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5月も終わり(人間関係について)
2023/05/27 00:04 | Comments(5) | 対人関係
今日の一言「やっぱり1か月に1回になるのか」

まえがき

 普段と違うことをするとやっぱり疲れる。
 新しいことをし続けないと暇、という人もいるだろうけれども、ボクはもともと、同じことを繰り返しても楽しいと思っていた、むしろそれが安心安全に思っていた。

自己分析

「傾聴」の訓練みたいな場だった。
 大勢の前で話したり聞いたりすることが多くあって、疲れた。

 しかし、ボクの話し方の、トーンとか表情、態度など、安心して話せるし、よく聞いてもらえていると言ってもらえた。

 自分の中では、コミュニケーションにすごく苦手意識があるが、いわゆる「テクニック」と、実践と感情を紐づけるようにすれば、表面的には「ふつう」に振舞えるということなのだろう。


 それは、口に出していることと、心とが真逆なことをいっているサイコパスという意味ではない。
 基本的に、人混みやら、身体的な安全が脅かされるような状況においては心理的負担がかかっているが、そうではない時は別にそんな負の感情ばかりなわけではないのだ。


知らない人との交流

 それでも、知らない人と話すのは疲れる……。

 会議の前日などは、よく眠れなくて、明け方に目覚めたりした。

 心身的に、気にしないようにしていてもやっぱり負担にはなっているのだなと思った。身体は正直である。


 オンライン上は、アバターというか、「身体」の制御がいらないので、その点の負担が少ないのがとてもよいのだと思った。

 身体を維持するのが難しい。。

 例えば、ネットゲームしているとき、フレンドと話をしているとき、もう眠くて話したくない……みたいな状況になったとしても、ある程度交流を続けることができる。身体があるリアルベースの交流の際はそれができない。

 さらに、身体ベースの場合は、いくら楽しい飲み会を過ごしたとしても、その後、公共交通機関で帰らなければいけない。これも面倒くさい。

褒められて嬉しかったことは確か

 自分の振る舞いが褒めてもらえて、嬉しかったことは事実である。
 それは確かに、オンライン上では得られないことだったのかもしれない。

 それでも、ボクは、やっぱり、オンラインの関係は悪くないと思う。悪くないというよりも、そっちの方がよいと思う。

こう見せたいという自分

 自分の全部を認めて、そして、愛して欲しい……そんなことは、赤ん坊や幼児期以外不可能だ。
 他者とは、適切な距離というか、付き合い方が必要だ。

 コミュニケーション力というのは、幅広い人という存在のパターンに、より多く対応できる技術といってよいだろう。

 コミュニケーションとは、情報伝達のことだ。コミュニケーション力というのは、情報伝達する力のことだ。
 しかし、それはどういったものか、それを数値化するにはどうしたらよいのか? という課題を出されたら、それは、より多くの人に好ましいと思われるということだろうと思う。

 共通のプロトコルというのが、ビジネスマナーである。プロトコルというのは規格のことだ。


 いろんな考えがあっていい。色んな人の感じ方があっていい。それでも、この部分は共通化をはかりましょう……というのが、マナーというものだ。だから、それすら、別に絶対的なものではない。

 法律という体系はとても優れているとは思うが、それも、人間が開発したツールである。絶対普遍に正しいものではない。多くの人間が「よいと思う」という価値の共有がはかれて、そして、共感できるから今の法律が優れているということになる。そして、問題発生が少ないというのが維持すべきという条件だ。

色んな人に好かれても

 100人に、1%「いいね」と思ってもらえるよりも、1人に100%いいねって思ってもらった方が良いのか。
 100人に、100%「いいね」って思ってもらいたい。そうある方が望ましい。

 極端な数値化に意味はない。前者も後者も、どちらも不可能で、そのバランスでしかない。
 基準は、今、であるだろうと思う。今、30人に25%いいねって思ってもらえるのなら、それが、60人に30%いいねって思ってもらえるようになったら「幸せ」かもしれない。

