと思う。漫画やアニメの登場人物が逡巡するシーンに、「え、なんでそこで躊躇うの?」と疑問に思うことは多いけれども、まぁ、覚悟や経験がなければ仕方がないと思うし、それが人間として普通だとも思う。……ってなんの話だ? リアリティの話である。ウォーキングデッドのある生存者の家長は、ウォーカー(ゾンビ)を、病人だとして、頭を打ち抜いたりぞんざいな扱いをすることを禁じている。それが危険なことだと周囲から言われても議論をする気もない。信じていたのだ。ウォーカーは、ただの病気だと、必ず治るものだと……妻を救えるものだと。それは、視聴者からみたら滑稽な選択で考えで、愚かともうつるが、しかし、それはまた彼にとって真実で、むしろそれがなくなったら、彼は生きる意味を失うだろう――と思っていたら、シーズン2の何話かで、やっぱり酒浸りになってしまった(かっこ笑い)。まぁその、……生きるって大変だよな)


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ブログを書きたくなる時
2017/11/05 11:41 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「違う意見に出会ってそれを上手く発散できない時」

ブログ更新遅くなったなぁ

 あまり認めたくないことではあるが、ブログを書くという行為の優先度が下がっている気がする。
 単に忙しい(気持ちが落ち着かない)という理由もある。しかし、物理的時間においては書けるはずなのだ。

 そんなことを思いながら、なかなかPCに向かって書くことができていなかったが、ある精神科医さんの記事で、「ブログを書きたくなる時」というのがあり、書きたくなった。
 そこでは、「人と会って話したとき」ブログを書きたくなるから、「ネタにつまったらもっと外に出て人に話すといいよ」と書かれていた。

 これは事実だろう。
 しかし、もう少しその心性を分析してみると、僕は、次のメカニズムなんじゃあないかなぁと思う。

1.人と会って話す
2.新しい考えや知識(事物)に触れる
3.自分の中で新しいスパーク(アイディア)が生じる
4.その場で上手く表現できない
5.ブログ書こう

 そして、このことを取り上げて僕が何を言いたいかというと、「人と会ったときにブログを書きたくなる」というよりかは、上の3.~4.のプロセスで消化不良が起きてることが原因なのではないかと思った、ということだ。

インプット型とアウトプット型人間

 これは、僕の思考の師匠が言っていた気がすることだが、人には二種類いるのだという。
 一つはインプット型人間。内面重視型である。
 もう一つは、アウトプット型人間。表現表出型である。

 ここでは、どっちが良い悪いということではなく、さらに、絶対100対0でその傾向が分かれるというものではない。人それぞれ、どっちかの傾向がある、ぐらいに考えておけばよい。

 上の小見出しの3.~4.の消化不良について、その人と会ったときに、ほぼ100%発散できる人は、きっと、家に帰ってもブログを書きたいなどとは思わないはずだ、ということを書きたかったわけである。
 と書くと、僕はすぐさま自分に対して疑問を呈する。「え、でも、体験したことをもっとみんなに知ってもらいたい! と思って、ブログとかフェイスブックとかで書いたりする人おるんじゃない」と。
 しかしそれは、共感志向型であって、どちらかというと、ブログという形態はとられないと思う。SNSが広く流行したのはそっちを求める人が多いからではなかろうか。


 ブログとSNSの違いについて、僕もどこかで整理した記事があった気がする、が探すほどではない。単に、ブログは文章が「長い」。SNSは「短い」。その程度の理解で(今回の記事としては)よい。

 だから、ブログってのは、どちらかというと、インプット型人間に適している媒体だと思う。
 人との場において、全部が全部、自分の気持ちを発散できる(※)人は、わざわざ面倒くさいブログなんて書かないだろう。

※大事な注釈。その発散できるというのは、「自分の表現を他者に分かってもらえた」という実感がもてる、という主観的な意味が非常に大きいことを書いておく。この注釈があることで、あとから読んだ未来の僕に対して、この記事が言いたいことがより明確に伝わると思う。


僕は何故最近ブログを書いていないか

 忙しいから(仕事・遊び(お出かけ、ゲームなど))。
 自分の表現が上手くできているから。

 上の二つが挙げられる。だが、後者は果たしてそうなのだろうか?



