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創作を進めるための方針(その1)
2018/01/07 12:30 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「体調管理、住環境、人間関係も重要」「創作をする理由とは」「単純なことを表現するだけなのにものすごい長い記事になりそう」

ブログは創作なのか(創作定義)

 概要としての今年、2018年の目標は先日記載した。
 本記事においては、目標の一つ、「創作」について十分に推し進めるための方策について記載したい。

 何度も「創作」という言葉を使っているが、これは以下に分類される。

・ブログ
・小説
・作曲

 ブログが創作に含まれるというのは違和感があるが、僕が創作という言葉に込めている意味は、「想像して新しく作品をつくり(創り)だすこと」ということである。

 つくる――という言葉は、漢字で「作る」(無形・小規模)と、「造る」(有形・大規模)に大きく分かれるが、さらに、「新しく・初めて」という意味が込められると、「創る」と書かれる。

 僕のブログは、何か調べて構築するという「作る」という意味よりは、自分の思考の表現であると思っている。この言い方は、「思考の垂れ流し」「落書き」のようなネガティブな表現も可能である。けれども、悪いとは思っていなくて、その理由は、結局のところ、「日本語」という表現をこえて、「自分」なるものの表現はできないと思っているからである。
 もちろん、自分を構成する要素というのは、身体であったり(もっと細かくすると、顔だったり乳房の大きさだったり)、感情だったり、価値観だったり、様々存在する。しかし大別すると、物理的な所有物(身体)と、目に見えない思考に属するものとで、二つに分けられる。心身二元論――そのとき、身体のことは脇に置けば、思考系(信仰とか価値観とかその他目に見えない自分の構成要素)は、「日本語」という表現に依拠している。

 なるほど、上の考えは、中学生ぐらいから思っていたことではあるけれども、最近は、更に日本語(言葉)で表現もできない、「感情要素」という存在についても考慮するようになった。つまり、口でいかに立派なことを言ってようが、「いざ」という時の行動……言動は、そのまま「自分」であるのであって、その動きは言葉を超えるものであるといえる。

 その、感情的な面というのを忘れてはいけないと思う。
 それは、人間であるというカテゴリに属する以上は、逃げ出せない、無視できないものだ。どんなエリートや年配者、高僧であっても、感情という縛りは無視できない。
 それに、こういった文脈で書けば、「感情」というのは、まぁまぁ、ネガティブな表現に思われる。「女性は感情的だ」的な表現もその最たる一つだと思う。ただ、当然感情とは悪いことばかりではない。「良い感情」なるものも当然あるわけだ。



 ――話しがそれている。
 ブログ、小説、作曲、これが僕の考える創作活動である、ということだ。そのうち、ブログというのが、「どこが創作なのか?」と思ったため、その説明を書きたくなったのであるが、あまり重要ではないな。

 いやむしろ、その「ブログ」を、創作活動としてしまうことの危険を思ったのである。
 簡単に書けば、ブログはとても「楽」なのである。

 商品レビューとか、何か哲学とか、テーマを絞って書くブログってのは、大変だと思う。一言でブログといっても、その種類はいろいろあるわけだ。
 もちろん、ある程度、文の量があるブログというのは、まぁまぁ大変なのである。一方、ツイッターでもいいような短い記事が多いブログとか、日記のような、一言二言だとか、料理の写真を掲載するだけのものだったり(まぁ写真は大変なのだが)、そういったものもブログというツールを使っていればブログなのである。

 僕が書いているブログは、基本的に、100%全力である。
 たまに、力を発揮できていないときもあるけれども、これ以上ない表現で書いている。別に、専門用語とか、難しい言葉を使うという意味ではなくて、「最大限分かりやすく書いている」ということである。

 先日、やたら「全裸」と書いたけれども、目指すところはソレである。
 突き詰めたいのである。

 それは、「成長」を目的にはしているけれども、むしろ、「現状を余すことなく表現すること」を目的にしている。

「立派なこと」は言えるし、書ける。

 世界平和のため、日本のため、会社のため、家族のため。
 会社の経営理念(の主旨)だって暗唱できるし、日本国憲法で謳われる理念だって覚えている。

 ただ、それは「サイコパス」でも可能である。――というのは、非常に最近興味がある部分なのだけれども……つまり、感情と行動がどこまで一致するべきなのだろうか、という点に興味がある。

 そうではなくて、「自分」というのが、自分というのに、本当に一致したいという欲求である。――分かりづらい表現になった。このあたりがまだまだ非常に不十分。


 ――話しがそれている。小見出しと内容がそもそも一致していないじゃないか。(最初に書いた小見出しは「創作をするためには身体がクリアーである必要がある」といったものだった)
 小見出しを直そう。
→ブログを書くことは創作としていいのか。
→よい。自己がしっかりしていないと、描きたいテーマも定まらない。

