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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
目標ではなく目的を
昨日、朝は、過去の記事など整理して、投稿して、力尽きて13時過ぎまで寝ていた。
喉の痛みと鼻水はまだ残っている。

うーん、しかし、困ったなぁ。過去の自分に対してかけてやれる言葉がない。はっきりいって、自分で妄執をつくりだしてその妄執と戦って精神をすり減らして内へ内へと自虐しているようにしか思えないのだけれども、間違いなく精神的に疲弊していることは言える。

過去に遡れば遡る程その度合いが強く読み取れて、時おり、合わせ鏡のように、過去の記事の中でそれよりさらに過去の記事に言及し、あの頃に比べたら今は幸せだなぁとしみじみ言ってる構造、なんだそりゃ。

そして哀しいかな、今の俺自身も、やっぱり、ああ、過去には戻りたくねぇなって思う。

そうすると、特に、かけてやる言葉もなければ、今の俺にとって何か役に立つようなことも浮かばない。

まぁ、取りあえず、生かしておいてくれて、ありがとう……?

なんか変だ。


なんだ、全然、言葉が出てこない、どうしたんだ。ただ、すごく、疲労感、これ、風邪のせいだけじゃなさそうだ。

お疲れ様って、そう言ってやるべきかな。いやぁこれは、確かに自分自身への言葉で、キモチワルイこと限りないところだが、逆に、思うに、過去の自分すら救えないで、他の誰か、苦しんでる人を救えるのだろうか。

ただ、寄り添ってやるぐらいしかできんだろうな。よく頑張ってるよ、お疲れ様、大丈夫、絶対今よりよくなるから……なんて、そんな言葉吐けるのか?

俺は、やっぱり、ハッピーエンドにならなきゃダメだと思う。
自分という、人生という物語において、色々困難や苦悩はあったけど、最後は、生きててよかった、充実した人生だった、と。

ライフワーク

僕の魂魄に突き刺さる作品を生み出した人は、きっと、それを生業にしているわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。ただ、本当にすごい物語を創る人なんだなと、心底感動している。

他にも、無職転生という作品の作者は、最終的には書籍化してプロになった(元々そっち系の人だったという話もあるが)けれども、元々は無料投稿サイトで更新を続けて有名になっていった。
なんか、そういうすごい人たちは、是非とも、自分の才をいかんなく発揮し、多くの人に感動を与えてほしいと思う。


俺は、何ができるんだろう。

初音ミクのこの曲も、もう何年前に見つけたのか忘れたけれど、時おりふと思い出して聞きたくなる。
この作者さんも、別に音楽で飯をくってるわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。

でありながら、人の、何か表現したい、生み出したいという欲求というのは、何と大きいことかと思う。


僕も、何か創りたいのだけれど、俺は、何ができるんだろうか。

そういえば、昔SNSでこんなブログのような評論なのか愚痴なのか分からないようなこと書いてたら、ある人が、「僕も遠藤くんのように何かイイこと書こうと思ったけど、何も浮かばず、やめた」という日記を書いていて、そのとき、何だか、本当にうれしかったことを、何故か今思い出した。

正しいことと思ったこと

なんというか、自分として、一切自慢なんかじゃなくて、傲慢でも何でもないのだけれども、まぁ、こう表現したら絶対読んだ人の気分を悪くさせるだろうと思いながら他の表現が浮かばないから考える時間がもったいないからそのまま書くと、何か、「正解」があって、それを作り出すことは、仕事であれ、何か文章であれ、できるのだ。

ただし、本当に自分がそう思っているのか、それを目指したいのかは別だ。

その自分が本当に望んだこと、思ったこと、それをそのまま表現し、それがそのまま、誰かに受け入れられるという。

この体験、このことこそが、僕は、本当に嬉しいと、楽しいと、充実したと思えるのではないか、と今思った。

だから、上にかいたSNSの僕にしては「くだらない愚痴の数々」を、「イイこと」「面白いこと」「深いこと」として感じてくれたその人に、とても嬉しく思ったのではないだろうか。


