今日の一言「ルーティン」「るーてん」
とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。
台風? なんだっけそれ。
ブログへのコメントに今気づく。
要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。
……書くことがなさすぎる。
大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。
そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。
まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。
生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。
ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。
そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。
本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。
本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない。
意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。
それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。
そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。
それは、意味があったことになるのか。
なったのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
意味、というのも、相対概念である。
意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。
法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。
だから、意味は、絶対概念でもありえる。
生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。
ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。
前書き
やることがたまりまくって何もしたくなくなる症候群。とりあえず、勉強とこのルーチン更新だけはやっとこう。
本文
小説シロガネの感想をすべく整理しながら読み始める。しかし、時間が細切れになってレビューが中々進まない。台風? なんだっけそれ。
ブログへのコメントに今気づく。
要は、プライベート的なことで時間が取られすぎた休日だった。しかし、そのうち、勉強には少し時間をあてられたからよかった。
……書くことがなさすぎる。
大まかに書くとすれば、勉強と寝ていたのと、シロガネ感想を少し進めただけであった。もったいない時間の使い方な気がする。
内容
なんでこんなことになってしまうのか。平日がいけない気がする。何故毎日帰宅が24時~25時なのか。そして、そんな遅い時間でも、満員とまではいかないが、電車の椅子に座れないぐらいに人がいるのは何故なのか。なんか人が多すぎていらつく。
いや一部路線と、方向だけなんだろうが、それでも、夜はみんな寝たらどうだろうか。
まぁもう、早く帰ろうという意思が薄弱になっていることは否めない気がする。というか、早く帰ろうと朝から「これとこれとこれをこういう順番でこうしてやろう」と決めても、突発的な事象が発生しまくるため、うまくいかないのである。そうして遅くなると、もうイライラはたまっていくのである。であれば、最初から余裕をもって、「今日は初期は21時ぐらいに終わる予定だが、23時ぐらいまでかかる可能性もあるな」と思っていたほうがよいのである。
内容2
生きる意味を考えるブログなので、とりあえず考えようと思う。いろいろ、プライベートでもやらなきゃいけないこと(創作の面も実生活の面も)たまってしまっているが、それらは全部一度忘れて、考えようと思う。生きる意味は、無くても、生きられるように人はつくられているのかもしれない。
生きる意味というのは、迫りくる死に対しての答えのようなものであり、死の実感というのは、普段は感じられないようにできているのかもしれない。
内容3
と、内容2まで書いてから、中断するはめになって、15日になってから続きを書くわけだが。ノエイン、3話までみる。面白そうである。全部みたい。しかし、14日までで配信が終わってしまうということだった。まじか。ショック。
内容4
例えば、本を読むという行為があったとする。そこに、目的があるのか、といえば、「ある」ともいえれば、「ない」ともいえる。メタ、とは、高次の、という意味になるが、次元を変えれば、考えることはいくらでも可能となる。その無限性にストップをかけるのが、目標である。
目的とは、到達したいゴールである。到達するべき場所ともいえる。
本を読むことは、何か技術や知識をつけるためなのか。そういう場合もある。目的が明確だ。しかし、そうでない場合もある。明確な目的がなくても、本を読むことは推奨されるものとされる。
本だといいたいことが分かりにくいので、新聞はどうか。ちなみに僕は新聞を取っていない。不自由したことはない。しかし、新聞を取っていたら、もっとハイパー素晴らしい人間になっていたかもしれない。分からない。
本を読むことだけでは、すごくもなんともない、とも言われる。100冊読もうが、1000冊読もうが、それを行動に結び付けないと、意味がないと言われる。本当にそうか。
本を読むことと、行動とは、結びつかなければいけないのか。
ここで、「いやそうではない」という結論にもっていきたいのではないことに注目。
本を読むこと自体に価値がある、というありふれた(実はありふれていないが)結論にもっていくことに価値はない。
読むこと自体価値があるとして、それが、一切記憶からそぎ落とされてしまったとしたら、それは、意味のある行為だったとは言えない。
意識、前意識、無意識、という区分において、意識にのぼらないからといって、「一切そぎおとされた」とは言えない表現(又は、記憶の3要素である記銘、保持、再生の、「再生が働かない」という表現でもいいが)は可能だ。
それを無視して、いったんは、本を読んだ行為が、完全な無に、なったとしよう。それなら「無価値」だろう。
そうではなくて、「ああ、面白かった」という感想はあったとする。
そうしたときに、「それだけで」終わったとする。今後一生、その知識や技術に関しては、活かすことはなかったとする(思い出しはしても)。
それは、意味があったことになるのか。
なったのかもしれない。
内容4の続き
物事を考えるときに、必ず、相対概念か、絶対概念かを、意識する必要があるということは、以前から書いていたことである。長い短い、を論じても意味がないのだ。いやしかし、「あの子かわいいよね」「いや好みじゃないな」的な、美醜の話題は、「コミュニケーション」としては意味があったりする。そんなことはどうでもいい。
意味、というのも、相対概念である。
意味の反義は、無意味、だから、意味と無意味は相対だ――ということではなくて、「意味」自体は、それだけで成り立つことはできない、ということである。