 それを考える前に、住環境についてメモしておきたい。

 部屋が汚くなっていた。この汚いというのは、清掃(ほこりが溜まっている)面と、整理整頓(物が散らかっている)面の両者であった。
 最近気づいたこととして、部屋が汚いと、やっぱり気分がよくないのである。清掃面においては、ある程度の期間でやっていたものの、整理整頓面の影響が大きいと思った。

 そして、その整理整頓とは、
・レシートを家計簿に打っていない
・書棚の本が横置きになっている
・DMや郵便物が放置されている
・洗濯物が乾いているのにかけっぱなし

 といったものがあげられるが、これは、少量・多量に関係なさそうである。
 少しでもそういった状態があれば、それが滓のように積み重なって、気分ゲージ(精神ポイント)をすり減らしていくのである。

 なんか落ち着かない、なんかイライラする、なんかやる気が起きない、なんか朝起きられない……これらの原因は、住環境に一因があると思ったのだ。

 ので、清掃・整理整頓を実施。
 今、コーヒーを淹れて、少し落ち着いている。


 ただ、ある友人の言であるが、「部屋が汚いから精神状態がよくないのか、精神状態がよくないから部屋が汚くなるのか」という、コロンブスの卵(にわとり先? 卵先?)論は、しっくり僕の中に落とし込まれた。どっちなんだろうなぁ。

 一つ書いておくべきは、精神状態が良いときに、いくら「頑張る」ことを決めたとしても、そんなもん何の役にも立たないのである。(何の、という形容詞は大げさに書いてるだけだ)

物事を決断したり実行したりすること

 気分が高揚してるときに、いざ頑張ろう! みたいに思って、実際三日坊主になったり、モチベーションが下がったりということを経験したことがある人は多いのではなかろうか。いや、多くあって欲しいが(かっこわらい)。

 僕も先日、ワイルドスピードに出演しているvin dieselとかthe rockとかの成長動画見て、「おお、年老いても筋肉あるとかっこいいな! 俺も頑張るぞ!」と思ったが、結局思ったままであった(笑)。

 まぁ、そうなんだけど、前から続けている筋トレのルーチンは継続している。最近は、腕ふり運動(スワイショウ)も追加している。この腕振り運動はいろいろやり方があるらしく、どれが一番良いかは不明だ。だが、細かいやり方にこだわるよりも、まずは、自分がやりやすいやりかたと、やりやすい時間に、やりやすい回数をやってみるのがよい。


 この、やりやすいところから、ということについて、どうにも、若いころはよく分かっていなかった。
 学校組織とか、まぁ会社でもそうなんだが、どうしても「競争」が多い。
 競争というのは、相手とのバトルだ。相手に勝る必要がある。

 その考え方を、まず捨て去ろうと、僕は一緒に仕事をする人たちに言ったりやってみせたりしている。
 いや、そもそもモチベーション高い人はいいんだけど、そういう人ばっかりじゃないのである。

 それと、この「競争意識を一度捨てること」は、あらゆる行動に対して役に立つ。
 趣味でも仕事でも遊びでも生活でも何でも使える。

 言葉を変えると、「自己肯定感をもつ」ということである。
 そして、敵は他者ではなく、自分自身だと知ることである。

ブログを書きたくなる時

 ちょっと話がズレてきたので強制変更。

 あー、まぁ、その、「何か他者と違うこと」が生じることによって、何か書きたくなる、というのはその通りだと思うが、僕の場合は、それだけではない、という結論にもっていこうと思っていたのだが、その書くプロセスがわけわからなくなったな。まぁ、小見出しごとにそれぞれまとまっている気はするから、単発の内容の組み合わせとして読んでいただきたい。

