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停滞ができないということ
2019/06/16 06:45 | Comments(20) | 生きる意味
今日の一言「非常に意義深いコメントを頂けて嬉しい」「そのまさに『満足』について書く」

前書き

 まずは引用する。
 「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。 
 というのも、生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。 
 つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。 
 「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。 
 人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。 

――前々回コメントより
 今回は、停滞と、満足、ということをキーに書いていきたい。

一般人として考えることの放棄

 もう一つ、前提を引用する。これは自記事である。
凡人として生きることの放棄


 周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
 能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。

 ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
 能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。

 それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。

 だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。


 で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。

完璧な満足ない

 前回のつみたてNISA的記事の中で、その前に、「じゃあ社長になったからって、他者を気にしなくてよくなるのか。否。社長は、株主照会にびくびくする」と書いた。

 民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。

 違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
 みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。

 つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。

 かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
 まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。

 ただ、もっと厳密には、
 絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)

 って感じ、だと思う。

 ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。


 話がそれている、戻そう。

完璧な満足について

 であるからにして、話がそれたが、要は、現代社会において、誰からの評価も恐れずに生きていくことは、原理的(政治的)に不可能なのである。

 それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。

 ――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。

 何故ならば、働かなくても済むからだ。

 しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
 最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。

 投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。

 働く、というのは、要はお金を得る手段である。
 何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。

 一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
 1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。

 ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。

 いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。

 そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。

 要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。

完璧な満足についての話じゃないのか!

 本題に入れない。満足の話、に入りたいのだが。

 だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。

 これはつらい。

 楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。

「苦しいこと」
 が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)

 キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
 それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。

 つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。


 それを、認めていいのか。

完璧な満足は存在しない

 そこで、頂いたコメントの部分に入っていくのである。

 ――認めざるを得ない……。

 これが、現時点率直な感想である。
 
>つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。 
>「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。 

 なるほど……。
 いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。

 しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
 それが解脱の道である。

 ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。

 僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
 繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
 仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。

 そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。


 ――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
 何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
 それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)

 なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。

救済とは何か

 ここで、救済といっているのは、次の構造にもとづく。

人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である

 ということだ。
 最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
 上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。

 俺は、虚しさを感じる。

 なんで?

 と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。

 とはいえ、

>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。 

 というのも、よーっく分かるのである。
 その通りだと思うのである。

 その上で、しかし、

>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。 

 というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)


 グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。

 不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。

 ということだ。

 だから、救済が必要だと思うのだ。

俺にとっての救済でいい

 が。その救済なるものを、全人類的に当てはめようとすると、失敗するように、できるだけ高度なシステムが作り上げられている――要は資本主義だったり、民主主義だったり。

 人類、すごいよ。

 文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。

 そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。

 だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。


 人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
 ということになるのだろう。


 ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
 そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。

成長や貢献をしない役立たずは死んだ方がいいか

 問題は、「安心」という概念なのではなかろうか。

 つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。

 他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。

 つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。

 だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。

 がんばるということは大事だと思いつつ。

 その余剰分の10%が頑張るということなのだ。

 110%を発揮するということではないのだ。

 110%発揮してたら、いずれ壊れる。

 %ではなくて。
 がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。

 120%がんばろう!

 とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。

 電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
 ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。


 そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
 100%は100%なのだ。


(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)

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コメント

「常に新しい刺激、新しい快楽を」
 というのはある種呪いのようでもありますが、逆に考えると「あらゆるものの実感はその瞬間より薄れ行くもの」とも言えます。
 ネガティブな感情も、それを抱いた瞬間と、後から思い返したりふつふつと燻っていたりするのは程度に差はあれど同等ではないと思っていて、ポジティブな感情と同じくそれこそが人間の精神防衛機構のようなものだと思います。
 ポジティブでもネガティブでも、一度受けた刺激をそのまま感じ続けられてしまうのは精神がオーバーフローするように思います。大怪我した痛みや恐怖などの感覚をその瞬間のまま思い返せたとしたら、これまでの積み重ねを全部思い出そうとするとショック死しかねない、みたいな。

 で、これって逆に、「新しい感覚を常に得続けることができる」とも言えると思うんです。
 クリエイターにとっては「常に新しいものを生み出すことができる」とも言えます。
 どこかで見たことのある要素が数多く含まれていたとしても、その組み合わせ方や描き方はトレースやコピーでもしなければ同じになることはまずないでしょうし、書き手も読み手もその時のコンディションや状況次第で印象が変わったりもします。
 そういったものも全部ひっくるめて、「新しいもの、違うものに出会える」というのは生きて行く上で重要な気がしています。
 極端な話、「停滞する、満足する」というのは生命活動の停止に行き着いてしまう発想でもあるので、そうならないための機構として「過ぎたものとしてその瞬間よりも印象を薄める」という特性が備わっているのではないかなと思うわけです。
「これ以上に面白い、楽しい、嬉しいものがあるかもしれない、生み出せるかもしれない」
 と思うことが、先に進む原動力にもなると思うのです。もっとも、逆も然りではあるので諸刃の剣なものだとも思うのですが、こういう落差を感じられるからこそ、究極の満足や停滞といったものに行き着かず「これ以上の感情の動きや生命活動へのプラスがないなら生きる意味もない」にならずに済んでいるのではないかなと。
posted by 白銀URLat 2019/06/28 18:12 [ コメントを修正する ]
初めまして。

加古歩(かこあゆむ)と申します。

私もあれこれ悩ましい人生を送ってきました。

そして、最近、自分の中でふとした瞬間に生きる意味について
こうなのではないかと思える
ある程度、輪郭のある答えが出ました。

そこで他の人はどう考えているのかなーとネット上を探したとき、カクヨムの遠藤さんの文章にたどり着きました。

そして、私も同じようにカクヨムで書いてみようと思ったんですけれども筆が進まない。

そんな中で遠藤さんがブログを書いているとは!

