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創作を進める方針(その2)
2018/01/08 12:00 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「続いた」

バランス感覚

 長くなったけれども、結局は、

 人生は困難である
   ↓
 だから物語が必要だ
   ↓
 感銘を受ける物語に出会うのは運による
   ↓
 だから自分でも創り出したい

 という流れである。
 だから、上に書いてきたけれども、そもそも、人生が困難じゃなかったら、創作も必要ない。
 ここで、もっといえば、「ひだまりスケッチ」的な、日常ほのぼの的な物語を欲しているわけではないということだ。
 すぐさま書いておけば、日常ほのぼの系を否定するのでは決してない。しかしそれは、例えば「ゲーム」のようなものだと思っている。僕はゲームも好きだし、今でもやったりしているけれど、時間的消費であるという認識が強まっている。ああ……こういう表現をするから誤解というか敵をつくりやすいのであるが、別に消費するのも悪いことだとは思っていないのだけれども、要は、結果的に精神がすり減ってしまう、ということなのであって……。要は人生楽しく過ごしたいという、凡人誰しも思うのと同じなのであるけれども、そのための手段として、それだけだと足りないなと思うのであって……と、このあたりは書けば書くほど失敗するので強制終了。

 さて、バランス感覚ということであるが、創作をするというのが必要だ、というところまでは確認したとして、どこまで重要視するか、ということになる。
 ここまで、身体と思考と大別して、思考部分について記述してきたのであった。
 しかし当然ながら、身体というのも重要な要素である。

 身体があるから欲望があるともいえる。
 終わりがあるから芸術が尊いものになるように。

 永遠なる美とか真理ってものが美しいと思われるのは、永遠ってものが、どこを探しても存在しないからともいえる。
「侘び・寂び」や黄昏って表現によって、日本人はよくその「終わり」ってものを理解していた……とかいう、民族うんたらはまぁどうでもいいけれども、僕もどこからしら、そういった儚さ的な表現に心をうたれることがある。

 それは、「お涙頂戴」的に忌避されがちな感情ではあるけれども、その根源たるテーマは、僕は嫌いではない。ただ、こう、なんだろう、ドキュメンタリーというのが、どうにも苦手ではある。特殊清掃のドキュメンタリーは面白かったけれども、何か「切り取られた感」があって嫌だ。(いや、見始めるときっと見入ってしまうのだけど)

 それよりだったら、いっそのこと、もう完全に物語(創造)の方がよかったりする。その方が……きっとこれは納得される方が少ないと思うけれども、僕は、その方が「純粋」に思えるのだ。
 前書いたけれども、アンドロイドとか、ロボット系に僕が弱いのは、逆にこう、複雑性がないからな気がしている。
プラネタリアンという作品が、アマゾンプライムに追加されて見たけれど面白かった。前に動画サイトで断片的に見て興味をもっていたけれど、完全版が見られてよかった。よかったけれども、その、回想編だけでよかったかなぁ。星の人になった主人公のその後の話――シェルターで子供たちに星について教えてあげる――は、世界観を知るにはよかったけれど、まぁなくてもよかったかなぁ)

住環境の整理状況

 なんだっけ……そう、身体だ。
 住環境も大切。最近、だいぶ部屋の物を少なくした。先日も、服や下着を45L分ぐらい処分した。クローゼットが7割ぐらいになった。スーツとYシャツがまぁ多いけれど、これは仕方がないか。クリーニング屋で、シーズンオフで預かってくれるサービスとかもあった気がするが、検討してみようかな。アウトソーシング(外部委託)大事。
 そもそも資本主義の発展は、専門化、分化した方がより大きな価値を生み出せるという理論から成っている。

 本もだいぶ減ったので、本棚も7割ぐらいである。
 あとは、古いノートPCと外付けHDDの処分、ぐらいかな。しばらくは、現状を維持する方向でよいかもしれない。


 って、長いなこの記事。数えてみると7000字を超えている。途中コーヒーを淹れながら1時間ぐらい経った。一度切ろうか。

 小説も、これぐらいのペースで書いていけたらいいんだけど。
 というか、これは、余計な話しが多すぎるのがよくない。しかし、こう、余計な話がないと考えられないのも事実である。ただ、余計な話ばっかりで、最初に書こうと思った「実践」的なことが書けないとダメだ。次の小見出しに託す。

創作を推し進めるためには

 インプットとアウトプットが大事なのは言うまでもない。
 しかし、先の「サイコパス的な」とおり、理念を語るだけでは殆ど何の意味もない。会社では効率が重視されるが、同時に「ゆとり」がなければ自己(組織)批判・内省も進まずに、価値を高めていくことができない。そうした「ゆとり」の大切さがわかっていても、目の前の業務が積み重なれば、そうした理念は形骸化する。

 要するに、インプットとアウトプットは大切だが、それをどうやって自分の生活に取り入れていくのか、その実践的な記述を、本記事に託そうと思ったわけである――が、みてのとおり、7000字は定義的な、理念的な、感想的な表現に終始したわけである。

 創作は大切だ! 俺はやるぜッ!