 ええとその、「他者」というのは、僕は、「自分自身も含まれている」と書きたかった。

 ので、別に外に出なくても、まぁ、書きたくなる時は存在するものだよね、というただ、それだけである。「で?」と言われてもそれ以上特にない。

 ただそもそも、「ブログを書きたくなる時」という問い自体、それ聞いてどうすんの? ということである。
 僕は、大半の動機(モチベーション)ってものが、「共感」であると思っている。

 人は共感したいし、されたい存在なのである、と思っているということだ。


 なんで? というのは、自分一人の存在を肯定できていないから――表現が難しいが、原理的に、肯定できないのだと思う。なぜなら、人は、一人では生きていけないから。……あーくだらねぇ格言だよなぁ、つまんねぇ言い方・表現だよなぁ。でも、「人は一人では生きていけない」というのは、「人はいずれ死ぬ」というのと同じぐらい根本的な表現である。

 僕は、一人でいる時間も好きだが、それはそれで、「完全な孤独・孤立」を求めているというわけではないということだ。このことも、若いころ(10代・20代)は、なかなか認められなかった。まぁ、今もあまり認めたくないけれども、僕は、一方で人間が嫌いと表現しつつ、一方ではやっぱり人間が好きなのである。

 ああそうそう、もう一つ最近でメモしようと思ったのは、――これも人との関係でイラっとした体験からだが、その「むかつくこと」が生じたとき、僕はその事象カウントを、その対象者に対してではなくて、「人一般」にカウントする傾向があることが分かった。
 電車内マナーができていない奴は、電車に乗っている全員が「くそったれ」であるという感覚を抱くということである。これは誤謬なのだが。


 ただ、そういう、「いらいらしたこと」ということで、最近わざわざブログを書こうとも思わなくなってしまった。
 以前は、「イライラ対処」といったカテゴリがどんどん埋まっていったのにな。

 これは、「いらいらしなくなった」ということよりも、「諦め度合い」が高まったというのもあるかもしれない。「誰も俺を分かってくれない」といった若々しい感性が失われてしまったからかもしれない。
「いや、別に分かってもらわなくてもいいし、「誰も」ってわけでもないし」といった感じになってきた気がする。

家族のこと

 コメントいただいたり、友人が家庭の問題に対処していたり、また別の友人が結婚したりとか、まぁその、家族ってのは、人が生活する単位として大事なものだよなぁと思った。

 僕は、生まれ育った町を出て、他の離れた――交通費が実家と往復数万かかる町で生活している。
 お盆時期と正月ぐらいは顔を見せに帰ったりしているけれども、人の寿命を考えたとき、あと何回会えるのかなと計算してみた。

 平均80歳なので、20年ぐらいだろう。健康寿命は大体70歳である。そしたら、残り10年ぐらいかもしれない。

 とりあえず20年として。一年に2回なので、40回である。大体、一緒に過ごす時間は、3日~5日なので、まぁ最大5日として、200日である。睡眠時間も含めたらもっと短い。

 つまり、両親(家族)と過ごすことができるのは、1年ないのである。



 多いのか、少ないのか。実感はわかなかった。でも、余命1年です、って言われたら、「短い」と思わないだろうか? 思う気がする。
 
「で?」

 ということであるけれども、まぁ、「時間を大切にしよう」ぐらいなもんか。

 ここで、じゃあ今すぐ「電話して声をきこう」というのもおかしな話である。さっきの、筋トレの話と同じである。


 だから、すべてにおいて、「漸進性」(ぜんしんせい:少しずつ進む)というのが大事なのだ。
 一方で、人は、時間は限られていて、「競争」が求められる。

 この矛盾を、どうやって「自分で」解決していくのか。言い換えれば、どうやって生きていくのか。


(かっこ書きである。創作関連が全然できていない。インプットもアウトプットも。うーん、11月である。そろそろ、来年度の目標も立て始めないと間に合わない。また片付けや買い物など雑事を終わらせたら考えようか、とりあえず強制終了)