じゃあ、遠藤さんのブログのコメント欄に書いてしまえば
遠藤さんからもコメントをいただけるかもしれないし
そうなれば
自分の考えも進むではないかと思い
コメントを残させていただきます。

ただ、書き留めていないので
都度、書き込むことになることと
内容としては長くなると思われますが
お付き合いしていただけるとありがたいです。


まず引用部分から

「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。

中略

人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。


僕はこの話の中にある
人がより良いものを求め続ける性質を持つこと
に同意しますが

遠藤さんの言う

人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である

この部分にも同意します。

ただし
遠藤さんのいう構造自体そのものが不幸かどうかはわかりません。

ただ
その構造が不幸の源泉になりうるのではないかと思っています。
(この部分に関しては後に関連したことを書こうと思うので、詳しくはそのときに書こうと思います)


そして
その構造の中で
遠藤さんの言葉を借りるならば
ラットレースの中で
ふとした瞬間に
これでいいのだろうか?といった疑問や
虚しさを感じるときがあるということです。

そのときに
際限のない欲望や快楽ではない、
それ以外に満たされるような何かがあるのではないか?
と問いを持つことが意味を考えることのスタートの1つなのではないかと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/10 21:44 [ コメントを修正する ]
次に、重複になる部分もありますが
生きる意味を考えるときに
その問いかけはどの様な状況から発せられた問いかけなのかが重要になると思います。

遠藤さんの過去の記事(どの記事か失念しました)
のリンク先の人が書かれていたように
生き物を見て、好奇心から生きるとはなんなのだろう?という問い方もあります。

従って
ここで規定したいのは
生きる意味を問うときにある状況、状態です。

それはどんな状況、状態(これは僕の状況、状態でもあります)であるかというと

良いことも悪いこともあるけれども
なんだか満たされない、虚しい、そしてそんな日々に生きている意味を感じられないでいる。

だから
その虚しさが満たされたような状態に変わること
即ち
生きる意味を感じられる状態になることできればよい
そして
その意味を感じられる状態がどのようなものか
もしくは生きている意味を感じられるような方法や手段がわかれば
そこに向かって生きていくことができるとはずだ
(ある意味、これは人生の目的を考えることとも近いですよね)

ということだと思うんですよね。

だから
これから書いていく
生きる意味に関してのことは
上記のような状況、状態から発せられた問いかけだと考えてもらえればと思います。


それともうひとつ
意味とは何?と問うたときに
僕は意味とは
何かと何かの関係性の中にあるものだと思います。

だから
生きる意味とは?と問うことは
個人(私)と何かの関係性についての意味であるということです。

そして
意味というのは
私にとって何かの意味がある

何かにとって私の意味がある
という
私→何か

何か→私
の二方向の観点があるということです。

そして僕は
生きる意味とは?と問うことは
何か→私の意味の観点を扱う問いなのだと思います。

要は私の意味とは
私と何かの関係性の中で
何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/10 21:45 [ コメントを修正する ]
そしてこれから
生きる意味について書いていこうと思うのですが
遠藤さんがカクヨムでも書いていた
生きる意味を徹底して考えるの中の

1.宇宙規模の生きる意味

2.人類規模の生きる意味

3.個人としての生きる意味

の遠藤さんの3の実存について考えるという点にも同意しています。

(ただし、遠藤さんのいう1の宇宙規模と2の人類規模というものが何を指すかによって話が変わります。というのも1の宇宙規模というのは宇宙とは何か?や宇宙の存在意義を問うものなのか、僕の考える宇宙と私の関係性の中で私の意味を問うものかによって話が違う話になるからです。そして2以降も同様です。)

なので今回、僕が書いていくのは
3の個人の生きる意味について書いていきますが
それを関係性で問うたとき
4つのカテゴリに分割されます。

それは

1.宇宙と私
2.人類と私
3.社会と私
4.個人と私

(2と3の違いは生物として歴史を紡いできた、そしてこれからも紡いでいくであろう人類であり、3は現在に生きる社会であるということです。ここを分けているのは自分が観測できるか否かという部分なのではないかと思っています)

この4つです。
(ただし、この中で重要だと思うのは3と4です)

この項目について1つ1つ書いていこうと思います。


それでは手始めに
宇宙と私の関係性における生きる意味から考えていきます。

この問いについての僕の答えは
「わからない」です。

なぜ、わからないとなるかというと
それは神の与えた試練なのかもしれないし
水槽の中の脳が見ている夢なのかもしれない
もしかしたら
2001年宇宙の旅のように
地球外生命体から知能を与えられた生き物なのかもしれません。

