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文字を書くというのは尊いことに思う
2020/11/03 21:52 | Comments(2) | 生きる意味
今日の一言「休みな気がしないが明るいうちに終われるとまぁましに思う」

まえがき

 休日も仕事のことを考えないといけないというのは、面倒なこと、限りない。
 仕事とはなんだろう。
 Youtube動画見て、面白かったと、感動したとき、しかしそれは一か月のサラリーマンの給料分を払う必要は、ない。
 ああ、いい作品だったなと、ただそれだけで終わる。有料動画もあるだろう。一回100円かもしれない。100円でも、1000人が見たら10万円だ。

 マッサージ師さんに、肩をもんでもらう。20分3000円くらいだろうか。気持ちがよい、以上、である。サービスである。

 モノとサービスの「移動」が価値を生み、金を生み、仕事が生まれる。

「便利」を手放せば、仕事は減る。――例)電気水道インフラ

「自由」を手放せば、仕事は減る。――例)24時間営業のコンビニ

「活動」を手放せば、仕事は減る。――例)交通サービス

「安全」を手放せば、仕事は減る。――例)警察・警備


 上の考え方では、「役に立たないものは切り捨てる」という功利主義が前面に登場するだろう。
 弱者や、働けないものは社会的な「コスト」になる。

 そういった考え方が、望ましい、生活のしやすい、だれもが暮らしやすい社会とは相いれないことは感覚として分かる。

 しかし、努力をしない人、できない人、フリーライダー、だらける人、そういったコストをどこまで許容すべきなのか。

死とは何か

 シェリー教授の本について購入したのはいつだったか。
 紙の本を買ったのだが、結局キンドルの電子版を隙間の時間に読んでるぐらいで、いまだに読み終わってはいない。
 電子版は半分以上を読んだ。

 死に対しての僕の考え方と似ている気がしたので、割と読みやすい気がする。
 神の概念とかに拘らず、反対意見も挙げてそれを検証していくスタイルに説得力があるように思う。

 自殺についての考え方。自殺は絶対究極に正しいわけでもないが、絶対にダメなものでもない、というのが教授の意見だと思う。そして僕もそう思う。

 人生を数値で表してみる。もちろん、これは比喩的なものだ。単純に快楽と苦痛の総和としてみる。仮に「幸福量」と呼んでみる。

 長く生きるにつれて、どんどん幸福量が下がっていく。
 しかし、幸福量が0でなければ、死ぬ必要などない。仮に失意のどん底で、つらいいじめにあっていようが、しかし、アニメや映画見て感動する時間が少しでもあれば、まだ死ぬべきではない。創造価値がなくても、体験価値がある。

 しかし、さらに幸福量が下がって、0よりも小さくなったとする。
 苦痛しかない。良いことがあっても、苦痛はそれをはるかに上回る。まともな思考もできない。高熱にうなされたことがある人はわかるだろう。いくら学校や会社が休みでも、大好きな漫画やゲームすらやる気にならない。ただ、痛みや苦しみが通り過ぎるのを待つだけだ。

 そんな苦痛がずっと続くだけの人生。
 これに対して、「人生とは何か」の著者精神科医のフランクル氏は、いやいや、それでもまだ生きる意味はある、態度価値があるのだ、という。態度価値とは、他者がみて、「ああ、あの人は立派な人だ」と影響を与えるようなもの――と僕は認識している。違うかもしれない。そのあたりがまだ理解できていない。でも、例示されていたのは、そんなようなもんだった。生きる意味は、人生から逆に求められているのだ、と。

 僕はその態度価値的なことがよく分からない。やっぱり、苦しみしかない人生だと、死んだほうがまし、という状態があるのではないかと思う。


 問題は、それが「今」なのか、というところだと思う。
 高熱でいくら苦しんでも、「死んだほうがましだ」と思う人はいないだろう。
 回復する見込みがあるからだ。
 でも、回復する見込みなんて、分かるものだろうか。99%死に至る病でも、1%の確率で助かる可能性があるのでは……?

