今日の一言「疲れた」
やる気が起きない、まぁ、起きられないことによって、悪循環になるのだが。
だが、この漫画(リンク)のように、「無駄かどうかは俺が決める!」といってやりたい。
いやぁ、無駄も何も、ずっと寝てたから何もないわけだが……。
まぁ、体を休めた、ということで、よしとしよう。土日は、イベント(友人その他知人からのお誘い)があったが、疲れすぎて無理ですと断ったのだから、目的を達した。
しかし、今週は、24時を過ぎての帰宅だった。
平日何もできなすぎる。
まぁ確かに、22時帰宅の際も、寝るまでに少ししか時間はないから、アマゾンプライムで、適当な作品をあまり真剣ではなくみてボーっと過ごすぐらいだったろう。
そういった時間がなくなっただけと考えれば、まぁ大丈夫かもしれない。
いやそんなわけはない。ぼーっと過ごす時間もあったほうがいいだろう。
……なんか、今も、頭が働いていない。
ああ、こういうときは、風呂にでも入るべきパターンだな。OK、それは行こう。
だが、やる気のなさ的に、朝も、11時には一度目が覚めたのだったが、やる気が起きな過ぎて布団から起き上がれなかった。
そうすると、変な夢をみたりして、過去の嫌だったころの夢だったりして、さらに士気は下がるという悪循環。
体は休まったかもしれないが、精神的には休めてない気がする。
(かっこ書きである。風呂にはいったものの、頭痛は治らず、今日はここで一度投稿し、取り急ぎルーチンはやったと、そういうことにしておく)
前書き
ずっと寝ていた休日。やる気が起きない、まぁ、起きられないことによって、悪循環になるのだが。
だが、この漫画(リンク)のように、「無駄かどうかは俺が決める!」といってやりたい。
いやぁ、無駄も何も、ずっと寝てたから何もないわけだが……。
まぁ、体を休めた、ということで、よしとしよう。土日は、イベント(友人その他知人からのお誘い)があったが、疲れすぎて無理ですと断ったのだから、目的を達した。
近況
先々週は、23時帰宅だったと、書いた。それに対して、心配してくださったコメントを頂いた。しかし、今週は、24時を過ぎての帰宅だった。
平日何もできなすぎる。
まぁ確かに、22時帰宅の際も、寝るまでに少ししか時間はないから、アマゾンプライムで、適当な作品をあまり真剣ではなくみてボーっと過ごすぐらいだったろう。
そういった時間がなくなっただけと考えれば、まぁ大丈夫かもしれない。
いやそんなわけはない。ぼーっと過ごす時間もあったほうがいいだろう。
……なんか、今も、頭が働いていない。
ああ、こういうときは、風呂にでも入るべきパターンだな。OK、それは行こう。
だが、やる気のなさ的に、朝も、11時には一度目が覚めたのだったが、やる気が起きな過ぎて布団から起き上がれなかった。
そうすると、変な夢をみたりして、過去の嫌だったころの夢だったりして、さらに士気は下がるという悪循環。
体は休まったかもしれないが、精神的には休めてない気がする。
(かっこ書きである。風呂にはいったものの、頭痛は治らず、今日はここで一度投稿し、取り急ぎルーチンはやったと、そういうことにしておく)
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今日の一言「胃カメラ苦しい」
結果は、問題なし、とのことだった。
たまに胃のあたりが、きりきりするような、締め付けられるような痛みに悩まされることがある。
ゆえに、胃カメラもやってみたのであるが。
これが、大変苦しかった。
胃カメラ後は、一時間は、飲食ができないということだ。
前日夜からは一切食事はダメなため、お腹が空いて、痛いきもする。食べると治るようなきもする、が、それもできず、とにかく耐える。
1時間後ぐらいに、カフェに入って少し食べると、徐々に痛みが治まってきた。
ストレス性の痛みだったのか。
そもそも、胃カメラ後に、「きれいな胃なので現状は問題ないですね」と言われていて、それでも痛くなるというのは、人間の身体の不可思議。
が、まぁその、予想通り、胃カメラ中が、苦しかった。単純に苦しかった。
出産の痛みに比べたら大したことないのだろうが、ふつうに苦しい。
般若心経でも頭で唱えて耐えようかとも思っていたが、そういうもんじゃない。
痛い、というわけじゃない、と思う。麻酔は、口に、苦いキシロカインスプレーをしてもらう。まぁ、全然耐えられんものじゃない。これから行われることを思えば大したことじゃない。
問題は、異物が、喉から、食道を通って胃に挿入されることだ。
入る瞬間は、いつ入ったのか分からないぐらいだが、その後すぐに、強烈な嘔吐感がくる。強烈だ。おええええ、という奴だ。
先生や看護氏さんが、ここ苦しいとこですからね、と声をかけてくれる。
確かに、数秒耐えると、少し嘔吐感が収まる。
しかし、異物感は当然残っている。
涙が出始める。
涙だ。大の男が……というほど逞しくはないが、インフルエンザになってものすごく苦しくても、泣きはしないだろう。
そういう苦しさとはまた全く異なるつらさなのだ。
半分までは終わりましたよ、というのを聞く。
まだ半分なのか、と、途方にくれる。
野戦病院では、重体、重傷の兵士が、もう殺してくれとの叫びが響きわたるとのことだが、ほんとなんだろう。その100分の1ぐらいの気持ちは分かる。
胃カメラやる前は、万が一何かのショックで死んでしまったら、色々やり残したこともあるし、やだなぁ、とか、のんきに考えていたが、「いやもう、そんなのどうでもいい!」っといった感じになる。
この苦しみがもしずっと続くなら、もうほんと、殺して欲しいと思うだろう。
最初の方と、あと二回くらい、ここ、苦しいとこですからね、という箇所があり、それ以外は、とにかく呼吸を意識することで耐えた。
胃カメラ中ということを意識しないほうがよさそうだ。
あと、マウスピースを最初にはめられるが、思いっきり噛みしめてやってもよい気がする。
最初の方がだいぶ苦しかったので、「またくるか」と身構えたが、抜かれた瞬間も、よく分からなかった。一瞬だった。
そのあとは、唾液とか、もろもろ、麻酔で飲み込むことができなくなってるので、全部だだもれになる。ティッシュが(箱ごと)渡されるので、自分で拭っていく。
結論は、最初に書いた通り、所見無しだった。
が、二、三年に一度は、胃カメラは受けた方がよいとのことだ。
毎年やるのは、負担だな……。
前書き
先日、胃カメラを口からやってきた。(全身麻酔なし)結果は、問題なし、とのことだった。