これはどういう問いかというと
人類の現段階の科学では
証明しようのない問いということです。

だからこれは
宇宙のことを解明すること
そして、明確な宇宙の意思を知ることができない限り
(もしくは宇宙を突破して、もう一段階、高次の存在にたどり着くことでしか)
答えることのできない問いなのだと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/10 21:48 [ コメントを修正する ]
次に2の
人類の歴史的な観点から見た私の生きる意味は何でしょう。

これはダーウィンやドーキンスの言うような
生物学的な観点から見た
生命の鎖を次の世代に繋いでいくための存在といえるでしょう。

それでは僕の存在する意味は
次の世代に遺伝子を残すための存在である
そうなると
子供を残すこと
それが人生の目的であり、その結婚をして子供がいれば
満たされた状態になるのでしょうか?

(この部分に関してはイエスと言える部分もあるし、ノーだと思える部分もあります。この話に関連することは後に書くと思うので、詳しくはそのときに書くつもりです。)


そして
私が生きるのは意味について考える上で特に重要になってくると思うのが
3の社会と私の関係性における生きる意味と
4の個人(他人)と私の関係性における生きる意味です。

じゃあ、それは何かというと
それは人の役に立つことです。

そして人との繋がりの中に自分の意味があると思えることが生きる意味だと思います。


詳しい部分については人の言葉を借りるとすると
遠藤さんの書いた
生きる意味を徹底して考える(1)
の記事の中のリンク先である
――誰も彼も「生きる意味」には「蓋」をすることでしか対処できない
で書かれている


人間は誰かの力になれたとき、幸福を得られます。うまくいかないと、悲しい気持ちになります。でもそれは通過点で、人に奉仕し続けることで自分の中に芽生える「充実感」とか「達成感」とかが育つようになります。

そうして社会参加、社会承認を経ていき、やがて精神が自己確立へと向かいます。

という部分に近いです。





で、これが答えではありません。

むしろ、ここからが本題です。

さて、これは僕が経験して感じたことや
色んな情報を集めて考えて引っ張りだしたことではありますが
単純に人の役に立つことだけで
満たされた状態になると思えません。
(ただし、人の役に立つことが全くの幸せではないといっているわけではないです)

仕事をして、人の役に立っていると思える部分があったとしても
どこか虚しさはあります。


それじゃあ、それってどういうことなのってことをこれから長くなりますが
書いていきます。


そして、今から書くことは
上でも書いた通り
僕が経験して感じたこと
色んな情報を集めて、考えて引っ張りだしたことである以上、仮説にしか過ぎません。
それを念頭においてもらえるとありがたいです。

そして、これから
生きる意味について考える上で大事なトピック?が3つあります。

まず、その3つをあげると
1.信仰と虚構
2.環境の影響
3.人間の本質的な特性
です。


ただこれ以上は書き留めていないので
また、ある程度、書けたら投稿したいと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/10 21:49 [ コメントを修正する ]
加古歩さん

こうしたコメントを頂けるため、書いておりました。
カクヨムへの投稿も価値あるものだったとのだと、感動しております。

「役に立つ」、が、必ずしも解決にならないという慧眼。
「意味は関係性である」、との整理。

深く素晴らしく、これまでも相当悩み考えられてきたのだなと思いました。

特に、非常に関心・感服したのが以下2点。

●1点目
>人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
この構造についての考察も納得させていただきました。
「この構造が不幸ではない、ただし、これを不幸に考えてしまう人はいる」
→「それは我々だ」、と、私は感じました。
まぁ実際、「不幸」とまではいかないまでも、次の2点目にかかわってくる、非常に重要な問いに思います。(ここら辺を引き出してくださった白銀さんへの感謝も改めて思い出しました)


●2点目
「3の社会と私の関係性における生きる意味と 、4の個人(他人)と私の関係性における生きる意味」→「人の役に立つこと」
仰る通り、私も、これの答えは、「人の役に立つこと」であると思っています。承認欲求や、充足感を得るために必要なことだと思います。
しかし、加古さんが言及している通り、あくまでも、「一つの答え」なのだろうと思っています。これが果たしてすべてなのか、非常に懐疑的です。

利己的な遺伝子的なことも、一つの答えとして受け入れることはできる。
しかしそこに、どうしても、「私の生きる意味」という視点が抜け落ちてしまうように思うのです。


●所見
カクヨムでも、このブログでも、まとめて書けてはいないですが、現時点の僕の考えとしては、「代替不可能性」が重要なんじゃないかと思っています。
これが大事。大事にもかかわらず、昨今は、これが満たしにくいのではないかと。
つまり、フランクル氏の言うところの、「唯一性」と「一回性」ということですが、例えば、仕事。
学校教育では、「かけがえのない個人」といったことが謡われますが、しかし、実際社会でも、残念ながら学校でも、別に代わりはいる。そして、代わりが成り立つようにすることが、「組織」としては、高評価につながるようになっている。
すぐさま、別に人命軽視とか、全体主義ではないことを明記しておく必要がありますが、ここでの問題は、自己自身としての感じ方の問題と思います。
だから、そのあたりも気づかず、気づいても感じない人はそれでいいだろうと思います。
しかし、「僕は」感じられない。
そして、恐らく、加古さんもそれに近いのではないかと思われます。
(ここら辺の感覚の共有ができる人に出会うというのは、非常に難儀なことであり、むしろ現実世界においては更に困難というのが僕の主観です。そこら辺がこのブログ(カクヨム記事)の意義であり、今新しい出会いに感謝しています)

