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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
一呼吸つけた
今日の一言「休日がとても大切」

何もしない時間が必要

 友人との飲み会をぶっちした。ぶっちってなんだろう。さぼり、という意味。行けるけれども行かなかったという意味。
 しかし、少し落ち着いて考えてみる。飲み会に行くことで、時間が使われる。何かを行うという時間だ。それを行うことで、精神の落ち着きが取れなくなるとしたら、それは「ぶっち」なのではなくて、正当な「行けない理由」ではなかろうか。

 つまるところ、何に時間を使うかは、自由である。

 この自由は、とても素晴らしいものだけれども、時に、自由には「責任」が伴うので、その自由自体が重いものになる。
 飲み会に行けなかった……のではなく、会社の強制参加の飲み会のように、絶対に行かなければならないようなものであれば、「ああ、面倒くさいなぁ」と思いながらも、その結果生じること(例えば、体調が悪くなったり、精神的に落ち着かなかったり)の責任は、自分にはない。何せ、選択ができなかったからである。

 一方。行くも自由、行かないも自由だったときに、その責任をかぶるのは、自分一人だ。

お金について

 友人と遊ぶのも自由。
 恋人をつくるのも自由。
 仕事をするのも自由。

 本当にそうか?

 たぶん、そうではない。自由の幅は、過去専制君主時代に比べれば広がっていても、自然や社会の中で人が生きるのであれば、その自由は必ず制限される。

 その制限される自由の幅は、資本主義社会であれば、「お金」というツールによって広がったり狭まったりする。

 一般的、卑近には、お金は欲求を満たす手段である。よい寝床も、よい食事も、よい異性もお金がないと手に入らない。
 しかし、お金の価値は三つあるといわれるが、そのうちの一つは、「価値を保存できること」である。
 欲しいものなんて、そうそうすぐには生じない。必要なものなんて、すべて理解しているわけでもない。
 突然必要になったり、欲しくなったりする。その際に、手に入れられるかどうかの選択の幅を広げてくれるのがお金だというわけだ。

 だから、お金は、あればあったほどよい。

人脈について

 お金は目に見えるから分かりやすい。
 では、俗に言われる人脈というものはどうか。

 確かに、人は一人では生きていけないので、助けてくれる人は多いほうが良い。ビジネスをするにあたっても、初対面の人よりも、顔見知りの方が頼みやすかったりする。

 だから、人脈もあればあったほうだけよい。

有限性と将来性について

 お金も、人脈もあればあった方が良い。

 では、幸せはどうか?

 幸せもあればあった方が良い。理由はない。幸せという言葉の定義は、「あればあったほうだけ」豊かであったり、うれしかったり、気持ち良かったりするものだからだ。そういう定義なのである。そういった概念なのである。
 だから、幸せを求めるのは自然なことである。

 問題は、その幸せという言葉の「中身」である。

 幸せがよいか、不幸がよいかという問いの立て方は無駄である。
 しかし、一方、生きることがよいか、死ぬことがよいかという問いは無駄ではない。
 生きる意味を考えるべきか、考えないほうがよいかというのも無駄ではない。

 そういったすべての上に立つのが、「幸せ」という言葉である。

 ――だから故に、幸せについて考えることは無駄である。

 もっと簡単に書けば、幸せについて考えることは無駄である。何故なら、幸せであるしかないからだ。幸せでなければ失格だ。失敗だ。間違いだ。

 だから、選択を迫られたとき、難しく考える必要はない。その選択が幸せであるか、そうでないか、それだけを考えればよい。

 ところが、有限性の中では、その選択が正しかったかどうか、その判断ができない可能性がある。
 10年先の選択としては正しかったことが、5年先で方向転換を余儀なくされたとしたら、その選択は失敗だったことになる。

選択の難しさ

 何故選択することが難しいのか。
 判断基準は、「幸せ」であるかどうか、だけである。それなのに、何故?
 その理由は、選択が、「いま・このとき」のためだけにあるものではないからだ。

