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ルーチン更新に託けて生きる意味を
2019/08/11 19:22 | Comments(2) | 生きる意味
今日の一言「重要なコメントを頂いた」

前書き

 ルーチン更新である。いやぁ、ほんと、最近、仕事が忙しくて苛々する。何というか、「答え」がない仕事の合間に、ほんとに通常業務的な締め切りも近づいてきて、さらに他の方々からの相談事項的な奴も紛れ込んできて、変な苦情も入ってきたりと、「予定」どおりに全然いかないところもイライラを助長する。

 そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。

 ――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。

 そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。


 前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。

(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)

生きる意味の考える単位

 生きる意味の考える単位は、以下4つに分類される。とのことである。
1.宇宙と私
2.人類と私
3.社会と私
4.個人と私 
(2と3の違いは生物として歴史を紡いできた、そしてこれからも紡いでいくであろう人類であり、3は現在に生きる社会であるということです。ここを分けているのは自分が観測できるか否かという部分なのではないかと思っています) 
 僕が以前分類したのは、(これも確か、別の方(某I又はQ氏)のコメントをもとにしたものであったと記憶しているが、宇宙、人類、個人、であった。
 なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。


意味の問い方

 大事な点なので、そのまま引用。(表記は一部編集)
「生きる意味とは?」と問うことは、個人(私)と何かの関係性についての意味であるということです。 
そして意味というのは 、「私にとって何かの意味がある」と「何かにとって私の意味がある」という、
「私→何か」と 「何か→私」の二方向の観点があるということです。 
そして僕は、「生きる意味とは?」と問うことは 、
「何か→私」の意味の観点を扱う問いなのだと思います。 
要は私の意味とは、「私と何か」の関係性の中で 
何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだと思います。


 意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
 そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
 僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。

 何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。

 この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
 その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。

 その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。


 要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。


 ――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
 ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。

 何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。


 例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
 と仰った。
 そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。

 どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。

上の小見出しの補足

 だが、K氏のいうところの、「何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだ」という点は、既にそのあたりの問題点も看破しているように思う。
 つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。

 結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
 確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。



生きる意味を考える上で外せないポイント

 K氏は、以下3点を挙げられている。

1.信仰と虚構 
2.環境の影響 
3.人間の本質的な特性 

 2について。
 これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
 むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。

 3について。
 これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
 そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
 それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。


 ――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
 同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。


 あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
 キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。

 あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。

あとがき

(かっこ書きである。が、本文で大方書ききると、カッコ書きは別になくてもいい気がする。とにかく、良いコメントをもらったと思う。最近、カクヨムはおろか、ブログモチベーションも下がり気味だったけれども、ルーチン更新と、やる気はなくても、何とか気持ちを維持する方向にしていたのは良かったなぁ。大げさじゃあないけれども、僕は非常に充足感を覚えているのだ。仕事で、「そんなことまでできるんだ、すごいね」とか「ありがとう、助かったよ」と言ってもらえるよりも、比較にならないぐらい満足し、嬉しいのである。この感覚を忘れないようにしたい)

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コメント

 先ほどまた長文のコメントを書いてきたわけですが、やはり他者からの反応があると嬉しいですよね。

 「意味」というものが後天的に人が付与するものであると考える私の思考においても、自分を中心にした観点と自分以外からの観点は重要性が高いものだと言えます。
 というのも、「自分→周囲」と違って「周囲→自分」は根本的に自分とは価値観や思考の違う者からの認知になりますから、同じ行動をしても全く違う評価や意見、思考を持たれることがあるからで、そうなった場合の「自分」というものの認識には差が生じます。
 自分の思っているものと違う認識になった時、意味や価値もまた違うものになり、それを一致させることは極めて難しいわけで、与えたい印象を与えたいように振る舞おうとすれば、場合によっては自分の中での自分とのズレが生じたり。

 他者に自分の存在を、自分にとって良いと思える形で認めてもらえる、ということには「意味があった」と言いたくなる構造があるように思えますね。
posted by 白銀URLat 2019/08/15 05:53 [ コメントを修正する ]
白銀さんから教えていただいた、承認欲求の方向性についてを頭に入れてから、このコメントを読むと、さらになるほどなと思いました。
というのは、周囲から自分、というのと、自分から周囲、といった見方です。

承認欲求のところで、周囲から認められたい、という承認欲求のほかに、自分から周囲に認められたい……、これは、自分が考えるあるべき自分であると認められているいった意味とらえましたが、……あれ、あってましたっけ……。

自分から周囲が認められるか、って、どういうことか。先日読んだ時は腑に落ちていたのですが、記憶が弱くてダメですね…。
posted by 遠藤at 2019/09/02 22:30 [ コメントを修正する ]

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