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人類普遍の六原則
2019/09/09 20:24 | Comments(6) | 思考及び書くこと
今日の一言「書こうか」

前書き

 人類普遍の六原則について教えてもらったのは、8月11日のことだったのか。

https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2
http://unfixation.gjpw.net/mean/停滞ができないということ


 僕は頭が良くないので、記憶力もよくないので、繰り返し復習し、覚えようという意欲をもつことで、ようやく、覚えることができる。

 さぁ、実際、何も参照せずに、(セオドア・カジンスキーの言った人類普遍の六原則を)以下に書き出してみよう。

・他者を傷つけてはならない
・未然に傷つけられることを防ぐため又は既に傷つけられた報復のため他者を傷つけることは許される
・他者の善行には返礼しなければならない
・強者は弱者に配慮しなければならない
・嘘をついてはならない
・自分のした約束は守らなければならない


 ――自分の言葉での書き出しのため、完全一致はしないだろう。だが、だいたい合っているのではなかろうか。
 僕は、新しい概念については、こうやって、「とりあえず記憶して」「繰り返しインプット・アウトプットし」「自分の言葉でアウトプットする」ことで、徐々に浸透させることができる。

 頭の良い人は、一瞬でできて、それを忘れないでいられるのだろう。すごい。羨ましい。
 繰り返しになるが、このブログは、凡人による、凡人のための考えるブログである。ヱリイト氏たちを相手にしているわけではないのだ。

法律や道徳とは違う

 さて、今回の記事は、上の六原則が、ようやく中期記憶的になってきたので、少しそれについて思ったことを書こうと思う。
 まずもって、「これほんと普遍なのか」と思う。
 性善説、性悪説ってある。ぶっちゃけ、どっちが正しいとか証明は難しいから、とりあえず法治が望ましいよね、という「正義」(ルール)になっているのだと思う。

 ただ、性善・性悪とか、そもそも「善悪」というのは、「相対概念」であって、いかようにも解釈可能に思える一方で、六原則は、解釈の限界性についても述べている点が面白いなと思う。

 いくら、2番目の報復の原理的なのを拡大解釈しても、苛々してもうどうしようもなかったから、無抵抗の子供を虐げた、とかいうのは、どんな人類社会においても、「OK!」というのは無理がある気がする。


 そう考えると、あながち、六原則は、当たっているのではないかと思った。最初は、爆弾テロリストが考えた思想ということで、少々身構えたが、前掲リンクの紹介を読んでいると、そんなに突飛な思想ではない気がしてきた。

それにしても捻じ曲がった世界よ

 では仮に、人類は、上のような六原則的な性質をもっているとする。
 そうしたとき、やけに例外的な事象に遭遇するな、と思う。

 と、思いながら、しかし、確かに、そうした原則に従って、みな生きている気もする。
 それに懐疑的な思いを抱くのは、どこか、人間としての性質を失ってしまっている気もしてくる。そういう意味で、僕は凡人ではないのだろう。
(凡人未満のダメ人間なのか、凡人というカテゴリにすら含まれない外れ者なのかもわからんが)



 ――とまぁ、その、自分と世界との距離感に違和感がある人、周囲となじめず孤立する人……そうした人が、「自分」の世界における位置付けに疑問をもち、それが「生きる意味」という問いになっていくものだとしたとき、そういう人が、世界を変えようと思うと、何か大きな事件を起こすのだろうと、ふと思った。

 世界の革命家たちも、動機として、そういったものをもっていた人もいたかもしれない。

 しかし、今、現代社会としては、「革命」を起こすだけの大義はないのである。

 意味を失った高層ビルが立ち並んだとしても、だからといって、それを爆弾で破壊するだけの大義はないのである。そこには、あまりにも自分勝手な動機しか存在しない。

 しかし、だからといって、その動機自体が、悪いものとは思えない。
 実質、確かに、現代社会には、精神科医フランクル氏がいった、実存的空虚感が漂っているように思われるのである。

別に漂っていなくても構わない

 実存的空虚感とか、精神科医のうんたらとか、別にどうでもいい。
 世界がどうであろうが、それが問題なのではない。生きる意味の次元は、過去記事でも取り急ぎ大きく3つあると述べたわけだが、大事なのは、「自分」においてのものである。

 その自分を中心に置いた上での思考のことを、「実存」というのであって、それが虚ろである、という意味で、フランクルさんの言っている「実存的空虚感」という言葉が、僕的にはぴったりだなぁと思うわけであって、実際問題、フランクル氏の著書を読んだことはあるけれども、難しい本だし、しっかり理解できたかは分からない。

 分からないけれども、しかし、「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」といった感覚については、割と緊急性があって、割と重要なんだろうと思うわけである。