たまに胃のあたりが、きりきりするような、締め付けられるような痛みに悩まされることがある。
ゆえに、胃カメラもやってみたのであるが。
これが、大変苦しかった。
終わった後も痛かった
胃カメラの体験自体は、次の小見出しで書くとして、これは直接的に関係ないのだろうが、胃カメラ後も、お腹が痛くて、待合いイスでずっと耐えていた。胃カメラ後は、一時間は、飲食ができないということだ。
前日夜からは一切食事はダメなため、お腹が空いて、痛いきもする。食べると治るようなきもする、が、それもできず、とにかく耐える。
1時間後ぐらいに、カフェに入って少し食べると、徐々に痛みが治まってきた。
ストレス性の痛みだったのか。
そもそも、胃カメラ後に、「きれいな胃なので現状は問題ないですね」と言われていて、それでも痛くなるというのは、人間の身体の不可思議。
胃カメラ中
終わった後に痛くなるというのは予想外だった。が、まぁその、予想通り、胃カメラ中が、苦しかった。単純に苦しかった。
出産の痛みに比べたら大したことないのだろうが、ふつうに苦しい。
般若心経でも頭で唱えて耐えようかとも思っていたが、そういうもんじゃない。
痛い、というわけじゃない、と思う。麻酔は、口に、苦いキシロカインスプレーをしてもらう。まぁ、全然耐えられんものじゃない。これから行われることを思えば大したことじゃない。
問題は、異物が、喉から、食道を通って胃に挿入されることだ。
入る瞬間は、いつ入ったのか分からないぐらいだが、その後すぐに、強烈な嘔吐感がくる。強烈だ。おええええ、という奴だ。
先生や看護氏さんが、ここ苦しいとこですからね、と声をかけてくれる。
確かに、数秒耐えると、少し嘔吐感が収まる。
しかし、異物感は当然残っている。
涙が出始める。
涙だ。大の男が……というほど逞しくはないが、インフルエンザになってものすごく苦しくても、泣きはしないだろう。
そういう苦しさとはまた全く異なるつらさなのだ。
半分までは終わりましたよ、というのを聞く。
まだ半分なのか、と、途方にくれる。
野戦病院では、重体、重傷の兵士が、もう殺してくれとの叫びが響きわたるとのことだが、ほんとなんだろう。その100分の1ぐらいの気持ちは分かる。
胃カメラやる前は、万が一何かのショックで死んでしまったら、色々やり残したこともあるし、やだなぁ、とか、のんきに考えていたが、「いやもう、そんなのどうでもいい!」っといった感じになる。
この苦しみがもしずっと続くなら、もうほんと、殺して欲しいと思うだろう。
最初の方と、あと二回くらい、ここ、苦しいとこですからね、という箇所があり、それ以外は、とにかく呼吸を意識することで耐えた。
胃カメラ中ということを意識しないほうがよさそうだ。
あと、マウスピースを最初にはめられるが、思いっきり噛みしめてやってもよい気がする。
半分を過ぎた後はやや楽
しかし、半分ですよ、のあとは、やや早い気がした。戻りながら食道を通って終わりだった。最初の方がだいぶ苦しかったので、「またくるか」と身構えたが、抜かれた瞬間も、よく分からなかった。一瞬だった。
そのあとは、唾液とか、もろもろ、麻酔で飲み込むことができなくなってるので、全部だだもれになる。ティッシュが(箱ごと)渡されるので、自分で拭っていく。
結論は、最初に書いた通り、所見無しだった。
が、二、三年に一度は、胃カメラは受けた方がよいとのことだ。
毎年やるのは、負担だな……。
あとがき
(かっこ書きである。苦しかった。しかし、終わってみると、なんか変な達成感もある。やられてるときは、あれほど苦しかったのに、終わってみると、またやってみたほうがいいのかな、と思ったりする。現金なものである。「意味」大事だと思う。唐突だが、要は、「時限的な苦しみにはある程度耐えられる」ということだ。ちなみに、全身麻酔によって、ほぼ眠った状態で苦痛なく検査もできるそうだ。が、追加の費用もかかるのと、時間がよりかかるということだが、心配なのはやはり麻酔の副作用だろうか。医学的に大丈夫なんだろうが、一時的に、人工的に身体の機能を低下させるということなのだから、それはそれで負担だと思われる。一方で、「苦しい」ことによってストレスがかかる負担もあると思われる。どっちがいいのか、よく分からない)
今日の一言「ルーチンは欠かしちゃダメだ」
習慣付けすることが何より大事だ。
と僕は思うのだが、どうにも、会社とか友人関係とかその他もろもろ、他者と関わる必要がある場合は、中々思うように進まない。
ええと、できるだけ、近況をメモしておこうと思う。例えば小学校の絵日記で、天気のことを書いたりするが、それって、意味がないのでは、と思われるかもしれないが、事実僕もそう思っていたと思うが、今思うに、天気も関係あると思う。そのとき、どういった状況だったのかというのは、自分の書くモチベーションや、書くないようにも影響すると思うのである。
まぁ、絵日記で、まとめてかこうとして、前の天気がわからなくなって、あー面倒だなとか思ったことはよくあった。今にして思えば、その天気が間違っていようが、学校の先生はそれで成績を下げるはずはない、というか、確認などしないのだろうが、僕は真面目に考えすぎてしまっていたのだ。
だから、学校の勉強はよくできても、仕事はできない、とかいう評価がなされる人がいるのだ。
無限にある仕事のなかで、ポイントをおさえないと、評価の問題だけじゃなく、そもそも終わらない。
最低限、メール等郵送物の誤発送を防ぐとか、そういう取り組みは必要だが、「そこ重要じゃないんだけどな」ということに拘ってはならないのだ。利益にならないから。
利益!
例えば先週、僕は、クレームの処理をまた行った。(ああ、それも、報告書などに書いておかなければ、自分自身でも忘れてしまうだろう)
そのなかで、はじめは非常にお怒りであって、根拠を明確に示せとか言われていた。
根拠を示した。
しかし、その根拠がおかしい、と怒りはおさまらなかった。
(そう、そもそも、他の部署や組織にその人は確認して、なお納得されなかった方だったのだ)
僕は、機転をきかせて、「YOUのおっしゃることはよく分かるYO。でもさ、逆にこういうケースがあったら、その人たちも困る、というか納得いかなくなるよね。そしたら、そういうルールになってるってのも、仕方がないんじゃあないかなぁ」といった。(もちろん全部敬語だ!)
結果、なるほどね、分かったよ、いろいろ調べてくれたり、ありがとうね。
といってもらえた。解決した!