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ブログ更新遅くなったなぁ
2017/10/29 23:58 | Comments(1) | 思考及び書くこと
今日の一言「こんなペースでもよいのかも」「いやお前の場合は書いていないと何も考えていないから駄目だと思う」

いぬやしき見た

 何もしていないわけではないのだけれども、なんだか、ブログを書く気があまり起こらなくなっていた。
 まぁ、土日に予定が入っているというのが一つ原因ではあるだろう。
 平日でも使えばいいのだけれども、なんか気力が起きないんだよなぁ。
 ええと、部屋の掃除はするようにしている。目につくところの物を、もっと減らしたいな。空間は、いろいろ捨てたから増えてきたのだけれども、結局使いやすいところに置いてしまうと、あんまり片付いた感じがしない不思議。
 しまう場所を固定して、それを絶対守る、というのは続けたいけれども、忙しくなると途端に失敗するんだよなぁ。なんとかよい対応がないものか。

 ああ、ええと、アマゾンプライムで「いぬやしき」みた。
 えっと、面白いと思う。悪役(?)の高校生の声優がなんとも「下手」に思う。そういう感情がこもっていない、サイコパス的な演技なのかもしれないけれど、それにしてもなんか違和感がぬぐえない。

 ただ、ストーリー、演出、絵柄的にはよいと思う。最後まで見せてくれる気がする(上から目線)。

 なんかさー、いぬやしきいちろうさん(主人公)、かわいそうすぎて泣けた……(笑)。

 ま、就職して、家族もって、子供もいて、家も買って、車もあっても、心が満たされるとは限らないよねって思ったわ(かっこわらい)。
 まぁ、まだ3話までしか公開されてないから、今後どうなるかは分からない。


 あと、カクヨムという小説投稿サイトの『異世界転生したけど日本語が通じなかった』も、読んだ。まだ流し読みだけれども、テンプレ的な異世界もので疑問に思ってたような内容が、詳細な設定をもとに描かれていてよいなぁと思った。こういった設定勝負な作品もよいよね。作者はしっかり言語学など学んだ方なんだろうか。もしくは、小説書くために調べたのだろうか。どちらにしてもすごいなぁと思った。


偽善はダメなのか

 話は全然変わる。メモなので仕方がない。

 ――ある方と二人で会話していて、恋愛の話になって、少し気になったことがあったからメモ。
 なんで別れたの? 的な話をしていて、相手が、「前に付き合っていた人は、人の気持ちが分からない人だったの。優しくはしてくれるけど、それは『相手がこうしたら喜ぶだろう』と思うからするのであって、そうすることが本心ではなかったんだ」と。

 会話の流れの中での一幕なので、文字おこしするのが難しいけれども、僕が気になったのは、

人の気持ちが分からない = 相手がこうしたら喜ぶ ⇒ 計算して行動する

 という図式である。

 いや、その方が言いたかったのは、「自然な行動として」ではないところを指摘しているのだろう。
 意中の女の子をゲットするため、あれこれプランを考えることが悪いことだと思っているわけではない。ある程度、仲良くなってからの話である。


 で、僕が思ったのは、本心で、自己献身的に、誰かのために何かをしたいと思うこと……それって、自然に湧き出るものなのだろうか、ということである。

 ある友人は、「見返りを求めない愛なんて無い」と仰っていたが、僕も、人は何らかの報酬を求めているものだと思っている。それが物的なものとは、当然限らないわけであるが。

 だから、何か目的をもって、意図して行動すること……相手を喜ばせようとするということは、何ら悪いことではないと思うわけだ。いやどうしてこんなことに拘るかというと、「自然な行為」しか認められないのであれば、僕は、自分が行う様々な行動ってものが、発言ってものが、どっからどこまでが「自然」で、どっからどこが「考えたもの」なのか、まったく分からないのである。

 ――でも、もしかして、やっぱり、ぼくは、ぼくだけが、変な奴ってことなんだろうか。まぁ、その可能性はあるな。とかく、人の世は生きづらい、というのは、それゆえのものかもしれない。