法律の第一条には、その法律の目的と、それを実現する手続きと、究極の目的が書かれている。その目的を「意味」と表現するのであれば、意味は絶対的に存立する、かもしれない。――それは、その法律の中において。
だから、意味は、絶対概念でもありえる。
生きる意味、といったときに、「そんなもん、誰もわかりゃしない」とか「人それぞれ見つけ存在する」とか、そういった表現は可能だろうが、その次元(=その人にとっての次元)では、意味は、絶対概念として成りえる。
ところが、人、というのは、単一存在では成り立ちえない不完全な存在であるがゆえに、「意味」はいかなるときも揺らいでしまう。ゆえに、意味とは、相対概念である、と、この記事においては位置付ける。
あとがき
(かっこ書きである。「故にこの記事では意味とは相対概念だと位置づける」(キリッ!)とかいって、何を書きたかったのか。一つ言えることは、この記事を書き始めるときに、動機は、「ルーチンだからやらなければならない」というものだけであった、ということだ。不純ッ! しかし、結果としては、僕にとって、やや面白い方向に倒れたと思う。奇跡的に。(僕にとっての)生きる意味を徹底して考える、というのがこのブログの目的(意味)だとしたときに、その意味自体は、単一で成り立たないという結論とするのは、やや不快感ではなかろうか。その問題は大きな問題だが、一つ、思うことがあるので書いておく。「忙しいんだよ馬鹿野郎!!」バカヤロウとは何か。誰に対してか。特定の誰かでも、特定の何かでもない。とにかく、バカヤロウという感じだ。バカヤロウとは何か。侮蔑愚弄なのか。そういうものではない。要はいつも書いているような、「いらいら」というやつだ。適切な表現が見当たらない。僕の性格としては、「計画」ないしは「目的」があって、それに向かっての行動があって、その結果があって、次に目指す方針がある、というのが理想である。今僕はPDCAのどれもがよく分からない。人生のPDCA、という表現をしたときに、ニーチェ氏の永劫回帰をって言葉が浮かぶ。特に意味もなく人間は人生のメリーゴーランドを回り続けているけど、脱出して超人になろうぜ、と。社会学者の宮台真司氏は、まったり生きてったほうが狂信的にならないしいいんじゃない、と。どっちやねん。こういう話になったとき、「ぶれる」のは、「超人」とか「まったり」という表現が、結局相対概念に過ぎないことである。いや突き詰めていけば、もっと具体的なことを言われているのだろう。しかし、具体的になればなるほど、「感覚」の問題になり、自分との個別具体的な環境の話になり、「他者のアドバイスは役に立たなくなる」のだ。この閉塞感を、僕はなんとか表現したいと思って書いている。要は、今思いついたが、簡単に表現すれば、毎日が、「明日は今日よりももっと良い日になる」という確信めいた気持ちが永続することが大事なのだ。今日と明日の短いスパンじゃなくてもいい。来月は、でも、来年は、でも、10年後は、でもいい。要は、未来と今との接線の傾きがプラスでればいいのだ。接線の傾きは微分で求められるよ! そうだ、だから人生を微分しよう! まぁ意味が分からない冗談はともかく、この人生のグラフ的な奴は、実際の軌跡である必要はない。要するに、「こういった動きをするんだろうな」という目測、予測、感覚、が問題なのだ。ああ、今大事なこと書いている気がする。要は、この「閉塞感」というのは、グラフが下降気味な「気がする」ことが問題なのである。例え、1,000万円があったとしても、毎年数十万円ずつ減っていっているのであれば、「不幸せ」なのだ。たとえ、今100万円しかなくても、毎年数十万円ずつ増えていれば、「幸せ」(充足)なのだ。今わかりやすく「お金」で例えたが、僕の場合、別にお金が増えても問題(閉塞感)は解決しない。じゃあ、何が必要なのか。というのが、僕にとっての「生きる意味を考える」ということなのである。うん。なんか分かりやすい気がする。後から読んで、どう思うかは分からないが、例えば、「生きる意味を考えるって、どういうことですか?」と質問されたときに、人生というグラフがあるとして、そのグラフのX軸が時間軸だとしたときに、未来に向かうグラフの傾きがプラスになる方法を探すってことだよ、と。……あれ、なんか分かりづらいな。もっというと、そのプラスマイナスの、Y軸ってなんなのよ、と思う。いやむしろ、そのY軸っつーのが何か、例えば人によってはお金かもしれないし、セックスした回数かもしれないが、それが何かを「実感する」ことが、考える、ということかもしれんな。しかし、こうやってユークリッド的に考えるのはよくなくて、その「Y軸」的なのは、移り変わるものかもしれないということだ。データ移行しよう。そのY軸の構成要素は、多角的多層的かもしれない。様々な要素が複合的にからみあって、「充足感」という数値を、脳内に、叩き出しているのかもしれない。――本文が乗っていないと、かっこ書きが長くなる現象は、法則として仲間入りしていいぐらいである)PR
今日の一言「自己啓発的なタイトルにしてみた」「多分内容との一致は望めない」
具体的には書かないけれども、旅行的なサムシングと、イベント(パーティー)的なサムシングである。まぁこんなもんで後で思い出すには困らないと思う。
あと、「オーシャンまなぶ」掲載中の分は、全部読んだ。十字道、ワンパンマン以来にめちゃ面白い作品だった。「フラットランド」をモチーフにした解説があったり、知的好奇心が刺激される漫画である。
あと、身体が痛いのである。内臓的な痛みではないが、これもやっかいだ。集中力が奪われていく。
あと、「1年前の記事」を読み返していると、「つまらなかった」。
何故だろうか。「実感」がこもっていないからか。「実感」が今のソレと異なっているからか。
いやしかし、その忙しさを文章で表現するというのはやや困難だ。
とりあえず、突発的な電話対応や「相談」が面倒くさい。
面倒というか、今やっている仕事の中断が、再始動とリスケに面倒くささをかさましするのである。
タスクが3つあって、10時間、5時間、8時間で、計23時間で終わるスケジュールだとして、その合間に2時間の作業が追加されたとき、単純な25時間では終わらないということである。
何故そうなるかというと、作業準備と、思考のカムバックができない(難しい)からだ。
忙しいという表現が抽象的なので、具体的に書けば、帰宅時間は22時~25時ぐらいである。
割と忙しい部類に入ると思う。
しかし、どれも、最後まで見られていない。きっと、帰宅がある程度早ければ、ぼけーっとしながら夕食を食べつつ、見ているんだろうが、そういう時間が取れないため、じゃあ、土日とか休日のどっちか数時間を使って見ればよいのだが、そこまでの動機付けが与えられない。=要するに、「眠い」とか「ルーチン」に勝てない。
しかし、上で少しふれたように、「眠い」に勝てない。
早く帰れるように改善をした方が良いだろう。
まぁしかし、期限が厳しいため忙しいプロジェクトが2つあって、それが過ぎれば、落ち着く想定ではある。――ところが、落ち着いたらきっとまた新たに課題が発生するのではないかという気がする。
――そういう意味で、「きりがない」と思う。
このきりのなさというのは、正直、例えは悪いが、飲食店のアルバイト的なのではなければ、解決しないと思われる。
今の仕事を辞めたとしても、別の仕事でどうなるかは分からない。「少し」改善されるかもしれない。23時帰宅が、21時帰宅になるかもしれない。
しかし、そうなる前の、新しい環境へ慣れるためのコスト(ストレス的な)を考えて、果たして妥当かと思うと、要検討……どころか、現状は却下である。