いうてみれば、当たり前の仕事を、当たり前にやっただけだ。問い合わせ対応、的なたくさんある業務のうちのひとつに過ぎないからな。
達成感がないかといわれたら、あることはある。
が、「で?」という感覚が、断然僕のなかでは強い。
こういった僕の能力(何かを達成する意欲と実行できる力)が育まれても、僕は別に嬉しくはないのだ。
それについて、周りの人は、「すごいね」とか言ってくれたりする。
別に、求めてないのだ、そのあたりは。
お金ボーナスとか書いたが、仮にそういった評価をしてもらっても、別に、嬉しくないのだ。
僕は、先日ライ、ブログへコメントいただいた内容に非常に感銘受け、嬉しかった。よく読んでくださってるな、と思った。
先日、夜回り先生という方が、いろいろ相談を行っていたが、結局相談してくる人たちが、自分の本を全然読んでない、もしくは読んでも全然理解していないことに辟易され、ついには相談をやめてしまったという記事を読んだ。
ホリエモン氏も、企画をもってくる人たちは多いが、なっとらん、といっていたという記事を読んだ。
ええと、先々週は、23時帰宅が多かったと書いたが、先週は、24時帰宅が多かった。
いやええと、1日、いや二日は、同僚たちと食事に行ってから帰ったりしたから、仕事でふるふる、というわけではないが、要は、家に帰ってからが勝負なのである。何が(かっこ笑い)。
うーむ。なんというか、仕事と、友達たちと遊ぶことと、同僚たちと食事等行くことについて、さほど違いはないんだ。と書くと、仕事なめてんじゃねええということを言われるだろうが、そういう問題ではない。要するに、他者対応において、ストレス発散傾向が向けられないということだ。というか、創作と全然関係ないしな。
そう。創作性がないのだ。
先日、いや、違う、去年とか、会社関係の人と話す機会があったが、だいぶ面白かった。その人も、すげー考えてるんだな、って思った。いやその、誰しも、いろいろ考えてるよ。そうじゃなくて、なんというのかなぁ、その、生き方そのものについて、という表現にとりあえずとどめておく。とにかく、その時間は、他者との時間だったが、面白かったのだ。
(補記すれば、その人も、だいぶ変わり者的な風な評判があるようなことであった)
現実に関しての、例えば仕事とかでもいいが、どうでもいいのである! と書くと言い過ぎだが。
仕事も、遊びも、人生の要素に過ぎない。その要素に過ぎないことを、他者と話し合ってどうするのだ。行動するのは、結局は自分なのだ。であれば、自分で考える時間があったほうがましだ。いやいや、もちろん、相談は必要だし、コミュニケーションも必要だよ。わかってるが、なんというのあかなぁ、ここら辺が上手く伝える手段がなく、要は、人付き合いめんどくさい、という単純な行動指針に繋がるわけであるが。
前書き
書きづらい! とか、言い訳している場合ではない。習慣付けすることが何より大事だ。
と僕は思うのだが、どうにも、会社とか友人関係とかその他もろもろ、他者と関わる必要がある場合は、中々思うように進まない。
ええと、できるだけ、近況をメモしておこうと思う。例えば小学校の絵日記で、天気のことを書いたりするが、それって、意味がないのでは、と思われるかもしれないが、事実僕もそう思っていたと思うが、今思うに、天気も関係あると思う。そのとき、どういった状況だったのかというのは、自分の書くモチベーションや、書くないようにも影響すると思うのである。
まぁ、絵日記で、まとめてかこうとして、前の天気がわからなくなって、あー面倒だなとか思ったことはよくあった。今にして思えば、その天気が間違っていようが、学校の先生はそれで成績を下げるはずはない、というか、確認などしないのだろうが、僕は真面目に考えすぎてしまっていたのだ。
要領のよさ
話それるけど、その絵日記の天気とか、さほど重要じゃない……成績的には重要じゃないということは多くある。仕事だってそう。だから、学校の勉強はよくできても、仕事はできない、とかいう評価がなされる人がいるのだ。
無限にある仕事のなかで、ポイントをおさえないと、評価の問題だけじゃなく、そもそも終わらない。
最低限、メール等郵送物の誤発送を防ぐとか、そういう取り組みは必要だが、「そこ重要じゃないんだけどな」ということに拘ってはならないのだ。利益にならないから。
利益!
例えば先週、僕は、クレームの処理をまた行った。(ああ、それも、報告書などに書いておかなければ、自分自身でも忘れてしまうだろう)
そのなかで、はじめは非常にお怒りであって、根拠を明確に示せとか言われていた。
根拠を示した。
しかし、その根拠がおかしい、と怒りはおさまらなかった。
(そう、そもそも、他の部署や組織にその人は確認して、なお納得されなかった方だったのだ)
僕は、機転をきかせて、「YOUのおっしゃることはよく分かるYO。でもさ、逆にこういうケースがあったら、その人たちも困る、というか納得いかなくなるよね。そしたら、そういうルールになってるってのも、仕方がないんじゃあないかなぁ」といった。(もちろん全部敬語だ!)
結果、なるほどね、分かったよ、いろいろ調べてくれたり、ありがとうね。
といってもらえた。解決した!
それとこれと評価と
が、まぁそれが、今回はうまくいったが、次がうまくいくかわからないし、そして、その対応に要した時間を、誰かが評価してくれたり、お金ボーナスあったりとか、別にそんなん、ない。いうてみれば、当たり前の仕事を、当たり前にやっただけだ。問い合わせ対応、的なたくさんある業務のうちのひとつに過ぎないからな。
達成感がないかといわれたら、あることはある。
が、「で?」という感覚が、断然僕のなかでは強い。
こういった僕の能力(何かを達成する意欲と実行できる力)が育まれても、僕は別に嬉しくはないのだ。
それについて、周りの人は、「すごいね」とか言ってくれたりする。
別に、求めてないのだ、そのあたりは。
お金ボーナスとか書いたが、仮にそういった評価をしてもらっても、別に、嬉しくないのだ。
僕は、先日ライ、ブログへコメントいただいた内容に非常に感銘受け、嬉しかった。よく読んでくださってるな、と思った。
先日、夜回り先生という方が、いろいろ相談を行っていたが、結局相談してくる人たちが、自分の本を全然読んでない、もしくは読んでも全然理解していないことに辟易され、ついには相談をやめてしまったという記事を読んだ。
ホリエモン氏も、企画をもってくる人たちは多いが、なっとらん、といっていたという記事を読んだ。
近況
おっと、近況を書くつもりが、脱線してしまった。ええと、先々週は、23時帰宅が多かったと書いたが、先週は、24時帰宅が多かった。
いやええと、1日、いや二日は、同僚たちと食事に行ってから帰ったりしたから、仕事でふるふる、というわけではないが、要は、家に帰ってからが勝負なのである。何が(かっこ笑い)。