そもそも他者が必要なのか

 FF14でフレンドと遊んで楽しいと思う経験をする前までは、「他者不要説」を唱えていた。

 どうやって、一人でも、……いや厳密に一人はきっと耐えられないが、少数でも、共感してくれたり、反応してくれる友人をつくって、最高に満足に人生を過ごすか、それがテーマであった。

 しかし、いくら「表面的」な関係であったとしても、他者と付き合って行動するというのは、悪いことではないというよりも、むしろ今までにないようなとても素晴らしい経験だと思えるようになったこと、それはここ数年2~3年ぐらいのことだったと思う。

 いまでも、喪男な独り身であることはかわりないのである。そのことについての、肯定感を得たということではなくて、それはむしろ、6年~7年前に、そういった方向性になってきていたと思う。いわゆる離婚した後ぐらいだと思う。

 色んな意味で、「離婚してよかった」と思っている。離婚は切り出されたのであるから、とても哀しいできごとだったが、それ自体は、とてもむしろ相手に感謝すべきに思う。

 このブログとして価値があるとすれば、離婚して、もしくはしそうでとても困っている諸氏がいたときに、思った以上に「大したことがない」ということであるということを伝えられることである。

 引っ越しとか財産分与とか、役所の諸手続きとか、双方家庭の云々とか色々あるとはいえ、一つずつこなせば大したことない。時間はかかるかもしれないが。

 むしろ心配懸念すべきは、心理的な面だが、それは、繰り返すと、今はそれでよかったと思っている。

歳をとっても色んな経験ができるし感動できる

 もう30代後半である。恐ろしい。
 完全に中年。初老も近い。

 それでも、FF14やったことで、色んな世界や価値観が変わったのはすごいと思った。FF14というよりも、オンラインゲームというものをやったということだろうか。オンラインゲームはやったことがあるから、MMORPGをやったということが大きかったのか。

 これが、「モテ」を目指して、テニスサークルとか入っても、絶対つまらなかったと思う。
 ボルダリング(壁上る奴?)は楽しそうだと思ったけれども。

 もっと周りに、ゲーム好きな友人が(これはリアルの中で)いたら、もっと早くから楽しい人生おくれてたのだろうか。
 ある意味、「優秀」な友人ばっかりで、あんまし心を開けなかったのかもしれないな。
 数人は、ネットカフェとか行って、一緒に遊んでくれた。一時期はすごくたくさん行ってた。それは楽しかったし、その友人とはたまに会いたいとも思う。

 でも、「会う」労力を考えると、自分で企画したり、会いに行ったりとか行動を起こすまでにはならない(ごめんね……かっこわらい)。だから、誘われたら嬉しいのだけれども(かっこわらい)。

 基本、自分から誘ったり相互の関係がないと、ゆるやかに、もしくは急速に関係は離れている。

 人間関係にもメンテナンスが必要だ。

人間関係の維持

 お金ってやっぱり便利だと思う。
 人間関係の維持って、すごく難しいことだ。時間が必要だ。考える力(相手が望むこと、ものを思い描くこと)も必要だ。

 一方で、お金があると、スーパーにいって、食料を買うことができる。

「お前は、気に食わない奴だから、売ってやらない」

 とはならない。人間関係は不要だ。最低限は必要だった……しかし、無人レジの普及でそれすらもいらなくなってきている。


 人間って、ほんとに、人間とかかわることをストレスとして感じているのだ。
 知らない人と話すと、ストレスになるのだ(と、まわりまわって、最初の方に書いていたことに戻っていく)。


 だから、これからも、人間関係は、ある方面ではどこまでも希薄化して、ある方面では濃厚に……それは、寂しいから、どこか反動的に他者を求める面もでていくのではないかと思う。

人は

 人は、人の世界でしか生きられない。
 オンラインも、仮想空間もメタバースも、それは人が作った世界である。

 社会といわれる、法律や資本主義でなりたつ世界も、それもまた人が作った世界だ。

 ボクは、人がやっぱり苦手だ。怖い。コミュニケーション障害だ。

 それは、ボクが僕を見る目。でも、ある一定な基準においては、他者から見たボクはコミュニケーション能力は高いように見えるという。
 こういったらこう思われるのではないか、こうしたらこういった反応になるのではないか、ということをシミュレーションしているからである(意識的、無意識的に)。

