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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
行動せよとの言への反論
今日の一言「論理的な納得であれ感情的な納得であれ」「重要なのは行動?」

自分の血肉にするには

 私は、頭が悪い。
 これを証明することについては、枚挙にいとまがない。知識、推論力、身体的能力、様々な分野における欠乏。そして何より、頭の良い人は、昨日のような長い文章は書かない!

 止めどなく溢れ出る思考や感情といったものを抑え込むにはどうしたらよいのだろうか?

 それは、納得することである。ああ、僕は書ききった。すべて完全に証明できた。そんな風に思えたとき、思考は取り敢えずの休息を取るのである。

定理1:思考を止めるためには納得することである


 しかし、最近の方針、すなわち生きる意味を考える(=自分を知る)ことで大事なのは、思考を排して、自己の感覚感情を素直に感じることである(=実感)。

定理2:実感を得ることが重要である


 ここで、定理1と定理2が真(正しい)としてみる。
 条件を抽出してみれば、「思考を止める」ことと、「実感を得ること」が同時に成り立たなければいけない。これは、成り立ちそうだ。
 しかし、定理1の二つ目の条件、「納得すること」と「実感を得ること」はどうだろうか?

 これも……成り立ちそうだ。しかし、違和感がここから生じる。納得することと、実感を得ることというのは、同値なのだろうか? この違和感は、「納得」という語に、僕は、どうやら、「妥協」という形容を含ませている可能性に起因しそうである。


 心底、本当に、疑いなく完全に納得すること。これは、実感といってよいだろう。
 しかし、「納得」という言葉を用いたとき、僕は、所与の条件下においては正しい、という意味で用いている気がする。
 論理的な推論によって、疑いえないもの、それが「納得」である。
 対して、「実感」とは、根拠は明確にできないが、とにかく疑い得ないものである。

実感を得るには

 思考を止めるという目的を果たすためには、「納得」と「実感」が重要であることが分かった。
(納得と実感の違いはともかく、その両者が成り立てば、思考は不要になるからだ)

 納得するには、現在おかれている状況(所与の条件)を明らかにしていけばよい。そのうえでの判断をすれば、納得ができる。

 一方、実感を得るにはどうしたらよいのだろうか?


 何らかの経験をする必要がある。
 それは、アニメーションを見る、人と関わる、本を読む、仕事をする、遊ぶ、運動をする、など。何か行動をする必要がある。

 行動の結果のフィードバック、それが「実感」である。

 ということは、僕が非常に恐れている結論が迫っていることに気づく。

思考を止めるには

 実感が大事。
 その結論から導けることは、すなわち、思考を挟むまでなく、継続して経験(体験)をすること、つまり、行動をし続けることである。

 そりゃそうだ。

 うだうだ考えている時間があったら、何からの行動をした方がよい。当たり前、真理だ。



 しかし、ここでは、もう少し実践的に、踏み込んで、その行動や思考というものを考えていきたい。

 つまり、……これは先日どこかで書いたことだと思うが、思考がゼロということはあり得ないのである。
「深く考えていない」という事態はあるかもしれない。しかし、まったく無心の状態で何らかの行動ができるだろうか。朝起きて歯を磨くとか、そうした自動的な行動は、ここでは除外してもよい。ある程度、高度な行動をするとき、それは勉強でも仕事でも、友人との会話・おしゃべりでもいいけれども、そうした行動をとるときに、思考が何もないというのはあり得るだろうか。

 これゆえに、僕は、「うだうだ考えているよりは、行動しなよ!」というアドバイスをズタズタに切り裂いて唾棄したい。おめーらさ、「行動」って何だか具体性を考えてから言えよ。所詮、先日僕が挙げたような、

・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる
生きる意味を徹底して考える2017/5/3

 といったものだろう。
 ユウチューバーはともかく、それらのいくつかにかかる行動はしているのである。何もせずにうじうじしているわけではない。というよりも、そんな、何もせずにうじうじできる人などそうそういない。引きこもりの人だって、ネットで怨念を吐き散らしているかもしれない。それだって十分行動である。

良い行動

 しかし、「行動しなよ!」とアドバイスする人も、そんな思考が足りないわけでもないだろう。もちろん、その「行動」という言葉には、「良い行動」という含意がある。
 その人にとって有意義な、役に立つ、意味のある、そんな行動を想定しているのである。

 よし、じゃあ、いっちょ行動してやりますか!