 人間が、抽象的な言語を使用するようになったこと――いいかえれば、抽象的な言語を使えるから人間だともいえるが、それゆえに、人は、「未来」を想像することができる。


 何故人は悩むのか。

 未来があるからだ。

 未来がなければ、選択など簡単である。いま、このとき、瞬間における幸せを選び取ればよいだけである。

 しかし、理想的な身体を手に入れるため、病気にならない健康な体を手に入れるため、食事制限したり、ダイエットしたり、筋トレしたりするのである。それ自体は、「いま・このとき」の幸せの放棄である。諦めである。



 何故物語を書くのか。
 手っ取り早く、だれかほかの人のつくった物語に興じればよいではないか。ゲームやアニメ、ドラマや映画、様々なエンターテイメントがある。

 自分の頭で考えるのはとても大変だ。
 それは、未来に、楽しい面白い物語をつくれたときの、だれかほかの人を楽しませられた時の未来の幸せを求めているからだ。

何もしない時間

 テレビも、人との会話も、勉強も、仕事も、睡眠も、全部やめてしまって、何もない時間が欲しい。

 実は、そんな時間がとても貴重なのだ。

 何もない時間。

 何も考えなくてよい時間。

 何もしなくてよい時間。

 ただ、あったかい部屋で、コーヒーと少しの甘いものをつまみ、椅子に深く腰掛け、外の流れる雲を見つめる。ゆったりとした音楽と、風のそよぐ音が耳をかすめていく。
 そんな時間がとても素敵だと思う。

 古い一軒家の縁側に座る老人のようか。

 何も生産しない時間。

 一般には無駄だといわれるような時間。



 僕は、何か、「目的」や、「目標」なるものを目指して、――いや、目指さなければならないと思っていた。いや、今も思っている。

 ただ、それは何らかの「もの」や「こと」なのではなくて、むしろ、「なにもないもの」や「なにもないこと」なのかもしれない。


 努力すること、頑張ることというのは、何かを手に入れるための手段である。
 僕は、それにどうしても本気になれないでいる。

 それは、本当に欲するものではない気がしているからだ。

 でも、少し考え方を変えて、「なにもないもの」を求めるための努力であれば、もう少し本気になれるかもしれない。

なにもないものと死とは違うのか

 何もしないことをよしとするなら、それは死人と同じではないか。

 しかし、何かに対して感動すること……その、ゆったりとした時間に身体をまかせるということ、それ自体は決して、死人とは違う。

 無であるが、無ではない。――四句否定、テトラレンマ。

 

 しかし、今のように、凪のような心でいられない時間帯もある。
 こういうときはどうしたらよいのか。酒だ、酒をもってこい。
 昔、10年くらい前に、発泡酒というか、第三のビールというかを飲んだ時は、まずいな、と思った。最近は、確かに普通のビールとの違いは分かるけれども、発泡酒とかも、これはこれでおいしいなと思う。それで100円ぐらいなのだから、安い。
 ちなみに、第三のビールは、「リキュール」って書いてあるとそれらしい。発泡酒とは違うらしい。難しいね。

 でも、なんでアルコールが必要なのか。別においしい果物ジュースでもよいのではないか。

 僕もそう思っていた。けれども、やっぱり、アルコールがあると、気分がよくなるのである。「お酒飲んでる感」があるのである。これは何故なんだろうか。

 気持ちをリセットするのに、お酒が必要なんだろうか。そういう意味で、タバコを吸う人も同じなのだろうか。――またしても極論だが、煙草も麻薬も、その違いはあんまりないと思ってる。違いは単に、体への悪影響さだろう。