(かっこ書きである。創作ルーチン・音読ルーチンは崩壊したが、筋トレルーチンは続けられている。実は、ルーチンは、失敗してから立て直すのも重要である。ある方は創作ルーチン(小説を毎日書くというもの。しかも1000字ぐらいを平均で書かれていて本当にすごい)を始められて、難なく失敗せずに続けられているが、失敗など往々にしてあるのである。問題は、失敗してから、どのようにしてモチベーションを復活させ、生活を立て直すのか、そっちが重要なのである。そのための手段もいくつかあるが、いまは気力の回復を優先したいところだ……。気力、……気力ね。なんか、気持ちがノらないんだよなぁ……って思って、過去の紙に書いた記録(ログ・高校の時ぐらいの)なんか読むと、「ああ、俺って、別に、昔は『気力充填! 幸せMAX!』とかってわけでもなかったんだなぁ」って思う。そういう意味では、高校生ぐらいからなんも変わってないのである。少しばかりの経験と、少しばかりのできることと、少しばかりの資産ができたくらいか。言い訳してるだけなのかもしれないなぁとは、つくづく思う。何からの? と問われたら、「みんな」である。特に「死」からかもしれない。全力でやって、それでもできないことへの恐怖なのかもしれない。「まだ俺は本気じゃない」なんて思っていれば、失敗しても救われるものだから。でも、そういった「見栄」の時期はさすがに過ぎ去ったと思っている。様々な条件すべて含んだ――時間的、資産的なものも含めて、「俺」でしかないのである。「〇〇が◇◇だったら▽▽だった」とか、そんな「たら・れば」は存在しないのだ。受け入れろよ、お前の人生。それがお前のすべてなんだ)

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ごちゃごちゃ雑記及びメイドインアビス全話視聴す
2017/10/21 23:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「一言じゃあまとまらないよ」「書くことにもう少し意識を戻した方がよさそう」

気持ちがとげとげしたような

 とても大切なことは人それぞれあると思う……なんて書き始めは好きじゃない。いや、他者がどうであろうとかいうのは、「自分の悩み」を、一般化して、共感してもらいたいというただの甘えである。

 疲れた。
 またしばらくブログを書く時間が取れなかった。いろいろあった。いろいろあったと思うのだけれども、何も思い出せないし、思い出したくもない。

 仕事でつらかった夢をみた。いや――夢だったのか、寝る前に思い浮かんで考えていたことだったのか。
 起きた後に、それ以上につらい目にあった後輩の話をきいた記憶がよみがえった。なんとかしてやりたいと思ったし、できる限り話をきいて、思ったことを話したりした。



 つらかったら、人に話すというのは有効だと思う。
 ただ、僕は、その話した人を不快にさせたり、「めんどくさい」と思わせたり、「だったら〇〇したらいいじゃん」と思わせたりすること自体も不快である。
 そういう意味で、相談というのは、親身になってくれる人が必ずしもよいとは限らないと思う。そういう意味というのは、「近しい人」であればあるほど、それを「自分(相談者自身)のもの」として感じたり考えたりする。その共感性はとても相談する側としては嬉しいものになることがあるが、それは「負荷」である。

 人との関係について、「負荷」という言葉を使うのは、誤っていることは分かっている。
 そういう重さも含めて人間関係なのである。
 ただ、こういった記事こんな記事を読んでいると、僕はとても憂鬱になる。

 子育てとか、夫婦関係についての記事だ。
 インターネットの記事の真偽を論じても無駄であるので、真実が書かれているとして。人の書く文章の感情面における真偽(没入感)を論じても無駄であるので、真実が書かれているとして考える。
 それに、お子さんがいる方のお話を聞いたりしていると、上に挙げた記事の内容があながち嘘なんかじゃないことも分かる。