 だが、何を?

 なんだろう、それは、君が良いと思うことを、好きだと思うことを精一杯やったらいいんだよ!

 分かった! ありがとう!!


 茶番だ。つまり、その正しい、良い行動というのは、個々その人それぞれにおいて選び取っていくものである。
 そしてそれは、もう最後まで書く必要もなかろうが、結局「思考」の必要性に巻き戻っているのである。



 同時に、僕も分かっている。
 生きているから生きているんだ。だから何? 意味? なんでそんなこと考えるの? と。

 そう言い切れる人が強い。正しい。これは「納得」している。

 だが、「実感」ではない。


 どうにも、こうにも、そう言い切れないのである。
 このズレ。この感覚のズレが、それは僅かで、殆ど意識もされないことであるのだけれども、他者とのコミュニケーションの際に、少しずつ澱のように積み重なっていき、関係が深まるにつれて決定的な裂け目となるのである。

 このことは、あまり口にも出さないし、書かないように、無意識に制御してきた気がする。
 しかし、最近、(現実方面の)身の回りのコミュニケーションにおいて、親しい人が増えてきたため、注意喚起を含めて書いておきたかった。

 つまり、仲良くなればなるほど、僕は嬉しくなってしまうのだ。
 そうすると、僕は、相手に、分かってくれているという幻想を抱く。いやそれが、幻想でなければ全然問題ないのであるが、ここは、特にここ1年ほど前に強く実感したのであるが、マイナス思考やネガティブ思考な人も、僕のトートロジーになれない実感を、理解できているわけではないということだ。

愚痴を言う人の本音

 ああ、つまらない。
 生きている意味がない。
 面白くない、死にたい。
 むかつく、いらつく。


 そういった、いわゆる愚痴というやつ。僕は、ネガティブな人を嫌いではない。(同時に、何度も書いているように、僕自身は、実のところ非常に(反転した)ポジティブ思考なのだけれども)

 だから、そういう感情への共感性も高いから、数は多くはないけれど、そういう人と仲良くなることはある。
 でも、仲良くなって深まっていくにつれて、「ズレ」があることに気づく、こともあれば、ついつい嬉しくなって気づかないこともある。

 そのズレってのは、生きることの自明視である。

 ネガティブなことを言う人だからと言って、――いやむしろ、そんな人はよりその傾向が強そうだが――たぶん、僕の書いてきた記事を読むと、圧倒されて、言葉を失い、僕のことを気持ち悪いと思うだろう。

 気づくべきは、愚痴を言う人は、「愚痴を言ってすっきりしたい」のである。



 いやもちろん、僕も、「イライラ対処」とか言って、完全愚痴を書き連ねている場合がある。
 でも、それはどっちかというと、一時的な対処であって、本来の目的は、(僕自身の)生きる意味を徹底して明らかにすることである。(キリッ)

 とかって言うと、ものすごく引かれる可能性が高いので、気を付けようという記事であった。


EDENのセシィの死

 唐突に話が変わる。僕が高校ぐらいかなぁ、に、友人に紹介されて衝撃を受けた作品、遠藤浩輝さんの「EDEN~It's an endless world!~」という作品があるのだけれども、
マヌエラさんはヘロインさえ絡まなければセシィをまっとうに愛していたようにしか読めないのだが、なぜ肘パカ刃物女を使う必要があったのかさっぱりなのだ。亡命するために娘を囮に使った、まではわかる。だが、それならそれだけで良かったはずである。肘パカなぞ雇う必要はまったくなかったように思える。そのまま娘は放置して亡命すれば良かったのではないか。なぜそこでセシィを積極的に害する必要があったのか、コレガワカラナイ。