おいおい、お前は、まさか時間がだんだんなくなってきたからといって、まさか、こうしたブログのような駄文を「ライフワーク」とか言い出す気じゃなかろうな。

え、ダメ? そうか、ダメだよな。駄文はどこまでいっても駄文だ。それを作品とするには、「エンディング」がないといけない。死ぬまで駄文書き続けてどうするつーんだということだ。

考える生き方の作者さんも、何となく、55歳になって、それで、あーやっぱり失敗だったな、空っぽだったなーと言いながら、子供いるし、何やかんや著作を残して、仕事して、難病と闘いながら生きてるじゃないか。

お前、今、55歳とか、80歳とかなって、何ができるようになるんだ? 何を創り出せるんだ?

遺作

……と、考えたとき、じゃあ、このブログを一つの作品とするとして、いやぁ、それ、誰の役にたつねん、と。
いやいや、役に立つかどうかはあまり関係ないにしろ、お前、それで十分なんか? と。

「俺」という痕跡を、この歴史に残せなくていいのか、と。


なんとなんと! 僕の口から、歴史に名を残すとかでてきやがった! 笑える! これが書いていると発生する面白い現象だ。頭の中だけで悶々させていては、決して出てくることはなかったであろう発言!

まぁもう少し真面目に考えてみよう。歴史に名を残すとして、この広大莫大なインターネット世界において、どうやってその痕跡を残すというのか。

まぁ、もし、また結婚するとしたら(相手も見込みもないが)、こうした記事を読んでもキモチワルイとか思わない人がいいな。

いやぁ、初恋の人が忘れられません! とか書いてるの、どう考えてもキモチワルイけど。いや別に、忘れられませんとか、そういう意味じゃあないんだけど、そういう表現になるんだよなぁ、この辺りのアウトプットが非常に難しい。というか、アウトプットしなくていいじゃん、というのはその通りなんだけど、もう本当に、「徹底して」やってこうと思う。妄執で固めた人間の殻を脱ぎ捨てていくように。


一般論書いても面白くないし。

「俺はこういう人間で、こういう生き方をしてきて、こんな経験をしたから、この事象に対してこう思って、こう行動する」

ってのが、エッセイというか、文章として、面白いものだし、唯一性の価値があることだと思う。

俺が多くのブログ記事(なんやかスピリチュアル的な)に、胡散臭さとか、つまらなさとか、表層性を感じるのは、その点が不足してるからだ。


だれだれとどこそこにいってなにをして楽しかった


それはそれでいい、ただ、僕が欲しいのは、その「楽しかった」という表現だ。
楽しいってなんだよ? 嬉しいってなんだよ? 生きるってなんだよ? お前はなんだよ! 俺は誰だよ!

表現と物語

最近、表現するということに拘りすぎか。
これは、自己と、外面的に見える自己との乖離と、内面とアウトプットした際の乖離の問題を強く感じているからだ。

ジョハリの窓といって、自分で知ってる自分と、外から見える自分と、自分が知らなくて外から見えてる自分と、自分も外からも知られていない自分と、4つあるよって考え。

コミュニケーションは、その自分を広げていって、外からの自分と内面の自分とを一致させることが円滑に進めるうえで必要だ。

目的設定について

まてまて、話しがそれている、そうじゃなくて、過去の記事を読んで分かったのは、「目的」の設定がされてないがための失敗だったということだ。

であるから、目的を見つけようという目的で、この記事を書き始めた。
そこで、「ライフワーク」として、何か、人生の中で生み出すことが、その目的になるんじゃないかって、そう思いついて、書こうとしたら、いやぁ、すごい人いっぱいいるなぁって、例のオンラインゲーム症候群(すごい人はいっぱい溢れていて、頑張ってもトップになるのは難しいとあきらめてしまう心性)が発生して、よく分からなくなったわけだ。


やりたいことの棚卸

行き詰まり。息詰まり、生き詰まり。

こういうとき、どうするんだっけかなぁ。過去のログなんて読んでいると、まぁ、最低までどん底まで落ち込んで、そっから、よーしじゃあもっかいゼロからスタートね~みたいなやり方みたいだが、どうなんだろ。

