今日の一言「重要なコメントを頂いた」
そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。
――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。
そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。
前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。
(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)
3について。
これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。
――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。
あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。
あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。
前書き
ルーチン更新である。いやぁ、ほんと、最近、仕事が忙しくて苛々する。何というか、「答え」がない仕事の合間に、ほんとに通常業務的な締め切りも近づいてきて、さらに他の方々からの相談事項的な奴も紛れ込んできて、変な苦情も入ってきたりと、「予定」どおりに全然いかないところもイライラを助長する。そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。
――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。
そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。
前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。
(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)
生きる意味の考える単位
生きる意味の考える単位は、以下4つに分類される。とのことである。
1.宇宙と私
2.人類と私
3.社会と私
4.個人と私
(2と3の違いは生物として歴史を紡いできた、そしてこれからも紡いでいくであろう人類であり、3は現在に生きる社会であるということです。ここを分けているのは自分が観測できるか否かという部分なのではないかと思っています)
僕が以前分類したのは、(これも確か、別の方(某I又はQ氏)のコメントをもとにしたものであったと記憶しているが、宇宙、人類、個人、であった。
なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。
意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。
何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。
この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。
その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。
要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。
――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。
何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。
例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
と仰った。
そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。
どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。
つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。
結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。
なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。
意味の問い方
大事な点なので、そのまま引用。(表記は一部編集)
「生きる意味とは?」と問うことは、個人(私)と何かの関係性についての意味であるということです。そして意味というのは 、「私にとって何かの意味がある」と「何かにとって私の意味がある」という、
「私→何か」と 「何か→私」の二方向の観点があるということです。そして僕は、「生きる意味とは?」と問うことは 、「何か→私」の意味の観点を扱う問いなのだと思います。要は私の意味とは、「私と何か」の関係性の中で何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだと思います。
意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。
何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。
この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。
その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。
要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。
――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。
何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。
例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
と仰った。
そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。
どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。
上の小見出しの補足
だが、K氏のいうところの、「何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだ」という点は、既にそのあたりの問題点も看破しているように思う。つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。
結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。
生きる意味を考える上で外せないポイント
K氏は、以下3点を挙げられている。1.信仰と虚構
2.環境の影響
3.人間の本質的な特性
2について。
これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。俺が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。
これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。俺が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。
3について。
これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。
――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。
あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。
あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。
あとがき
(かっこ書きである。が、本文で大方書ききると、カッコ書きは別になくてもいい気がする。とにかく、良いコメントをもらったと思う。最近、カクヨムはおろか、ブログモチベーションも下がり気味だったけれども、ルーチン更新と、やる気はなくても、何とか気持ちを維持する方向にしていたのは良かったなぁ。大げさじゃあないけれども、僕は非常に充足感を覚えているのだ。仕事で、「そんなことまでできるんだ、すごいね」とか「ありがとう、助かったよ」と言ってもらえるよりも、比較にならないぐらい満足し、嬉しいのである。この感覚を忘れないようにしたい)PR
今日の一言「非常に意義深いコメントを頂けて嬉しい」「そのまさに『満足』について書く」
凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
前書き
まずは引用する。今回は、停滞と、満足、ということをキーに書いていきたい。「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。というのも、生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
――前々回コメントより
一般人として考えることの放棄
もう一つ、前提を引用する。これは自記事である。凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
完璧な満足ない
前回のつみたてNISA的記事の中で、その前に、「じゃあ社長になったからって、他者を気にしなくてよくなるのか。否。社長は、株主照会にびくびくする」と書いた。民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
完璧な満足について
であるからにして、話がそれたが、要は、現代社会において、誰からの評価も恐れずに生きていくことは、原理的(政治的)に不可能なのである。それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
完璧な満足についての話じゃないのか!
本題に入れない。満足の話、に入りたいのだが。だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
完璧な満足は存在しない
そこで、頂いたコメントの部分に入っていくのである。――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
>つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
>「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
救済とは何か
ここで、救済といっているのは、次の構造にもとづく。人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
俺にとっての救済でいい
が。その救済なるものを、全人類的に当てはめようとすると、失敗するように、できるだけ高度なシステムが作り上げられている――要は資本主義だったり、民主主義だったり。人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
成長や貢献をしない役立たずは死んだ方がいいか
問題は、「安心」という概念なのではなかろうか。つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)
今日の一言「仕事のモチベーションをあげたい」「イライラ対処」
長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
前書き
よし。一週間が終わった。長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
ルーチン更新として扱う
多分、24時近くになると思うから、この記事を土曜日のルーチン更新として扱うよ。土曜日に書けるか、ちょっと分からないからな。仕事のモチベーションを高めたい
いやー、やる気が起きない。いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
問題の本質はそこではない
まぁ、怒られることも、別に構わないのだ、それが大事なことだったりしたら、逆に「ありがとうございます!」って感じかもしれない。いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
価値
人間存在に価値があるのか。いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
変人としての生き方
変だから、正常になるのか、変を貫くのか、まぁ、それは課題である。ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
仕事の話じゃなかったか
ああ、そうそう。仕事のモチベーションの話である。なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
だから人付き合いは面倒
そうなんだなぁ……。やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
恋人の必要性
恋人はいたほうがいい……ということを、帰りながら考えていたのだが、だんだん、違う方向であることが分かってきた。まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
今日の一言「臨時の記事だ」「初心は忘れてはならない」
体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。
ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。
・幸せの、ありか。
・「書くこと」なんて、手段でしかない。
面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。
先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。
広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。
僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。
イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。
だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。
コメントだ。
上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。
もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。
だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。
面白そうな試みだ。
いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。
でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。
忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。
批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?
うん、それはそうだと思う。
ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。
だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。
僕は今はないと思っている。
40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
でも今は、ない。
そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。
このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。
でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。
という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。
まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。
(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)
前書き
眠れない夜に書く記事。体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。
ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。
・幸せの、ありか。
・「書くこと」なんて、手段でしかない。
面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。
先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。
はてなブログ面白そうだ
そいで、はてなブログというものを、僕も登録したことはあるけれども、やっぱり、ブックマーク機能というのは面白いなと思った。広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。
僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。
イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。
だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。
でもやめた、という記事
でも、ある機能というか、内容を見て、僕はやっぱりやめようと思った。コメントだ。
上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。
もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。
だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。
面白そうな試みだ。
いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。
でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。
忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。
批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?
うん、それはそうだと思う。
ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。
だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。
僕は今はないと思っている。
40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
でも今は、ない。
「現実」との輪郭
むしろ、だからこそ、良い。そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。
このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。
でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。
という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。
まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。
(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)
今日の一言「臨時の記事だ」「今日の一言が形骸に過ぎる」
ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
前書き
おお、この、書き初めを「前書き」とすることの効用といったら!ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
NOTEに登録した
もう昨年末あたりから、いずれ登録しようと思っていたのだが、この体たらくである。だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
自分が登録しているサイト等
創作関連で、自分が登録していたり、活動しているものをまとめてみよう。・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
活動の優先度
ブログ>自サイト>その他。であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
傲慢な気持ちもある
いや、しかし、その、書いておかねばならない醜い感情なのだが、正直、なんかこう、面白くない記事が多いのである。なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
人はみな幸せに楽しく生きるべきである
僕はネガティブな人間である。しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
さらに第三次元を目指せ
だがそれだけ(第二の次元)だけでも、まだ足りない。その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)