俺しか紡げない物語を感じられるか。
これが重要だと、現時点はとらえていて、カクヨムにも、そこにつながる過程を書きたいと思っている、のですが、最近更新滞ってます……。


しかし、ただ、「答え」が仮に分かったとして、それが「自分のもの」として納得できたとしても、当然、そこから先が大事だし、それに関連する行動、生活が必要。

だから、僕は、書いているのだなと。
これからも是非いろいろご教示いただきたいです。
(書きためてないとのことですが、本ブログコメント欄でもがしがし使ってやってください)
posted by 遠藤at 2019/08/11 18:20 [ コメントを修正する ]
即座のレスポンスありがとうございます。

正直、コメントが返ってくるか不安で
2,3月前から書き込もうかどうか悩んでいました。

ただ、それは杞憂だったみたいで良かったです。


そして
遠藤さんのいう

「代替不可能性」が重要なんじゃないかと思っています。

この一文、僕の考えていることの中でかなり重要なことだと思います。

それは書きながら、後々、何故そう思うのかを明かしていきますので
お付き合いいただけるとありがたいです。

それではお言葉に甘えて
コメント欄をがしがし利用させていただきます。



それでは本題に入りますが
前のコメントに書き込んだ重要である

1.信仰と虚構
2.環境の影響
3.人間の本質的な特性

この3つのトピックを行き来しながら
そして
僕が出した結論に辿る道筋をたどりながら
論理を展開していこうと思います。


まず、はじめは
3の人間の本質的な特性から入っていきます。
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/ted-on-morality-2

このリンク先の内容を読んで貰えれば
理解ははやくなるかもしれません。

そしてリンク先の
ザクッとした内容の紹介と
大事な部分を抜き出して紹介します。

まず、リンク先の記事のセオドア・カジンスキーですが、
数学で神童と呼ばれるような才能を持ち、カリフォルニア大学バークレイ校で開学以来最年少の数学の助教授となるが、二年足らずで退職し、自給自足の生活を送るようになった人です。

そして何故、そのような人が有名になったかというと
FBIの歴史において最も捜査と予算のかかった容疑者であり、アメリカを震撼させた連続爆弾魔だからです。

そして、その人の書いた
「産業社会とその未来」
かなり長い文章ですが
要約版でも良いので
目を通してもらえると
納得のいく部分が大いにある内容といえるでしょう。


そして、大事な部分というのは
リンク先にある
人類普遍の六原則です。

それを記事のまま、紹介すると

1.事前に傷つけられたり、傷つけると脅された場合でない限り、だれをも傷つけてはならない。

2.(自己防衛と報復の原則)脅威となる他者に自分が傷つけられることを未然に防ぐために、あるいはすでに危害を加えられた場合、あるいはすでに傷つけられた場合の報復として他者を傷つけることができる。

3.ある善行はおかえしに値する。だれかが良くしてくれたら、彼または彼女が必要とする場合それに相当する恩恵を与える。

4.強者は弱者に配慮しなければならない。

5.嘘をつかない。

6.自分のした約束や合意を誠実に守る。

この6つとされています。
posted by 加古歩at 2019/08/11 21:53 [ コメントを修正する ]
そして、何故、この部分をあげたかというと
人間の道徳心というものは
法律や教育といったものから生まれたものではなく、人間そのものが生物的素因として持っているものであるという部分に共感しているからです。


そして、これからの論理展開として
まず一つめの重要なことは
人間は六原則のような生物的素因を持っているという仮説です。

この中で3は特に重要なことではないかなと思います。


(カッコ書きですが、この記事が言っていることをあげるのは僕がなんとなく正しいなぁと思えるからです。そして、そう思えるのは自分の過去の動きをみて、確かにそうだなと共感を覚えるところがあるから、といった経験則的な判断をしている、ということです。兎に角、重要なところは人間には生物的素因を持っているだろう、そして、それはこういうものではないかという仮説があるということです。)


それと話はそれますが、このセオドア・カジンスキーは別名、ユナボマーと呼ばれています。
何故、そういうことを僕が知っているかというと、好きなアニメでカウボーイビバップというものがあります。

僕が初めて、カウボーイビバップを見たときに登場したキャラクターが連続爆弾魔のテディボマー(年月が経ち、ユナボマーがモチーフだと知りました)であり
そのキャラクターのセリフで

「哲学無き資本主義が生み出した全ての無駄に対して。

無駄に開拓される惑星。
無駄に流れ続けるメディア。

そしてその象徴である無駄に高いビル。

それらを破壊することによって
本来の開拓者の在り方を問い正したかったのだ。」

初めて見たのは高校生のときだったのですが、なぜかこのセリフが印象に残ったんですよね。

勿論、カウボーイビバップはopもお洒落で、ハードボイルド感たっぷりで
高校生ながら憧れた、思い出多き作品です。


と、遠藤さんもブログでアニメのことを書き込んでいたので、もし知っていればなと思い、書き込ませていただきました。


ということで最後にもう一度
今日のコメントのまとめして

人間は上記の六原則のような生物的素因
持っているといるといえるだろう

これだけ覚えてもらえればと思います。

それでは
またある程度、書き留めることができたら書き込もうと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/11 21:54 [ コメントを修正する ]
それでは、次のトピックの
1.信仰と虚構の話をしていきます。