 この一行で本来、7000字はOKであったのである。
 しかしこの面倒くさい自分は、ここまで時間を費やさないと、しっかりと動けないのである。

 しかし同時に、仕方がないとも思う。それは、日々が忙しいからだ。「仕事が」とか、そういう意味ではなくて、ノイズ的な……いや、そんな表現はよくない。ご飯食べたり、睡眠とったりと、生活や身体状況のことだ。生活をする、――これだけで、とても忙しいのである。

 だから、本当に素晴らしい業績をする場合、内助の功的な、家族のサポートが大事だったりする――のは、昔の話(か、本当に一握りの業種)であって、今や夫婦ともに働いていることだってあるし――まぁそうはいっても、家電の充実や24時間のストアなど、それこそアウトソーシングできる要素が増えているから、一概に昔と比較することもできない。――そうだから、本当に、何かと比較するということが、僕は本当に無駄であると思っている。比較してどうこう思い悩んでいる時間があれば、自分でも、周囲の環境でも、少しでも良くする行動をすべきだろうと思う。

 話がやっぱりそれる。そんなことは置いておいて、つまり、みんな誰しも「忙しい」のであるから、しっかりと「気持ち」をもっていないと、簡単に周囲の状況に流されてしまうのである。

 400日ぐらい筋トレのルーチンをやってきたわけだけれども、これは、それこそ誰かと比較したら、もっとハードなトレーニングや、効果を出している人もいるわけである。しかし、自分としては、一時期はとても大変だった。疲れたり、イライラしながら帰宅した後に、悶々としたり眠かったりする中、全然関係ない筋トレをするという気持ちの切り替えは、今、こうやって書いているときは想像できないほど大変である。
 それでも続けることができたのは、「気持ち」を整えたからである。もちろん、ブログに書いて、コメントもらったり反応を頂いたことや、免除規定(例外規定)というテクニック的なものも関係するけれども、何事においても、プライオリティ(優先順位)を最大にするという気持ち(意志)を固めたからである。

 これは、単に「ダイエットしよう!」とか思うのと、まったく違う。
 何が違うのか……ちょっと未だ表現できないけれども、つまり、「自己と一致」しているかどうかである。

 陳腐な表現になってしまうが、「本当にやりたいこと」かどうか、である。筋トレとか、苦しいことが何故やりたいことになるのかといえば、刹那的な苦しさを超えて、得たいものがあるからである。卑近な自分の例であれば、単純に筋肉を付けたいということだけではなくて、「継続することができる」という自分の意志の確認でもある。このことからすれば、筋トレをさぼってしまうというのは、「自分に対しての裏切り」なのである。

 もちろん、他者を騙したり裏切ったりするのは最悪なことだ。
 しかし、それと同様に、自分を騙したり裏切ったりするのも最悪である。

 他人に負けてもいい。だが、(過去の)自分には絶対に負けんじゃねぇ!

 って表現が好きである。
 いやもちろん、他人に負けちゃいけない場面だってあるし、体力の衰え的に過去の自分に絶対勝てるかっていうとそれも違うわけだから、単に表現だけれども、標語としてはそういうことだ。



 ――という、また、概念的なことを書いてしまったが、そうじゃなくて、要はどうやったら、今年の目標である「創作」を進められるのか、ということである。

創作目標:小説インプット

 創作とは、三つあると書いた。本記事ではとりあえず、「小説」に絞って書いていこう。
 まず、インプットを増やすためには、小説読むことである。
 じゃあ、初めにどうすればよいかといえば、数値目標を決めることである。

 この、数値を決めるというのは、目標設定においてよく言われることであるが、単純にこれだけでは役に立たない考え方である。
 例えば、じゃあ、一年間に100冊読もう! としても、その100冊の根拠が全く不明である。
(そもそも、たくさん読んだからよいか、どうか、というのは別の次元の話なので置いておく)