 だから、絶対的に疲れる。。。

 人と話をすることで満たされて元気になる……という人のことはやはり、自分は良く分からない。
 今までもそうだけれども、やっぱり、こうして、もしくは誰にも見られない紙のノートに自分の言葉を延々と書き綴っていった……それによって気持ちは整理されていくのだ。

 もちろん、それは、他者に話すことで同じ効果があるとボクも思う。誰かに相談して、心が軽くなったというのは、まさにそういう仕組みだと思う。

 ところが、僕らのような(仲間が欲しいから「ら」という言葉を付け加えた)コミュ障は、他者がいると、その他者が、ボクの相談を聞いたことで「こんな風に思うのではないか」「こんな風に感じられているのではないか」というのも同時に想定が走るのである。自動的に、だ。

 そうしてさらに、「ちゃんと聞いてくれているようでも、実は裏では違うことを感じているのではないか」という疑念も生じるのである(信じたいという気持ちも同時にあったとしても、だ)。


 だから、もう誰もいらない、と。ひとり、孤独に書いていくことで、それが誰の目に留まることもないとしても、ボクは確かにここに生きていたんだ、という気になって……なのかどうかはわからないが、気持ちは落ち着くのである。

 ボクはたぶん、中学? 少なくても、高校1年生から、そうしてやってきた。

 その、書くということについて、いつかは卒業できるのかと思ったこともあったが、まぁ、きっとこれは、これからも続くのかもしれない。

 しかし、どうだろう。このブログの場所が、リアルの人にばれて晒されてしまったら、それはとても嫌な気持ちになる。きっと素早く閉鎖することだろう。

何故リアルでは嫌なのか

 オンラインと、リアルは、どうしても分けたい……。

 そもそも、誰も、そんな、ボクのことなど知りたくないはずなのである。そんな暇ないのだ絶対に。帰ってかわいい子供の顔をみて和んだり、日々家事に追われたり介護したり、そもそも激務で残業だったり……。

 みんな忙しいのに、こんなブログだれも本当はみたくないはず。

 それに、特定の何かを批判したりしているわけではなく、ただ、自己の内面を書いているだけだから、「うわ……気持ち悪い中年……」とは思われることだろうが、別に炎上はしないと思うのだ、多分。

「痛い大人wwwww」みたいに煽られるだろうとは思う。最近耳にするようになったのは「お気持ち表明」みたいな。

 そこらへんは分かっているのである。

 でも、別にお気持ち表明してもいいじゃん? とも開き直っている部分もある。

 ただそれは、やっぱり、リアルとは別だからである。利害関係ある人が知ったら、「なめられる」もしくは「気持ち悪がられる」から、今後のコミュニケーションがうまくいかなくなるだろうことが考えられる。

 それは単にデメリットしかない(たぶんお互いに)なので、バレたくない、というわけなのだ、と、初めて分析してみた。

 何となく思っていたことだが、書いてみるとそういうことだな。

 いやそもそも、実名でブログ書くメリットが何もない、というのが前提なのであるが。

 別にボクは、リアルにおける○○(氏名)を癒したいとかそういう思いはないのだ。
 ボク自身(氏名とかに関係ない、「魂」みたいなもの。レーゾンデートル? なんといえばいいんだっけそういうの。アイデンティティ……とも違う。なんだ、キルケゴール氏風にいえば、本来的自己……?)について整理したいという思いが一番なのだ。

 だから、リアルのことはあまり関係ないと思っている。難しいな、関係なくはない。身体はまさにボクなのだから。ボクにまつわる全ても、リアルは関係している。ただ、表現したいのは、リアルのボクと他者存在との関係ではなく、「本来的自己の在り方」なのである。




生きる意味を徹底して考える

 最近、ブログペースが1か月に1回とかだけれども、それでも、やっぱり、ボクが興味があるのは、やっぱり「本来的自己」について、ということなのだろうか。

 20代くらいならかっこいいというか可愛い気もするけれども、30代だからなぁ……。。。

 もう絶対気持ち悪いとしか思えない。

 分かってる分かってる……だから誰にも相談するつもりもない。今回、コミュ力褒めてくれた方々も、その内面に、こんな自己存在があることを知ったら幻滅すること間違いなしである。
 幻滅させる必要はない……ビジネスなのだから。お仕事は、お仕事を目的は目標に近づけることが大事なのだから、「本来的自己」は不要なのだ。