と、その前に
新しい記事を読ませていただきました。

僕の書いた内容を遠藤さんなりに解釈して、記事を書いていただいたことを嬉しく思います。

というのも、やっぱり反応があることは嬉しいことです。
これは例として、合っているかは分かりませんが、
何かを話したときに、
参考にします!!
勉強になりました!!
と言われて
次に話したときに何にもその事について考えていない、話したけれども伝わっていない
(ように見える(もしかしたら考えているのかもしれないけれども))
と何だか
話した意味があったのかな?と思うんですよね。

これって遠藤さんが
「外連味でも前向きさは見せるべき」
で書いたことも関連しているのかな、と思います。

(というよりも、僕は生きる意味についてのある程度の答えが出たときに何人かの友人に話しました。皆、聞いてくれたのですが、それは生きる意味について興味がある、もっというと、真剣に考えているというよりは、僕が友人であり、悩んでいるから、話を聞いてくれているという風に感じる人達が幾ばくかいた、ということです。それをを思い出すと、即座にレスポンスのある遠藤は生きる意味について考えることを大事にしているんだろうなと僕が認識できる、そして近しい部分を持っているなというところに親近感が湧くってことなのかもしれませんね。)
posted by 加古歩at 2019/08/13 01:56 [ コメントを修正する ]
と本題に戻りますと
まず、参考図書としてあげるのは
ユヴァル・ノア・ハラリ著のサピエンス全史です。

(実は僕はAmazonの書評と書評を書いたブログしか読んでいないのですけれどもね…)

Amazonの書評でわかりやすいまとめるをしてくれている方がいらっしゃったので、その方の言葉を引用すると


乱暴にまとめると、かつて複数存在した我々以外のホモ属(人間種)は、知っている者同士
しか協力し合えず、その数せいぜい150人程度。
それ以外の知らない者は、敵か、生活の圏外に居る未知の存在だった。
一方我々ホモサピエンスは、知らない者同士でも同じ事を信じ、協力し合うことが出来た。
ちなみにハチやアリなどは150匹どころではない社会を形成するが、すべての行動はDNA由来。
DNAに無い価値基準を後天的に信じ、協力し合う事は無い。
我々ホモサピエンスが、ホモ属はもとより他の生物にはない特別な繁栄を手にしたのは、
同じ事を信じて協力し合う能力があったから。


です。


その中で僕が特に重要だと思う部分は
「人間は虚構を信じることで協力して発展してきた」です。

遠藤さんが新しく書いた記事でも紹介していたように「お金」もそうですよね。

お金自体は食べられるものではない。
でも、それは皆が価値があると信じているから価値があるということです。

「国境」もそうです。
国境は人間が人為的に引いた線です。
他の生物には国境なんてものは存在しません。
(ただし、生物の中には縄張りがあります。でも、生物達がここは俺達の縄張りだ!と線を引いたわけではなくて、もっと肉体的な、そしてそれは変動するものだと思います。)

他にも「法律」、「宗教」なんてものがありますよね。

(ただ、飛行機はちょっと僕の別物だと思います。なぜなら飛行機は皆が飛ぶと信じているから成り立っているのではなくて、原理は謎の部分があるけれども、過去の観測の結果、まあ、基本的には大丈夫だろうということで公共の乗り物となっているということだと思います。
ただ、遠藤さんの書いた文章を見ると
電車と同列に扱っているので、安全性ということよりは、目的の時間、場所にほぼ誤差なく到着することをいっているのかな?と思ったりもしました。その点に関してならば同意しますし、個人の信仰ならば、原理がわかっていないものは怖いと乗らない人もいますし、でも観測の結果、大丈夫なんでしょと思い、乗る人もいます。ただ、大多数は公共の乗り物だから大丈夫だ、と思って乗っているんだと思いますけれどもね。)
posted by 加古歩at 2019/08/13 01:58 [ コメントを修正する ]
●カウボーイビバップ
 高校生の時、友人に勧められつつも、結局みていない状況でした。今度アマゾンプライムかTSUTAYAあたりで探してみます!

●人類普遍の六原則
 これは全く聞いたこともありませんでした。リンク先まで読めてないのですが、なるほど、納得できる部分があります。

 少し疑問なのは、これは、なすべき、という道徳性なのか、人という種は基本的に保持する傾向なのかが分かりにくいと思いました。

 返報性とか、目には目を的な側面はありそうですが、基本は他者に危害を加えないとか、嘘をうかないというのも、基本に置くには違和感があります。
 いや確かに、ルソー氏の自然に帰れではないですが、私有財産がなければ、そういった傾向をもつのかもしれませんが、現代において、その方向を探るのは些か厳しいような……と、これは単に妥協思考かもしれません。暴力の人類史でも、世界史的には、暴力が減少してると書かれてました。

●電車、飛行機
 確かに、言い過ぎたかもしれません。仕組みを必ずしも理解していなくても、それを当たり前に使用している、という意味で信仰との言葉と結びつけてしまいましたが、適切ではないですね。ありがとうございます!