 鎮静剤だって、使い方を誤れば毒になる。薬と毒の違いもあんまりない。益虫も害虫も、「人にとってどうか」という判断のもとに下された区別だ。

どうでもいいことを書いているのは気分が良い

 ああ……ほんと、どうでもいいな。
 だから何だって話だ。

 でも、この「どうでもいい」という気持ちがわいてくると、すぐに、生きていること自体も、そんなに意味があるようには思えない。

 だから逆に、この「どうでもいい」ことを大切にしたいと思ったりする。

 役に立つこと、無駄なこと、有益なこと無駄なこと。効率が良いこと悪いこと。

「良いこと」

 が、よいことだとみんな思っている。僕もそう思っている。でも、良いことを求めても、きっとそれはイコール、幸せではないと思っている。

 何度も書いているけれども、良いことと悪いこと……その区別が、そもそも問いとして無意味だ。

 幸せという概念は、ただそれ自体が良いものである。
 良いという概念は、ただそれ自体が良いものである。

 良いものがよいか、悪いものがよいかという問いは無意味である。良いものは良い。ただ、その「良い」の中身は分からない。


 中身。

 そう考えていけば、まさに、中身なのである。つまり、抽象的な思考は無意味である。

 演繹的に、最高の真理からトップダウン的に生き方を示すなんて、無理なのだ。

 漸進的に、失敗しながら、調整しながら、それでも良い方向性を探しながら進んでいく。それしかないんだ。


 そうなんだ……、なんか、すごく憂鬱である。


(かっこ書きである。憂鬱な理由は次回記事に書こう。ウォーキングデッド見進める。退屈な部分も多いので早送りしながら見る。これ、ゾンビじゃなくてもよい気がしてくる。つまりが、世界というルールがなくなった場合の男女というか、社会集団のあり様を表現した作品だと思う。ゾンビはわき役である。社会ルールがなくなったとき、人はどう行動するかという社会実験である。保安官のリックさんは、道徳の化身。善というのは、時に現実と矛盾する場面に出くわす。そんな中、家族と仲間と道徳と、そのはざまで悩むリックさんの決断は時に遅く、イライラさせられたり、逆に不条理に思ったりするけれども、こういう人がリーダーじゃないと人間集団って上手く機能しないのかもしれないなぁと思ったり。一方、同じく保安官のショーンさんは、「合理的」の化身。仲間も、必要に応じて殺しちゃう(ゾンビの囮として見殺しにしちゃう)。その行動は時に短期にうつったり、非情にうつったりするけれども、極限状態で悩んでたら自分が喰われちゃう。まぁ仕方がないかなぁと思ったりする。その結果よいほうこうに事が運んだりもするし。でも彼がリーダーになったら、きっと弱肉強食的なモヒカン的世界になるんだろうと思う。『暴力の人類史』を読んで面白かったのは、その、強いものが支配するという構造に、人間集団は必ずしもならなかった、という点である。その理由について、「それがまた一方で合理的であった」からだという説明は、納得しそうで、ちょっと腑に落ちない部分もあるけれども、でも面白いと思った。人間としての尊厳という言葉や、命の尊さって言葉が、なんか空虚に感じることがあると思う。平和が大切とみんな知ってるはずなのに、ナショナリズムは横行して、テロリズムでまた中東の方で何百人が死んだとかニュースが流れる。それでも、人は、「正義」ってものを信じられるんだろうか。――いや、ここで正義という言葉を持ち出すのは不適切だ。テロリズムもまた、その集団においては正義だったりする。そうでなければ、多くの人は、顔をみたまま人を殺せるようには生物的にインプットされていない(と信じたい)。人の顔には、「汝殺すなかれ」という表現が組み込まれているといったことを、何かで読んだことがある気がする。だから、スイッチ一つで何万人も殺せるような装置はやっぱり危険だと思う。面と向かって人を殺すというのは、やっぱり、特殊な訓練が必要だと思う。漫画やアニメの登場人物が逡巡するシーンに、「え、なんでそこで躊躇うの?」と疑問に思うことは多いけれども、まぁ、覚悟や経験がなければ仕方がないと思うし、それが人間として普通だとも思う。……ってなんの話だ? リアリティの話である。ウォーキングデッドのある生存者の家長は、ウォーカー(ゾンビ)を、病人だとして、頭を打ち抜いたりぞんざいな扱いをすることを禁じている。それが危険なことだと周囲から言われても議論をする気もない。信じていたのだ。ウォーカーは、ただの病気だと、必ず治るものだと……妻を救えるものだと。それは、視聴者からみたら滑稽な選択で考えで、愚かともうつるが、しかし、それはまた彼にとって真実で、むしろそれがなくなったら、彼は生きる意味を失うだろう――と思っていたら、シーズン2の何話かで、やっぱり酒浸りになってしまった(かっこ笑い)。まぁその、……生きるって大変だよな)


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