体力と精神力の低下

 上の記事にいろいろ感じるところはあったけれども、全部書いていると、今日も明日も予定があるが、結局消化不良になって、より更に精神状態が悪くなりそうなので、一つだけ引用する。
体力、精神力の前借りの話
これは育児に限った話じゃないんですけれども、体力って、無限のリソースでないのと同様に、精神力も無限のリソースじゃないんです。デスマーチの末倒れて、10年間の人生を無駄にした自分がいうから説得力あります。
で、無理をすると、無理を出来るんですけれども、それって、実際は、先に使える分の精神力とか体力を先食いしてるみたいなもんなんです。後で返さないといけない。ちょうど、借金して、借金しながら生活するみたいな感じなんです。
 上の記事とは別に、ある友人と会話したとき、「ちゃんと休むべきだ」とアドバイスをもらった。
 ぼくがいっている、いい状態っていうのは、落ち着いたっていうことなんよ。悪い状態は浮ついたっていうことなんだわ。僕は身体感覚としての疲労の有無と、心の浮つきと落ち着きがリンクして感じられている。決して、充実感があるような状態だからよいというわけではないんだわ、僕の感覚では。たのしいぞ、最高だって感じることは、実は心としてはいい状態ではないんだよね。
 もちろん、僕も充実しているのは素晴らしいと思う。〇〇をやっていて、最高に興奮するし、楽しいとも思うでも、それを突き詰めて突き詰めてやっていくと、すごく疲れる。
 でも、たのしいししたいからする。
 それでいいんだけど、辛くなったら素直にやめるっていうことをする。ようするに、興奮して楽しいことはいいことだけど、いいことじゃないんよ。だから、自分が辛くなったらやめればいいんよ。
 なんだろ、本当は落ち着いた状態で喜びを感じることもできるはずなんよ。僕はそうなりたいけどね、〇〇に関しては。充実しているとか無気力っていう測りをいったんおいて、自分の気持ちは、落ち着いているか、それともざわついているかっていう基準で、気分の気持ちをかんじてみたらいいかもしれん。

――友人との会話の一部。
 そもそも、友人に相談をしたのは、僕が、「無気力である」という前提で、どうしたらよいか、ということであった。実際、僕は無気力なのだろうか?

 もう一つ、よく訪れているブログさんから一つ引用。
そもそも、何で人生の意味を考えるかというと、それは、今生きてるこの人生が悩み多く苦難も多い日々なので、さっさと自殺した方がマシなのか、それとも、耐えて生き続けるべきか、考えるために、人生の意味を考えているのだ。考えることを放棄して早く片をつけた方がいいのかましれないと自暴自棄になりそうな時も少なくないけれど。――無題
 感覚としては、こっちが近いと思った。
 いや、実際、上のブログの著者のように、「苦難」が今の僕にあるかというと分からない。
 最初にとりあげた子育て系のブログのように、後輩が直面した困難のように、大変なことなんてのはたくさんある。

 しかし、「だからこそ」、思うに、人生は、良いこともあれば悪いこともあるのだ。
 確かに、その、「悪いこと」を避けるように、「気分の悪い状態」を減らすように努力することはできるだろう。それはある程度――いやそれどころか、とても大きな可能性をもっていて、成果を出すことはできる。


 こっからなのだ。いつも、この手の書きたいことを思うと、ここまでの議論というか、話というかでいっぱいいっぱいになり、この先を書けない。
 正直、ここまで書いてきた、「日々のたくさんの大変なこと」とか、「気持ちをゆっくり休める方法」とか、「楽しく充実した毎日の送り方」とか、そんなものに、もう僕は興味がないのである。

 そんなもの――と書くと卑下忌避しているようだが、その価値を貶めるものではない。
 ただ、それよりもっと喫緊の重要なことがある(俺にとっては)ということだ。

時間をおいて整理

 先週は、早く帰れた日もあった。
 しかし、やる気は戻らなかった。

 やる気、モチベーション、気力、……。

 ひとつ、予定が詰まっていることが嫌な気分を引き起こしている気がする。締め切り……大事なものなのだが、どうにも、自分で決めたもの意外の締め切りは好きではない。

 ルーチンとか、ノルマとか、タスクとか、自分で決めたものを達成することはできる。やり通せる。――といいつつ、創作ルーチンはつぶれてしまった。もう一度仕切り直しが必要だ。