●勉強になりました的な
 分かります。
 友人たちも、別に適当に聞いてるわけじゃない。真剣に相談に乗ってくれる。ただ、それでも、我々の問題が、他者の自己にとっては優先順位が高くない、ということなんだと思います。
 なんか寂しいというか、逆に孤独感を感じますよね。
posted by 遠藤at 2019/08/13 07:56 [ コメントを修正する ]
コメントありがとうございます。

個別に返信をしたいコメントもありますが、一旦はこちらの話を進めてから、その後にコメントを返せればと思います。



さて、最後に2.環境の影響についてですが、これは僕の経験則の話です。

というのも
僕が環境って、僕が思っている(思っていたよりも僕、そしてその他の人達)よりも影響があるのではないかということです。

なので
このトピックでは僕の経験談を書こうと思います。

というのも、僕が環境は思ったりも影響があると思うようになったのは
昔、一度、単発バイトでビアガーデンにいった時の出来事からでした。

ちょうど、お盆の1日目の土曜日でした。

そこで、洗い場を任されたのですが
客の入りは満員に近く、前日は金曜日ということもあり、前日のものも含め、大量の洗い物のがありました。

そこで、僕は急いで、洗い物をしていたのですが、隣で別の作業をしていた直接のバイトの人に
「うるさいから静かにやってもらえますか?」
とキレ気味で伝えられました。
(正直なところ、キレ気味に伝えられて、こっちもイラっとしました)

そのときにそこで思ったのは
まず
自分は仕事を回すことを目的として
やっていたのですが
相手は不快な思いをしている。
じゃあ、これからどうするのとなったとき

選択肢としては


もし仕事が回らなかった場合は仕方ないとして
音を立てないためにゆっくりとやる


2
仕事を回すことを優先して、相手に我慢してもらう

3
急ぎなからも、音を立てないようにする
(ちょっとこれはスキル的に現実的ではないけれども)

この3つです。

ただ、もうひとつ思ったのは
僕はバイトの人に不快な思いをさせようと思って行動していたわけでもないし、バイトの人だって我慢しないといけないわけでもない。

これって、お互いぶつかり合いたいわけでもないのに、ぶつかっているんですよね。

(問題の解決の方法として責任者の人に裁定してもらうというものもありますが、それは根本的な解決になってないのですよね。責任者の人に、もし仕事が回らなくなったら仕方ないよね、といってもらえれば、僕はゆっくりできるのですが、仕事が回らなくなると責任者の人が困るだろうし、責任者の人が仕事を回すために音がなるのは仕方ないよね、となったとき、バイトの人の不快感は消えず、ただ、責任者がそういった以上、仕方ないと思うしかないということです。)


そこで思ったのは
もし食洗機があったら…
もし洗い場が広かったら…
もしバイトの人数がもっといたら
(その日は単発のバイトの人数が5人募集でしたが、その内3人は当日欠勤でした)

この、もしが一つでもあれば
お互いに嫌な気持ちになることもなく、仕事が終わっていたのかもしれません。


このことがあるまでは
僕は環境のことを考えずに
どうしたらいいかと思っていましたが
このことがあってから
人間関係の問題は
お互いの人間の問題だけを捉えるのではなく、その人間関係が発生する環境も含めて捉えないといけないと思うようになりました。


と、3つの話は以上です。
posted by 加古歩at 2019/08/13 23:22 [ コメントを修正する ]
ここからは
3つの話を自分なりに解釈して
論理の展開をしていきます。


そして
その論理の展開を始める前に
遠藤さんに聞いておきたいことがあります。

というのも
先に伝えるかどうか悩みましたが
僕が生きる意味について輪郭の出ている答えというものは
良い答えではないです。
むしろ、悪い答えです。

本当のところは結論を先だしにするほうがいいとは思っていましたが
悪い答えである以上、結論の先だしも悩みました。
(結論を先だししたほうが論理の展開もしやすいし、理解もしやすいと思うんですけどね)

もしかしたら、書き込むのを2,3ヵ月、躊躇したのは、そういった理由も関連しているかなとも思います。


遠藤さんは
良い答えを見つけようとしている、そして、それがあると信じているからこそ、生きている部分もあると思います。

そして僕も
どう生きるのが良いのかとひたすら考えて、情報を集めてのループでした。
(というのもこんなことを2,3年振りに考えるようになるきっかけがあったこと、そしてそれをひたすら考えるモチベーションの源泉があったのですが…)

ただ、ふとした瞬間に
生きる意味を考えたとき、悪い答えが出てしまったんですね。


なので、どうでしょうか?
遠藤さんは生きる意味について
悪い答えを聞く(見る)のは、嫌ですか?
それとも聞く(見る)だけならいいと思いますか?