 別にそんな熱量いらなくね?
 満足して生きる必要なんてないんじゃないの。
 どうせ皆いずれ死ぬんだから精いっぱいやったら。


 とかっていうアドバイスは、的を射ているのであろうが、しかし、根本がズレているのである。正解なんだけど、不正解なのだ。

早く死んでしまった方がいい

 極論だ、論理矛盾だ、意味不明だ、と言われるだろうが、僕は、上のような方針は、イコール、「早く死んだ方がましだ」ということと同義であると捉えている。いや違うんだろうが、しかし、そう思えてしまってならないのだ。

 ただ快楽を貪るだけ貪るために、苦労して頑張って生きる。マッチポンプ……というのが何だか僕はイメージできないが、要は、自分で問題を作って、自分で問題を解決して、の繰り返しのようである。

 いやいや、偉大なるニーチェ氏は、永劫回帰、とかいっていたっけ?
 特に意味はないけれど繰り返されるメリーゴーランド。


 それだけで十分価値があるぜ! ……という掛け声が、僕は冷めて虚しく聞こえる。


 誰かのために、輸血とか、骨髄バンクとかすれば救われるのか。
 アニメのエンジェルビーツでそんな似たようなシーンがあったけれど、うーん、そんなもんなのか。

暗黒に奔ろうとしているので思い出せ

 あのー、この記事は、あれだ、ふつーの人の、日常的なヤツだ。
 きっとこの感覚も、なかなか誰にも伝わらないだろうが、よく芸能人とか、女子高生的なのがインスタグラムに「渋谷のカフェで〇〇!」的な奴である(いみふ!)。

 ――だから、別に、その、哲学的なことを書こうとか思ってるわけではないのである。
 人類普遍な、何か、誰かを救おうとか、そういうわけでもないのだ。

 最大限頑張って、考えて、「楽しく」あろうとして、これなのである。
 もっといえば!

 もっといえばだな。「楽しいこと」しているのである。

 俺は、面白い作品に触れていることを除いて、仕事していることなんかより、よっぽど――今回の記事の筆の進みは遅いけれども、それでも――この記事書いているほうが楽しい。


 価値あることしたなぁ……よかったなぁと、そう思うぐらいである。

 ついでに、もう一つ、フランクル氏関連で思い出しとけ。人生の3つの意味。

『人間とは何か』のP.111からふれられている「三つの価値カテゴリー」。
 創造価値、体験価値、そして態度価値。

 病気になって、体の自由が奪われてもなお、最後の態度価値は奪われない。人は生きるに値するのだと、強いメッセージ。

あとがき

(かっこ書きである。3つの価値カテゴリー。3つめ、「態度価値」だったのか。忘れていたなぁ。偉ぶるつもりなど一切ないし、謙遜でもなく、ほんとに、上の本全部読んだんだけど、理解できていない部分である。いや、概念的には何となく分かる。だが、「よく分からない」。ぜひ、決して安くない本だが、図書館とかで見かけて読む機会があったら、P.111からの部分だけでもいいから読んで、何かこの凡人に教えてほしい。創造価値、体験価値は、読めばわかると思う。態度価値ってのが、ああ、人間にはあるんだろうなぁ、ってのも、なんとなく感じられるだろうと思う。だが……しかし、それは、本当に、もう極限に陥らなければ分からないものなのだろうか。もしそうだとしたら、僕がこうして書いてきたすべてのことは結局、その「極限なる状態」によって結論付けられるだけのものであって、無意味だったのか。そう考えることの恐ろしさもある。そういう意味で、僕は、以前これもコメントで指摘されたのだが、「答え」を見つけたくないとすら思っているのかもしれない。でも、そんな状態が、いつまで続くのか。40歳、50歳になっても、まだ、「意味」を探し続けているのか。――と書くと、諸先輩方のディスになりそうだが、そういう意味でもない。40歳、50歳というのは比喩であって、要は、死ぬ間際まで考え続ける、求め続ける、そして、「不満足」な状態が続くのだろうか、ということである。であるならば、早めに死んだ方がましではないだろうか、と思う。その、「不満足」な状態が、それはそれで「楽しい」ならいいだろう。だが、そんなことあるんだろうか。俺は思うに、ますます、歳をとるにつれて、「選択肢」が減っていき、「無意味性」が強固になっていく気がする。この焦り、この不安は、なかなか表現できないと思う。――態度価値だが、ふと思うに、要は、先日の胃カメラで「この苦しさが続くなら死んだ方がまし……」という状態でいてなお、誰か他者のことを思いやって、誰かを助けようとするような態度――そうした態度をとれることが、「価値」なのだろうと思う。そういう意味で、僕は、フランクル氏の言いたいことを、何となく理解していると思う。だが、「理解」が、救いや満足になるわけではないのだ。真面目に考えれば考えるほど、他者のアドバイスを聞こうとすればするほど、このあたりの思考をすれば苦しみが増す。だが、マゾヒストでは決してないが、この苦しみは、「わりといい」と思う。少なくても、仕事をしているよりは有意義だ――というのは言い過ぎか。だが、「誰のためになっているかさっぱり分からない仕事」よりかは、少なくても、自分のためにはなっているから、言い切って構わないと、僕は思う)

