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思考することの意味について
2017/05/03 12:20 | Comments(4) | 生きる意味
今日の一言「グレーゾーンとしての生き方とは」「積極肯定には物語が必要不可欠」

考えるということ

 先日、仏教の唯識派の思想、八識について紹介した。僕らの心のはたらきについて、五感と、自己執着心である末那識(まなしき)、根源心である阿頼耶識(あらやしき)に分けて捉える考え方である。

 ところで、その考えるというのは、心のはたらきの一つ、「意識」である。
 意識とは、何か物事(モノ・コト)に対して心を向けること(=注目すること)である。
 この意味においては、考えないで生きている人は殆どいない。五感によるフィードバックがあったとき、ほぼ反射的に、何らかの「意識」が生じるはずだ。

 例えば、恋人をつくる方法だとか、お金を稼ぐ方法だとか、幸せになる方法だとか、生活するために必要なことを僕たちは考えて生きている。



 では、その、「考えること」について考えるということは可能なのだろうか?

 考えるというのは、その「状態」を指すのであり、具体的、固有の「モノ・コト」があるのではない。言い換えれば、「関係」という言葉であらわしてもよい。
 しかしこれは難しい思考を余儀なくされる。関係について考えたとき、その関係に関係する何かを想定する必要がある。さらに、最初の関係に関係するものについて関係するものについて……と、無限に思考が止まらなくなるのである。

 この無限遡及の原因は、その「関係」という語だったり、状態という語であったり、「考える」という言葉であってもよいが、それが、実際に中身をもたない、「言葉としての言葉」であるからだ。

 自らの手を見てみる。それは存在する。疑いようがない。
 しかし、「自分」というものを考えてみる。果て? 自分とは何か? どこからどこまでが自分なのか? この身体全部? では、身体から分泌される液体は自分なのか? そもそも「全部」という表現をしたとき、既に、「関係」という思考を避けることはできなくなっている。
 身体が総体として「自分」なのだとしたら、自分のパーツを分割していっても、それは自分にはなりえない。せいぜい、細胞や、ミトコンドリアやDNAが見いだされるぐらいである。そのDNAだって、広い意味ではタンパク質、有機物であり、分子であり、原子であり、電子であり中性子であり、クォークであり……。



 答えは、その定義(モノ・コトの次元)の中においてしか存在しない。

中二病からの成長過程について

 話を少し身近なことに戻してみよう。

 まず、生まれた直後、僕らに殆ど「思考」などなかったはずだ。
 それが徐々に、他者(特に両親)との関係において、自分の存在を認識し始める。ただ、この時点ではまだ、自分と他者(世界)との明確な境界を認識できているわけではない。

 そして次に、「他者」の存在自体を認識する。他者についても、自分と同じように「心」をもつということが何となく意識し始められる。
 その時期における他者との葛藤(コンフリクト)が、青春時代と呼ばれたりする。甘酸っぱい思い出が多数ある人も多いだろう。そうした経験によって、僕らは、自分と他者との付き合い方を学んでいく。


 そして、「大人」になる。大人とは、他者の存在を、「心」ある存在であると認め、かつそれでいて、自分の認識(価値観)も確立した存在である。
 例えば、ある作品に対して、自分はこう思っても、他者は違うと思うような場合を認めることができる、そんな存在が大人である。だから、ある要素を良いと思う人がいれば、その要素を許せないと思う人がいるだとか、「人それぞれである」というのは、当たり前のことである。

 そんな当たり前のことを、時折僕らは、「感情」という状態をもっているので、忘れてしまう。どうしても、自分の感じたことを「正しい」と信じたくなってしまう。その原因が、自己執着心(末那識)であったりする。

 だから、できるだけ多くの、おおらかな心をもって、他者を認め、迷惑をかけないように、大人な対応ができるように、スマートになりましょう、と言われる。
 たいていは、この次元において、社会は上手くいっている。こういう人が多くなると、世界はより良い方向にいくだろうし、周りにそういう人が多いと、幸せな生活を送れるだろう。



 そこまでは分かっているし、僕自身も、そういう状況を経験することができた。(※)


 今は、次の段階を目指している。
 次の段階とは何か?



