国民会議ではなかった、日本会議だった。本の感想は、ひとことでもメモしておくべきだろう。
日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。
あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。
その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。
よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。
これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。
ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。
その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。
僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。
どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。
それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。
同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。
なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。
という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。
人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。
ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。
唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。
いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。
この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。
いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。
ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。
そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。
これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。
実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。
ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。
ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。
なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。
それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。
そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。
日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。
あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。
その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。
よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。
これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。
ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。
その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。
僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。
どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。
それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。
同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。
なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。
という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。
人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。
ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。
唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。
いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。
この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。
いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。
ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。
信仰と実感について
そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。
これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。
実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。
ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。
ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。
なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。
それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。
そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。
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