(遠藤さんは真剣に生きる意味を考えている人だからこそ、悪い答えを出してしまうとそれを見た遠藤さんがどうなってしまうのか、心配な面があるのです。そして、心配しているということは僕が出した答えを僕自身がそこそこ信じてしまっていて、気落ちしているからです)

後出し気味になったことは申し訳ないですが、コメントをいただければと思います。

宜しくお願い致します。
posted by 加古歩at 2019/08/13 23:23 [ コメントを修正する ]
 どうも、横から失礼します。
 加古さんのコメントも読ませてもらっていましたが、割と私の言いたかったことや考えてることに近しいものも多く、良く噛み砕かれて書かれているところにも感心していました。

 触発されて、私も持論と、自分自身の見出している答えについて述べておこうと思います。

 まず、私の持論としては、「意味(あるいは価値)というもの(もしくは概念)それ自体が、個人の思考によって左右されうるものであり、他者に決められるものではない」という考え方が大前提にあります。
 辞書に乗っている言葉の意味や、一般的に浸透しているものの価値は、社会を形成する上で共通認識としておく方が都合が良いために決められた程度のものであり、実際にそれの意味や価値を受け止め、理解し、決定付けているのはその個人である、と考えています。
 例えるなら、「このリンゴは甘い食用果物であり、100円の価値がある」というのは一般的な意味や価値が存在するようにも見えますが、「周りや社会がそう決めて扱っているから自分もそれに従うことにしている」という拡大解釈です。人によっては、「周りがどう言おうとこのリンゴは苦い、50円の価値しか見い出せない」なんて人もいるだろう(しかし社会は、甘い100円の価値として扱っている以上、それに従っていた方が摩擦や軋轢が生じなくて面倒がないのでそっちの意味や価値基準に従う)、という理屈です。
 人によって価値観や執着するものが違ったりする(他人にとってはゴミクズ同然でもその人にとってはお金に変えられない価値がある)なんてのもこの理屈で説明できると思っています。

 これまでのブログでのコメントについても、基本的には同様の持論に従って書き込んでいたため、私の主張や意見は「この世のあらゆるものには本質的な意味や価値というものはない=人間に生きる意味なんてものは存在しない。その人が生きる意味はその人が決めるものだ」であり、遠藤さんの悩みや思考に対しても「私はこう考え、こう思う(けれど遠藤さんが求めている答えとは一致しない、納得には至らないのかもしれない)」「最終的には遠藤さん自身で結論付け、辿り着かなければ真に納得の行くものにはならない」「本人が真に納得したものでなければ答えとは言えないのだろう」というスタンスのものばかりだったと思います。

 私の場合、それらがほぼ自分にとっての答えではあるわけですが、「ではお前の見出した生きる意味とは何だ?」と問われた場合に返せる具体的な答えは一応持っています。
「自分の存在を世界に刻み付けること」
 かっこつけた言い方をすれば、この一言になります。以前にも書いた気がしますけれど。
 自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。
 子孫も残せるものなら残したいとは思う、けれど相手は誰でも良いというわけではなく、自分の理解者あるいは自分を認めてくれる存在であって欲しいし、私がそう思える相手がいないのならば、子孫を残せなくても良い。そういう相手が欲しい、と思う気持ちがあることも自分で否定したりしない。
 私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。
 つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている。
 その証明、あるいは私自身が「私は生きている、他者に私の存在を認知されている」という実感をす得るために、友人と遊び、笑い合い、語り合い、欲しいと思い買えるものを買い、エンタメに触れ、創作活動をしたりしています。
 私という存在を、私自身が思い認める「私」という存在として、友人たちのような自分の周囲に刻み付けたい、私自身が「私は生きた」と思える生活を送りたい。
 これはある程度、達成できていることです。遊びに行ったり来たり、連絡を取り合う友人がいて、ある程度好きなことができる生活が送れていますから。友人の記憶には、良き友人としての私の存在は記憶され、私自身も悪くないと思う生活ができている。
 しかし、記憶や印象は薄れゆくものですし環境は変化することもあるものですから、関係性や生活環境の維持や向上、変化への対応は、私という存在を刻み付けるという目的にとって必要なものでもあります。ある程度達成できている、という表現になるのはこのためで、私が生きている以上、多少なりとも変化しているところがある(成長とか老化とかもありますし)私という存在についての情報や状態を周囲への認識としても最新に更新し続けなければ、「私を刻み付けた」とは言えないのではないかと思うわけです。
 私が死んで、私という存在の変化が止まった時までの、終わりまでの私を周囲に認知させる、というのが「自分の存在を刻み付ける」ということであり、そのためには「その時まで私らしく生きなければならない」という答えに行き着いたのです。

 単に「他者や周囲の記憶に残る、印象に残る」というだけなら、盛大に事件を起こして自殺なり死刑になれば、強烈な印象を残すことも出来なくはないわけですが、それを私は「自分らしくはない」「そんな刻み付け方は『私』ではない、いやな残り方だ」と思ったわけです。
 創作活動をしているのも、楽しいと思うこと、好きだと思うことを詰め込んで表現したものの中に自分の思いや感情、哲学や人生観などを混ぜ込んだりして、「こういう作品を創った人」としての私を、それを見た誰かに刻み付けたい、共感や楽しさを抱いて、私の作品を、その作品を創った私という存在を認めて欲しい、記憶して欲しい、という思いが生じて、衝動が生まれているのだと思います。