※そういう状況:すなわち、「幸せな生活」というやつである。「俺は一生人から愛されないんだ」という絶望を抱いていた時に、「努力することで」初めて彼女ができて、「ああ、愛って、好きな人と好きでいられるというのは何て素晴らしいことなんだ」と思った。そのあと、別れたり、結婚したり、離婚したりしたが、「ああ、生きているということは素晴らしいことなんだな」と思うことができている。
 しかし問題は、これらが、「意識」して、その結果を思考し、行動して得たものであるということだ。これは、昔の自分に対して、「よく頑張ったね!」と褒めてあげるだけでよいのだが、僕はそう思えない部分がある。その理由はうまく説明できないが、ポイントは、「実感」という奴だと最近思っている。「こうしたい」という強い思い。欲求・欲望。それに従った行動と、その結果は、ある意味、「偶然性」「運命性」により、「信仰」が生じる。どちらかというと、僕はその「実感」というか、欲求・欲望を「思考」によって解釈してしまっていた。
 本当に得たいと思っていたのは、果たして、友人たちからの賞賛だったのか、彼女がいるというステータスだったのか、それとも……?

思考・生き方としての次の段階

 様々な選択ができる状態である。

 好きな生き方ができる状態である。これを幸せと呼ばずして、なんと呼べばいいのか。

 ある意味、求めていた状態に到達したのである。何せ僕は、昔から、「幸せになりたい」と思っていたはずだから。

 が、その「幸せ」という中身については、思考が足りていなかった。
 そして、その思考を深めていくにつれて分かったことは、その「幸せ」という言葉もまた、「関係」とか「思考」とか、そうした「中身のない言葉」に過ぎないということであった。


 だから、僕は今、とても強く、「物語」を欲している。

 それは二次元に拘らない。ブログを更新チェッカーで集めて徘徊しているのもその一つだ。本を読むのもその一つだ。

 それは、知識を欲してのものではない。物語……それは、生き方をみたいからだ。


 と、本気で考え、思うと、同時に、焦燥感にかられる。お前、30歳過ぎて、いつまでそんなこと言ってるんじゃ、と。

 たいていの人は、生涯費やす仕事があって、伴侶がいて、子供がいて、日々の生活に全力を傾けているのではないだろうか?
 今更、自分の生きざまに疑問を抱くような人はいないのではないだろうか?



 ぶっちゃけ、そういう人もいるが、そうじゃない人もいる。色々ブログを拝見していると、読み取れる。
 僕は、その読み取れることによって、「ああ、まだ大丈夫なんかなぁ」と、いっときの安心感を得ているだけなのだろう。なんとも言い難いあほの所業である。そんな時間などないはずなのに。



 けれども、確信していることは一つある。

 例えば、高名な精神科医でも、メンタリストでも、偉い人でも、師匠でも、何でもよいが、その尊敬すべき方に対して、「先生! 僕の生きる意味って何ですか!」と問うことが、なんとも的外れで、愚かしい行為であるかは明らかであろう。

 結局、この問題は、自ずから考え、答えを出して、行動していくしかないのである。
 その考えることにおいて、「考えること」を捨て去るべきという答えになる可能性も、もちろん含めておいて。


 だから、逃げるわけにはいかないのである。いくら中二病だとか、モラトリアムだとか、精神年齢が低いと罵られようが、「実感」レベルがそうなのだから、仕方がないのである。(※)

※そのことについて、「悩んでいる人」がいたら、そういう人に、少しでも、「考えることからは逃げられない」だから、「諦めて考えねばならない」ことを、そして、その「考えること」の方針や、要素、きっかけを与えられたらと、僕はこうして公開を前提として書いている。

