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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
ブログを書きたくなる時
今日の一言「違う意見に出会ってそれを上手く発散できない時」

ブログ更新遅くなったなぁ

 あまり認めたくないことではあるが、ブログを書くという行為の優先度が下がっている気がする。
 単に忙しい(気持ちが落ち着かない)という理由もある。しかし、物理的時間においては書けるはずなのだ。

 そんなことを思いながら、なかなかPCに向かって書くことができていなかったが、ある精神科医さんの記事で、「ブログを書きたくなる時」というのがあり、書きたくなった。
 そこでは、「人と会って話したとき」ブログを書きたくなるから、「ネタにつまったらもっと外に出て人に話すといいよ」と書かれていた。

 これは事実だろう。
 しかし、もう少しその心性を分析してみると、僕は、次のメカニズムなんじゃあないかなぁと思う。

1.人と会って話す
2.新しい考えや知識(事物)に触れる
3.自分の中で新しいスパーク(アイディア)が生じる
4.その場で上手く表現できない
5.ブログ書こう

 そして、このことを取り上げて僕が何を言いたいかというと、「人と会ったときにブログを書きたくなる」というよりかは、上の3.~4.のプロセスで消化不良が起きてることが原因なのではないかと思った、ということだ。

インプット型とアウトプット型人間

 これは、僕の思考の師匠が言っていた気がすることだが、人には二種類いるのだという。
 一つはインプット型人間。内面重視型である。
 もう一つは、アウトプット型人間。表現表出型である。

 ここでは、どっちが良い悪いということではなく、さらに、絶対100対0でその傾向が分かれるというものではない。人それぞれ、どっちかの傾向がある、ぐらいに考えておけばよい。

 上の小見出しの3.~4.の消化不良について、その人と会ったときに、ほぼ100%発散できる人は、きっと、家に帰ってもブログを書きたいなどとは思わないはずだ、ということを書きたかったわけである。
 と書くと、僕はすぐさま自分に対して疑問を呈する。「え、でも、体験したことをもっとみんなに知ってもらいたい! と思って、ブログとかフェイスブックとかで書いたりする人おるんじゃない」と。
 しかしそれは、共感志向型であって、どちらかというと、ブログという形態はとられないと思う。SNSが広く流行したのはそっちを求める人が多いからではなかろうか。


 ブログとSNSの違いについて、僕もどこかで整理した記事があった気がする、が探すほどではない。単に、ブログは文章が「長い」。SNSは「短い」。その程度の理解で(今回の記事としては)よい。

 だから、ブログってのは、どちらかというと、インプット型人間に適している媒体だと思う。
 人との場において、全部が全部、自分の気持ちを発散できる(※)人は、わざわざ面倒くさいブログなんて書かないだろう。

※大事な注釈。その発散できるというのは、「自分の表現を他者に分かってもらえた」という実感がもてる、という主観的な意味が非常に大きいことを書いておく。この注釈があることで、あとから読んだ未来の僕に対して、この記事が言いたいことがより明確に伝わると思う。


僕は何故最近ブログを書いていないか

 忙しいから(仕事・遊び(お出かけ、ゲームなど))。
 自分の表現が上手くできているから。

 上の二つが挙げられる。だが、後者は果たしてそうなのだろうか?



 それを考える前に、住環境についてメモしておきたい。

 部屋が汚くなっていた。この汚いというのは、清掃(ほこりが溜まっている)面と、整理整頓(物が散らかっている)面の両者であった。
 最近気づいたこととして、部屋が汚いと、やっぱり気分がよくないのである。清掃面においては、ある程度の期間でやっていたものの、整理整頓面の影響が大きいと思った。

 そして、その整理整頓とは、
・レシートを家計簿に打っていない
・書棚の本が横置きになっている
・DMや郵便物が放置されている
・洗濯物が乾いているのにかけっぱなし

 といったものがあげられるが、これは、少量・多量に関係なさそうである。
 少しでもそういった状態があれば、それが滓のように積み重なって、気分ゲージ(精神ポイント)をすり減らしていくのである。

 なんか落ち着かない、なんかイライラする、なんかやる気が起きない、なんか朝起きられない……これらの原因は、住環境に一因があると思ったのだ。

 ので、清掃・整理整頓を実施。
 今、コーヒーを淹れて、少し落ち着いている。


 ただ、ある友人の言であるが、「部屋が汚いから精神状態がよくないのか、精神状態がよくないから部屋が汚くなるのか」という、コロンブスの卵(にわとり先? 卵先?)論は、しっくり僕の中に落とし込まれた。どっちなんだろうなぁ。

 一つ書いておくべきは、精神状態が良いときに、いくら「頑張る」ことを決めたとしても、そんなもん何の役にも立たないのである。(何の、という形容詞は大げさに書いてるだけだ)

物事を決断したり実行したりすること

 気分が高揚してるときに、いざ頑張ろう! みたいに思って、実際三日坊主になったり、モチベーションが下がったりということを経験したことがある人は多いのではなかろうか。いや、多くあって欲しいが(かっこわらい)。

 僕も先日、ワイルドスピードに出演しているvin dieselとかthe rockとかの成長動画見て、「おお、年老いても筋肉あるとかっこいいな! 俺も頑張るぞ!」と思ったが、結局思ったままであった(笑)。

