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一つずつ実感できる答えを創っていく
2016/05/05 06:13 | Comments(0) | 生きる意味
幸せとは何か。
愛とは何か。
生きるとは、人生とは何か。
コミュニケーションとは何か。

様々な事柄に対して、繰り返しでも構わないから、自分が実感してきて、「正しい」「真実」と思える、強く感じられることを、メモしていく。

幸せとは何か

理想自己と現実自己の乖離が無い状態である。
すなわち、なりたい自分になれていること、それが幸せといえる。
中古書店で、ある外科医の新書にあったが、幸せのハードルは可動式であるということ。
がんになってよかった、と、例ではあがっているけれども、そこまでの心境にいたるには、相当の訓練、修業が必要だと思われる。
私のような凡人――この凡人という言葉も、よくよく書いておかなければ、たぶん誤解のもとになるだろう――においては、神や仏のレベルに至ることを目的としてはならない。もちろん、なってもいいのだけれども、それこそ、高すぎる理想は、不幸を呼び寄せることになる。

同時に、本当に望んだことというのは、必ず実現するように、世界はできていることも忘れてはならない。
こんなことを書くと、怪しげな宗教に思われるだろう、だから、この辺りも注意して書いていく必要がある。
そもそも、「本当に望んだこと」という定義が、あやふやでしかない。この辺りも、注意深く書いていく必要があるだろう。

ああ、やるべきことが、書くべきことが、それらはほとんどが「前提」となることなのだけれども、多い。

まず、この記事では、「理想自己」と関係させ、自分の望むことを掘り下げていくことを目標にしよう。

理想自己とは何か?


幸せに生きる方法、仕事ができる人、とかモテる人、とか、そういった自己啓発本を多く読んでいけば、必ず、共通したことが書かれていることが分かる。
「セルフイメージ」が、しっかり意識できているかどうか、ということだ。

僕って何? という小説のタイトルが浮かんだ。その小説は、20代前半の大学生が、大学紛争に巻き込まれながら自己を確立(?)していく物語である。

現代が決定的に過去と違う点は、不透明性であり、その不透明性の要素として、自由がある。
エーリッヒ・フロムの、自由からの逃走を引用できるほど勉強できていないが、選択権があるということ、自己決定権があるということは、ある意味で重い責任にあえぐことになる。

この、自己責任という言葉で、弱者のセーフティネットが壊されている、という指摘をする知識人も多い。
ある、精神科医のブログ、において、
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20111030/p1
現代は、勉強をできない人は便利に暮らせない(生きづらい)、という表現があった。


なるほど、これは、まさに自由からくる帰結と思う。言われたことをこなすだけ、というのは、不自由の象徴であって、その抑圧からはさまざまな文学が生まれた。
しかし、その文学というのは、その時代のすべてを、すべての人のことを表現できていたのだろうか。
例えば、の思考実験に過ぎないが、ある独裁国家において貧困で国民がうえている、というのは別として、「言われたことをする」ことによって、ある程度の暮らしが保障されているとしたら。テレビでお笑いを見てげらげらと笑ったり、子供と公園で遊んだり、週に一回はおいしいものを食べられたり。

自由は必要なのか

理想自己とは何か、という話から、また脱線している。
ブログを書く意味、に繋がることであるけれども、結局、口語のコミュニケーションにおいては、どうしても脱線するのだ。こうやって一人で書いていてもそれが起こる。

頭の良さ、頭の回転の速さとか、そういったことを煽る言葉もある。
感受性の強い僕などは、それらに本当にたくさん振り回されてきた、それは結局、現実生活においての承認の不足が原因でもある。ただ、欠乏がなければ、人は真剣に行動できないこともあるのだから、勉強嫌いの子供を教育するには必要なのかもしれない。

ただ、矛盾するようだが、ある日突然、自由の世界に放り込まれたとき、重要なのは、主体性といった言葉に表現されるようなものだ。

また、脱線している。小見出しをつけるのは、話の方向を定めるのに重要だけれども、自由に書けなくなるという制約もある。この試みは、最近、ここ1年くらいに始めたことなので、これがどう影響するのかはまだよくわからないけれども、後から読んだときに便利なのは間違いない。


自由は必要だと思う。なぜならば、話が同語反復のようだけれども、不透明な時代だからだ。
何がベストかというのは、一部の人間が考えて、それだけを行っていけばいいものではなくなっているのだ。
幸せのハードルは可動式である、という言説、これは、努力の否定にとられる可能性もあって、本当につらい状況で、それが、「自己責任」によらない状況、――だれかにだまされているとか。それでも、自分がだまされたおかげで、ほかにだまされる人がでなくてよかったとか、このハードルの可変は、すべての事象に対応できる。それが故に、僕が最近とても重要視している、「実感との乖離」が恐ろしい問題になる――においては、誰かが目を覚まさせてやる必要だってある。

ポジティブ思考の限界

僕は、ポジティブな思考が絶対的に正しいと思っているし、幸せというのは、理想自己と現実との一致だと考えているのだから、すべての人生の事象に対して、うまく適応できるはずなのだ。

ところが、上にあげた「騙されている」例のように、複雑化した社会、個々人のスタンドアローンが主になった社会においては、例外的な事象が発生する。それはもはや、例外とはいえないほどに、よく起こる。

彼女に振られた、離婚した、愛する人と死別した、いやいや、どう考えても悪いことだろう、ということも、ポジティブ思考はプラスにとらえようとする。


泣いたっていいんだ。当たり前の処方箋である。しかしながら、ポジティブ思考を絶対信仰する場合、それは間違った感情なのである。


もはや、時代とか関係なくなっているが、「答えなんてない」というのが、ひとつ答えとして浮き出ているのである。

真実性の不足と希求

先の記事で、このブログは、真実と永続性をさがし求めるものだ、と書いた(そんな表現はしなかった気がするが、思いはそうだ)。

それにもかかわらず、真実というものがない、ということが真実だということだとしたら、もはや、このブログのひとつの意味は果たされた、ということになる。

このあたりは、今日一日で、書きつくせるものではないだろう。

当たり障りのないことを書き連ねて、どこかの記事から引用したり、書籍を参照したり、ひとつの論文というか、レポートにすることはできるだろう。

しかし、あえて、このようにブログという媒体で試みるのは、何より、「実感」を強く意識してのことである。
では、先ほどから登場している実感とは何か。

実感とは自己である

実感とは、自分自身であると考える。
本当に心から思うこと、といっていい。自分自身の声。

なので、この実感というものを、もっていない人も当然存在すると思う。
いわゆる、「本音」のコミュニケーションを主体にこれまでやってきた人たち。
よく笑い、よく泣いて、ときにぶつかりあって、立場が違う人からは迷惑がられたり、愛されたり、とにかく、自分と自己との区別がない人たちだ。

他人、自分、自己と、かなり適当な言葉の使い方であるが、表象する存在としての対が、自分と他人であり、自己とは、自分の中に存在する核のようなもの、である。

表層の自分と、それを統制する自己とが一致している場合は、実感そのものは、そのまま自分の経験であるので、敢えて実感として取りだてて考える必要など存在しない。

本音のコミュニケーションの恐怖

本音でぶつかりあう体験が少なかった人たちは、自分と自己を切り離して、自己に服飾を施していく。
本音のコミュニケーションの重要性は書くまでもないが、そうはいっても、それが軋轢をうむのであれば、様々な修正が必要になるのも、また明らかである。





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