自殺は絶対ダメではない

 ここまでの思考で、僕は納得するだろうと思う。
 要は、1%でも回復するかもしれないから、自殺は、だめだ、と、結論するかもしれない。――でも、きっと僕は、なんかしっくりこなかったろうと思う。

 しかしシェリー教授は、さらに一歩進んでいる。
 下の、こんな例だ(僕の記憶だけで書くので、細部は違うかも)。

 あなたには、選択する権利がある。
 99%の確率で、一生続く拷問を受けるかもしれないが、1%の確率で、一生お金に不自由しない暮らしができる選択をするか、何もしないかだ。

 と。
 この場合は、多くの人は、99%を選んだほうが賢い。それが妥当だ。物語的には、99%を選択した方が面白いのだろうけど、それはリスクが大きすぎる。

 重い病気におかされた人の選択も同様ではないか、ということだ。
 確かに、医療技術の発展により、劇的に回復する可能性が、1%はあるとする。しかし、世界の症例においては、5年以内に増悪し、死に至るケースが99%だとする。

 まだ、そういった選択ができるような思考ができる状態だと、想像するのが難しいが、そもそも、もう何も考えることもできず、体も動かせず、ただ痛みに耐えるだけの時間が、延々と続く――そんな状態で、確かに、1%は回復する可能性があるけれども、もう殆どは死んでしまう……そうだとしたら、どうする?

態度価値

 もちろん、上の考えは、「幸福量」の考え方を基盤にしている気がする。
 快楽と苦痛の量だけが、人生なのか、そこに考える余地はあるかもしれない。フランクル氏のいう、態度価値だってあるはずだ、そういう考え方もあるかもしれない。

 でも、凡人な僕としては、やっぱり、自殺は必ずしもダメというわけではない、と思う。

 もちろん、いじめを苦にして自殺、なんてのは、あっちゃいけないと思うわけであるが。




 久々に、カテゴリを、「生きる意味」にした。
 イラストは、どうしようかな、ネタは何もないのだが、簡単にでも描こうかな。

 とにかく、今回の記事は、仕事で気が休まらないので、書くことにしたものだ。
 めっちゃ心配。
 自分でコントロール完全にできることじゃないと、心配。
 やっぱり、管理職とか向いていない気がする。今は平社員だが、今以上に気が休まらない気がする。

 50%ぐらいの成功率の時が一番人は頑張れる、とかって自己啓発も読んだことある気がするが、それは、俺にはつらい。
 不安すぎる。いやその、「できませんでした」が通用すればいいけれども、たいていそういう仕事ばかりじゃないだろう。ピザのデリバリーで、注文されたけど家がわからなかったので届けられませんでした、じゃあダメだろう。

 不安。

 不安とは何か。

 そんなことはどうでもいい。単に、落ち着いた生活がしたい。
 落ち着いた生活とは何か。知らない。

 知らないことは、実現されられない。引き寄せの法則。自らが望んだ人生にしかならない。

イラストコーナー

 なんか、30分時間があれば、なんか描いてみようかという気持ちになるのは良い傾向に思うのだが、実際やり始めると、どうにも時間を使ってしまう。1時間15分ぐらいだろうか。



 お絵描き添削に応募したら「落書きを楽しんでいるレベルですね」と言われてしまうが、まぁしかし、1時間ぐらいでこれぐらいの出来までは描けるようになったというのは成長といえなくもない。
 まぁ、雑なのであるが、なんか正確にアタリを描かなくても、なんとなくの立体は描けるようになった気がする。
 うーん、でも、見れば見るほどいろいろ直したくなる……というのは、きっと悪いことではないのだろう。

 直したい、というのは良いと思う。
 なんかいまいちだけど、どうしたらいいか分からない、これは良くないと思う。

あとがき

(かっこ書きである。あああ、気分転換のイラストのはずが、「どうしたらいいか分からないのは良くない」というのはまさに仕事である。なんか今のままではいかんのだが、どう改善したらいいか不明――これはストレスである。あーもうやだなぁ……。あーもう、酒だ、酒をもってこい。もう冷蔵庫にビールがありません! なんだと!! せぷくだ! ふはは、しかしこんなときように、ジンを常備しているのだ。ライムジュースと混ぜる。ジンライムというらしい。そのままだな。――違った。炭酸水を使ってるので、ジンリッキーというらしい。ちなみに、ギムレットは、ジンライムをシェイクしたものだそうだ(細部に違いはあるのだろう)。へー。まぁ、その、いずれ終わりはくる。来年異動になるかもしれないし、会社がなくなるかもしれないし。そうしたら、今のプロジェクトの悩みなんて、全然大したものではないのだ。不安があれば、それを取り除く行動を続けるだけだ。――という考えのもと、休日にも仕事をしているというのもある。結局不安でゆっくり休めないなら、何かしら進めといたほうがましだろう)