 数値目標を立てるのは勿論重要だが、その際、どうやって数値目標を立てるのかの方策が必要だ。
 これは、現状理解が不可欠である。
 つまり、今としては、どれぐらい読んでいるのか、ということだ。
 ――昨年は……うーん、よく分からない。紙の本だと5冊……ぐらい。キンドルで3、4冊ぐらい……か。後はWEB(小説サイト)の方では、まぁまぁ読んでいる気がする。少なくても10作品以上。

 こうやって思い返すと、思った以上に少ないなぁという感想になる。
 ただ、こうやって考えると、そもそも、冊数で数えるのも(文量が違うだろうし、面白さも違うだろうし)妥当かとか思ってくるし、同じ本を読み返したくなって読んだのはどうなのかとかも考えなきゃいけないし、とにかく、いきなり「100冊!」とかって数字を挙げようとも思わなくなるだろう。

 それと、これも僕が勝手に思っているだけだけれども、面白い本を読んだとして、今度それをアウトプットに転じようとするには、「感想」や「批評」を考える(書く)のも重要だと思う。
 この、とても長い記事の最初の方に書いたけれども、これは、「言葉でしか思考できない」というものに繋がる。どういった場面だったからどう思ったのか、どういった描写に対してどう感じたのか。これが無いと、「感動したッ!」となって、以上……、となる。まぁそれはそれでいいのだけれども、ちょっともったいなくもあるのだ。

 ええと、中々先に進まないので、暫定目標として、2018年中に、15本の感想・批評を書く、ということを挙げる。
 何故15本かというと、一か月一本だと12本だから……とかそういうわけではなくて、2017年に読んだ本数が15ぐらいだからである。感想や批評を書きたくなる作品に出会うには、それ以上読まなきゃいけないだろうし、ちょうどよいかと思ったのだ。

創作目標:小説アウトプット

 次に、アウトプットのための目標。
 現在連載中の作品が2作品ぐらいあるが、これを完結させたい。どういった方向性でもいいから。打ち切りみたいな終わり方でもいいから、終わらせたい。そんないい加減でいいのか、というのはあるけれども、「エタる」(エターナル(永遠)になる=未完になる)作品が多い中、「終わらせる」というのは一つ重要なことだと思っている。

 先日、バイオハザードの映画(ダムネーション)を見て面白かったけれど、何かこう、問題が完全に解決したのか、というとそういうわけでもないし、明確な「終わり」って感じはしなかったけれど、ちゃんと物語としては完結していたと思う。

 以前、アイアムアヒーローについて、終わり方が打ち切りみたいで不満だと書いたけれど、「もう主人公にこれ以上、物語の革新に迫る起伏は起こりません」という意味であれば、十分完結しているとは思うわけである。当然、現実世界においては、無意味に人は死んでいくのであり、名もなき、世界の真理にかすりもしない人なんて大多数である。ただ、「物語」、「作品」として存在する以上、外連味でもいいから、「意味」をもたせて欲しいのである。ましてや、序盤からずっと期待し楽しんでいた作品なのであれば、期待も大きくなるしなおさらである。


 ということで、目標は立ったわけだが、なんか足りない。これだけでは、確実に失敗する気がする。
 これはまだ、具体的な行動方策にまで落とし込めていないからである。

 こんだけ書いてきたけれども、まだもう少し考え、書く必要がありそうだ。


(かっこ書きである。結局、ちゃんと具体策が出せなかった。かなしい。基本的に、「目的の概念を描くこと」→「気持ちを固めること」→「目標を定めること」→「生活に組み入れること」といった流れでなければ、明確に行動ができない(僕は)。しかし、日々の生活でこんなサイクルを実施することなんてできないので、まぁ流されるように行動することが大半になる――そしてそれがつらいのだ。だから、より大きな目的、すなわち「生きる意味」なんてものを求めるのである。「生きる意味」については、概念化段階と、気持ちの固定化の中間ぐらいの状態なので、まだまだフラフラしている。「創作する!」ってのも、今年最初の記事が、「目的の概念化」に位置付けられて、今回の記事がようやく、「気持ちを固めること」と「目標を定めること」の中間あたりに位置づけられる。これだと、風が吹けば飛んでいくぐらいの、弱い状態だ。たぶん、少しでも生活変化が加われば、簡単になくなってしまうだろう。まだ足りない)

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