前にも書いたけど、断続的なんだよな、それぞれの行動が、一貫性がない。というのは、「目的」がなかったってことに、ようやく気付いた、気がする。

今までも、「目的」だとか、「生きる意味」だとか、そんな言葉は使用はしていたが、その意味するところが、やっぱり若かったというか、表層的だった気がする。

で、何で何だろうともやっぱり思う。

普通、大多数、オーディナリーな人たちは、そんなこと、こんなことでそれほど苦慮していないんじゃないかって思う。
いやそれは、傲慢と偏見なのかもしれない。みんな、日々、不満や苦悩を抱えて、空き缶を蹴っ飛ばしながら、街ですれ違う時肩がぶつかっただとか、どっちが強いかタイマンだとか、そんなイライラしながら過ごしているのかもしれない。

でもそれって、社会的に優位に立ちたいという、認められたいという、何かしたいという欲求に基づいていると思う。
それが上手くいかないから、イライラしたり不満になったりするのだろう。


僕は、何か違う。
いや決して、全世界唯一俺だけがそんなことを考えているなんてことは全く思わないけれども、何か違う。違う気がする。

その違和感、「わかってもらえなさ」が、どうにも、活力を、やる気を、徐々に減衰させる。


ボケちゃって、俺のことが分からなくなったばあちゃん。
離れて暮らして介護している親は、相当大変みたいだ。

そんなんなっても、やっぱり生きてるってことが大事なんだろうか。

「逆に」すぐさま思うのは、じゃあ、無価値な人間は死んでもいいのか。

どっちも違うと思う。

でも、「どっちも違う」というのは、いったいなんだ? 俺はまた「イイ子」でいたいだけなんじゃないのか?

障碍者施設で殺戮をした男に共感を覚えているのではないか? ぼけ老人どもはこの世から駆逐されればいいんだとか思っているのではないか?

いや絶対思ってない。むしろ、そんな世界になったら、無価値な俺が真っ先に殺されてしまう(かっこわらい)。



でも、きっと、誰も口には出さないが、誰しも、そんな獰猛な思いがどこか存在している。
そんなこと思ったことない! という人は、「現場」意識が足りない。重度障碍者施設や特別養護老人ホームに介護体験で行ったことがあるが、あれは、行ってみないと、分からないことが絶対にある。

目はうつろで、自分で食事もとれず、会話もできず、ただ生かされているような状態の人たち。

介護現場が大変だ、という声は大きいが、デイケアのものと、特養とかと、その中身も大きく違うだろう。


何の話だ? 他人なんてどうでもいいだろう、お前は、どうなんだ、お前はなんだ?

大人の物語

そもそも、お前は、あと何年生きるつもりだ?
1年? 5年? 10年? 20年? 30年? 40年? 50年? 60年?


あと、1年でいいなら、まぁ、仕事の論文もやらなくていいだろう(笑)。

あと5年だけ生きるなら、やっぱり論文なんてやる必要なくて、2年ぐらい働いて、残り3年は貯金食いつぶして終わり、ってのでも十分だ。

10年となれば、少し話は違う。貯金だけで暮らすのは難しい。先日入った個人年金保険が解約できるのはそのころだが、それまでどうやって過ごすのか、やっぱり働いてないといけないだろう。


20年。
ああ、もう想像ができない。
50代っていったいなんなんだ。
おっさんでもなく、おじさんになるのか。初老の40歳をはるかに超えている。
部下もできて、しごとバリバリこなしながら、「あの上司、口うるさいけど、ひとり身なんだよね」「そうそう、むかつくよね。あ、知ってる? あいつ離婚したらしいよ」「えーまじ、まぁあいつならありえるわねww」みたいに言われるのか!
もしくは、ダンディーな風格を身に着けて、若い子と不倫を楽しむとか……。



なんか、いろんな物語があるけど、どれも、あんまし面白くなさそうなんだよな。

映画とか、アニメーションとか、小説とか、いろんな物語があるけど、多くは、10代20代の若者が主人公なんだよな。というのは、若者は可能性に満ち溢れているからだろう。