 もちろん、一致してた方が、「楽しい」。
 だから、完全不一致はさせない。一人でいた方が楽しいのに……と思っても、必要ならコミュニケーションはとる。
 そして、そのコミュニケーションは、いやいやではなく、「楽しく」とる。そういうことである。ただ、それが、本来自己との完全同一ではないのだ。

 演技は、必要である。

 演技というと気持ちの悪い言葉かもしれないが、ペルソナというか、仮面は必要だ。

 化粧や、洋服もそうだ。身だしなみ大事っていうだろう。それは自分を飾っているのだ。将軍は豪奢な軍服を着ているものだ。

 だから、本当は気持ち悪くないのかもしれない……と思ってはいけない笑
 リアルベースでの他者への甘えは、赤ん坊か幼児しか許されない。

 でも、そうだとしたら、正直、パートナーっている……? って思うのである。だからこそ、子どもを作って育てるということに、強くモチベーションがなければ、家族というのは難しいのだと思う。

家族について

 結婚して子供を作る……そのことについてどうしようか悩んでいた時期も数年前に実はあったといえばあった。
 しかし、とある事情から、……と、これぐらいは書いてもいいかな……、兄弟姉妹が、結婚し、子どもが生まれたのである。そしたら、別に、自分は好きにしていいのかな、と思った(それが正しいか間違いかはわからない)。

 やっぱり、親に対して、申し訳ないなぁという気持ちがあったのだろうと思う。

 それは、兄弟姉妹が果たしてくれたので、まぁ……解消とまではきっといかないのだろうけれど、それでいっか、と思ったのだ。言葉にすると陳腐だけれども、でも、その出来事は大きかったと思う。

 だから、自分はどっちでもいっか……と思い、そして、うーん、積極的に行動はしなかった。

 それが、あと30年とかして、ものすごい後悔になるのかもしれない。

 孤独で寂しくて、後悔して惨めに生きることになるのかもしれない……怖い。

死ぬことについて

 でも怖いといえば、死ぬことが怖い。

 死ぬのは怖い。死にたくない。

 いやだいやだいやだ、死にたくない、もっと生きていたい!!!

 いきなり、明日死にます、って死神にいわれたら泣きじゃくって無駄な抗議するかもしれない。


 でも、生き続けるということは、ただそれだけの条件では、むしろおぞましいということを、本で読んで納得している。

 生きるということは、ただそれだけでは、そんなに価値がないのだ。

 楽しく幸せに生きなければ意味がない。

 だからこそ、困難の中で、生きることを諦めない人たちの姿は、物語になるのだ。

 ボクはまだ、明日も生きていていいのだろうか……ありがとう、感謝だ。



 どんな感じに死ぬのだろう。

 できれば、何も分からなくなって、まどろみの中に精神が沈殿していくようにして、静かに、自己が消滅していくことを望む。

 しかし、突然交通事故で死ぬかもしれない。大地震で倒壊した建物の下敷きになり、痛みと苦しみの中でもがき、かすかな希望を信じながら死ぬのかもしれない。

 全く、分からない。

 死ぬことについて知りたいか、という難問があるが、知らない方が良いと思う。死を知っていた方が前向きに生きられるという意見も分からないでもないが、でも知らない方がいいと思う。

 それが10年後とかならまだいいかもしれないが、9年と11か月のとき、めっちゃ憂鬱になること間違いなしな気がする。
 英雄的には、満足して死ぬようなさまが描かれるかもしれないが、いやいや……無理だよそんなの。


 だから、行動変容に繋がらないような、「死について考える」ということは無意味だ。

 ボクが死について考えるのは、死ぬことを意識することについて、前向きに、そして果敢にチャレンジができるようになる……ことがある、かもしれない、からだ。

別の死(自己の死)