思考することの意味について

 この記事の結論は、もうお分かりのとおり、

1.思考は、五感からのインプットによりほぼ自動的に意識され生じる
 ⇒だから、その次元においては、思考すること自体の意味は無い。

2.次に、思考は、何か生活するための方法を生み出すために行われる
 ⇒だから、ある次元においての答えを導くという意味がある。

3.しかし、「思考」は状態であり、関係であるがゆえに、その思考自体の意味を考えることはできない
 ⇒思考することを思考するというのは、無限遡及になり、中身のない言葉にならざるを得ない。すなわち、思考は、それをせざるを得ない、緊急性や必要性にそもそも迫られた状態で生じるものである。だから、思考することの意味は、反転してその思考自体には決して見いだされないのである

4.3.までが、通常生活レベルの思考であるが、その次元をさらに深めていったときに、「生きる意味」に到達することがある。しかしそれは、思考を思考するのと同じくらい困難である
 ⇒だから、それを包括する、さらに高次の次元(次の段階)を考える必要がある


 というものである。

「ふーん。君がそう思うならそうなんだろうね」

 と言われてはき捨てられる程度の結論である、が、これは実感レベルのものであり、無視するわけにはいかない(僕にとって)。

「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」

 と言われるだろし、そういった感想を抱く方々に特に期待もしていない。
 そんなことを言ってる暇があれば、その代替案の提示を要求したい。

・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる


 まぁ、いろんな選択肢があるだろうと思う。

 ただ、ここまで書いてきたことの流れから分かると思うが、問題は、その、無限に広がる選択肢から、「僕が」どれを選ぶのか、ということである。

 今までは、若いうちはよかった。とりあえず「おとな」と呼ばれる人たちが「良い」ということに従順にしたがった。就職することがよいこと。友人をつくることがよいこと。彼女をつくることがよいこと。部活動をするのがよいこと。遊ぶことがよいこと。徹夜でカラオケするのがよいこと。お金を使うことがよいこと。人に感謝することがよいこと。仕事をすることがよいこと。


 いっぱいあるだろう。

 しかしそれは、「実感レベル」のものではなかった(とまで書ききることは当然無理なのだけれども、表現としてはそういうこと=自分の選択ではなかった)。

 だから、これからは、本当に、「自分の選択」、自分の生き方に責任をもとう(因果を引き受けよう)ということなのである。

 だから、「考えている」のである。

 ので、
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
 という批判は、まったく的外れなのである。

 別に、婚活して、自分の低スペックのせいで馬鹿にされたり嫌な思いをすることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、きっと落ち込むことは間違いないが(かっこわらい))
 仕事を頑張って、結果失敗してまた色々いじめられることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、そんなこと嫌なんだけどね。しかし、運命的に避けられない事態ってのはある。寡兵で戦闘に臨んで、劇的な戦果を収めたとしても、少なからずの被害はあるのである。その被害の一人が自分なのかもしれない。だが、そんなことを考えても無意味である)


 その先に何があるのか? ということを問うているのである。



 んで、「その先」って奴が、どうにも、「無」なんじゃあないかなぁと思ったりもする。

 それならそれでもいい。一生、「てきとー」に生きていくってのもありである。早いところ幕引きをするならそれもそれでいい。でも、どちらかというと、人生に生きる意味を問うというよりも、人生から「お前はどう生きる?」と問われているとしたら、そもそも、「死ぬ」ことが前提とされていない、期待されていないということだ。であれば、ずっとその問いに答え続けていくのも悪くないだろう。

まとめ

 今回の記事は、抽象的になったので、あんまり面白くないと思う。
 ただ、まぁ、今後においても大事な部分ではあると思う。

 注目しておくべきは、とりあえず現段階で、僕は、「多様な価値観を認める」という、当たり前のことについては理解している、ということである。

 そのうえで、何を選ぶか? ということを問題視しているのだ。これは、「実存問題」である。「実存」というキーワードで検索すれば、他にもこれらを述べている記事は見つかりそうだが、取りあえず、改めて確認である。


 そして、もう少し、恥ずかしいことこの上ないが、自分の思考レベルを余すことなく表現できるようにしておきたい。
 今年、2017年は整理の年である。

 思っていても、うまく表現できないということは、なくするようにしたい。
 その表現が、他者に伝わろうが伝わらないが、そこまでのクオリティは求めない。ただ、しばらくたった後の自分が読んでもわかるレベルにはしておきたい。そうすれば、たぶん、70億人がいれば、数人にはきっと伝わるレベルにはなっているはずだ。