何故創作が必要か

 創作の定義を上の章で書いた。
 では次に、何故創作をする必要があるのか、という点について考えていこう。

 まず、先日「8つの輪」という、人生で重要な項目を挙げた。
1.健康
2.家族
3.友人
4.趣味
5.仕事
6.富
7.時間

 暗唱したらこの程度しか浮かばなかった。なんか足りない。読み返してみる。――「自己啓発・学び」が足りなかった。
 ふむ、しかし、この「自己啓発」ってのは、僕は基礎だと思う。
 自己啓発書とかいって、なんか怪しげな雰囲気がつきまとう言葉になってしまっているけれども、そもそも、人生に軸を持たずに生きるってのは、僕は逆にきついことだと思う。

 絶え間ない快楽が与えられる恵まれた環境をもっている人であれば良いのだけれども、たいていは、「現実」と「自分」の間には深い溝がある。

 その溝を埋めるのは、「努力」と「運」である。

 なんでこの話しになったかというと、その溝を埋めるのが、「物語」であるからだ。

 ここでいう物語は、おとぎ話といった意味だけではない。さっき書いた憲法や、会社の経営理念も物語の一種だ。
 ようは、信仰のことである。宗教や、スピリチュアル的な書き方が気に食わなければ、テーマでも、目的でも何だっていい。


 これまで、「困難」を味わったことがない人は、おそらく殆どいないだろう。
 もしかしたら、挫折的なのはない人がいるかもしれない。けれども、誰しも「努力」したことはあるはずだ。勉強なんて全然したことがないっていうヤンチャな人だって、かわいい子をGETしようと頑張ったり、スクールカーストを維持するため体力増強に力を入れたりしたかもしれない。

 基本的に、人生ってのは、困難の連続だと考えてよい。
 それでもって、その困難を乗り越えて「生きていく」のが人生というものである。

 上の表現は、僕の考えなので、もしかしたら違う認識の人もいるかもしれない。上の認識がもし「絶対的な誤り」であれば、これまでの、そしてこれからの僕の思考については全般的にパラダイムシフト(使ってみたかっただけ。「変更」という表現で構わない)する必要があるが、まぁ、これまでの経験やその他学習的なのから考えて、間違ってはいないと思っている。要は、ゴウタマさんや、ショーペンハウアーさんが言っている、「人生は苦しみである」ということである。

 話しが少しそれているが、物語とは、その「困難」を乗り越えるために必要不可欠なものである。

 上の表現も僕の考えなので、これは更に認識が違う人も多くなっていくだろう。
 別に物語なんてなくても、困難を克服し、生きていくことは可能である、という人もいるだろう。――単に、僕は不可能である、と思っているに過ぎない。しかし、これは(僕にとって)ある程度、この10年くらいで強固になった考えである。

 そもそも、きっとこれからも、僕は何らか、「書く」こと(そして読むこと)をやめられないと思うのである。

 ちなみに、話しがまたそれてしまいそうだけれども、さっきから登場している「自分」ってのは、「記憶」であるとも思っている。
 認知症という問題は、介護の現場を少しみるだけでも相当難しい問題であるとわかる。
 介護は家族でするもの、というのが従来日本社会の在り方であったということであるが、これは本当に難しいと思う。その難しさは、むしろ「家族」であることに由来すると僕は思う。家族は、やはり、大事なものであって、「好き」なものであって、一緒にいるべきものであると思う。――もちろん、そうではない「家族」もあるわけだが、それは本来の意味での家族ではなくて、制度上の、形式的な家族である、と思う。もちろん、その形式が、本来の家族に近づくための一つの要素でもあるのだけれども、「決定的に壊れた家族」なるものもあるのだし、決して、絶対的な関係であるとは思わない方がいい、と僕は思う。
 その前提で考えたとき、認知症――特に今回強調したいのは、「忘れてしまう」ということについてだ。つまり、家族の存在を忘れてしまうということ。
 とても可愛がっていた子どもや孫たちの顔も、さらには存在すらも忘れてしまう。献身的に支えてくれていた周囲の家族のことも、誰だったのか覚えていない。優しい介護士さんぐらいに思っている。

 被介護者がそんな状態であったとき、介護をする側はどう思うだろうか。
 姿かたちは、愛する人だったとして、その人が自分のことを一切覚えていなかったら?

