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真理がないことが真理だ
2019/01/11 18:00 | Comments(2) | 生きる意味
今日の一言「今日も20分だ」

前書き

 最初の書き出しが、「前書き」と決まっていると、導入は簡単でよい。
 そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。

 先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。

 あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。

 要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。

 もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
 これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。

メインストリーム思考

 モラルとか、道徳とか、ルールとか、「正しい」と思われていることが多数ある。

 それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。

 一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
 感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。

 つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。


 自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。

 そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。

主流が発生する場

 で、とはいえ、その主流って概念的には分かったけれども、具体的にどんなものなのだろうか、ということをすぐさま考える必要がある。

 人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。

 様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。


 これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。

 よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
 仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。

自分の開示は最小限であるべきか

 まぁ、いろんな、セーフティネットを持っておいた方が安全というのは当たり前の話である。
 投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
 生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。

 ――上の話と思考の話に関係はあるのか?
 あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。

 主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
 しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。

 ――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。



 さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。

 じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。


 答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。

 しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。



(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)

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コメント

しょうもない話だけど、失言を発生させてしまう理由として、地位や立場が向上した人は共感能力が低下する傾向にあるそうです。要するに人の考えていることを読み取る能力が下がってくるというわけ。

なぜなら彼らは人と共感しないことが必要だった。そうじゃないと高い地位で必要な決断を下せない。この工場を閉鎖しようとか、別の会社のライバルを攻撃するための戦略を練るとか。わずかな人口の弱者を見捨てて、たくさん人数のためになる政策を打ち出すとかね。

ある意味、なるべくして共感能力が下がってしまうわけです。

ちなみに、高い地位になるにつれて共感能力が下がりやすい傾向にあるけど、共感能力を維持したままのほうが成功しやすいという研究結果もあるそうです。要するに冷酷にもなれるし、やさしくもできるというパターンが最強ってこと。


posted by imihuat 2019/01/13 23:25 [ コメントを修正する ]
>地位や立場が向上した人は共感能力が低下する傾向にある

 ほぉぉぉ、なるほど。実際そんな研究結果もあるんですね。
 確かに、何か大きな決断するのは、何かを切り捨てなきゃいけない場面もあるでしょうし、その都度共感して悩んでいたらきりがなさそうです。
 ハイステータスな人にサイコパス(共感能力が完全に欠如)が多いという記事も見たことがあったような。

 後者の、共感能力を維持した方が成功する可能性もある、というのは、冷酷なだけでは人はついて来難い、というためかもしれませんね。

 ちなみに、自分は高い能力も判断もできないわりに、あんまり共感力も高くないので、人生困ったもんだと思ってます……。
posted by 遠藤at 2019/01/14 09:14 [ コメントを修正する ]

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