 身体の死もあるけれども、実は、中学生ぐらいのときの、もしくは大学生ぐらいの時の、精神的苦痛があったころの僕は、死んだのかもしれない。

 切実性がない。

 どう考えても、昔の方が苦しかった。

 いやその、離婚した当時は苦しかった気もするけれども、よくよく比較すると……、先行きの不安や、人間関係、色々な面で、学生時代の方が苦しかった気がしてならない。

 もっといえば、これも前に書いたことあると思うが、小学生のころ、スポーツクラブ活動に参加していたのだが、そこで、ボクはスポーツが上手くできなかったので、いじめられていた。ばかにされていた。心理的安定性がなかった。所属欲求がみたされなかった。他者が怖い存在だと強く意識付けられたのは、小学生4~6年生のころだろうと思う、思うって言うか今確信した(かっこ笑い)

 それに比べると、大学時代の周りの人間関係は驚くほど「ふつう」だった。
 いい人たちに恵まれたのだろう。いまは殆ど交流ないし、先ほど書いた一人ぐらいしか会おうと思わないのだけれども。

 たぶん、声かけたら、何人かは会ってくれると思う。そこまで「実は嫌いだったけれども無理やり付き合ってた」という人ばかりではないだろう。いるとは思うのだが、全員そうだったら人間不信度が2倍になること間違いなしである(かっこ笑い)。

 まぁとにかく、小学生のころの精神的苦痛に比べたら、離婚の時なんてぜんぜん……。だって、問題解決まで、いっても、2~3か月ぐらいじゃないかなぁ。後処理などはその後も色々あったとはいえ、そこまで大変な記憶は、当時の自分さんには申し訳ないが、あまりない。

 比べて、小学生のころは、4年~6年生のときまで、3年ぐらいも苦痛だったのである。

 それに比べたら人生イージーモードだ。

 美男美女に生まれなくても、イージーになることもあるのだということを、どこかの誰かに伝えられたらいいなとは思う。いやごめんなさい、イージーは言い過ぎだ、それは嘘だ。

 とにかく、子どもの頃よりも今の方がよいので、それはありがたいことだ。

 しかし、果たして今後はどうなのか。

これからの人生

 人生谷あれば山あり、んんん? 違うか? 谷から山に登るのも大変だし、くだるのも精神的に良くない気がする。そうすると、人生って苦しみだっていった、やっぱりゴウタマ氏が尊敬できるな。

 人生、上がっていくことを望みたいそれは当たり前だ。

 しかし、その「上がる」とは何か。

 素敵なパートナーを見つけることが「上がる」ことなのかもしれないが、、、しかし、例え、一緒に人生を進んで行きたい、という人が出来たとしても、このブログを見せようとは思えない。

 たぶん、このブログの「未完成な自己」を許容できる人間は、いない。

 いや、面白半分に、「こいつキメェwww」って見る分には面白いネタぐらいには(いやそもそも面白くもない……)なるかもしれない。
 しかし、いざ、「リアルで」一緒に、というのは、絶対にごめんあそばせ、であろうと思う。


 んーでもどうかなぁ。。
 こんなこと書いている異性がいたとして、ボクは面白いと思うけどな。

 でも、一緒に「生活」するとなると、きっと色々難しいだろうと思う。

 となると、「一緒に人生を歩む」人があらわれたら、このブログは、ひっそりと更新されるか、もしくはエターナルになるだろう。

 
 もはや、死の床に伏したとき、最後に自分の人生を振り返ろうとして、このブログを読もうとしても、読み切れないぐらいの文字量にはなったと思う。

 ダイジェスト版作って欲しいな未来の自分よ……。

 そんとき、どう思うかだ。後悔はして欲しくないなぁと思う。

 でもそれも分からないのだ。いつ死ぬかが分からないということ以上に、自分自身も変容しているのである。

 過去の苦しみに満ちた自分は死んだのだ、としたら、今のボクは何なのだ?

 自我同一性の変容というのも、自己の死といえるのではないだろうか。

 新しい自分が生まれたのだ……!