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コメント

 『逆襲のシャア』でアムロがシャアに向かって言うセリフの中にこんなのがあります。
「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激な事しかやらない。しかし革命のあとでは、気高い革命の心だって官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を退いて世捨て人になる」

 一度形作られて成立して回ってしまっている社会を瞬間的に変化させるというのは難しく、その社会の流れに疑問を持ってしまった人というのはえてして少数派になってしまい、少数派が体制を変えることを急ごうとすれば過激なことで一気に変化を狙うようないわゆる「破壊」方面の活動に行き着いてしまいがちなのだろうなと。

>「取り急ぎ生きていくには困らないが、何かこう湧き上がるようなエネルギーがないよな」
 恐らく、イミフさんは「取り急ぎ生きていくには困らないなら焦らなくていいんじゃない?」的な思想を提示しているのだと私は解釈しましたが、遠藤さんにとっては「湧き上がるようなエネルギーがない」ことの方が問題で、活力なく生きていくことに恐怖であったり、生きているということへの疑念があったりするんじゃないでしょうか。活力なく惰性で生きるとかゾンビみたい、とか。
 某メタルなギア的ゲームの中でサイボーグ的なニンジャが「俺に生きる実感をくれぇぇぇ!」と襲い掛かってきたのを思い出しました。
posted by 白銀URLat 2019/09/10 18:30 [ コメントを修正する ]
そうです、そうなんですよね。
焦らなくてもいいんじゃないか、というのはあるかもしれませんが、そういうわけでもなくて、そもそも生きること全体含めての疑念、ただし、人類全体を否定するものではない、というとこなんですよね。
問題領域の整理、は、重要ですね。まだよく理解できてない概念ですが、学ばねば。

それにしてもアムロは、鋭いこと言うなぁ。
posted by 遠藤at 2019/09/11 00:49 [ コメントを修正する ]
期待・欲望・判断
問題領域の整理……ということで、期待(不安含む)・欲望・判断について考えてみる。
今の自分(明日の行動)に問いかける。
・欲望:早く帰りたい・寝たい
・期待:仕事が終わらない・後々問題になってもっと大変になるかもしれない
・判断:早く帰るか

うーむ、欲望と判断の区別がよくわからない。
そもそも、自分の欲望の輪郭がよくわからない。「~しなければならない」は、欲望ではなく責任や義務感なのか。
であれば、「主体的な」「したいこと」が欲望ということか。
「主体」とは何か。自分。自分の思考――としたときに、「~しなきゃ」は欲望ではないのか。「しなきゃ」では欲望ではない、「したい」にならないと欲望ではない。としたときに、このブログを書いたりコメントしているのは、「したい」になる気がする。
一方で、「コメント頂いたから返さなきゃ」というのもあるかもしれない。いやそれは恩着せがましくて、「返したい」という思いのほうが強いものの、しかし、義務感と欲望は割と密接な気もする。

うーむ。できれば、もっとケーススタディ的に、期待・欲望・判断の考え方について学びたいなぁ。
2019/09/11 01:26
マジで焦る必要はない。彼女に慰めてもらえwww
そう物理的にね!
それだけで少しは気持ちがましになるかもしれない。



まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん。
これは遠藤さんだけじゃなくって、自分もそうだし。
でも、周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。



今思ったんだけど、

欲望・期待(不安)・判断・行動のほうがいいのかもね

「しなきゃ」は期待(不安)に近いと思うわ。
でも、結果が発生する確率が高ければ高いほど、判断に近い気がする。分類が難しいね。

欲望、仕事したくない、クライアントから叱責されたくない

期待(不安)、この仕事が終わらないとクライアントから叱責される

判断、仕事したくないから帰る、クライアントから叱責されたくないから残って仕事する

行動、残って仕事する

だと、仕事したくないっていうことよりも、クライアントから叱責されたくないほうを優先する判断をしたってことだよな。

実際はもっと複雑だけど。

仕事したくないっていうのが、自分の体調管理によるものかもしれない
クライアントからの叱責だけではなく、人事評価が下がることで給与低下が嫌なのかもしれないし、仕事を断ると職場にいられなくなるのが困るのかもしれない。


雷電は痛覚遮断を切ることで、内なる自分を発現させてましたね
posted by イミフat 2019/09/11 05:28 [ コメントを修正する ]
「しなきゃ」を整理すると