 と、感想を書いて頂いた方がいらっしゃったので、少し考えてみたい。

 といっても、「何故セシィが死ぬ必要があったのか」ということは、特に何も考えていなかった。
 確かに、非常にショッキングなシーンであったけれども、まさか、彼女がここで死んでしまうなんて思ってもみなかったけれども、でも、単なる事故死みたいなもんだろうとしか思わなかった。

 結論。特に、意味は無い。

 いや駄目だ、彼の方は、「確かに、現実は無常で無意味な死なんて仰山ある。だが、物語とは、そうであってはならない。主要な人物については、外連味でもいい、強い意味をもたせなければならない」と仰っている。のであれば、そんな、無意味で片づけることはできないだろう。

 ただ、やはり、セシィが死んでしまったのは、肘パカサイボーグが彼女を殺したのは、特に然程の意味はなかろう。肘パカサイボーグは、殺しを愉しむ残忍な奴だという設定はあったし、マヌエラを連れ出す際に警備員や治療施設の患者などを殺害する手口について、「これは外部の犯行だ(マヌエラの彼氏のペドロの手口ではない)」と言われていたほどである。

 さらに、マヌエラは、確かに表面的には子供をまっとうに愛しているようにも見えなくもなかった。治療施設で楽しそうにセシィとテニス(バトミントン?)を行う姿はほほえましい。だが、マヌエラは、過去に、薬欲しさに子供(セシィとは別)を売り飛ばすような前歴もある。そして、実の子のセシィもまた、母が自分のことをそれほど愛していないということに薄々気づいている。

 セシィをさらって、どうするつもりだったのか?
 という疑問については、大方、スナッフムービー専門の人さらいにでも売り飛ばしたのではなかろうか。もしくは、肘パカさんの報酬の一部だったとか。


 ただし。セシィの死自体に意味はなくても、物語としては、その死は必然だったようにも思える。
 主人公のエリヤくんは、最終的に、黒幕のペドロさんの弟と、マヌエラさんとを狙撃し殺害する。愛した弟と彼女(マヌエラ)を失ったペドロは絶望し自殺を図るわけだが、果たして、エリヤは、セシィの死を聞かなかったら、マヌエラの頭を撃ちぬいただろうか?
 おそらく、マヌエラまで殺すことはなかったろう。例え、本当に娘を愛していなかったとしても、セシィにとって、マヌエラは唯一の肉親、母親なのである。エリヤの目的は、内務省の思惑のため、ペドロの弟の機密情報の流出阻止(及びペドロにツケを支払わせる)ことだったので、マヌエラまで殺す必要はなかった。だが、結果的に、愛しい女と弟を殺し、絶望のうちに自殺させるという、(虚しい)復讐を果たしたのである。

 セシィの死には意味は無かった。しかし、物語の進展には、大きく影響した出来事であったのだ。



 ネタバレになるからこれ以上は書かないけれども、この作品、その「無意味な死」というのがテーマそのものであるようにも、僕は勝手に思っている。
 作者自身(※)、「連載を続けている途中で、何が書きたいか分からなくなったときもあった」と仰っていることもあったので、実際どうなのかは分からないけれども、個体としての死は無意味でも、大きな物語としては意味があったりする……でもそんなの詭弁だ! 俺は(私は)死ぬのなんてまっぴらだ! と。
 じゃあどうすりゃいいんだ、と。そんな風に物語は進んでいく気がする。たぶん。そして、一応、前にどっかで書いた気がするけれども、「それでも人は生きていく」的なエンディングではあるのだけれども、その「無意味な死」というのに対して、ある程度の「回答」は描かれているので、この作品は、僕の書棚に今も置いてあるのである。(アイアムアヒーロー、お前は、次の整理対象だ!!)


※そうそう、実は、コミック表紙の裏の折り返し部分には、毎回、作者のコラムが載っていて、それが非常に面白いのである。僕のブログのべらんめぇ調は、結構それに影響を受けている気もする。キンドル版では、そのコラムは読めるのだろうか……?