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コメント

 幼少期に喘息の発作で苦しんだ身としては、本当に酷い時は「苦痛が通り過ぎるのを待つだけ」というのは確かにそうなんですが、本人の感覚としては本当に何も考えていられないので、そもそも「これが続くなら死んだ方がマシかもしれない」とか「自殺しよう」とかさえ考える余裕すらありませんでした。
 今は日常生活を送れるぐらいに安定しているので、「この喘息とは一生付き合って行かないといけないのか、自殺とどっちがいいか」と思考を巡らせることができますが、当時はもう呼吸困難で思考力も奪われていたのでパニック状態みたいな感じで、本当に何も考えられませんでした。強いて言えば、「息ができない苦しい!(酸素くれ!)」ぐらいでしょうか。
 本当に肉体的に追い詰められている場合は思考する余裕がないことが多いかもしれません。
 ある程度思考できる余地のある追い詰められ方をしてないと、「自殺」という選択を吟味できないかもしれません。

>イラスト
 ある程度絵を描いて、自分の絵柄の基礎になるイメージが固まってくると、特に意識しなくとも感覚で形が取れるようになってくるんですよね。
 私はこの感覚を「手癖」って呼んでるんですが、私の場合は幼少期、一番落書きを楽しんでいた時期に触れていたゲームや漫画に強く影響されています。色んなキャラを描くのではなく、好きになった特定のキャラを集中して描いていたせいか、髪型や服装といった要素以外(要するに顔)での描き分けが未だに苦手だったりします。

 追伸。
 ブログ全体のデザインが変わっていてちょっとびっくりしました。
 率直な意見を言うと、イメージが明るくはなりましたが、新着コメントの確認がちょっと面倒になった気がします。環境依存かもしれませんが、私の環境ではブログ記事単体の文字サイズが小さくなったため、文字色と背景色の関係も相まって「Comments」のところの数字が非常に見にくくなってます。それ以外だと、右側の「最新コメント」項目までスクロールしないと新着が確認できません。以前のレイアウトでは、上部メニューで新着コメントの有無が確認できたので、それがなくなったのが不便に感じてしまいます。
posted by 白銀URLat 2020/11/07 06:06 [ コメントを修正する ]
 ありがとうございます。
 ほんと、肉体的に追い詰められているときは、何も考えることもできないですよね。
 人生の最悪の地点までは「生きる意味がある」とされたとしても、その地点に達してしまったら、自殺という選択すらできないとしたら、選択の余地があるその時がまさに、最後のタイミングなのかもしれないと――それは本でも触れられていたことですが、私自身もなるほどな、と思いました。
 いやしかし、ほんとうに幼少期の喘息では大変苦しまれてらっしゃったのですね。私も3歳ぐらいかには、よく夜に喘息の発作が起きたこともあった気がしますが、あまり覚えてないなぁ……。
 とにかく、今はある程度落ち着いているようで何よりです。

 イラストは、格段にレベルアップされていて驚きました。まぁしかし、白銀さんならきっとそうだろうと想定内でしたが!(笑)
 毎週楽しみにしてますね。
 私も手癖ができるくらい練習重ねたいと思います。

 ブログデザイン、ご意見大変助かります!
 取り急ぎ、コメント有無を各記事(エントリ)の上部にもってきてみましたが、いかがでしょうか? 表示の文字も若干大きくしてみました。
(あと、右側のアーカイブ(月別の記事)が長いことに気づいたので、下に表示されるようにしてみました)
 他にお気づきの点あればなんなりおっしゃってください(自分ではなかなか気づけないので……)。
posted by endoat 2020/11/09 00:19 [ コメントを修正する ]

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