 話は少し飛躍するけれども、その時必要になるのも「物語」だと思う。
「愛する妻が自分のことをもう思い出せないとしても、自分の中には、彼女と過ごした思い出がたくさん詰まっているから、これからも彼女はずっと大切な存在だ――」
 その信念を、「物語」という表現にしてしまうのは、あまりにも残酷だと思う。――だから、これも飛躍するけれども、基本的に、他者と分かり合おうなんて、思わない方がいい。いやむしろ、分かり合わなくていい。理解しようと、努力しさえすればいい。価値観の共有なんて、しなくていい。ただ、共感しようと努めればいい。

何故創作が必要か(続き)

 ひどいこと書いているし、こんなこと思ったり書いたりできる人間は、人間失格だといわれそうだし、サイコパスだといわれそうだし、「こんな人だと思わなかった」とか、まぁまぁ言われそうだし、言われたことも実際あるから、やっぱりどこか神経質になってしまう。

 でも、上の介護の例において考えたとき、「家族は大事だ」という価値観を絶対視したとき、どうしても、その相手を愛しく思えず、憎しみの感情すら発生しだしたらどうだろう。
 きっと、家族を心から愛せない自分と、愛さなければいけないという価値観との狭間で、精神はどんどん擦り減っていくことだろう。

 そうした困難。

 別に介護だけじゃないし、若い人は困難がないとか、年をとれば困難が減っていくとか、そんなこと全く関係ない。
 裕福な人は困難がないとか、善人だったら困難が少ないとか、そんなことも関係ない。

 困難だらけである。

 いじめ、リストラ、DV、冤罪、事故、災害。

 偉い人の引用が欲しければ、探せば簡単に見つかると思う。いやむしろ、単純に人生は素晴らしいものだと賞賛するような表現の方が少ないかもしれない。

 

 ――それでも。それでも生きていくのが大切だ。

 と、そう心から思えるために必要なのが、物語である。


 分かったと、その「物語」なるものが大切なのは分かったとしよう。
 そうしたとき、じゃあ、「自分」として、その物語を創るということが、どうして重要になるのだろうか、という点を書かなければいけないだろう。

 好きだからだ。以上。

 結論は簡単だ。だが、それでは納得しない(自分も)。何故好きか。物語に触れるだけでいいのではないか。何故自分で創らなければいけないのか。

 確か、EDENという漫画の作者が言っていたことだと思うのだけれども、
「エヴァンゲリオンという作品を最初みて、『ああ、やられた。自分のやりたいこと全部やられた』と思った。けれども、終わってから、何か、どこか、零れ落ちているものがある気がした。その両手から掬い損ねて零れたものを、何とか表現したかった」
 的なことを読んだことがある。(上の文章は僕の創造であって、引用ではない。そもそもどこで読んだのか覚えていない)


 好きだからだ、と理由を書いたけれども、もっといえば、自分のためだからだ、というのもある。

 素晴らしい作品が多いこの世の中は、本当に素晴らしいと思う。

 思うが、その素晴らしい作品に触れるインターバル(間隔)が、ものすごく辛いのである。

 これもどっかで見たことある表現だが、
「私はライブに行くのが好きだ。その好きなアーティストのライブに参加するためには、全国津々浦々、いくら費用がかかろうが飛んでいく。ライブでは、この瞬間のために生きているのだというくらい熱狂する。そのライブが終わった後は、本当に死んだように何もする気がなくなる。そして、また次のライブに行く……」
 といったもの。(上の文章も、僕の創造だ。元は何かあった気がするけれども、どこだったか思い出せない)

 こう……なんだろう。「ふつーに」面白い作品はたくさんあるのであるけれども、こう、魂魄を揺るがせられるような、「自分」が揺るがせられるような、強い作品レベルになると、中々ない。

 これは、単純ではない問題であって、同じ作品でも、見るタイミングや環境・条件によって、まったく違う印象になったりする。
 本当に、偶然性が高い行為であるといえる。

 まぁそもそも、本記事のわりかし最初に書いた通り、人生は「運」でもあるので、それはいたしかたない部分もある。

 が、繰り返すが、何か失ったときは、「本当に辛い」のである。

 本当に辛い。
 鬱病の病的な辛さとは違うかもしれないが、この、本当に何もしたくなくなるほどの無気力感というのは、恐怖ですらある(自殺するなんて元気すらでない。ゆえに、うつ病で自殺するというのも、ある程度回復期に危険だったりするらしい)。

 ので、そういった「運」に自分の人生を任せるというのも嫌だ、というのも一つある。人生は、「努力」と「運」の天秤、バランスによって進んでいくものなのだ。運だけ、努力だけではどうにもならない。

 だから、自分でも作品を創ろうというわけである。


(かっこ書きである。長くなったので2回に分ける)

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