でもそんなこといったって、おっさんおじさんだって、10年ぐらい何か打ち込めば、何か成し遂げられる気はする。問題は、その「モチベーション」がなくなっていくからなんだろうな。
何やってもどうせダメだろうと、もう若くないからと、自分で限界ひいちまうんだろうな。

でも、別に歳関係ないよなって思う。既に俺は10代ぐらいのときから何となくそんな感じだった。
自分のできることが何だか分からなかった。自分が何者か分からなかった。そして、今もそうだ。
物語では、そんな中二的な若者が、何か特別な出会いや経験をして、何か成し遂げてくってそんなストーリーなんだけど、その後、人生うまくやっていったかは描かれない。

若いときの努力が、そのまま大人になったときの成功につながるとは、思えないし、その点、「生涯学習」とか言葉が巷にあふれている昨今、誰も信じていないんだろう。



結婚。子供。出世。余暇・趣味。

それが人生の価値なのか?


何か創りたい

だんだん、強く思ってきたけれど、やっぱり、「物語」が重要だ。
いやこれも目新しいことじゃなくて、「ストーリーをつくる技術」なんて、小説とかエンターテイメントだけじゃなくて、ビジネスの中でも重要視されている。複雑高度化した社会の中で、上の人間は現場をよく分からなくなる。そうしたとき、中間管理職的人材が、問題を整理し、分かりやすく上に伝え、上は人的資源や費用や資材を適材適所に配置するってのが、好循環である。

そうした中間管理職的人材が不足しているのが問題だ……と、一般論的に批判はできても、じゃあどうすりゃええねんってのは、よく分からないから、やっぱり論文が書けん!

話しがそれた。物語、「俺の物語」。

でもさ、これって、非常に難しい。多分、他の人の話しを聞いても、ふーん、で終わりそうだ。
何せこれは、「結論」が重要なものではないからだ。

いやむしろ、結論は明確だ、いわずもがな。
だから、その結論に達するまでのストーリー構成が重要になるのだ。

つまり、答えが不要な物語、そのプロセス、過程にこそ答えがあるというものだ。

なんじゃそりゃ、上手く表現できない、当たり前だ、新しいことを今考えている。

新しいことを生み出すときにカオスになるのは当たり前だ、そのカオスさを耽美と羞恥によって認められないから、堂々巡りを脳内で繰り返すのだ。
とにかくアウトプットしてやれ。

過程にこそ意味がある物語。

それは、ハッピーエンドを求めないということか。

いやむしろ、その「いま、ここ」にこそ、その瞬間こそが答えだというものか。坐禅的心境だ、としたら、仏道に入ることが重要か。
恐らく、ヒントはそこにもあるだろうが、どうにも、仏教的な知見をもって「人生」を評論する言説への胡散臭さは拭えない。そうじゃない。

そもそも、何故結論ではなく、過程に意味を見出す必要があるのか。

結論なんてくだらないからだ。(愚かな未来な自分のために書いておけば、ここでいう結論とは、=死のことである。)

結論は、所詮、目標にしかなりえないからだ。

就職する、結婚する、子供をつくる、出世する。それらはハッピーエンドの条件であり、目標であろうが、目的ではない。

問おう、しかし、目的とは、「楽しくなる」「幸せになる」以外に存在するのか?


いや、まさに、その問いは重要でありながら、その「幸せになる」という状態、それが、瞬間的に達成されるものかどうか、時間軸的に有限なものなのかという点に焦点をあてる必要がある。

幸せの時点性

「結論」的に書けば、幸せになることは、結論である。しかしながら、「幸せな死」とは、何だろうか。

「こいつの死に顔みてみろよ……笑ってやがるぜ……」

ってなれば、それはハッピーエンドだってことなのか。

先ほどから書いているように、人間としてのエンディングは「死」である。でありながら、「幸せになる」ということを結論として、目的として据えたとき、「幸せな死」という表現がわいてくる。

だがなんだそりゃ、奴隷道徳か? ルサンチマンか? おかしいだろ、矛盾してるだろ。


仮置きの人生

じゃあ例えば、そうした、「生きる意味」を求めることを、そのものを「意味」として据えたとき、その意味へのコミットはどれほどの強度となるのだろうか。

「俺という人間が、こうしてこう考えて、こう行動して、こうなりました。」

それが、なんだ?