もっと多角的に考えれば、仕事より、単純に引越しをして、会社の近くに住めば、1時間αかかっている時間を、30分にでもできれば、それだけで楽になるだろう。
基準(スタンダード)の構築及び維持になるため。
(2) その2
思考を必要としない行動が可能になるため。
(3) その3
感情を統制できるため。
何がその人にとって、大切なことなのか、というのは分からない。
その時の自分の行動が、適切かどうか、分からない。
――ああ、もう、つまらん。つまらんこと書いても仕方がないのに。
何か、「批判的思考」が強く生じるのである。ビジュアル的に強い漫画とかアニメとか映画はともかく、小説も本も最近読めなくなってきている。
――と思って、近くの本を手に取って読みだすと……あれ、まぁまぁ、面白いじゃん……となった。
ふむ……やはり、精神的な「余裕度」「ゆとり」的なのが減少していることがいけないんだろうと思う。
そう、ルーチンの良さは、技術――というか、思考を、衰退させることを止めることにも役立つ。「維持」だ。
疲れると、眠くなる。
しかし、眠りは、問題を解決しない。
他者に相談することが、根源的に役に立たないと僕は前から書いていたと思うけれども、それと眠りは密接に関係する。
「寝たら元気になるさ」
というのは、一面ではもちろん正しいが、根源的解決には役に立たない。
一方で、眠りは、眠いという感情的動きは、身体的にも根付いているため、いかんとも制御しがたい。
対策として有効なのは、「風呂に入る」「エアコンの温度を下げる(めっちゃ涼しくする)」「外に出て歩く」だ。
それ以外、「ない」。あったら教えてほしい。
栄養ドリンクも、効果はなくはない。ただ、あれは、眠いが原因の頭痛や身体のだるさを軽減してくれる効果であると思う。
(僕が、「インプット」といっているのは、記銘の部分だ。長期記憶、短期記憶といったものがあるが、これは少し概念が違う)
記銘と保持の違いは、難しい部分だと思う。僕は、瞬間的なインプットが、記銘であり、ある程度の期間維持できていることを、保持だと考えている。
記憶は、脳の海馬に保持されて、古い記憶になると大脳皮質(外側)に移行するという。
情報の記銘の前線基地にあたるのが、五感の器官であって、例えば眼。視覚情報は海馬にためられる、その過程に、感情という要素が関係している。
サブリミナル効果といわれる、無意識の働きだ。好き、嫌いという判断は、「思考」するのではなく、無意識の内に判断がなされているのである。
さて、そうした記憶と、「感情」との境界線はどこにあるのだろうか。
記憶を、まるまる何か別の装置や媒体に保存できたとき、そこに、「感情」も移行できるものなのか。たぶん、無理な気がする。そして、それをなしているのが、自我であり、攻殻機動隊的に言えば「ゴースト」である。
我々人間は、たんぱく質の塊であるが、そこには、神秘的な現象が起こっているのである。
神秘的といってしまうと、オーシャンまなぶのグラーヴェ氏はお怒りになるだろうが、しかし、人類にまだ解明できていない部分だと思われる。
秋だ。焼き芋がおいしい季節だ。食べる、旨い。これは、僕という自我における、焼いたサツマイモが「好き」という事実だろう。
そう考えたとき、「好き」ということを懐疑するというのは、詭弁に思われることである。
人類普遍の6原則について復習しよう。
人を傷つけてはいけない、復讐はしてもいい、善行には返礼すべき、嘘はつかない、約束は守る、弱者を守る。
おお、1か月前ぐらいに復習してから、一切思い返していなかったが、スムーズにアウトプットできた。よかったよかった。こうやって繰り返していくと、長期記憶(大脳皮質)に移行するのだろうか。それとも、海馬にとどめおくことができるということだろうか。記憶に関しての現代科学的知見がまとまった情報をインプットしたいな。
話は戻るが、「好き」というのは幅広い。おいしい食べ物が好き、なのは生理的次元である。人と会話するのが好きというのとは、次元が違う。単純接触効果というのも心理学にあるらしく、長く触れているとと好きになるということもあるようだ。
「好き」は変化しうる。
そうした曖昧なものを根拠に、生活をしていいのか。人生を送っていいのか。疑問が生じる。
感情とは何か。それは「その人自身」(自我)ではなかろうか。
前書き
人と会うのが面倒くさいと書きながら、まぁそれなりに(具体的に書けば2つ)初体験をした。具体的には書かないけれども、旅行的なサムシングと、イベント(パーティー)的なサムシングである。まぁこんなもんで後で思い出すには困らないと思う。
あと、「オーシャンまなぶ」掲載中の分は、全部読んだ。十字道、ワンパンマン以来にめちゃ面白い作品だった。「フラットランド」をモチーフにした解説があったり、知的好奇心が刺激される漫画である。
あと、身体が痛いのである。内臓的な痛みではないが、これもやっかいだ。集中力が奪われていく。
あと、「1年前の記事」を読み返していると、「つまらなかった」。
何故だろうか。「実感」がこもっていないからか。「実感」が今のソレと異なっているからか。
仕事
クソ、忙しい。いやしかし、その忙しさを文章で表現するというのはやや困難だ。
とりあえず、突発的な電話対応や「相談」が面倒くさい。
面倒というか、今やっている仕事の中断が、再始動とリスケに面倒くささをかさましするのである。
タスクが3つあって、10時間、5時間、8時間で、計23時間で終わるスケジュールだとして、その合間に2時間の作業が追加されたとき、単純な25時間では終わらないということである。
何故そうなるかというと、作業準備と、思考のカムバックができない(難しい)からだ。
忙しいという表現が抽象的なので、具体的に書けば、帰宅時間は22時~25時ぐらいである。
割と忙しい部類に入ると思う。
創作
妖怪人間ベムと、コップクラフトと、ヴィンランドサガ、あたりを視聴する。受け身過ぎる。しかし、どれも、最後まで見られていない。きっと、帰宅がある程度早ければ、ぼけーっとしながら夕食を食べつつ、見ているんだろうが、そういう時間が取れないため、じゃあ、土日とか休日のどっちか数時間を使って見ればよいのだが、そこまでの動機付けが与えられない。=要するに、「眠い」とか「ルーチン」に勝てない。
個人
勉強を、するようにしている。しかし、上で少しふれたように、「眠い」に勝てない。
問題点
こうやって書いていくと、仕事が悪い気がするな。早く帰れるように改善をした方が良いだろう。
まぁしかし、期限が厳しいため忙しいプロジェクトが2つあって、それが過ぎれば、落ち着く想定ではある。――ところが、落ち着いたらきっとまた新たに課題が発生するのではないかという気がする。
――そういう意味で、「きりがない」と思う。
このきりのなさというのは、正直、例えは悪いが、飲食店のアルバイト的なのではなければ、解決しないと思われる。
今の仕事を辞めたとしても、別の仕事でどうなるかは分からない。「少し」改善されるかもしれない。23時帰宅が、21時帰宅になるかもしれない。
しかし、そうなる前の、新しい環境へ慣れるためのコスト(ストレス的な)を考えて、果たして妥当かと思うと、要検討……どころか、現状は却下である。
もっと多角的に考えれば、仕事より、単純に引越しをして、会社の近くに住めば、1時間αかかっている時間を、30分にでもできれば、それだけで楽になるだろう。
ルーチンが大事な理由
(1) その1基準(スタンダード)の構築及び維持になるため。
(2) その2
思考を必要としない行動が可能になるため。
(3) その3
感情を統制できるため。
