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幸福について
2010/02/09 21:19 | Comments(0) | 思考及び書くこと

書かねばなるまい、そうした、強い強迫観念のようなものに突き動かされて書く文章ほど面白い。

しかし、それが独善に陥っている、と感じられてはならない。

――独善? 自分は「善」だと思うこと、もしそうであれば、独善など畏れるに足りない。

おそろしいのは、根源となる、足場となるものが何もないとする思考である。


 

 

 

余計なことですが真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう。(匿名希望)

 

 

わたしの幸福についてまで心配していただいて光栄です。しかし、幸福の問題は、わたしにとっては、もうとっくの昔に解決してしまった問題で、「幸福」という言葉があることさえほとんど忘れていました。それは、単に、わたしを幸せにしてくれる沢山のものに、現在の自分が囲まれているという事実だけを指しているのではありません。そのむかしあるとき、わたしは幸福を追求することは無意味であり不毛であると気がついてしまったのです。それは、人は誰でも幸せでありたいと願う事実を否定することではありません。ただ、「幸福」なるものを目標として立て、それに向かって意識的に努力する、というようなふるまいを、一切、そのとき以来捨ててしまったのです。そのときから、幸福の問題は、実に自然に、解消してしまったのです。そうすることによって、意図せずしてわたしが得たものは、自由です。そして、気がついたら、わたしはいつのまにか、四方八方から幸福に襲われているのです。来る幸福は別に拒みませんが、これはおまけです。

 

 

 

 

 

何故、幸福に向かって努力することは無駄な努力なのか。それは、人間というものは、いかなる状況にあろうとも、幸福であると言えば幸福であると言えるし、不幸であると言えば不幸であるとも言えるからです。 別の言い方をすれば、次のように言えるかも知れません。心の中に一本の直線を引いて、その一方の端に矢印を付け、他の一方に逆向きの矢印をつけて、幸福と不幸が逆向きになっている、という図を描いて、幸福に一歩でも近づけば、不幸から遠ざかり、不幸に一歩でも近づけば、幸福から遠ざかる、と思い込む。このような思い込みは、実は間違っているのです。幸福と不幸の関係はそのようになってはいません。幸福と不幸はもっと複雑に依存し合っています。だから、不幸ゆえの幸福、あるいは幸福ゆえの不幸、というようなことがありうるのです。しかるに、幸福という目標を立ててそれに向かって努力しようというような姿勢は、この虚妄にすぎない幸福の直線図を心に描いているところから生まれた姿勢なのです。幸福を追求することは、だから、不毛な努力なのです。

 

さらに、たとえ幸福は追求すべきものであると仮定しても、そのためには幸福についての具体的な知識が前提とされなければなりません。幸福という目的地に着くためには、幸福とは何かということを具体的に知っていることを必要としますが、何が幸福であるかを決定することは容易なことではありません。それは自己を知るということでもあるからです。つまり、自分が究極的に求めているものは何か具体的に知ることだからです。「自分が求めているのは『幸福』である」というのは無意味な文です。それは「自分が求めているものは『自分が求めているもの』である」ということと同じことだからです。何かよくわからない幸福を求めて努力するのは、目的地を知らないで電車に乗ってしまうようなものです。だから、あえて言えば、真理の追究は幸福追求に先行するのです。おそらくこのことゆえに、ソクラテスは、人が幸福でないのは無知だからである、と言ったのでしょう。

 

このようなわけで、せっかくのお勧めですが、「真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう」というようなお誘いはおことわりせねばなりませんね。

 

佐倉 哲

 

www.j-world.com/usr/sakura/think/happiness.html

 

 

 

 

 

 

 

ところで、思索というものは、すんでのところで、大いなるものに出会ったとき、両手を挙げて退散すべきものです。

白状すれば私は考えることが好きですが、好きだからやっているのではなく、ただやらざるをえないからやっているのです。

これは逆に言えば、わたしは、私というものをいつでも手放すことができるということを意味します。思索をする私という私を捨て去るということになるからです。

 

私は「コメントなどいらない」といった意味の発言をしますが、それは、コメントしないでくれ、ということではないということは明記しなければなりません。

ただ、私の書くことに対してのコメントはいらない、ということはいえます。私の書く文章を読んで、何らかの思ったことを述べていただければ、それはとてもうれしいことです。昔の自分を思い出したり、まったく突拍子もないアイディアが浮かんだり、いらいらしたという気持ちでさえも、生じてくれたらありがたいのです。