うーむ。なんというか、仕事と、友達たちと遊ぶことと、同僚たちと食事等行くことについて、さほど違いはないんだ。と書くと、仕事なめてんじゃねええということを言われるだろうが、そういう問題ではない。要するに、他者対応において、ストレス発散傾向が向けられないということだ。というか、創作と全然関係ないしな。
そう。創作性がないのだ。
先日、いや、違う、去年とか、会社関係の人と話す機会があったが、だいぶ面白かった。その人も、すげー考えてるんだな、って思った。いやその、誰しも、いろいろ考えてるよ。そうじゃなくて、なんというのかなぁ、その、生き方そのものについて、という表現にとりあえずとどめておく。とにかく、その時間は、他者との時間だったが、面白かったのだ。
(補記すれば、その人も、だいぶ変わり者的な風な評判があるようなことであった)
現実に関しての、例えば仕事とかでもいいが、どうでもいいのである! と書くと言い過ぎだが。
仕事も、遊びも、人生の要素に過ぎない。その要素に過ぎないことを、他者と話し合ってどうするのだ。行動するのは、結局は自分なのだ。であれば、自分で考える時間があったほうがましだ。いやいや、もちろん、相談は必要だし、コミュニケーションも必要だよ。わかってるが、なんというのあかなぁ、ここら辺が上手く伝える手段がなく、要は、人付き合いめんどくさい、という単純な行動指針に繋がるわけであるが。
あとがき
(かっこ書きである。来週も、先週同様となることが目に見えている。そして、再来週もそうなるかも。とりあえず、今年はそんな感じなのかもしれない。いやひとついっておけば、今の職場、まだ半年経ってないからな。そりゃあ、歳は30代であるが、全く異なる職場において、1年間を見通して行動しろというのは、まぁまぁ無理があると思う。第一、上にも書いてきたが、どこら辺をゴールとして考えられているのか、いまいち見えない。だから、もちろん、人生においても、そうだが、仕事においても、ゴール、目標をしっかり、明確に、何度も、繰り返し、提示し続けることが大事なのだ。よう分からない状態でも、そのなかで目標を見つけていく、課題をみつけていく、というのでもいいのだ。それだって大事なゴールだ。日々の業務を正確に、効率よくこなす、ということでもいいのだ。なんだっていい。そうしたゴールが分からないと、まぁもう、雪だるま方式に業務は増えていく。まぁ、そういったことを含めて、各自で考え、成長することが、裏のゴールなのかもしれない。であれば、しゃにむにやるしかなかろう。ただし、組織は、簡単に手のひらを返すから、残業代とか、有給とか、その辺、しっかり請求すべきだ。善意で、休日に仕事を持ち帰ったり、絶対やらん。20代の時、よくわからずにそういったこともしていたが、何にもならなかった。いや、なにかにはなったろう。勉強にはなったろう。だが、やる気をすさまじく下げる事態はその後たびたび発生したのである。あああ、やる気がおきねえなぁ。……っといったことを、多くのサラリーマン氏たちは、同僚や友人や家族と、飲み屋で語り明かすのだろう。俺は、それが無駄……とまでは言わないが、たまにはいいと思うが、正直、そんなこと他の人と話しても、自分の中では一切解決しない。むしろ、こうやって文字起こしシタホウガがぜんイミがある。と思う。一時の感情を処理したいわけじゃないのだ。問題の解決をはかりたいのである。考えることが目的ではないのだ。考えなくても人生満足して生きられたらいいのである。ただ、多分、俺のような奴は、考えることの放棄は恐らくできないのだろう。……というか、「自分で考えろ」って、よく言われるところじゃん。だから、一般的にも、考えることは奨励されているはずなのである。しかし、一般的に言われているのは、「俺の思うように考えろ」だったり「俺もよくわからないが、成果が出るように考えろ」である。まぁ無視して構わない。僕のいっている考えることと、一般的に言われている考えることは、全く違うと思っている。そこら辺が分かってない、もしくは分かってても意図している人たちの相手は、できるだけしたくないものだ)
今日の一言「20時ぐらいに寝ると24時ぐらいに目が覚める」
一人でゆっくり思索、というのが大事だ。
カフェとか、新幹線の中とかでも、まぁいいのだが、その環境によっては、落ち着けなかったりする。そうすると、全然書けない。
頑張って書いても、大した情報が出てこない。
先日、とはいえ、まぁなんかメモぐらいしておくか、考えよう、ということでやってみて、たしか、1時間弱ぐらいで、上ぐらいの内容だ。
よく分からないし、面白くないな。
なんかこう、このブログ書いているのって、もっと面白かった気がするのだ。
それはこう、自虐的な、ぬるま湯につかっているような感覚なような気もするけれども、あの大学入試のために寒い冬に石油ストーブのゴーっという音と、朝の4時とか5時とかに起きて勉強しようと、その前に紙のノートに色々書いていたような、あの頃のサムシングが、このブログにおいてあるような気がしたのだ。
それでいて、当時の完全なる孤独と違い、一人じゃない、でも、一人でいられるという不思議な楽しさがあったはずなのだ。
いくらどこかに、タブレット片手に繰り出していっても、それは、十分ではないのだ。
今は、変な時間だが、とりあえず、眠気もそれほどないし、体の調子もそれほど悪くないので、「書く」条件がそろっている。貴重な時間だ。ありがとう。この時間を与えてくれたすべてにありがとう。
と、まぁ、そんな環境的分析はともかく、今回は、上の抜粋……1時間の成果について、もう少し意味あるものに考えてみよう。
仕事は重要である。
賃金がもらえるからだ。
何故賃金が必要か。生活するためだ。
働かなくても賃金がもらえるベーシックインカムの制度はまだ実現していない。
と、いうのは欺瞞だ。いや、ベーシックインカムの部分じゃなくて。
仕事は、生活するために必要だったはずなのだ。
要は狩猟採集は仕事である。
賃金というのは、中間者である。生活するために賃金が必要というのは、近代の話だ。
日本昔話の村人たちは、年貢を納めるために働いてるのではない。(勝手な決めつけ)
彼らは、ただ、日々の生活のために働いているのだ。(山に行ったり畑を耕したり)
……なんてなことを、今なら思ったりするのだが、カフェ的な状況であれば、思えないし、仮に思っても「書こう」という気にならないから不思議なものである。
いやしかし、上の話は全く関係ない。
要するに、仕事をしなくてもいい時間がないと、――大事なことなので正確にかけば、「仕事を考えなくてもいい時間」がなければ、思考できない、ということである。
そして、今は、仕事を考えなくてもいい時間、だと、上の抜粋記事では書きたかったのである(たぶん)。
ふーん。で?