何がその人にとって、大切なことなのか、というのは分からない。
その時の自分の行動が、適切かどうか、分からない。
――ああ、もう、つまらん。つまらんこと書いても仕方がないのに。
面白いことを書きたい
物語に入り込めない現象を感じる。何か、「批判的思考」が強く生じるのである。ビジュアル的に強い漫画とかアニメとか映画はともかく、小説も本も最近読めなくなってきている。
――と思って、近くの本を手に取って読みだすと……あれ、まぁまぁ、面白いじゃん……となった。
ふむ……やはり、精神的な「余裕度」「ゆとり」的なのが減少していることがいけないんだろうと思う。
眠いとの対立
ようやく、書いていて少し面白くなってきた。そう、ルーチンの良さは、技術――というか、思考を、衰退させることを止めることにも役立つ。「維持」だ。
疲れると、眠くなる。
しかし、眠りは、問題を解決しない。
他者に相談することが、根源的に役に立たないと僕は前から書いていたと思うけれども、それと眠りは密接に関係する。
「寝たら元気になるさ」
というのは、一面ではもちろん正しいが、根源的解決には役に立たない。
一方で、眠りは、眠いという感情的動きは、身体的にも根付いているため、いかんとも制御しがたい。
対策として有効なのは、「風呂に入る」「エアコンの温度を下げる(めっちゃ涼しくする)」「外に出て歩く」だ。
それ以外、「ない」。あったら教えてほしい。
栄養ドリンクも、効果はなくはない。ただ、あれは、眠いが原因の頭痛や身体のだるさを軽減してくれる効果であると思う。
記憶の外部保存
記憶は、記銘、保持、再生という3つの過程がある。(僕が、「インプット」といっているのは、記銘の部分だ。長期記憶、短期記憶といったものがあるが、これは少し概念が違う)
記銘と保持の違いは、難しい部分だと思う。僕は、瞬間的なインプットが、記銘であり、ある程度の期間維持できていることを、保持だと考えている。
記憶は、脳の海馬に保持されて、古い記憶になると大脳皮質(外側)に移行するという。
情報の記銘の前線基地にあたるのが、五感の器官であって、例えば眼。視覚情報は海馬にためられる、その過程に、感情という要素が関係している。
サブリミナル効果といわれる、無意識の働きだ。好き、嫌いという判断は、「思考」するのではなく、無意識の内に判断がなされているのである。
さて、そうした記憶と、「感情」との境界線はどこにあるのだろうか。
記憶を、まるまる何か別の装置や媒体に保存できたとき、そこに、「感情」も移行できるものなのか。たぶん、無理な気がする。そして、それをなしているのが、自我であり、攻殻機動隊的に言えば「ゴースト」である。
我々人間は、たんぱく質の塊であるが、そこには、神秘的な現象が起こっているのである。
神秘的といってしまうと、オーシャンまなぶのグラーヴェ氏はお怒りになるだろうが、しかし、人類にまだ解明できていない部分だと思われる。
感情とは何か
好きなことを仕事にしなさい、とか、ホリエモン氏などは言うだろうが、そもそも、「好き」とは何かということを、僕は懐疑する。秋だ。焼き芋がおいしい季節だ。食べる、旨い。これは、僕という自我における、焼いたサツマイモが「好き」という事実だろう。
そう考えたとき、「好き」ということを懐疑するというのは、詭弁に思われることである。
人類普遍の6原則について復習しよう。
人を傷つけてはいけない、復讐はしてもいい、善行には返礼すべき、嘘はつかない、約束は守る、弱者を守る。
おお、1か月前ぐらいに復習してから、一切思い返していなかったが、スムーズにアウトプットできた。よかったよかった。こうやって繰り返していくと、長期記憶(大脳皮質)に移行するのだろうか。それとも、海馬にとどめおくことができるということだろうか。記憶に関しての現代科学的知見がまとまった情報をインプットしたいな。
話は戻るが、「好き」というのは幅広い。おいしい食べ物が好き、なのは生理的次元である。人と会話するのが好きというのとは、次元が違う。単純接触効果というのも心理学にあるらしく、長く触れているとと好きになるということもあるようだ。
「好き」は変化しうる。
そうした曖昧なものを根拠に、生活をしていいのか。人生を送っていいのか。疑問が生じる。
感情とは何か。それは「その人自身」(自我)ではなかろうか。
あとがき
(かっこ書きである。面白くない記事で申し訳ない限りである。しかし、「感情と記憶」というテーマは面白いと思う。環境、感情、記憶。どれもが密接に関わりあう。環境と感情のインタフェースが「感覚」だ。感覚を適切に操作できれば、感情を操作し、やがて記憶も操作できるようになるのかもしれない。一方記憶。これはむしろ、機械的な情報のように思われる。しかし、ハードディスクに保存されている1or0の情報を読み込むととは違う。結局、記憶を保存したところで、読み込むには、視覚情報等が必要になるのである。インタフェースは視覚情報による「感覚(器官)」となる。そうではなくて、電脳的に、インタフェースレスに、情報の読み書きができるとすれば、それは、感情への影響も増大するのは明白である。グロい映像情報は、視覚情報としてのインタフェースだが、それをシームレスに脳内に流し込めるとすれば、それは、現実として眼で見たのと、ほぼ同じ意味を持つのではないか。そうなれば精神攻撃爆弾のようなことも可能だ。自分の大切な子供が拷問の末に殺された動画情報が流し込まれたときに、それがフェイクである可能性を「思考」として推測できたとしても、その圧倒的情報のインプットによって、感情が破壊されてしまうのである。――とかって物語をもっと書きたいし読みたい。人間の感覚を拡張する何か情報革命は今後ないのだろうか。それがAR(拡張現実)というものだが、僕が今思っているのはそれとはちょっと違う。視覚情報以外の部分での何か)
今日の一言「書こうか」
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ
僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。
さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。
・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない
――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。
頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。
まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。
ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。
いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。
そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。
そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。
と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)
――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。
世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。
しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。
意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。
しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。
世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。
その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。
分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。
別にそんな熱量いらなくね?
満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。
とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。
ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。
いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。
それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。
誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。
きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。
――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。
最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
もっといえば!
もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。
俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。
価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。
ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。
『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
創造価値、体験価値、そして態度価値。
病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。
前書き
人類普遍の六原則について教えてもらったのは、8月11日のことだったのか。https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ
僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。
さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。
・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない
――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。
頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。
法律や道徳とは違う
さて、今回の記事は、上の六原則が、ようやく中期記憶的になってきたので、少しそれについて思ったことを書こうと思う。まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。
ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。
いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。
そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。
それにしても捻じ曲がった世界よ
では仮に、人類は、上のような六原則的な性質をもっているとする。そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。
と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)
――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。
世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。
しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。
意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。
しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。
別に漂っていなくても構わない
実存的空虚感とか、精神科医のうんたらとか、別にどうでもいい。世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。
その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。
分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。
別にそんな熱量いらなくね?
満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。
とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。
早く死んでしまった方がいい
極論だ、論理矛盾だ、意味不明だ、と言われるだろうが、僕は、上のような方針は、イコール、「早く死んだ方がましだ」ということと同義であると捉えている。いや違うんだろうが、しかし、そう思えてしまってならないのだ。ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。
いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。
それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。
誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。
暗黒に奔ろうとしているので思い出せ
あのー、この記事は、あれだ、ふつーの人の、日常的なヤツだ。きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。
――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。
最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
もっといえば!
もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。
俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。
価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。
ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。
『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
創造価値、体験価値、そして態度価値。
病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。
あとがき
(かっこ書きである。3つの価値カテゴリー。3つめ、「態度価値」だったのか。忘れていたなぁ。偉ぶるつもりなど一切ないし、謙遜でもなく、ほんとに、上の本全部読んだんだけど、理解できていない部分である。いや、概念的には何となく分かる。だが、「よく分からない」。ぜひ、決して安くない本だが、図書館とかで見かけて読む機会があったら、P.111からの部分だけでもいいから読んで、何かこの凡人に教えてほしい。創造価値、体験価値は、読めばわかると思う。態度価値ってのが、ああ、人間にはあるんだろうなぁ、ってのも、なんとなく感じられるだろうと思う。だが……しかし、それは、本当に、もう極限に陥らなければ分からないものなのだろうか。もしそうだとしたら、僕がこうして書いてきたすべてのことは結局、その「極限なる状態」によって結論付けられるだけのものであって、無意味だったのか。そう考えることの恐ろしさもある。そういう意味で、僕は、以前これもコメントで指摘されたのだが、「答え」を見つけたくないとすら思っているのかもしれない。でも、そんな状態が、いつまで続くのか。40歳、50歳になっても、まだ、「意味」を探し続けているのか。――と書くと、諸先輩方のディスになりそうだが、そういう意味でもない。40歳、50歳というのは比喩であって、要は、死ぬ間際まで考え続ける、求め続ける、そして、「不満足」な状態が続くのだろうか、ということである。であるならば、早めに死んだ方がましではないだろうか、と思う。その、「不満足」な状態が、それはそれで「楽しい」ならいいだろう。だが、そんなことあるんだろうか。俺は思うに、ますます、歳をとるにつれて、「選択肢」が減っていき、「無意味性」が強固になっていく気がする。この焦り、この不安は、なかなか表現できないと思う。――態度価値だが、ふと思うに、要は、先日の胃カメラで「この苦しさが続くなら死んだ方がまし……」という状態でいてなお、誰か他者のことを思いやって、誰かを助けようとするような態度――そうした態度をとれることが、「価値」なのだろうと思う。そういう意味で、僕は、フランクル氏の言いたいことを、何となく理解していると思う。だが、「理解」が、救いや満足になるわけではないのだ。真面目に考えれば考えるほど、他者のアドバイスを聞こうとすればするほど、このあたりの思考をすれば苦しみが増す。だが、マゾヒストでは決してないが、この苦しみは、「わりといい」と思う。少なくても、仕事をしているよりは有意義だ――というのは言い過ぎか。だが、「誰のためになっているかさっぱり分からない仕事」よりかは、少なくても、自分のためにはなっているから、言い切って構わないと、僕は思う)
今日の一言「15分制限」「コメント頂いたことを考える」
だが、仕事なんてもんを気にしている場合ではなく、小説の感想を書くこと、生きる意味を徹底して考えることの方が重要なのは言うまでもないのだ。しかし、眠い、だるい。
そうやって生きていくことが重要なのは間違いないだろう。しかし、それだけに生きられるかどうかは、別の話。人は、食べるためだけに生きているのではない、と言われる所以。
「お前は、たくさんのものを手放せないでいる。執着していることで苦しんでいるのだ」
といったコメントを頂いた(と解釈する)。
その鋭い指摘の中の「もの」には、人、モノ、コト、すべて含まれるだろう。
その中には、きっと、「過去」もあるだろう。
過去――つまり、自分の来歴。そして、これ(来歴)への解釈、というのが、生きる意味というのの、また違った表現であると思う。
といったときに、その来歴(いわゆる、自分がどんな経験をし、感じ、どんな風に育ってきたか)を脇に置いて、「新しい自分」を見つけて満足していく、というのが、――言葉にするのは簡単ながら、とても難しいのは見えてくる。
自分というのが、自我同一性、アイデンティティ、自己、と表現していったときに、要するに「記憶」であるともいえる。
自分という認識が、自分をつくっているのだといえる。トートロジー。我思う故に我あり。
前の小見出し内での表現を用いれば、「来歴」。
その来歴が「よくないもの」だったとき、それを「忘れる」ことができれば、まぁまぁ、「新しい自分」として、「そこそこの幸せ」を感じながら生きていくことはできるかもしれない。
空虚な表現だ。こういうのを机上の空論という。
僕は無理だと思う。無理だと諦めることは良くないが、「矛盾」があると思う。
自分があるから、楽しんだり、苦しんだりするのだ。
その自分=「来歴」であるとしたら、過去の自分の経験やその解釈について忘れたとき、なかったことにしたとき、手放したとき、そこに、自分はあるのか。いやないだろう。
ただ、生きる意味を考えるにあたって、「感覚を起点にすべきだ」といった(と解釈した)コメントにおいて、大事なことだなと思った、「自分」ということについて今回の記事にしておいた。