 端的に言えば、僕の悩み・思考って奴は、きっと中学生レベルなんだろうけれども、仕方があるまい。恥ずかしいけれども、それを認めて、ちゃんとアウトプットできるようにする必要がある。かっこつけて、さも人生分かってます、的な表現をしていたら、いつまでたっても、「実存的空虚感」から逃れられまい。



 自分が悪いことこの上ないが、僕のこの思考について、よく理解してくれて、そのうえで「こんな生き方があるよ」と、もっと昔から導いてくれる人がいたらどんだけよかったかと思う。
 そういう意味で、もっと他者に頼るってことを覚えられたらよかったなぁと、その部分は後悔である。

 30代が中学生レベルの思考を抱いているというのは恥ずかしいことこの上ないが、逆に言えば、中学生の人たちには、ちょっとは役に立つ記事群なんじゃなかろうか。


(人生質問コーナーみたくしてみたい。けど、そういうのの、何かしたり顔で上から目線の「アドバイス」みたいなの読んでると気分が悪くなっていく)

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コメント

中学生レベルの事を考えられるのは素晴らしいと思うよ

我々は、子供のような柔軟さや自由さを失っていると思う。硬直して、自らを変えていけないんだよ。そういった点でわたしは中学生レベルであることをよいと考えています


ここで、話が変わります。

わたしたちがいつまでたっても幸福な人生を歩めないのって、何かを手に入れることで幸せになれるっていう発想が通用していないからじゃないかな
つまり、手段が目的化して、永遠に終わらないんじゃないかってこと
彼女や趣味などの満ち足りた生活をすれば幸せになれると思っているけど、その実、それを手に入れたら次が欲しくなる
わたしたちは、そういう幸せのシンボルを消費しつづけて、幸せを手に入れることが出来ていない

生きる意味を考える、というのはまさにそこを解決するための方法であると思う

そして、生きる意味というのは、どこかに埋まっているものを掘り起こすのではなく、自分が作り出すような類なものだと感じているんだ

つまり、今は無いけど、自分で作れる物なんじゃないかってこと

まぁ、それが何かっていうのはよくわからないけどね
posted by QUWEat 2017/05/04 19:30 [ コメントを修正する ]
>我々は、子供のような柔軟さや自由さを失っていると思う。硬直して、自らを変えていけないんだよ。そういった点でわたしは中学生レベルであることをよいと考えています

 ありがとうございます。
 多くの物語で、主人公が10代20代なのは、その変化の可能性なのかもしれませんね。
 基本的に今までは、30代以降はもう「人格」としては固定されてしまい、変わらないものとなってしまう。物語としては変化がなければ描きにくいので、内面がまだ十分に固まっていない若者にスポットが当たるのは仕方がなかったのかもしれません。

 今般、中高年の離婚とか、定年退職後の第二の人生とか、「老活」とか、様々なワードが飛び出していますけれども、その表層的な胡散臭さはさておき、従来のように、「激動の時代(10代)」を乗り切れば、あとは単調な(けれどもそれはそれで幸せな)人生が待っている、というモデルは既に成り立たないんじゃあないかなぁと思っております。




>わたしたちがいつまでたっても幸福な人生を歩めないのって、何かを手に入れることで幸せになれるっていう発想が通用していないからじゃないかな
>つまり、手段が目的化して、永遠に終わらないんじゃないかってこと

 鋭く、重い見解ご意見に思います。
 僕も全く同意見です。
 この点について、よく理解されにくい点としては、「すっぱいぶどう(合理化)」との混同に思っています。
 それは、「おめーはよぅ、単に、成し遂げたいゴールに到達できねーってことを、単に無理だ、やめようって、諦めてるだけなんだよぅ。努力も、がんばりもしねーで、手に入れられないだぁ? あほか? あまったれてんじゃねえよクソが!」という見立てをされやすいということです。