 音読もたまにやる程度は続けられている。腕振り運動も、毎日500回はできなくなってしまったが、100回は続けられている。

 気力、気力、どうしたら戻ってくるのか。

追記:とても縦に長い記事になったため、「続きを読む」を久々に使う。


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書くことがないなんて珍しい
2017/10/15 23:12 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「何を書けばいいんだ」

圧倒的時間の経過

 おぉ……もう日曜日が終わるのか。明日学校の方、明日仕事の方、明日予定があるから、お疲れ様です。ゆっくり休んで明日に備えてくださいね。

 ……えーと、書くことないな。
 ああ、メイドインアビス、なんか見る気が起きなくて、「楽園追放」を見た。アニメーション映画だったのか。気づいたら1時間半ずっと見ていた。まぁ、まぁ、面白かったような。ただ、エンディングがあんまり好みじゃないなぁ……惜しい。☆3つか、☆4つか、そのぐらい。中盤はよかったと思う……いや、後半もよかったと思う。ほんと、エンディングがなぁ……。って、俺はきっと、人外のモノ……機械に知性が生まれた系が好きなのか。

 A.I.――アーティフィシャル・インテリジェンス。なんか最近はやりだからワクワク感が反比例してしまっているが、もともと、押井守の「イノセンス」とか、「イヴの時間」とか、タチコマとか好きだったのである。
 前意識とか、クオリアとかも好きなのである。――概念が好きというのは、なんとも奇妙なものか。

 なんだろうなぁ……この感覚。「人」というよりも、ロボットとかアンドロイドとかの方が、なんか純粋性が心に響くんだよなぁ。その行動は、「行為」ではなくて(=意志が介在しない)、あくまでプログラムされた決まりきった行動でしかないのだけれども、その行動自体が人の心を動かすのである。逆に、その行動が、打算も何もない、単に純粋な行動であることに、僕は何故か感動してしまうのかもしれない。

純粋な行動

 あれ、なんだ。書く前は気が乗らずに、5分もしたら打ち切ろうかぐらい思っていたが、書き始めると意外に書けるじゃないか。俺は奇妙な奴だなぁ。

 うん、その、「単に純粋な行動」ってのは、人には難しいのである。

 筋トレとある運動を最近取り入れているが、それは身体に負荷をかけるというよりも、無心で時間を費やすイメージである。仏教の修行に「数息観」という自身の呼吸を数える方法があるが、それとスクワットを組み合わせたような感じ。インナーマッスルを鍛えられてよいかなと思う。腕ふり運動、スワイショウと呼ばれているようだ。
 これを500回ぐらいすると、12分ぐらいである。12分間、ずっと数をかぞえる。いろいろ思考が浮かぶが、集中する。でも、気持ちが浮ついていると、集中できない。仕事のこと、遊びのこと、プライベートのこと、家族のこと、雑事のこと、夢のこと、タスクのこと、ゲームのこと、いろいろ浮かんでくる。
 100回ぐらいだと、雑念で頭がぐちゃぐちゃである。400回ぐらいすると、少し雑念が取り払われる。500回に近づくと、再び集中力が途切れ始める……うーむ、まだまだ修行が足らん(かっこわらい)。

 ええと、何の話だ? そう、純粋な行動だ。人は、いろいろ考えてしまうから、純粋な行動は難しいのである。

 でも、スポーツとか、武道とか、芸術とか、なんでもそうだと思うけれども、「ここぞ!」という時に集中できない奴は弱い。
 自分の心、そして体を、すべてその一点(集中すべき対象)に注ぎ込むイメージだ。それができなきゃ、負ける。……何にだよ(かっこわらい)。