とか言っちゃいけない。かわいそうだろ?(かっこ笑い)
いやしかし、「で?」としか思えないんだよな、今となっては。
いや、言ってることは分かるのだが、いまさら? とかって思う。
そんなの、分かりきってたんじゃないのと。何のために何百の記事を書いてきたのと。
でもまぁ、軽く、「前提」として書く分にはいいと思う。何がダメかって、これを書くのにも、非常に時間を労していたことだ。
サラッと書いちゃえよ、と思う。今ならサラッと書けちゃうだろう。
では、何が悩ませたのか。
「考え続けてしまう」「遠慮しがち」「人に理解されがたい」
これらを、「認めたくない」「認めてもいいのか?」という葛藤故だろうか。
ここで、「理解される必要があるのか?」という疑問も当然立てられる。が、それは考慮する必要はない。理解されたほうがいい。理解されなくてもいいかもしれないが、されるならされたほうが良いに決まっているのである。
いやいや、理解されたがゆえに、変に利用されてしまうのでは、とか、そういう言葉遊びをしても仕方がない。そういう、言葉尻を捉える人も少なくなくて、もうほんと、できるだけ他者とコミュニケーションを減らしたいという裏の思いが最近強い。まぁそれも脱線なんだが、要は、ここでいう「理解」とは、他者を尊重するという当たり前の原則に基づいているのだ。その前提においていえば、理解された方がいいのだ。そのほうが生きやすいはずなのだ。
脱線だ、そんな自己分析いるのか? と思う。
だがまてよ、と。
こういった当たり前の前提をして考えていけば、「考え続けてしまって遠慮しがちで理解されがたい」ことを、僕は悩んでいたのではないかと。
「変えたい」という意思の表れなのではないか、と。
そうも捉えられないか。
で、なんだけど、次の承け(うけ)の、つながりが全然みえてこない。
家族?
どうしてここで家族が出てくる?
――よくよく考えると、多分当時は一切思ってなかったろうが、「自己」→「家族」という単位の変遷はまぁ分からなくもない。
そもそも、「自己」という単位だけで考えてもどん詰まりするというのはよくある話で、人間は、相互関係、互いに干渉しあいながら成長(悪い意味でも良い意味でも)するのだ。
ただしかし、大学入試ごろの完全なる孤独、と違い、この場も、不思議な相互作用の場なんではないかと思ったりもしたりする。まぁこれも脱線だ。
「家族」はまぁ、分かった。が、「恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。」とは一体何なのか(かっこ笑い)。
今度は「責任」とな。
責任。
責任?
えーっと、その、家族を作ることの責任、ってことか。
なるほど、社会的な要請、長男だったら結婚し、男児をつくれ、ってやつ、か。
そういうんが、昨今なくなってきてるよね、ということを言いたかったのか。
昨今がどうか分らんが、取り敢えず、個人的に何かそういう外圧は、今のところ一切ない。これがいいことなのか、悪いことなのかも分からないが、別にない。
親は、孫の顔が早く見たい、と思ってるかどうかわからんけどね。
ただ、それはとかく、実際、数百キロ離れたところで暮らして、正月ぐらいしか顔を見せないような親不孝者である。仮に孫ができても、その程度しか会わせられないんだろうと思う。それでも、いいのかな? 写真送ってあげて、成長をみせてあげたりすると、喜んでくれるのかな。
とか、ね。
そういうことを書きたかったのかな。分からん。
親には感謝しないといけないと思う。東京の大学に通うようになり、――覚えている、2年目ぐらいからは、学生寮的なのを出てアパート暮らしを始めたが、仕送りを月11万円してくれた。(昨今は高額と見なされる額だそうだが、当時としては平均的なものだそうな)
年間、132万円である。それを3年間。1年目は分からないが、同じだとすれば、4年で、528万円。
帰省の切符代も出してくれてた気がする。それ以外に、大学の授業料。242万円ぐらいだそうな。
足すと、770万円。実際は、もっともっとかかる要素があるだろう。
高額である。
今となっては、「全額返せ!!」と言われたら、返せなくはないが、まぁその、厳しいわな。
子供にお金がかかるというのは、本当なのだなと実感。
責任とは、結果に対して、自分が原因である、ということだ。
「育ててもらった責任」
ということになるのだろうか。
ん? よくわからないな。「今自分が存在していること」の責任?
日本の国民の3大義務を言えるだろうか。
納税の義務。労働の義務。子供に教育を受けさせる義務。
そう、だから、中学校までは義務なのだが、高校生以上は義務じゃない。「好きでやってること」である(悪意を持って書けば、の話)。
親が好きでやったことなんだから、子供に果たすべき責任なんかねぇ! と(悪意もって書けば、ね)。
そんなこと子供に言われたら、親は悲しむというか、怒る人もいるだろう。
ま、でも、ドロドロ、失敗している親子関係ってのもあるし、実際あるだろうね。「生んでくれなんて頼んでない!」なんてのも。
まぁ、生まれてこなければ、確かに、色々考えることもなかったし、苦しみも恐怖もなかったんじゃないかというのもある。ただ、生まれてきてしまったのであればしゃあないことであるし、繰り返し書いておくが、感謝こそあれ、親を怨む気持ちはない。
お父さん、お母さん、ありがとう。
しかし、どこまで、育ててくれたことになるのかな。親と暮らしていたのは高校生までだが、先ほどの通り、お金の問題でいけば、大学まで、となる。社会人になってからも、じゃあ、影響がゼロなのかといえばそうではなかろう。
……と、まぁ、このように、部屋で一人でいれば、色々思うところも出てくる。
だがまぁ、間違いなく、カフェ的環境では、上のような内容は一切出てこなかったろう。せいぜい、上の引用文ぐらいのレベルなのだ。
例によって、1時間ぐらい書いた。1時間ぐらいで、これぐらいは書けるのだ。
全然量が違うな。
ま、その、結論としては、結論なんか特にないのだが、この記事のまとめとしては、家族に対して特に責任はない、ということでよかろうか。
よくわからないか。家族を作る、必要性、はわからんが、取り急ぎ、責任はない、ということだろう。
眠気と疲れがドッときたので唐突に終わる。
前書き
最近、ルーチン更新が崩壊しているが、まぁその、一応免除規定(一人でゆっくり思索できる時間が少ない)に当たると思う。一人でゆっくり思索、というのが大事だ。
カフェとか、新幹線の中とかでも、まぁいいのだが、その環境によっては、落ち着けなかったりする。そうすると、全然書けない。
頑張って書いても、大した情報が出てこない。
1時間かかってこの程度
●抜粋
仕事を離れて少し思ったが、今後の、方針的なんを考えられなくもないな。俺は、どこまでいっても、考えることをやめられないし、気にしたり、遠慮したりをしてしまう。似た人はいるかもしれないが、理解してもらえる可能性は低い。そこを考えた上で、生きやすい方法を考えていかなければいけないだろう。しかし、本当に、家族を作る、ということについて、何の責任もないのだな。まあ、30代ということになれば、恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。しろくま先生はどう考えるのか。時間を濃密に使っていく他あるまいが、その時間が、様々、面倒な調整ごとであることが多いわけであるが。
先日、とはいえ、まぁなんかメモぐらいしておくか、考えよう、ということでやってみて、たしか、1時間弱ぐらいで、上ぐらいの内容だ。