 そうだとしたら、この先、死の間際のボクが何を思うか、それは分かる由もない。

あとがき

(かっこ書きである。長くなった気がする。こんなに書くことになるとは思わなかった。早く書き終えて、頂いたコメントの返信しようとしてたのだ……気持ちとしては本当に。書いているうちに色々でてくるというのは、まぁ、口頭のときもそうだろう。いや何故こうなったかというと、すごくストレスだったのだ……。いわゆるコミュニケーション向上研修みたいなプログラムに参加したのであった。実りあるものだったと思うし、「楽しかった」とは思うが、その「楽しい」という感情とは裏腹に、ボクのようなコミュ障人間は、すごくストレスになるのだ。そしてこの人間関係ストレスは、ボクは、こう書くということ以外に解消方法を知らないのである。酒飲むというのもあるけれども! ということで、ある程度、今までの蓄積によって、対人コミュニケーション能力自体は身につけられていることが確認できて嬉しかった一方で、やっぱり自分はコミュ障気質なのであるということが良く分かった。いやみんなそうなのかもしれないが、夜眠れなくなるとかそのレベルなのはやっぱりやばいだろう……。なので、カクテル飲みながらつらつら書いてたら長くなった。どんぐらいだ……文字数はかってみるか。おー。でも、約9000字だった。そんなもんかぁ。じゃあ1万字のレポートとか、やっぱり大変な感じだったんだなー。卒論って何文字ぐらいだったんだっけ。確か、文庫本は10万字ぐらいときいたことがある。すごいなぁ。長く書くというのはやっぱり内容はおいておいたとしても、とかく、それだけですごいこととは思う)

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コメント

>「苦手」と「得意」
 「苦手」は要するに好き嫌いの感情に由来するものですが、「得意・不得意」は技量的な上手い下手に由来するものなので、「嫌いだけど上手くできる」は成立すると思うんですよね。
 好きだから得意になった、なんて良く聞く話(好きこそものの上手なれ)だと思いますが、「好きだけど下手」ってのもざらにありますし。

>コミュニケーションのあれこれ
 私もそれなりに相手がどう感じるか、どう受け止めるかを考えてしまったりしまうのですが、これは小説を書いてきた影響によるところも多く、時間的に猶予があって見直すこともできる文章はともかく、口頭会話だとそこまで考えが回る前に口走ってしまう時もある感じです。
 そうしたことを考えられない世のパリピ達(偏見)の思考は理解できませんね(暴論)
 とはいえ、リアルで集まって食事やゲームしたい友人は何人かいますが、距離や日程といった問題が大きいんですよね。今年と来年は連休が少なくて日程が組み辛い、と先日ボイスチャットで愚痴っていたところでした。
 今はオンラインでゲームもボイスチャットもできるのでまだマシ、というかオンラインの方が楽ではあるんですが。

>幼少期の話
 私も小さい頃は喘息が重くて運動からっきし(というか即入院レベルで危うい)で同世代のほとんど人間の輪の中に入れず、スポーツ系の行事では役立たずの足手まといで浮いていたので人格形成に影響したと思います。周りと混ざれるレベルにすらなっていない、というのは幼心ながら結構な疎外感ありましたし、体を動かさずに遊べるボードゲームやゲーム、ガンプラやアニメやマンガといった方向に趣味が進んだのも必然でした。
 小中学生の頃は幸い、仲良くなれた友人が少ないながらも何人かいたのでまだマシでしたが、高校は仲良くしていた人が誰もおらず感性が近い人もいないところに行ってしまった結果精神的に病んだぐらいには暗黒時代だったので相当なストレスがありました。
 大学進学後にはっちゃけて今に繋がる精神性に安定しましたが、記憶引き継いで人生やり直せるなら高校選択前に、と思うぐらいにはトラウマですね……。
 そういう諸々も含めて共感、というか親近感を持ったというか、「もしかしてだから気が合うと感じるのかな」と納得感を持ったというか……。