70億分の一のアリンコが、なんだってんだ?

もっとすげー経験、思考、行動をもった人はたくさんいるぜ。お前が、残り50年かけて何かしたとしても、そんなものすぐに上書き保存されるだけの価値しかない。

「いやぁ、だから、身近な人との関係を強固に持って、共感できるコミュニティの中で自己承認と助け合いをしながら生きていく【衆生】【凡人】として生きていくことが大切なんですよ~」と、宮台先生の言うような生き方をすべきか。(宮台先生はそんなこと言ってないかもしれない、勝手な読解)


多くの人にとって、そうした、ローカルコミュニティのインターネットによる結合によって大きく広げていき承認欲求を満たしていくという方策が有効だとしても、必ず、僕のようなはみ出し者は発生する。
そもそも、コミュニティは、パレートの法則じゃあないが、コミュニティが生じるとそこに「上下関係」が生まれる。真にフラットな組織というのは、電脳化して思考を並列化しない限り難しいだろう。攻殻機動隊の個別の十一人ですら、ウィルスに感染しなかった「例外」クゼさんによって、合田一人の計画に綻びが生まれていく。


疲れた

ああ、もう、本当に。

行き詰まり、息詰まり、生き詰まり。(気に入った)

ダメだ、時間切れ。

今日の夜にでも、また続きを考えよう。


でもなぁ、思うに、俺がやろうとしていることは、過去の偉人たちが、一生涯かけて取り組んで、結局まともに答えを出せなかったことな気がするな。

生きる意味とは。
人生とは。
死とは。
幸せとは。
正義とは。
社会とは。
真理とは。


いや逆に、「無理」だからこそ、他者を頼ることはできないって問題もある。
だから、スピリチュアル的(いや、スピリチュアル全般批判するとかそういうわけじゃないんだけど、なんか表現しやすいから使ってるだけ)なうさん臭さってのは、いかにも「真理はありまーす!」的に全面的に押し出して、だから「信じてねハート」的なロジックになってるところがきな臭い。

むしろ、こたえなんてないってのが真理なんじゃないの?

でも、答えなんてないよー、生きてるのは苦しみだよーって、それじゃあ人は集められないし、お金も集められないから、仕方ないんだろうけど。

表現の重要性

その点ゴウタマさんは潔いよな。一切皆苦とか言っちゃうわけだし。そんな中で、苦諦集諦滅諦道諦と、四諦の中で解決策を提示すると。

資本主義のコマーシャルリズム的に、不安煽って、でもこの商品を使えば大丈夫! 的な感じにも聞こえちゃうけどな(かっこわらい。すみません、ゴウタマさんは尊敬できる人物だと思ってます、これはホント。人として)

というのが、まさに、「骨格」を抜き出すと、陳腐になっちまうという現象だ。

だから「表現」が重要だと思う。

ジョルジュさんが言ってる、人間の生み出すあらゆる芸術は、死への不安の表現だ、ああ、なるほどなぁって、思ったよ。

いってみりゃ、結論だけにしちゃえば、「死にます」以上。になっちまう。

だから、それを美的に昇華する、憎悪であり、耽美であり、嫉妬であり、エゴであり、快楽であり、様々なその「意味の表現」。



だから、ある経営者さんのブログなんかで表現されていた、「いやー人生ひまつぶしッスわ。金稼いで生きるだけなら余裕ッスけど、せっかくだから面白いことしたいじゃん?」ってのも、まさしく真理なのだろう。



――でもなんだ、なんなんだ? 俺はその、「面白さ」ってのが、まだ何だかよく分かってない。

心の底から、楽しい、充実してるって。一生、これをつくっていこう、携わっていこう、やっていこうって。
「死にます」って結論なんてどうでもよくて、ただ、そのことそのものが真実で、その瞬間があればよくて。


時間切れから長くなっちまった、ほんとに取りあえずここで中断……。

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