(なんか、まだ書き足りない。しかし、でかける予定があるのでここまで。来週もまた、平日は殆ど時間が取れなそうだ。気が重い。やはり平日のどっかしらで整理する時間がないと、気がめいっていく気がする)

拍手[2回]

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オレは『納得』したいだけだ! 『納得』は全てに優先するぜッ!!
 この納得できない感の根底にあるのは、「マヌエラさんには我が子を深く愛していてほしい」「深く愛していながらヘロイン欲しさに売っぱらってほしい」という願望なんですよねww
 もし愛していなかったら、ただのクズ親の一言で片づけられるキャラクターになってしまい、その死にざまの味わいが薄ぺらくなってしまうと思うのです。

 仰る通り、肘パカさんが駅に現れたのはお仕事ではなく報酬の受け取りのため、と考えれば半分ぐらいは納得できるんですよね。ペドロとマヌエラがわざわざ自分から「セシィをさらって惨い目に合わせてほしい」と頼んだわけではないということですから。

 ただ、それでも半分。二人の目的から考えて、セシィの生存が障害になる可能性など万に一つもありえなかったし、二人がセシィを憎んでいたわけでもなかった。
 邪魔になるわけでも憎いわけでもない小さな女の子を、殺人鬼に差し出す……うーんわからん。そんなわけのわからない理由なき凶行に及ぶ破綻者ではないように思えてならないのです。
 まぁ肘パカさんが「セシィじゃないとヤだ」と駄々をこねたので、悩んだ末に……という流れなら……いやしかしそもそも軍事施設でもないクリニックに押し入って女一人かっさらってくるという、正直なところ大して難易度は高くなさそうな仕事に使う人員が肘パカなのか。そのへんのチンピラを札束でひっぱたいても問題なくできそうではなかろうか。いやいやこの場合、ペドロはサツに睨まれてるんだから、関与の証拠を残さないプロフェッショナルを使う必要があったのではなるまいか。というか今読み返したらクリニックに押し入ってきた肘パカに対してマヌエラは「は? 誰こいつ」なリアクションだった。つまり肘パカを雇ったことにマヌエラはまったく関与していない。ということはその報酬として娘が捧げられることをマヌエラは知らなかったのではあるまいか。エリヤくんがマヌエラを狙撃したシーンが印象的過ぎてつい俺は短絡的に「セシィが死んだのはマヌエラのせい」と考えてしまったが、実は誤解だったのではないか。マヌエラ的には「あの子はヘレナんとこでなんかそれなりに生きていくのだろう。じゃあね、ママみたいな女になっちゃダメよ?」ぐらいの気持ちだったのではないか。だとしたら本当に救いがないなこの物語(愉悦スマイル)。そして肘パカを雇ったのもセシィを差し出したのもペドロ以外ありえないということになるわけだがお前ペドロお前ェ……そんな人じゃないでしょアンタはァァァァァッッ!! 母や、弟や、惚れた女のために流した涙を、どうしてその万分の一でも惚れた女の娘のために流してやれなかったんだお前ェ……どうも過去編のペドロと現在のペドロに乖離がありすぎて、これを「二面性」の一言で受け入れることができないのですよねえ……

>折り返しコラム

 あぁ……なかったです。検索してみたら一巻と最終巻のコラムだけ読めたのですが、なんつう変わりようだよwww
只管救いのなさを見せつけられるマゾ漫画
 バール様ありがとうございます!