 

――いくら書いたところで理解されない部分でありますが、こうした一連のコメントに対する私の立場表明といったものは、批判を恐れているわけではありません。このように書くと、強がりにしか読めませんが、ただし、当初の指摘、立場、即ち、思考なるものは、強力なものの前では容易く崩壊するものである、という言及が、私の言葉の証左となります。

 

いくら世界平和を説いたところで、首筋にナイフを突きつけられて、「はい、核ミサイルのスイッチ押してね♪」と言われたとき、どう行動するかなど、はっきりいって、誰にも推測つけられません。

というのは当然で、それは、個人性にも由来しながら、環境性にも由来するものだからです。

私自身であっても、押すかもしれないし、押さないかもしれない。3時間前の私の気分なら押しているかもしれないし、明日の私なら押さないかもしれない。

貴方が想像しうる、もっとも誠実で、尊敬できる人を仮定して、その人がどうかというのは、これまた想定できないのです。もちろん、「信じる」ことは可能です、ただし、「想定」は不可能なのです。

 

引用した幸福論が優れているのは、当然のことを当然のように言い切ったことにあります。

「幸福なんて、幸福だと思っていれば幸福なんだ」

ともすればただのトートロジーですが、あえて反復による論理矛盾によって、幸福追求の不毛さを示しています。

 

おそらく、私の思考の根底にあるのは、徹底的な懐疑でしょう。

徹底的な懐疑によって、ただ信じることしかできないという、一見矛盾した実感が、まず一つあります。

「真実は何もない、とする思考は、即ち、『真実は何もない』ということを信じていることに他ならない」という思考をしている、ということになり、これは無限遡及的に続くことでしょう。

 

私は、私の独自性を主張するつもりはありませんし、私は「変人だ」などと悦に浸りたいわけでもありません、ただ主観的に、感覚的に、私を「わたし」として表すことができないという実感だけがあるわけです。

当然ながら、言葉に、それができる能力はありません、何故ならば、言葉は、その性質上、「分断」、つまり、区切ることを行うからです。

ここで、それでは、「わたし」というものは、区切ることができないもの、という前提に立っていることが伺われます。実際は、簡単に区切れて、言葉でも表すことができる、そういったものが「真実」かもしれない――。

 

 

ただ、問題は、わたしが、単に、無目的的になっているという、ただそれだけのことなのです。

当然、「生きる意味などないのだ」という、ありがたい格言が飛んできますが、あってもなくても、それが問題ではないのです。

あってもなくてもどうでもいいと思っている、その思っている主体的な問題が、問題としてあるのです。

 

手首をナイフで切りつけてみて、「ああ、痛い」と思ったとき、その痛みに意味づけをし、その意味付けに意味がないという判断を下し、ただ流れる血を眺めつつ、よし、やる気が出てきたと勉学に励み、大学に合格し、友人や彼女に恵まれ、楽しい生活をしている――、しかしそのどこかに手首の痛みが残っており、その痛みを想起する事象に遭遇したとき、「俺の原点は、やはりそこなのか」と絶望に浸りながら、その解釈に発展性も将来性もないと思いながら、――その「ながら」という言葉で表現される「痛み」、その痛みに言及できるのは、もはや、この一連の流れを体感した人物一人だけなのです。

 

――ところで、こうした文章を書いているとき、私は、自分を比ゆとして用いることもあれば、全く正反対の自分を描くこともあるし、複合的に描くこともあるし、――というのは、「わたし」という単一主体についての問題ではなく、とても複合的な「問題意識」(この意識される主体が問題である)ということを示すためには、比ゆが、全く純粋に比ゆとして機能しなければならないからです。

「裏切り」に触れたとたん、その人がいくら「いい人」であっても、「裏切り」というバイアスに他者は支配されるという避けられない事実、それを利用した表現方法ということになります。人は、生じた懐疑を、もはや無に帰することはできないのです。

それはどこまでも、「可能性」として認識されることになります。

 

フッサールの「生活世界」やヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」といった概念に汲み取られずこぼれていくもの、それ自体の言及、ということになります。

即ち、真実を真実として認識するためには、真実といった認識がなければならない――という、無味乾燥でかつ無気力なものです。

 

 

 

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