>寄り添いたい人の条件
 私はむしろ逆に、私のブログとかに記している本音含めた内面を許容してくれる人じゃないとずっと一緒にいられない気がしていますね……。
posted by 白銀URLat 2023/05/31 16:48 [ コメントを修正する ]
私もいじめられて、人間関係が苦手です。それで、生きていて、しんどいことばかりで、早く死ねたら楽だろうなあとは思ってます(ただし、実際に死ぬのは痛いだろうなと思ってます)。なので、死への不安はないです。
何故死が怖いのか不思議で仕方ありません。
posted by みゅうat 2023/05/31 20:40 [ コメントを修正する ]
>コミュニケーションのあれこれ
>そうしたことを考えられない世の(思ったことをそのまま口に出すような)パリピ達(偏見)の思考は理解できませんね(暴論)
>今はオンラインでゲームもボイスチャットもできるのでまだマシ、というかオンラインの方が楽ではあるんですが。

 文字も言葉もそうですが、相手に届いた瞬間、もう取り返せないですからね。
 そこが怖いなぁって思います。
 まぁ最近正直、自分が本心的に思っていることが相手に届いて、それで嫌われたり嫌な思いされたとしても、それならそれで仕方がない、とは思えるようになってます。
 怖いのは、「勘違い」されることですね。そういうつもりじゃなかったのに間違って伝わってしまったりするのがすごく嫌、ですねぇ。というか、たいていは、「あなたとお話しできて楽しいです、ありがとう!」ということが伝えたいことです、普通は笑 業務的なことは、「伝えたいこと」があるわけですが、「雑談」ってそういうものじゃないですからね。
 

>幼少期の話
>高校は仲良くしていた人が誰もおらず感性が近い人もいないところに行ってしまった結果精神的に病んだぐらいには暗黒時代だったので相当なストレスがありました。

 大学時代では気の合う友人とも巡り合えたということ、とても良かったなー!って思います。
 たぶん、過去に戻って自分に声をかけられるとしたとして、高校時代当時の白銀さんには、口が裂けてもいうべきではないでしょうが、その高校時代もあったから、大学時代のめぐりあわせもあったのかもしれないなぁと思いました。
 いえ、世の大半の皆さんのように、高校時代もハッピーで過ごせた方が何倍もよいことには違いありませんが、今がもし、楽しいと感じれる時間が多いとしたら、当時の暗黒もそれに必要なことであったのではないかとそう思うのです。
 これは私の考え方ですので、「いやそんなことない、やっぱりやり直せるとしたら高校時代はやり直したい」というのもあるかもしれませんが、私はシュタインズ・ゲート的な考え方(なかったことにはできない)が好きですね~。

>寄り添いたい人の条件
>私はむしろ逆に、私のブログとかに記している本音含めた内面を許容してくれる人じゃないとずっと一緒にいられない気がしていますね……

 なるほど(笑)
 うーん、でもそうですねぇ……。確かにそれが真実かもしれません。自分の本質的なところを変えてでも一緒にいたい人……そんな人が現れたら、みたいな仮定での記事を書いたときの気持ちだったかなぁ。いま読んでみますと、白銀さんの仰るとおり、「ブログとか書いてること、書いてることも含めて許容してくれる人」という人じゃないと一緒にずーっといるというのは難しそうですね。ただまぁ私の場合はその条件を入れると、まず確実に相手はいなそう(超絶イケメンとか、超絶お金持ちとか、そういった付加要素がないので……)です……(笑)
posted by endoat 2023/06/25 13:59 [ コメントを修正する ]
>私もいじめられて、人間関係が苦手です。それで、生きていて、しんどいことばかりで、早く死ねたら楽だろうなあとは思ってます(ただし、実際に死ぬのは痛いだろうなと思ってます)。なので、死への不安はないです。何故死が怖いのか不思議で仕方ありません。

みゅうさん、コメントありがとうございます!
死は、希望があるときは恐怖に、苦痛があるときは救いになるような二面性がある概念だと思っています。
死が必ずしもいつも悪いものではないのだろうと思います。年老いて完治しない痛みを伴う病におかされたとしたら、最愛の人や友人たちもすべて失ってしまって完全な孤独になってしまったら……。