知ったかぶりをしてキルケゴール氏を引用すれば、「自己とは総合だ、関係だ」ということになるだろうが、僕の考えで行けば、「自己とは記憶だ、来歴だ」となる。
メモ:記憶に関しては、「記銘・保持・再生」という仕組みで捉えられて、リボーの法則というのがあって、「新しいことから忘れていく」「知的なことより感覚的、または体得的なことの方が忘れにくい」といったものがある。
と、なれば(自己が記憶であり、来歴であったとするならば)。
生きる意味というのは、不断に変わっていくものであるのだろうと、そう思った、というメモまでで、この記事は時間切れになる。
前書き
眠い、が、仕事で気になるやつ、やっつけておかねばいけないやつなどが気になって昨日も25時ぐらいの就寝だったが6時前ぐらいに目が覚める。だが、仕事なんてもんを気にしている場合ではなく、小説の感想を書くこと、生きる意味を徹底して考えることの方が重要なのは言うまでもないのだ。しかし、眠い、だるい。
理想に生きるか現実に死ぬか
得たものもある。良いこともある。そこそこ幸せ。そうやって生きていくことが重要なのは間違いないだろう。しかし、それだけに生きられるかどうかは、別の話。人は、食べるためだけに生きているのではない、と言われる所以。
「お前は、たくさんのものを手放せないでいる。執着していることで苦しんでいるのだ」
といったコメントを頂いた(と解釈する)。
その鋭い指摘の中の「もの」には、人、モノ、コト、すべて含まれるだろう。
その中には、きっと、「過去」もあるだろう。
過去――つまり、自分の来歴。そして、これ(来歴)への解釈、というのが、生きる意味というのの、また違った表現であると思う。
といったときに、その来歴(いわゆる、自分がどんな経験をし、感じ、どんな風に育ってきたか)を脇に置いて、「新しい自分」を見つけて満足していく、というのが、――言葉にするのは簡単ながら、とても難しいのは見えてくる。
新しい自分
その難しさとは何か。自分というのが、自我同一性、アイデンティティ、自己、と表現していったときに、要するに「記憶」であるともいえる。
自分という認識が、自分をつくっているのだといえる。トートロジー。我思う故に我あり。
前の小見出し内での表現を用いれば、「来歴」。
その来歴が「よくないもの」だったとき、それを「忘れる」ことができれば、まぁまぁ、「新しい自分」として、「そこそこの幸せ」を感じながら生きていくことはできるかもしれない。
空虚な表現だ。こういうのを机上の空論という。
僕は無理だと思う。無理だと諦めることは良くないが、「矛盾」があると思う。
自分があるから、楽しんだり、苦しんだりするのだ。
その自分=「来歴」であるとしたら、過去の自分の経験やその解釈について忘れたとき、なかったことにしたとき、手放したとき、そこに、自分はあるのか。いやないだろう。
生きる意味は変化し続ける
だからどうした、だからどうする、というのは、この記事では、15分程度では、到底書ききれない。ただ、生きる意味を考えるにあたって、「感覚を起点にすべきだ」といった(と解釈した)コメントにおいて、大事なことだなと思った、「自分」ということについて今回の記事にしておいた。
知ったかぶりをしてキルケゴール氏を引用すれば、「自己とは総合だ、関係だ」ということになるだろうが、僕の考えで行けば、「自己とは記憶だ、来歴だ」となる。
メモ:記憶に関しては、「記銘・保持・再生」という仕組みで捉えられて、リボーの法則というのがあって、「新しいことから忘れていく」「知的なことより感覚的、または体得的なことの方が忘れにくい」といったものがある。
と、なれば(自己が記憶であり、来歴であったとするならば)。
生きる意味というのは、不断に変わっていくものであるのだろうと、そう思った、というメモまでで、この記事は時間切れになる。
あとがき
(かっこ書きである。理想に死ぬか、現実に生きるか、ということを考えたいが、時間が足りない。俺は思うに、「理想」が、そもそもボロボロになっている気がする。ってか。将来の夢、って、言葉、昔、聞いたことあるだろう。大人諸君は、聞かないだろう。子供に関係する人は、問うかもしれない。将来? 大人と言われる歳になっても、全然イメージできないのに、子供は分かるというのだろうか。不思議な仕組みである。将来=仕事、というのであれば、正直、何の夢も俺はなかった(いやもちろん、暫定的に定めて進学していったわけだが)。「働く」ということに、特に何の感慨も見いだせなかった。労働は国民の義務なのであって、それと、将来の「夢」とは、まったく違うのではなかろうか。お医者さんになって人の命を救いたい、弁護士になって弱者を守りたい、プロ野球選手になって夢を与えたい……。なんだろうな。要するに、生きる意味を考えると、僕が表現するときに、「人生って、何が楽しいのだろうな?」という問いな気もする。そういう感覚的なサムシング。そうしたとき、「いや、(生きる意味を)考える必要は特にないのではないか」という問いは、感覚的な本質に届かない解決方法にならざるをえないのである。いや、だから、人生を、「人生」と大きな枠組みでとらえる必要なんてなくて、狩猟採集生活のように、「蓄え」という概念は特になくて、日々日常の中で充足していくというのが、本来人間としてあるべき姿なのかもしれない。暦をつかって、予測して、農業やってる場合じゃないのである。もっと即物的に、毎日毎日、一日、一時間、一分単位に、ただ生きていくことが大事なのだ。――んなわけあるか。んなわけ、あるかどうか、分からないかもしれない。ただ、それはそれで難しいだろう。いやだって、「記憶」はあるのだ)
今日の一言「目が覚めた」
わりと愚痴みたいな記事を多く書いてしまったが故、心配してくださった方もいる。