>肘パカに対してマヌエラは「は? 誰こいつ」なリアクションだった。つまり肘パカを雇ったことにマヌエラはまったく関与していない。
>マヌエラ的には「あの子はヘレナんとこでなんかそれなりに生きていくのだろう。じゃあね、ママみたいな女になっちゃダメよ?」ぐらいの気持ちだったのではないか。

 私もそんな感じだったんだろうなぁと思ってました。が、こんな風に言語化されると、なおの事悲劇的なシーンだなぁ……。必然っちゃあ必然なんだけど、偶然の重なりでああいう結末になっちゃったとも言えるわけで、因果の応報からは逃れられないのか。

>そして肘パカを雇ったのもセシィを差し出したのもペドロ以外ありえないということになるわけ
 
 確かに、マルティネス(ペドロの組織のオヤビン)の支援は一切なかったろうから、肘パカを差し向けたのはペドロ自身だったんだろうけれども、ペドロ自身もセシィを積極的に害するつもりはなかったんじゃあないかとは思います。
 肘パカが警察にマークされるだろうことも見越して、陽動としてセシィは危険にさらされるだろうけれど、肘パカは逮捕され、セシィも保護される的な、そんな予定だったのではないかと。現に、あと一歩、あとちょっとで、セシィは助かってた。ある意味、警察の皆さんの力及ばずのせいともいえるのではなかろうでしょうか。(肘パカの戦闘力をペドロが見誤ったともいえるかもしれないが)

 いやぁしかし、全然そこまで深く考えて読んだりしてなかったです。バールさんの感想・コメントで、何だか二、三周ぐらいは確実に読んでますが、また最初から読みたくなってきました(笑)

>折り返しコラム
 やはりないのですね……。
 いやぁ、しょーもないことばっかなのですが、妙に読ませるというか、癖になる文章というか。どっかにないかなぁ……。
  • 遠藤 さん |
  • 2017/05/28 (23:55) |
  • Edit |
  • 返信
EDENは面白いですよね
記事とコメントを読んで、悲しいシーンだなぁと改めて感じました。
一方、私の場合は、このシーンの印象がお二人と違っています。

このシーンでは少年が成長していく過程を描いているという印象が強いです。
(もちろん、ペドロやマヌエラ、セシィの悲しい話であることは間違いありません)
彼は「何もできない自分(好きな女・仲間を守れない)」から脱却するべく行動を起こします。
そして見事に「仕事」には成功します。
(だいぶ端折ったけど伝わっていると願います)

果たして今後彼は「何かができる自分」になることができるのだろうか?
どういう風に成長していくのだろうか
なんてことを思いながら、このシーンを見ていました。

結局彼は、一番大切な何かを成し遂げることはできなかったわけですが、それでも彼の人生は続いていくっていうのが、なかなか思わせるところがあるなぁ、って思います。

EDENって救いようがない話が多いけど、生きていれば新たな出会いがあって、人生が続いていくっていうのが私は好きです。

EDENはまた見返してみたいですね。
たぶん、前にはなかった発見がありそうです。
そもそも、ここに書いてあることはうる覚えなので確認したいです。
  • QUWE さん |
  • 2017/05/31 (08:14) |
  • Edit |
  • 返信
EDEN
 QUWEさんのご感想を読んで、こちらの記事を思い出しました。
http://d.hatena.ne.jp/mura-vito/20060613

 EDENが取り上げてある数少ない(?)ブログ記事ですが、

>そしてエリヤはペドロとマヌエラを「子ども」の無邪気さを以て断罪することにより、「子ども」ではなくなる。彼もまた、断罪される側へと回るのだ。それはペドロとマヌエラという一つの悲恋によって生まれた呪詛である。

 というのが何とも的を射ているというか、何というか言葉にならない表現。

 決して少年誌では掲載できませんが、EDENは確かに、少年の成長記とも読めますね。
 俺にはなんか、決定的な、ターニングポイントってあったんだろうか……。
  • 遠藤 さん |
  • 2017/06/04 (17:21) |
  • Edit |
  • 返信
パラダイムシフト
私は「パラダイムシフト」のほうがしっくりくるのかなと思っています。
「ターニングポイント」は方向性の変化を表す言葉ですが、「パラダイムシフト」は価値観や世界観が劇的に変化することを表す言葉です。
遠藤さんがいっているのは「パラダイムシフト」のほうだと思うので(わたしが勝手に)、そちらのほうについてコメントさせてください。