人生よいことばかりではないので、むしろ悪いことの方が多かったりしますので、死という「終わりがあること」というのは、逆に大事に思います。

それでも私が、死が怖い、と思う時があるのは、死が「無」だからでしょうか。
苦しかったことや楽しかったことなども、すべてなくなってしまう……。
そうしたら、特に、苦しかった思いとか、何のために感じていたのか。全部意味がなかったことなのか、そういった「無」が怖いのかもしれないです。
(ほんとに死んだらそんなことすら感じすらしないのでしょうが)


世の中の誰もが、自分が一番苦労してきた、大変だった、と思っているのかもしれません。しかし、たぶん、(日本の中で限定したとしても)平均的にも私は、苦労がやや多めだった気がしています(ひいきめにみて笑)
みゅうさんは、もっともっと、ずーっと大変な苦労をされてきたのだと思います。

人と比べてはいけないといわれても難しいことではありますが、仮に自分より惨めな境遇の人がいたとしても、それは、自分の苦しみの緩和には役に立たないことだと思ってます。苦しいのは自分なので。

それでも、ほんとうにもう、これから先も苦しいことしかないというのであれば、仰るとおり、「死が救い」という状況なのでしょうが、もしそうでもない可能性があるとしたら、「うまくいかない」という点を分解していく方法もあるのではと思います。

これはアドバイスとかそんな上から目線的な愚かな行為ということではなくて、むしろ自分に言い聞かせている面もありますが、「うまくいかない」ということは、そこに、自分の中での「うまくいった状態」というのが仮定されているのだと思います。

その上手く行った状態と、自分の現実との差が大きいと、「不幸だ」という感情が生じるというのが、人間の仕組みなのだと思っています。
でも、油断していると、そういった仕組み以前に、生理的な「苦痛」というのはどうしても先んじてやってくるので(睡魔とか空腹とか虫に刺されてかゆいとかそんなレベルもそう)うまくいかないという状態がどういうことなのか意識から遠のいてしまっている場合があると思います。

そして、うまくいった状態というのは、これはもう自分で設定するしかないことなのだと思います。強制収容されているとか、外圧的にどうしようもない状態におかれている人もいると思います。ただ、現代日本においてそこまで陥っている人は少ないのでは……と信じたい……。
であれば、うまくいった状態という認識を改めるか、それとも、現実を底上げするか、どちらかの方法になると思うのです。

私は、「うまくいった状態」というのが、自分の属性(容姿や能力やその他諸々)と比べて高すぎてたので、見直して下げました。
これはもちろん、文字に書いてハンコ押して完了、といったことではなく、長い時間かけて、徐々に変容させていったという意味になります。
それ自体が大変で苦痛を伴うものではありますが、そのおかげで、「うまくいかないことばかり」ということは減りました。現実環境が向上したというのも、もちろん要因としてはありますが、それよりも大きかったのは「うまくいった状態」の見直しだったと思っています。

繰り返しになりますが、アドバイスとかそんな烏滸がましいものではなくて、コメントのお礼になります。
「コメントありがとうございました!」という一言でよいのですが、みゅうさんから頂いたコメントによって色々考えることができて、そういった「感謝」もありましたが、「ありがとうございました!」という一言では到底伝えられないと思ったので、コメント頂けてこんなこと思ったです、という意味を込めて書かせて頂きました。ありがとうございます。
posted by endoat 2023/06/25 14:27 [ コメントを修正する ]
>その高校時代もあったから
 これに関しては私も思う部分があるんですよねぇ。
 あの時期の精神状態と言うか、精神的な変化というか、環境とか全てがなかったら大学の選択も変わっていたでしょうし、仮に同じ大学に行ったとして今も続く友人たちと関係を繋いで維持できるかも未知数になりそうですし。
 そう考えると変えたくはないと思ったりもするんですが、でももう1回あの暗黒時代を過ごすのは嫌だなぁとは思っちゃうんですよね……。
 とはいえ、「記憶を引き継いでやり直し」なら、過去の周回で1度は経験した、ということで「自分の中ではなかったことにはなってない」から違う選択してもいいんじゃないかなとか屁理屈をこねてみます_(┐「ε:)_
posted by 白銀URLat 2023/07/31 22:42 [ コメントを修正する ]

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