よく分からないし、面白くないな。
なんかこう、このブログ書いているのって、もっと面白かった気がするのだ。
それはこう、自虐的な、ぬるま湯につかっているような感覚なような気もするけれども、あの大学入試のために寒い冬に石油ストーブのゴーっという音と、朝の4時とか5時とかに起きて勉強しようと、その前に紙のノートに色々書いていたような、あの頃のサムシングが、このブログにおいてあるような気がしたのだ。
それでいて、当時の完全なる孤独と違い、一人じゃない、でも、一人でいられるという不思議な楽しさがあったはずなのだ。
家か部屋大事
ゆえに導かれるのは、やはり、「おうち」でいる時間なのである。いくらどこかに、タブレット片手に繰り出していっても、それは、十分ではないのだ。
今は、変な時間だが、とりあえず、眠気もそれほどないし、体の調子もそれほど悪くないので、「書く」条件がそろっている。貴重な時間だ。ありがとう。この時間を与えてくれたすべてにありがとう。
と、まぁ、そんな環境的分析はともかく、今回は、上の抜粋……1時間の成果について、もう少し意味あるものに考えてみよう。
今後の方針について
>仕事を離れて少し思ったが、今後の、方針的なんを考えられなくもないな仕事は重要である。
賃金がもらえるからだ。
何故賃金が必要か。生活するためだ。
働かなくても賃金がもらえるベーシックインカムの制度はまだ実現していない。
と、いうのは欺瞞だ。いや、ベーシックインカムの部分じゃなくて。
仕事は、生活するために必要だったはずなのだ。
要は狩猟採集は仕事である。
賃金というのは、中間者である。生活するために賃金が必要というのは、近代の話だ。
日本昔話の村人たちは、年貢を納めるために働いてるのではない。(勝手な決めつけ)
彼らは、ただ、日々の生活のために働いているのだ。(山に行ったり畑を耕したり)
……なんてなことを、今なら思ったりするのだが、カフェ的な状況であれば、思えないし、仮に思っても「書こう」という気にならないから不思議なものである。
いやしかし、上の話は全く関係ない。
要するに、仕事をしなくてもいい時間がないと、――大事なことなので正確にかけば、「仕事を考えなくてもいい時間」がなければ、思考できない、ということである。
そして、今は、仕事を考えなくてもいい時間、だと、上の抜粋記事では書きたかったのである(たぶん)。
自己分析
>俺は、どこまでいっても、考えることをやめられないし、気にしたり、遠慮したりをしてしまう。似た人はいるかもしれないが、理解してもらえる可能性は低い。そこを考えた上で、生きやすい方法を考えていかなければいけないだろう。ふーん。で?
とか言っちゃいけない。かわいそうだろ?(かっこ笑い)
いやしかし、「で?」としか思えないんだよな、今となっては。
いや、言ってることは分かるのだが、いまさら? とかって思う。
そんなの、分かりきってたんじゃないのと。何のために何百の記事を書いてきたのと。
でもまぁ、軽く、「前提」として書く分にはいいと思う。何がダメかって、これを書くのにも、非常に時間を労していたことだ。
サラッと書いちゃえよ、と思う。今ならサラッと書けちゃうだろう。
では、何が悩ませたのか。
「考え続けてしまう」「遠慮しがち」「人に理解されがたい」
これらを、「認めたくない」「認めてもいいのか?」という葛藤故だろうか。
ここで、「理解される必要があるのか?」という疑問も当然立てられる。が、それは考慮する必要はない。理解されたほうがいい。理解されなくてもいいかもしれないが、されるならされたほうが良いに決まっているのである。
いやいや、理解されたがゆえに、変に利用されてしまうのでは、とか、そういう言葉遊びをしても仕方がない。そういう、言葉尻を捉える人も少なくなくて、もうほんと、できるだけ他者とコミュニケーションを減らしたいという裏の思いが最近強い。まぁそれも脱線なんだが、要は、ここでいう「理解」とは、他者を尊重するという当たり前の原則に基づいているのだ。その前提においていえば、理解された方がいいのだ。そのほうが生きやすいはずなのだ。
脱線だ、そんな自己分析いるのか? と思う。
だがまてよ、と。
こういった当たり前の前提をして考えていけば、「考え続けてしまって遠慮しがちで理解されがたい」ことを、僕は悩んでいたのではないかと。
「変えたい」という意思の表れなのではないか、と。
そうも捉えられないか。
起承転結の承
>しかし、本当に、家族を作る、ということについて、何の責任もないのだな。まあ、30代ということになれば、恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。しろくま先生はどう考えるのか。時間を濃密に使っていく他あるまいが、その時間が、様々、面倒な調整ごとであることが多いわけであるが。で、なんだけど、次の承け(うけ)の、つながりが全然みえてこない。
家族?
どうしてここで家族が出てくる?
――よくよく考えると、多分当時は一切思ってなかったろうが、「自己」→「家族」という単位の変遷はまぁ分からなくもない。
そもそも、「自己」という単位だけで考えてもどん詰まりするというのはよくある話で、人間は、相互関係、互いに干渉しあいながら成長(悪い意味でも良い意味でも)するのだ。
ただしかし、大学入試ごろの完全なる孤独、と違い、この場も、不思議な相互作用の場なんではないかと思ったりもしたりする。まぁこれも脱線だ。
「家族」はまぁ、分かった。が、「恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。」とは一体何なのか(かっこ笑い)。
今度は「責任」とな。
責任。
責任?
えーっと、その、家族を作ることの責任、ってことか。
なるほど、社会的な要請、長男だったら結婚し、男児をつくれ、ってやつ、か。
そういうんが、昨今なくなってきてるよね、ということを言いたかったのか。
昨今がどうか分らんが、取り敢えず、個人的に何かそういう外圧は、今のところ一切ない。これがいいことなのか、悪いことなのかも分からないが、別にない。
親は、孫の顔が早く見たい、と思ってるかどうかわからんけどね。
ただ、それはとかく、実際、数百キロ離れたところで暮らして、正月ぐらいしか顔を見せないような親不孝者である。仮に孫ができても、その程度しか会わせられないんだろうと思う。それでも、いいのかな? 写真送ってあげて、成長をみせてあげたりすると、喜んでくれるのかな。
とか、ね。
そういうことを書きたかったのかな。分からん。
親には感謝しないといけないと思う。東京の大学に通うようになり、――覚えている、2年目ぐらいからは、学生寮的なのを出てアパート暮らしを始めたが、仕送りを月11万円してくれた。(昨今は高額と見なされる額だそうだが、当時としては平均的なものだそうな)
年間、132万円である。それを3年間。1年目は分からないが、同じだとすれば、4年で、528万円。
帰省の切符代も出してくれてた気がする。それ以外に、大学の授業料。242万円ぐらいだそうな。
足すと、770万円。実際は、もっともっとかかる要素があるだろう。
高額である。
今となっては、「全額返せ!!」と言われたら、返せなくはないが、まぁその、厳しいわな。
子供にお金がかかるというのは、本当なのだなと実感。
責任とは
だから、子供としての責任を果たせ、ということになるのか。責任とは、結果に対して、自分が原因である、ということだ。
「育ててもらった責任」
ということになるのだろうか。
ん? よくわからないな。「今自分が存在していること」の責任?