 加古さんのコメントにあった「人との繋がりの中に自分の意味があると思えること」が、私のこの考え方にはかなり近いものだと思ったわけです。
 遠藤さんのコメントにもある「代行不可能性」とも被っていますね。
 「他の誰でもない私」を「周囲との関係性の中で認知し、記憶しておいて欲しい、させたい」という欲求、が私にとっては「私の生きる意味」だと言えるように思います。というかこれはむしろ「生きる理由」ですね。

 「生きる意味」に対しては私の中では「そんなものはない」という答えがもう出てしまっていて、ぶっちゃけた話、「その人が好きに決めていいと思う」になってしまっているんですよね。
 生きる意味はなくても、生命体が生きていることに変わりはなく、意味がなくとも生きることは成り立っているのだから、意味がない、ということそれ自体は何らおかしいことではなく、むしろ当たり前のことで、意味という概念は思考を得た知的生命体の創り出したものであり、人間が共通認識を定め社会を形成するための手段や道具に過ぎない。
 意味を定める必要はなく、それでも生きるのに理由や動機が必要だとするなら、私にとっては何が理由や動機になりうるのだろう、と考えていって辿り着いた結論がここまで書いてきた「刻み付けたい」だったわけです。
 根本的に、「意味はない」「意味がないことはおかしいことではなく当然の帰結」「意味とは人が付与したもの」という結論に私は納得できてしまっているので、これを他者に強要するつもりは毛頭ないわけですが、私自身の思考はそこで止まってしまっているというか、そこから先がないのですよね。以前コメントした「考え出すとキリがなくて終わらないからそこで納得している」とも言えますけれど。
 そして、私の考えに納得できない人たちがどういった答えを出すのか、という点については自分には辿り着けない考え(私に今の結論を覆させ、納得させうるもの)になる可能性もあるため興味があります。

 また凄い長文になってしまってすみません……。
posted by 白銀URLat 2019/08/15 05:37 [ コメントを修正する ]
白銀さんもありがとうございます。
そして、加古さんへ、聞きたいです、との主旨のコメント書いていたのですが、投稿されず消えてしまっていたようです…。やはりスマホつかいづらい…。取り急ぎ時間がとれず、ここまで
posted by 遠藤at 2019/08/15 07:53 [ コメントを修正する ]
わたしも生きる意味について考えてきた人間なので興味深くみなさまのコメントを読んでいました。
すこしお尋ねしたいのですが、なぜみなさまは生きる意味について考えているのでしょうか。

・考える理由
・考えて結果どうしたいのか
・何が目的なのか

これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?
posted by イミフat 2019/08/15 16:46 [ コメントを修正する ]
イミフさんへ

内容としては
個人的なことなので
ぼかして書きます。

まず、
・考えて結果どうしたいのか
・何が目的なのか

の二つは僕にとってはほぼ同義なので
まとめて答えるとすると
「幸せに生きること」です。

そして
・考える理由
に関しては
僕は生きる意味を考えることをメインに考えて生きてきたわけではないです。

どちらかというと
自分にとってのメインの悩みがあって
それを分析、
そして解決のために
(もしくは直接的な解決ではなくとも、落ち着くために)
色んな情報を集めて、考えることが多かったです。


そして、直近にあった悩みを
情報を集めて、考え尽くして、納得がいくところまで至ったときに
ふと生きる意味について考えてみたら
答えが出てしまったという感じです。


これで大丈夫ですかね?
posted by 加古歩at 2019/08/15 18:44 [ コメントを修正する ]
・考える理由
 きっかけ自体は些細なもので、色んな創作物に触れて芽生えてきた自身の哲学と、高校生活に馴染めず孤立して人間関係や社会や世界に対する疑念やら価値観の違いやらをあれこれ考える時期とが合わさって「自分の生きる意味、理由、目的って何なのだろう? あるんだろうか?」という思考に行き着いてしまったから考えた、が理由でしょうね。

・考えて結果どうしたいのか
 考え始めた当初求めていた結果は、「明確な答え」を得ることで自分のこれからの人生が自分にとって良いものになる、良いものにできる、するための指針を手にすることだったと思います。
 端的に言えば「幸せに生きるための道標が欲しかった」というところでしょうね。

・何が目的なのか
 目的、は結果どうしたいか、と同じでしょうね。
 考え、答えを出すことでより良い何かが得られることを期待していた、というところかなと。
posted by 白銀URLat 2019/08/15 23:30 [ コメントを修正する ]
お二人とも回答いただきありがとうございます。
私のことを話せば、自分は結構変わり者で社会になじめなかったところから考え始めたという感じですね。
お二人と同じように私も結局のところ幸せになりたいという目的を持っていました。

とすれば生きる意味を考える行為は、自分がどうすれば幸せになれるかを考える行為として具体化できるように思います。

これは提案なのですが、生きる意味を考えるために、生きる意味を全く別の言葉で表してみると、具体的に、より簡単になるかなと思ったのです。

ここでは、私が幸福になるためにはどうしたらよいのか、というのが生きる意味を具体化した例になります。
posted by イミフat 2019/08/16 13:06 [ コメントを修正する ]
ここのコメント欄もコメントが増えてきたので
次のコメントは
コメントを返したい内容のある
「無差別に人を殺したいと思う人」の記事に移動させてもらいますね。
posted by 加古歩at 2019/08/16 17:57 [ コメントを修正する ]

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