 まぁ、そうなんだけど、前から続けている筋トレのルーチンは継続している。最近は、腕ふり運動(スワイショウ)も追加している。この腕振り運動はいろいろやり方があるらしく、どれが一番良いかは不明だ。だが、細かいやり方にこだわるよりも、まずは、自分がやりやすいやりかたと、やりやすい時間に、やりやすい回数をやってみるのがよい。


 この、やりやすいところから、ということについて、どうにも、若いころはよく分かっていなかった。
 学校組織とか、まぁ会社でもそうなんだが、どうしても「競争」が多い。
 競争というのは、相手とのバトルだ。相手に勝る必要がある。

 その考え方を、まず捨て去ろうと、僕は一緒に仕事をする人たちに言ったりやってみせたりしている。
 いや、そもそもモチベーション高い人はいいんだけど、そういう人ばっかりじゃないのである。

 それと、この「競争意識を一度捨てること」は、あらゆる行動に対して役に立つ。
 趣味でも仕事でも遊びでも生活でも何でも使える。

 言葉を変えると、「自己肯定感をもつ」ということである。
 そして、敵は他者ではなく、自分自身だと知ることである。

ブログを書きたくなる時

 ちょっと話がズレてきたので強制変更。

 あー、まぁ、その、「何か他者と違うこと」が生じることによって、何か書きたくなる、というのはその通りだと思うが、僕の場合は、それだけではない、という結論にもっていこうと思っていたのだが、その書くプロセスがわけわからなくなったな。まぁ、小見出しごとにそれぞれまとまっている気はするから、単発の内容の組み合わせとして読んでいただきたい。

 ええとその、「他者」というのは、僕は、「自分自身も含まれている」と書きたかった。

 ので、別に外に出なくても、まぁ、書きたくなる時は存在するものだよね、というただ、それだけである。「で?」と言われてもそれ以上特にない。

 ただそもそも、「ブログを書きたくなる時」という問い自体、それ聞いてどうすんの? ということである。
 僕は、大半の動機(モチベーション)ってものが、「共感」であると思っている。

 人は共感したいし、されたい存在なのである、と思っているということだ。


 なんで? というのは、自分一人の存在を肯定できていないから――表現が難しいが、原理的に、肯定できないのだと思う。なぜなら、人は、一人では生きていけないから。……あーくだらねぇ格言だよなぁ、つまんねぇ言い方・表現だよなぁ。でも、「人は一人では生きていけない」というのは、「人はいずれ死ぬ」というのと同じぐらい根本的な表現である。

 僕は、一人でいる時間も好きだが、それはそれで、「完全な孤独・孤立」を求めているというわけではないということだ。このことも、若いころ(10代・20代)は、なかなか認められなかった。まぁ、今もあまり認めたくないけれども、僕は、一方で人間が嫌いと表現しつつ、一方ではやっぱり人間が好きなのである。

 ああそうそう、もう一つ最近でメモしようと思ったのは、――これも人との関係でイラっとした体験からだが、その「むかつくこと」が生じたとき、僕はその事象カウントを、その対象者に対してではなくて、「人一般」にカウントする傾向があることが分かった。
 電車内マナーができていない奴は、電車に乗っている全員が「くそったれ」であるという感覚を抱くということである。これは誤謬なのだが。


 ただ、そういう、「いらいらしたこと」ということで、最近わざわざブログを書こうとも思わなくなってしまった。
 以前は、「イライラ対処」といったカテゴリがどんどん埋まっていったのにな。

 これは、「いらいらしなくなった」ということよりも、「諦め度合い」が高まったというのもあるかもしれない。「誰も俺を分かってくれない」といった若々しい感性が失われてしまったからかもしれない。
「いや、別に分かってもらわなくてもいいし、「誰も」ってわけでもないし」といった感じになってきた気がする。

家族のこと

 コメントいただいたり、友人が家庭の問題に対処していたり、また別の友人が結婚したりとか、まぁその、家族ってのは、人が生活する単位として大事なものだよなぁと思った。

 僕は、生まれ育った町を出て、他の離れた――交通費が実家と往復数万かかる町で生活している。
 お盆時期と正月ぐらいは顔を見せに帰ったりしているけれども、人の寿命を考えたとき、あと何回会えるのかなと計算してみた。

 平均80歳なので、20年ぐらいだろう。健康寿命は大体70歳である。そしたら、残り10年ぐらいかもしれない。

 とりあえず20年として。一年に2回なので、40回である。大体、一緒に過ごす時間は、3日~5日なので、まぁ最大5日として、200日である。睡眠時間も含めたらもっと短い。

 つまり、両親(家族)と過ごすことができるのは、1年ないのである。



 多いのか、少ないのか。実感はわかなかった。でも、余命1年です、って言われたら、「短い」と思わないだろうか? 思う気がする。
 
「で?」

 ということであるけれども、まぁ、「時間を大切にしよう」ぐらいなもんか。

 ここで、じゃあ今すぐ「電話して声をきこう」というのもおかしな話である。さっきの、筋トレの話と同じである。


 だから、すべてにおいて、「漸進性」(ぜんしんせい:少しずつ進む)というのが大事なのだ。
 一方で、人は、時間は限られていて、「競争」が求められる。

 この矛盾を、どうやって「自分で」解決していくのか。言い換えれば、どうやって生きていくのか。


(かっこ書きである。創作関連が全然できていない。インプットもアウトプットも。うーん、11月である。そろそろ、来年度の目標も立て始めないと間に合わない。また片付けや買い物など雑事を終わらせたら考えようか、とりあえず強制終了)

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