日本の国民の3大義務を言えるだろうか。
納税の義務。労働の義務。子供に教育を受けさせる義務。
そう、だから、中学校までは義務なのだが、高校生以上は義務じゃない。「好きでやってること」である(悪意を持って書けば、の話)。
親が好きでやったことなんだから、子供に果たすべき責任なんかねぇ! と(悪意もって書けば、ね)。
そんなこと子供に言われたら、親は悲しむというか、怒る人もいるだろう。
ま、でも、ドロドロ、失敗している親子関係ってのもあるし、実際あるだろうね。「生んでくれなんて頼んでない!」なんてのも。
まぁ、生まれてこなければ、確かに、色々考えることもなかったし、苦しみも恐怖もなかったんじゃないかというのもある。ただ、生まれてきてしまったのであればしゃあないことであるし、繰り返し書いておくが、感謝こそあれ、親を怨む気持ちはない。
お父さん、お母さん、ありがとう。
直接言ってやれや
いやまぁ、後悔しない程度には伝えているつもり。だが、確かに面と向かって、「育ててくれてありがとうね」とは言ってないか。しかし、どこまで、育ててくれたことになるのかな。親と暮らしていたのは高校生までだが、先ほどの通り、お金の問題でいけば、大学まで、となる。社会人になってからも、じゃあ、影響がゼロなのかといえばそうではなかろう。
……と、まぁ、このように、部屋で一人でいれば、色々思うところも出てくる。
だがまぁ、間違いなく、カフェ的環境では、上のような内容は一切出てこなかったろう。せいぜい、上の引用文ぐらいのレベルなのだ。
例によって、1時間ぐらい書いた。1時間ぐらいで、これぐらいは書けるのだ。
全然量が違うな。
ま、その、結論としては、結論なんか特にないのだが、この記事のまとめとしては、家族に対して特に責任はない、ということでよかろうか。
よくわからないか。家族を作る、必要性、はわからんが、取り急ぎ、責任はない、ということだろう。
眠気と疲れがドッときたので唐突に終わる。
あとがき
(かっこ書きである。比べられるものでもなく、完全に失言なのだが、完全に個人的感覚として書かせて頂くと、京アニの放火は、秋葉通り魔とは比較にならないくらい酷いと思う。犠牲の多さとかではなく、「もう世の中自体が憎い」ということで無差別殺人をするのと、「特定の誰かへの恨み」で無関係な人まで巻き込むのとでは、俺の中ではなんか違う。何がどう違うのか、よく自分でも分からないが、単に「京アニ」が被害者だからなのか分からないが、何か違う。――というか、加害者も、創作者の端くれであったのなら、実効的手段によって何かするというのは、ほんと狂ってやがる。失言だが、秋葉の加害者への同情心は、当時の自分のイライラ状況も相まって、あった。が、今回の事件に関しては、一切ない。行為は許されないが、気持ちは少しは分かる気がする……的なのが一切ない。全く理解不能である。当たり前だが、自分で思うとかじゃなくて、考えてみるにしたとき、「特定の誰かが憎くて殺した」→分かる。「漠然とすべてが嫌になって誰でもいいから殺した」→分かる。「特定の誰かが憎くて、関係ない人を殺した」→わからない。いや、犯人にとっては、「関係ある奴ら」だったのかもしれないが、うーむ、分からない。あれかな、NHKに就職したくて、何度も採用試験受けたけれども落とされて、それでNHKの会社に放火した、みたいな感じかな。そう考えると分からないでもないか。いやでも、分からないのは、「好きなんだか嫌いなんだか分からない」ということだ。好きが転じて憎しみに変わる、というのも、人間なんだろうか。変な生き物だな、人間って。いや、何でこの話になったかというと、本文の家族のあたりで、こんな同情のかけらもない事件を自分の子供が起こしたら、もうそりゃつらいなと思う。親もクソ野郎どもだった、というオチがあれば、少しは溜飲が下がるかもしれないが、至極ふつーの親だったら、居た堪れなく思う。まぁなので、俺の親も、俺は変な奴で孫もみせてやれていないが、それに比べたらマシだと思って頂きたい……なんてのは、俺が嫌いな比較思考であるが、まぁ仕方あるまい)
今日の一言「感想遅くてすみません」
ややや、すみません!
なんかレスポンスが遅すぎてショックを与えてしまい、一つ小話が生まれてしまうほどになってしまった事態に反省……。
しかし……時間が取れない!!!!
すべては言い訳ながら、直近はarkもやれてないんだからぁぁ! と言い分ける。
いやそう、だから、読むタイミングも検討していたのである。
恐らく、後半からの勢いによって、これまでの自分の傾向から、一気読みしてしまうであろうことは分かっていたから、感想を書くという時間も含めて取れる時間を確保してから、読むべきだと、頭では分かっていた。
しかし、いくら待っても、自分の気持ち的に十分なタイミングはやってこず、arkで遊んでしまった日々を後悔する意味もあり、少しずつ読んでいったところ、やはり、悲運な運命を背負ってしまったレイスロードとの決戦、もう少し具体的に書けば、フィン少年の心が壊されてしまったあたりからはもう止められない強い訴求力をもってして、結局、変な時間に一気読みしてしまったのである。
いつ感想がかきおわるのか。
一つ前提がある。
激辛批評を行う際は、少なくても、2回以上は読み返している。4月末ごろに投稿された作品にたいし、今はもう8月である。
今日までには、フィン少年がある力を使って昏睡してしまったところまで読み返し、批評ポイントや気づいた点などをまとめていたところだった。
しかし、環境的な問題もあって、4時間から6時間ぐらいかかっていると思う。
そこから考えると、まだ、いつ頃まとまるかというのは分からない。としか言えない……。
思うに。
・烈火成分(ギャグ)
・フィン少年
・ストーリー構成
が、改善の余地があるのではないかと思う。
現状でも、話の区切りは考慮する前提として、内容的には十分「面白い」作品に仕上がっていると思う。
マーケティングに成功して書籍化などされている作品と品質的に劣るということはあるまい。タイミングと、広告宣伝と、コネクションがあれば通用する作品レベルと思う。
ただ、その著者の実力を知らないうちに、当該作品が、例えば週刊更新が投稿サイトなどでされていたときに、自分が、リアルのくそめんどくせえ様々をそっちのけて、当該作品を読み続けるかというレベルを求めるとなると、「何か足りない」ということになる。
いやこれが、5年や10年前とかだったら、「すげえ作品に出会った」となるかもしれない。そう、タイミングは非常に重要だ。しかしこれは、運、として片付けるしかないものでもある。
いやいや、しかし、フィン少年の母親のシーンや、信念や目的がぶつかり合い、わかり会うことは困難であるなかで、入念に考えられた布石が発動し、共闘し、大いなる敵に立ち向かっていくシーンや、そもそもフィン少年の心が壊され、そして変化していくシーンなど、ベタ誉めしたいシーンは数多くある。