生活の軸をどこかに見出さねば

 あー。えーっと。
 そういや、PSVITA買ったんだった。忘れかけてたよ。
 三国志13も買ったのに、数時間プレイしてやってないよ。

 なんか、最近、いろいろ、集中できないんだよな。「いろいろ」とか言っちゃってる時点でもう駄目じゃないか。
 俺も、もういいお歳なわけで。こんなことを言うと、「まだ若いんだから頑張りんしゃい!」と言われるが……いや、そういう問題じゃないんだ。

 うーむ。

 楽しいことすることを否定するわけじゃないが、やっぱり、俺は、何で生きているのか分からないのである。
 実存的空虚感である。なんかゴロいいよね。中二病ワードっぽくて好き。

 ああ、しかし、そうだ、思い出した。
 俺はやっぱり、ウフコック(※)じゃないが、「これが俺の存在証明(レーゾンデートル)だ」って言い続けなきゃダメなのである。
 だから、それができなくて、平日帰りが遅くて、ブログも書けずに本も読めずにって日が続くと、精神的に摩耗していくのである。

※マルドゥックスクランブルという作品に登場するスーパーネズミ(とかって書くとファンに怒られるのか?)

因果律

 が、少し落ち着こう。
 忙しいから精神的に落ち着かないのか。精神的に落ち着かないから忙しいのか。どっちだ? 無限遡及? 無意味な問い?

 予測できないことばかり起こると、精神的に摩耗する。というのは、「自己コントロール度」が感じられないからだ。運命に翻弄されるだけが人生であれば、なぜ「努力」に意味があるのだろうか?

 努力というのは、目の前の問題・課題を、「自分の力で」解決できるという見込みを、自分自身信じられるから実施できる行為である。
 いや、そんな大上段なことを言えるのは、年の功である。俺も年を取ったのである。昔の俺は、努力したところで、「上手くいく」なんて、全然信じていなかった。信じられなかった。それでも、退路がなかったから、ただがむしゃらに、ひたすらに「頑張った」。

 心理学でいう成功体験みたいな話か? どっちかというと、パブロフの犬のような、学習性無気力のような話か。

 まぁ、それはどうでもいい。

 いま、俺は、いつまでに、何を、するのか、だ。


(かっこ書きである。うーむ。ここで終わってしまうと、この記事、何の価値もないような気がする……それは自分にとっても。とりあえず、先日作成したフローチャートを見てみる。なるほど、直近問題としては、3つある。
「生きるか死ぬか」
「仕事を続けるか辞めるか」
「結婚するかしないか(子どもをつくるかつくらないか)」
 面倒くさいけれども、これらの問題を考えなければ、これから先、ずーっと思考ループしそうである。しかし、いったいぜんたい、これらの問題、どうやったら思考を進められるのか。はっきりいって、「決め」の問題のような気もする。……いや、一個目の、「生きるか?」という問いにおいて、僕は、「生きる意味を徹底して考える」と考えているのだろう。だから、直近考えなければいけない問題に対して取り組んでいることから、この問題に近づいている際は、たとえ解決の見込みが立たなくても、ある程度気分はよいのである。というよりも、その一個目の問いがものすごく強い。二つ目、三つ目は、それに従属する問いにしか思えない。だから俺はダメなんだろうな。一個目の問いがなくて、二つ目、三つ目、あとは異性とかお金の問題とかに取り組める人のほうが、きっと幸せな人生を送れるのだろう。何せ、一つ目の問いは、「そんなん、解決しないよ。古代から偉い人、頭のよいひとが考え続けてきても、もう何千年も立っても解決してないじゃん」ということである。ただ、そうやって諦めさせる方法の他に、ある精神科医は、この問題は現代昨今深刻になっていて、もはや向き合わなければならない状況に陥っている、と言っている。42歳で亡くなったデンマークの哲学者さんは、宗教的実存に意味を求めたわけだけど、それ以外の、何か方法だった、頭の悪い僕でも到達できるような何か手段があるのではないか、と。それを模索し、記憶し、実践し、考えてからでも、一個目の問いに答えを出すのは遅くはあるまい)




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