欲望 クライアントに叱責されたくない
期待(不安) 仕事しないとクライアントに叱責される or されない
判断 仕事しなきゃ or しない
行動

になるかな

多分、帰宅するか、残って仕事をするかについて、たくさん、欲望・期待・判断・行動が書ける気がする
posted by イミフat 2019/09/11 05:32 [ コメントを修正する ]
おお、かなり分かりやすくなりました!
欲望、期待、判断、行動

判断と行動が別なのも面白いですね。確かに、判断しても、行動が伴わないケースはおおいにありそう。
あと、この考える順番はやはり、欲望から始めたほうがいいんですかね。自分は、期待不安、判断、行動、欲望、ぐらいな、へんてこな順番のほうが、なんだか自然です。

それはそうと、イミフさんも、自分が本当に何を欲しているかは分からない(ように思う)のだと、意外でしたが、安心というか共感できた部分でした。
そして、ああ、そうなんですよね、周りの人は、そのあたりを、よく分かってる、ように見える。これが違和感、かなりあります。
posted by 遠藤at 2019/09/11 22:52 [ コメントを修正する ]
という意味では
こうやって欲望・期待・判断・行動のように分類して記述するほかにも

何が事実で、何が自分の意見かを分ける必要がある

例えば、
人が幸せそうに見えるは、自分の意見であって事実ではないです。事実はその人が笑顔である(もしかしたら笑顔も意見であって、事実はそういう筋肉の動かし方をしているということなんだが、そこまで行くと細かすぎるので)ということなんですよね。

じゃあ、笑顔である=幸せであるといえるのかと考えると、それはそれで違うのかなとは思う

一方で、相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もあるわけです。
posted by イミフat 2019/09/12 23:28 [ コメントを修正する ]
Re:問題領域の整理
>こうやって欲望・期待・判断・行動のように分類して記述するほかにも

 欲望、期待&不安、判断、行動――、よし、暗記できてきました。
 そして、数日たってもう一度考えたとき、「欲望」と「期待&不安」の違いが分からなくなっていました。
 はじめお聞きしたとき、期待&不安って言葉が、斬新に思えたのですけれど、「こうなるかもしれない・こうなるといいな」という表現にしたときに、欲望と明確に違いがないのではないかと。
 まぁその、仏教学説の中の、説一切有部では、心の働きを46に分類して考えていたということですが、心というものをそもそも分けて考える、表現するということの限界性というのは、どうしても存在するものだと思います。
 すなわち、シンプルにしても、複雑にしても、その分けるということ自体に本質はないのではないか、という懐疑は生じるというより、常に抱いておくべきものと思います。
 ただし、そうはいっても、「考える」上では、基準を設ける必要があるため、自分が理解できる範囲で、表現をインプットしておくのは重要なことと思います。

 さて、欲望、期待&不安、判断、行動、の分類を基準としたとき。
 欲望、というのを、「感情」に近いもの――すなわち、自然発生的なものだと捉えることと考えてみます。次に、期待&不安を、その感情起因で発生したものを、「表現」したものであると考えてみます。つまり、感情は、「語りえぬもの」であるとする、ということです。
 表現不可。しかし、間違いなく生じているもの……それが欲望であると。
 現象学みたいですね。
 さすると、期待&不安というものを「表現」するときの、「動機」(きっかけ)が何かが気になります。――というか、そもそも、すべての判断や行動について、欲望→期待&不安といった流れを経ているわけではなさそうです。
 ということは、文字おこし(または口頭でもよいですが)する段階で、何らかの恣意性が混在している疑いが生じます。
 ここから推測されるのは、「純粋な欲望」というものが、観測しえないものなのではないか、ということです。
 ――といったことを返信から思いましたというコメント返信でした。

>何が事実で、何が自分の意見かを分ける必要がある
 これ、レポートの時も大事ですよね(わらい)。
 自分の中では切り分けているつもり(というよりも、ブログはほぼ「自分の意見」より)でしたが、もう少し「事実」的なのも意識してみようかと思いました。
 自分の意見中心、と書きましたが、「くっそめんどくせぇ」とか、ある意味、「事実」ではあります(わらい)。
 事実、をどの次元におくのか、ということも、思考においては難しそうです。例に挙げていただいたように、他の人は楽しそうだ、というのも、「楽しそう」という判断自体は自分の感情ベースでは事実ですが、他者にとっての事実とは異なる可能性がある。――同時に、他者にとっての事実を知る由はない。――もちろん、他者が「自分はこういう気持ちだ」と主張したときに、それは「客観的な」(かっこつき)事実であるものの、その事実は、文脈上の事実として考える必要があると思われる。
2019/09/19 23:03

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