まぁそれはむしろ、確信めいていて、きっと感動させてくれるだろうと期待していた。
期待通りであった、あったが、そこにいきつくまでは、「ふつーに面白い」レベルであった。そこが惜しいと思うのであり、この感覚を、上手く伝えたい。そのために、もう数回読みたい。
そんな、1から10まで綿密に書かないと分かり合えない仲なのか、とお叱りを受けそうだ。
だから、こんな言い訳の記事を書いているわけであるが、今かけるとしたら、上の、烈火成分と、フィン少年と、ストーリー構成、この3つがもうちょっとよくできるんじゃないか、ということである。
あと、なんか、どこかで書いたのか、自分のメモだったのか分からなくなってしまったが、エルフ世界の描写が、どうしてもファンタジーだからしかたがないとはいえ、イメージがしにくかった。
いや、ファンタジーだから、というのは、別のじゃんけんで頭が破壊される作品においては、全般的にイメージがしやすかったし、3人の英雄の世界は、わりとイメージしやすかった。……いや、厳密に言えば、烈火氏の世界がやや分かりづらかった気もする。モヒカンがはびこる世紀末と、シンゴジラなども知っているという現代的なイメージとが読んでいて頭でやや違和感が生じる場面などもあった気がする。
ややしかし、それはきっと、世紀末イコール北斗の拳的なイメージが強すぎるからなのかとも思う。
思うに、烈火氏が強すぎるがゆえに、戦闘の緊迫感がどうしても薄れる面が難しかったと思われる。
なんかそれが、フィン少年や、死の巫女などの悲劇的要素の重さが上手く伝わってこなかった原因なんではなかろうかとも推測。直接関係ないから、理由になっていないとは思うが、何かが足りない気がしている。
前書き
>完璧な予定では遠藤さんは号泣して長文を書きなぐっているところに俺がドヤ顔で返信するという完璧なプランが立てられていたが、すげー軽く流されてしまった!ややや、すみません!
なんかレスポンスが遅すぎてショックを与えてしまい、一つ小話が生まれてしまうほどになってしまった事態に反省……。
しかし……時間が取れない!!!!
すべては言い訳ながら、直近はarkもやれてないんだからぁぁ! と言い分ける。
シロガネ
即座の感想であれば、面白かった、となる。小学生並み感想だ。いやそう、だから、読むタイミングも検討していたのである。
恐らく、後半からの勢いによって、これまでの自分の傾向から、一気読みしてしまうであろうことは分かっていたから、感想を書くという時間も含めて取れる時間を確保してから、読むべきだと、頭では分かっていた。
しかし、いくら待っても、自分の気持ち的に十分なタイミングはやってこず、arkで遊んでしまった日々を後悔する意味もあり、少しずつ読んでいったところ、やはり、悲運な運命を背負ってしまったレイスロードとの決戦、もう少し具体的に書けば、フィン少年の心が壊されてしまったあたりからはもう止められない強い訴求力をもってして、結局、変な時間に一気読みしてしまったのである。
感想は結局いつ書けるのか
いやいや、言い訳はともかく、ビジネス(?)は結果が大事だ。いつ感想がかきおわるのか。
一つ前提がある。
激辛批評を行う際は、少なくても、2回以上は読み返している。4月末ごろに投稿された作品にたいし、今はもう8月である。
今日までには、フィン少年がある力を使って昏睡してしまったところまで読み返し、批評ポイントや気づいた点などをまとめていたところだった。
しかし、環境的な問題もあって、4時間から6時間ぐらいかかっていると思う。
そこから考えると、まだ、いつ頃まとまるかというのは分からない。としか言えない……。
気づいた点として
こっからは、さらにメモになる。思うに。
・烈火成分(ギャグ)
・フィン少年
・ストーリー構成
が、改善の余地があるのではないかと思う。
現状でも、話の区切りは考慮する前提として、内容的には十分「面白い」作品に仕上がっていると思う。
マーケティングに成功して書籍化などされている作品と品質的に劣るということはあるまい。タイミングと、広告宣伝と、コネクションがあれば通用する作品レベルと思う。
ただ、その著者の実力を知らないうちに、当該作品が、例えば週刊更新が投稿サイトなどでされていたときに、自分が、リアルのくそめんどくせえ様々をそっちのけて、当該作品を読み続けるかというレベルを求めるとなると、「何か足りない」ということになる。
いやこれが、5年や10年前とかだったら、「すげえ作品に出会った」となるかもしれない。そう、タイミングは非常に重要だ。しかしこれは、運、として片付けるしかないものでもある。
いやいや、しかし、フィン少年の母親のシーンや、信念や目的がぶつかり合い、わかり会うことは困難であるなかで、入念に考えられた布石が発動し、共闘し、大いなる敵に立ち向かっていくシーンや、そもそもフィン少年の心が壊され、そして変化していくシーンなど、ベタ誉めしたいシーンは数多くある。
まぁそれはむしろ、確信めいていて、きっと感動させてくれるだろうと期待していた。
期待通りであった、あったが、そこにいきつくまでは、「ふつーに面白い」レベルであった。そこが惜しいと思うのであり、この感覚を、上手く伝えたい。そのために、もう数回読みたい。
時間の有限性
ああ、それはしかし、僕の傲慢である。そんな、1から10まで綿密に書かないと分かり合えない仲なのか、とお叱りを受けそうだ。
だから、こんな言い訳の記事を書いているわけであるが、今かけるとしたら、上の、烈火成分と、フィン少年と、ストーリー構成、この3つがもうちょっとよくできるんじゃないか、ということである。
あと、なんか、どこかで書いたのか、自分のメモだったのか分からなくなってしまったが、エルフ世界の描写が、どうしてもファンタジーだからしかたがないとはいえ、イメージがしにくかった。
いや、ファンタジーだから、というのは、別のじゃんけんで頭が破壊される作品においては、全般的にイメージがしやすかったし、3人の英雄の世界は、わりとイメージしやすかった。……いや、厳密に言えば、烈火氏の世界がやや分かりづらかった気もする。モヒカンがはびこる世紀末と、シンゴジラなども知っているという現代的なイメージとが読んでいて頭でやや違和感が生じる場面などもあった気がする。
ややしかし、それはきっと、世紀末イコール北斗の拳的なイメージが強すぎるからなのかとも思う。
思うに、烈火氏が強すぎるがゆえに、戦闘の緊迫感がどうしても薄れる面が難しかったと思われる。
なんかそれが、フィン少年や、死の巫女などの悲劇的要素の重さが上手く伝わってこなかった原因なんではなかろうかとも推測。直接関係ないから、理由になっていないとは思うが、何かが足りない気がしている。