 実際問題、その指摘を十分に退けることは難しい……というよりも、不可能なのではないかと思います。それはまさに、「手段の目的化」――目的の手段化とでもいいますか、QUWEさんのおっしゃる通り、何かを掴み取るということが「真の目的」から「下位の目的」にいつまで経っても変貌してしまうという繰り返しが発生するからです。
 その繰り返しは、「合理化してるだけだろ?」という指摘をする人にとっては、単に「それは、お前の「真の」目的じゃあなかったってことだろ。もっと頑張れや」と、永遠に言い続けることも可能になるからです。こうなると、もう話は平行線にならざるをえない。

>彼女や趣味などの満ち足りた生活をすれば幸せになれると思っているけど、その実、それを手に入れたら次が欲しくなる

 QUWEさんのコメントにおいて、一点だけ僕と違うかな、と思ったのは、上の部分でした。「その実、それを手に入れたらその次が欲しくなる」という点についてですが、何だか最近自分としてはその「次」が中々見当たらないのです。ということは、すなわち、到達すべきゴール、「幸せ」という状態になったのではないか、というのが、先日とこの記事におけるメモとなりますが、しかし、それもどうにも変な感じがするという。

>わたしたちは、そういう幸せのシンボルを消費しつづけて、幸せを手に入れることが出来ていない

 そういった意味で、よい表現だなぁと思ったのは、「幸せのシンボル」という表現です。すげーなぁ……。そうなんですよね、いろんなシンボル(記号)が溢れてるんですよね。んで、たいはんは、そのシンボルの消費の総体が、幸せそのものなんだとして、消費経済として「こころ」も上手い具合に潤滑してるのでしょう。
 でも、そういった消費レースに、どうにも意義を見出せなくなる人ってのも、これからもっと増えてくるんじゃなかろうかと、僕は勝手に思っています。(と、同時に、それは決して、悪いことじゃあないんだろうと思うのですが、――ちょっと飛躍ですが、この状態に適切な「物語」がないと、なんとなくうまくいっていた世界が壊れ始めるんじゃあないかと、思うんですがね)


>生きる意味を考える、というのはまさにそこを解決するための方法であると思う

 そう信じて、この一年は書き続けてきました。なんだか、QUWEさんのコメントで少しうるっときました。この「うるっ」が、どういう意味なのかまだよくわかってませんが。


>そして、生きる意味というのは、どこかに埋まっているものを掘り起こすのではなく、自分が作り出すような類なものだと感じているんだ  つまり、今は無いけど、自分で作れる物なんじゃないかってこと

「本当の自分探し」って言葉が、ときおり流行ったり、すたれたりを繰り返しますが、「自分探し」自体は悪いことではないと思っています。
 ただ悪いのは、「自分の中に、本当の自分がある」と思い込んでしまう点と思っています。
 この記事と無理やり関係させれば、それは、自己執着心(末那識)にばかり目を向けてしまうようなことだと思います。
 そうじゃねーんだ、本当の自分、生きる意味なんてのは、自分でつくっていくもんなんだ! と。QUWEさんのご指摘の通りと思います。

 その、「自分でつくっていく」というのは、即ち、自分で完結するということではなくて、広く、世界とのリンク(関係)が必要なんだと思います。自己とは結局、他者との関係性でしか表現できないが故に。

 けれども、この点においてすぐさま書きたくなってしまうのは、だからといって、「他者との関係」のみを求めても駄目だ、ということです。これは、最近よく感じることです。
「引きこもってないで、もっと外に出ていろんな人と関わり合いをもてよ♪」
 というのは、時に正しい意見でありますが、時に害悪でしかない意見にもなりえるということです。
 僕は、QUWEさんや、その他の方々からのコメントや拍手コメや、メッセージやら、色々頂いて、教えて頂いたこともたくさんありますし、そして、自分の考えていることの表現がどのように伝わるのかということをも、少しずつ分かることができました。これは、ほんっとうに貴重な経験体験感動に思っています。そしてこれは、外に出て友達と一緒にサッカーやってるようじゃあ決して分からなかった、できなかったことです。独り暗い部屋で(別に暗くないですが(笑))ブログを書いていたから得られたことであります。