パラダイムシフトが起きると、それ以前の価値観を理解できなくなります。以前の価値観の理屈はわかるのですが実感がないのです。


パラダイムシフトとターニングポイントの本質的な違いは、価値観の変化コストでしょう。

パラダイムシフトでは到底変化させられないような価値観の変化が起きている。したがって、以前の価値観に戻ることは不可能です。

ターニングポイントの場合、十分変化させられるような価値観の変化が起きている。したがって、以前の価値観に戻ることも可能です。可能といっても相当な苦労が必要です。

上記のような視点から、パラダイムシフトはターニングポイントはあったのかと考えてみたら面白いのではないかと思いました。
  • QUWE さん |
  • 2017/06/05 (00:24) |
  • Edit |
  • 返信
パラダイムシフト
おー、完全に言葉を間違えてました…というより、パラダイムシフトとターニングポイントの言葉の意味をよく把握してませんでした。
中途半端に横文字使って恥ずかしい…汗

パースペクティブとかも、学術書でよくみかける表現ですが、よく理解できてない用語の一つだったりします。 見通し、とかでよくない? なんでワザワザその言葉好き好んで使うの?って(笑)

ご指摘の通り、上のコメントでは、パラダイムシフトという意味合いでターニングポイントって書いてました。

なるほど、戻るために必要なコストの量というのは面白い。
僕は、行動至上主義の友人にあてられて、そうあるべきだと思ってなんやかんややってた時期があり、それはそれで得たもの、失ったものはありましたが、でも、その価値観は、パラダイムシフトとは成り得なかったのではないか、ということで、結局この考えるblogに舞い戻ってしまったわけですが。

どうなんでしょう? もはや30も過ぎると、大きなパラダイムシフト……いやそれどころか、ターニングポイントすら起こりにくい気もしますが、では果たして、三つ子の魂百までとかもいいますが、みなさん、生きていく中でそんな経験、一度か二度かするのは普通なんですかね……
  • 遠藤 さん |
  • 2017/06/05 (23:20) |
  • Edit |
  • 返信
どうなんやろ
間違ってはないと思いますよ。
ターニングポイントでも意味は通じています。ただ、もっといい言葉がありまっせーっていうことだと受け取ってほしいかな。
(そういう風に使っている人はいっぱいいますし)

パラダイムシフトは1度や2度起きると思います。自分で多分これだと思っているのは1回ありますが、これだと思えるっていうことは、実際にそうだったのかは怪しいですが・・・
  • QUWE さん |
  • 2017/06/06 (02:01) |
  • Edit |
  • 返信
ガツーンと衝撃的な体験
パラダイムシフト、気に入っています。
いいなぁ、こういう、概念的な記憶が増えていくのは本当に楽しい。知識じゃあなくて、価値観が増えていくような、何かそんな感じです。

時間が不可逆である点を思うと、パラダイムシフト、いやターニングポイントでさえも、結構怖いものでもありますね。

その価値観の変化は、もしかすると、これまでの自分自身を排除しようとするかもしれない。そして、やり直すための時間はもはや少ない、とかなったら恐ろしい。

怖いから、普通は、中々起こらないように、ストッパーみたいなのが心の機能として備わってそうですね。そいでもって、それは、具体的な時間の過ごし方にかかわらず、時間経過に比例して頑強になっていきそうです。だから、頑固じいとかいう存在ができあがるのかもしれません。

そうなると、パラダイムシフトであれターニングポイントであれ、「苦労は美徳」と考えるのが日本人であるとしても、ちょっとやすやすと起こすのは危険かもしれませんなぁ。

でも、起こしてみたい、そんな気もします。しかし、それにはそもそも、現状の価値観なるものが何なのか、自分自身よく分かっている必要がありそうです。

僕の場合は、相対主義とか、縁起とか、構築主義的な価値観が根底にあるような気がするなぁ。
  • 遠藤 さん |
  • 2017/06/08 (20:59) |
  • Edit |
  • 返信
プロフィール
HN:
遠藤
性別:
男性
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