申し訳ない。まぁきっと大丈夫。何が。いやきっと何かが。これで残業代も出なかったら間違いなく要検討になるが、その辺は今のところ大丈夫だろう。まぁそういう問題でもないのだが。
頭の中でループしたから、眠いけれども、時間が15分程度しか取れなかろうが、書くことにした。
とか前提を書いていたら、もう残り10分ぐらいだ。どこまで書けるのか。
それは、きっと、酸っぱい葡萄の防衛機制ではなく、思ったことがないから、そうなんだと思う。
出世……って何か。立身出世とか言われるが、「権力を得たい」という欲求だろうか。他者に命令して、思うが儘に操る的な。
実態はともかく、法社会なのであれば、それは不可能である。
灰色な薄暗い欲求を満たすことなど、ふつうはできない。
そも。そもそも、僕は、他人を支配したいという欲求は特にない。「構わないで欲しい」と思うことはよくあれども。
「よく切れるナイフでよい」と、フルメタのマデューカス中佐は言った。
が、それに近いとはいえ、使われる道具であることは、良し、とは思えない。
道具。
そうだろうと思う。
意味は、自ら、引き受けていくものであろう。
そうしたとき、否が応なく、周囲から要求される意味について問わざる得ない。
しかし、だ。
宇宙規模において、一個人の価値は「ない」。
地球規模において、同じく「ない」。
人類規模において、「ない」。
社会規模において、……このあたりから、影響を与えられる人はいるかもしれない。だが稀だ。稀だし、更に、著名人や、政治家諸氏、お金持ち氏などなど、影響をもつ人たちをいろいろ列挙できるかもしれないが、それでも、「多少」レベルだ。稀で、多少だ。(多少って意味なんだっけ? とりあえず「ちょっと」という意味で使ってみた)
じゃあ、家族規模においてはどうか。そりゃあ、意味が「ある」ってことになる。
旦那さんや奥さん、お父さんやお母さんってのは、それだけで、その役割は代替不可能である。
そして、失われた時の甚大さは、関係者(ここでは「家族構成員」)にとっては、筆舌尽くせぬ。
……という問いは、あまり重要ではない。「価値」とは、自分から世界への方向と、世界から自分への方向とがある。としたときの、「世界」が、前述の「宇宙」だったら、両方とも「ない」。
家族からの意味、価値だったらあるかもしれない。
しかし、昨今、家族をつくるというのは、「自由」になった。
恋愛も自由、結婚も自由。
となったとき……時間切れ。
前書き
夢、をみていた。家族の夢。エレクトーンの音で目が覚める。僕は昼寝でもしていたのか。母の奏でる演奏だった。幼いころ教えてもらった曲だった。目が覚めた僕は、「昔教えてくれたね、覚えているよ」と母に伝える。母は、少し照れながら、「もう忘れて全然弾けないよ」と言いながら、日常の家事へと戻っていった。目覚める
そして本当に目覚める。しかし、布団から出るだけのやる気がない。面倒だ。今日も仕事か。わりと愚痴みたいな記事を多く書いてしまったが故、心配してくださった方もいる。
申し訳ない。まぁきっと大丈夫。何が。いやきっと何かが。これで残業代も出なかったら間違いなく要検討になるが、その辺は今のところ大丈夫だろう。まぁそういう問題でもないのだが。
頭の中でループしたから、眠いけれども、時間が15分程度しか取れなかろうが、書くことにした。
とか前提を書いていたら、もう残り10分ぐらいだ。どこまで書けるのか。
身の振り方
別に出世したいとかはないのである。それは、きっと、酸っぱい葡萄の防衛機制ではなく、思ったことがないから、そうなんだと思う。
出世……って何か。立身出世とか言われるが、「権力を得たい」という欲求だろうか。他者に命令して、思うが儘に操る的な。
実態はともかく、法社会なのであれば、それは不可能である。
灰色な薄暗い欲求を満たすことなど、ふつうはできない。
そも。そもそも、僕は、他人を支配したいという欲求は特にない。「構わないで欲しい」と思うことはよくあれども。
「よく切れるナイフでよい」と、フルメタのマデューカス中佐は言った。
が、それに近いとはいえ、使われる道具であることは、良し、とは思えない。
道具。
人は自分の人生を生きているか
生きる意味を考えること、それが必要かどうか、意味があるかどうか、それは分からない。某SRGN氏は、「意味は後天的に付与されるものである」と仰っておられた。そうだろうと思う。
意味は、自ら、引き受けていくものであろう。
そうしたとき、否が応なく、周囲から要求される意味について問わざる得ない。
しかし、だ。
宇宙規模において、一個人の価値は「ない」。
地球規模において、同じく「ない」。
人類規模において、「ない」。
社会規模において、……このあたりから、影響を与えられる人はいるかもしれない。だが稀だ。稀だし、更に、著名人や、政治家諸氏、お金持ち氏などなど、影響をもつ人たちをいろいろ列挙できるかもしれないが、それでも、「多少」レベルだ。稀で、多少だ。(多少って意味なんだっけ? とりあえず「ちょっと」という意味で使ってみた)
じゃあ、家族規模においてはどうか。そりゃあ、意味が「ある」ってことになる。
旦那さんや奥さん、お父さんやお母さんってのは、それだけで、その役割は代替不可能である。
そして、失われた時の甚大さは、関係者(ここでは「家族構成員」)にとっては、筆舌尽くせぬ。
しかし
自分一人の人生に、価値はあるのだろうか。……という問いは、あまり重要ではない。「価値」とは、自分から世界への方向と、世界から自分への方向とがある。としたときの、「世界」が、前述の「宇宙」だったら、両方とも「ない」。
家族からの意味、価値だったらあるかもしれない。
しかし、昨今、家族をつくるというのは、「自由」になった。
恋愛も自由、結婚も自由。
となったとき……時間切れ。