 OK、長くなりましたね、何が言いたいんだという感情が生じ始めたことでしょう。そうです、結論なんていつもつまらないものです。

 ――バランスが大事。

>まぁ、それが何かっていうのはよくわからないけどね

 まったくその通りで、今までよくわかってないのが現状でございます。それゆえ、どうしても長くなってしまうのでありましょう(遠い濁った眼)。
posted by 遠藤at 2017/05/05 21:54 [ コメントを修正する ]
>>この点について、よく理解されにくい点としては、「すっぱいぶどう(合理化)」との混同に思っています。

これは自分が実際にモノを手に入れて幸せになろうとして生きてきた人間にとっては混同せずに分別できます。また、経験がなかったとしても親や友人を見ている私があれば同じことです。

私は自分または彼らがそういう生き方をしているを見てきているわけで、それによって「過去の自分や彼らのようにはなりたくない」と感じているわけです。根拠はそれで充分です。つまり私はその生き方を実際に体感してきたわけで、それで十分なわけです。

それでも「あまったれてんじゃねえよクソが!という見立て」から逃れられないからもしれません。それに対する私の回答は「人生は短いから、価値を感じられなかったものにかまっている時間はない」です。我々が永遠に生きることができるなら100年くらい必死にやってみるものいいかもしれませんが。

>QUWEさんのコメントにおいて、一点だけ僕と違うかな、と思ったのは、上の部分でした。「その実、それを手に入れたらその次が欲しくなる」という点についてですが、何だか最近自分としてはその「次」が中々見当たらないのです。ということは、すなわち、到達すべきゴール、「幸せ」という状態になったのではないか、というのが、先日とこの記事におけるメモとなりますが、しかし、それもどうにも変な感じがするという。

それは本当に違うかもしれませんね。あるいは自分について理解していないのかもしれません。そればかりは私にもわかりません。ただ、ここで理屈付けするなら「到達したことに価値を感じられなくなる点」において、次があろうが、なかろうが、それは同じなのです。


>――バランスが大事。

ちょっと、意図が伝わってないように感じるのでコメントさせてください。
遠藤さんを否定するつもりはありません。

私は、「生きる意味を考える=自分自身を感じる」と思うわけです。
自分が望むものを素直に感じ取ればいいんじゃないかなっていう程度ものなんですけどね。

私のやり方だと、生きる意味を考えるためには、自分の感覚に素直になってそのままを受け取るというプロセスが重要になります。つまり、頭脳の介入を止めたいわけです。
親に呼ばれて、親の元へ行こうとする赤ん坊がたまため目に入ったおもちゃに夢中になってしまうようなやりかたが理想ですね。
posted by QUWEat 2017/05/10 17:25 [ コメントを修正する ]
QUWE様! コメントありがとうございます!
ちょっと暫くパソコン環境が持てないため、網羅的にコメントを確認させて頂くことができませんが、何回かに分けて色々考えてみたいと思います。

まずは、合理化という謗りを退ける説明見事に思いました。
他者の具現化させた生き方をみること、そして自らが[到達]という経験を積むことによって、欲望の到達を繰り返し求める生き方を否定する。もちろんそれは、他者の否定ではなく、自らの生き方としての選択を引き受けるという意味において。

クエさんの、強い意志の有り様を感じられました。

そして、その点において、多分、傲慢でなければ、僕とQUWEさんの生きざま=価値観、信念レベルは一致してるのかなと思いました。
(もちろん、趣味嗜好性癖その他のレベルは別として(笑))



生きる意味を考えるとは、自分自身を知るという表現は斬新に思いました。
なるほど、確かに、自分という根源の追究によって、自分の存在について明らかにしていくというのは、まさにその通りに思いました。

私は最近、自己への執着を離れる方向を思い考える手段を検討していましたが、結局、思考を廃止、思うがままの状態を考えるということと、実践面では同じことのようにも思います。
posted by 遠藤at 2017/05/11 22:23 [ コメントを修正する ]

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