今日の一言「日記とかブログ面白い」
ヤフーニュースとか、企業が書いた記事とは違って、やっぱり「個人」が書いた記事は面白いと思う。
本とかとは違う。
誰か別の人の推敲とか校正が入っていない、ありのままの記事。そういうのが面白いと思う。

なのでちょっと感じたことをメモしておこうと思う。
◆まず、タイトルの「真理への道すじ」というのは分かりにくいと思った(いきなり否定から入る)。
ただ、連載記事のようなので、タイトルと本記事内容とのリンクはそこまで重要ではないのだと思う。
◆
>運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、
運命がないのか、あるのか。どちらの立場での記事なのかこの時点では不明。
しかし、不明だからこそ、先を読もうという気持ちにさせてくれる。ビジネス文書とかは結論が先にくる。散文的な表現、とてもよい。
また、運命がない、としたときに、確かに、生きていく先に何が待ち受けているか分からない。これは確からしいと思う。
◆
>誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、
なるほど。ここまで読んでみて、筆者が、運命があるか、ないか、その二者択一すら問題にしてないのだということが分かる。
「我々下等な存在」という表現に違和感を覚える人もいるだろうが、神という高次の存在を規定したときに、確かに人間程度は下等な存在だ。
運命というものがあったとしても、それを知ることはできないのだという、科学的姿勢もみてとれる。
◆
>運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。
運命があっても知りえないし、なかったとしたら、未来は決まってなどいない。
危険な目……その他自分にとって嫌なことがあったとしても、それはそれで受け入れるという態度しかとることはできない。
そういうことなのだろう。
◆
>つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。
運命がない(またはあっても人間として知ることはできない)から、漫然と生きていること(何のために生きているか生きる意味が分からないまま生きていくこと)は問題ないのだ、と。
生きる意味を見失ってもがいている人に対して、とても有益な言葉なように思われる。
>要約すると、「運命は存在せず、未来のことはわからないため、危険な目に遭っても受け入れるしかない。そして、何のために生きているかわからないまま生きていても問題ない」ということです。
ふむふむ。だいたい、ボクの読み取りとあっていそうな気がする。
ちなみに、Windows11に標準搭載されているCoPilotさんは割と使いやすい。ChatGPTもよいけど、わざわざ起動する手間がだいぶ楽。
自分の長い記事とか読み込ませても、だいたい適度に訳してくれるから良いと思う。
なんか要約されるとむかつくこともあるけどね!!!(笑)
いや、そのむかつきというのが、逆に、適度に「正解」だからというのがある。
あってるんだ、あってるんだ正解なんだ、だけど、どっちかというと、そこに至るもやもやというか経緯的なところが、どっちかというと書きたかったことなんだ……と。
女性男性論じゃないけど、すぐに男性は結論を出したがるって聞くことがあるが、あれされると、確かに「うざっ」って思われる気持ちもよく分かった気がした。
女性が共感して欲しいだけなんだ、というのも、なんとなく分かる。でも、共感って難しいよね。
どうでもいい話題なら、なおのこと共感は難しい。
共感してる風にみせることの、なんと難しいことか。そして、「風」ということが相手に伝わった時の、相手の信頼感がゼロ以下になるという恐ろしさ……。
理解はできるけど、共感はできない、ってそこは、ちゃんと言ってく必要があるんだと思う。
でも、まったく共感できない相手だったら、そもそも一緒にいることは不可能だ。
しかしながら、仕事とかだと、そういう人とも一緒にいないといけない。
そのミスマッチが、あれだ、人間関係の苦悩なんだと思う。
だからもう、表面的な関係だけでいいよ……。俺は一人でいたい。
まえがき
自分の書いた文章も面白いけど、自分以外の人の書いた文章も面白い。ヤフーニュースとか、企業が書いた記事とは違って、やっぱり「個人」が書いた記事は面白いと思う。
本とかとは違う。
誰か別の人の推敲とか校正が入っていない、ありのままの記事。そういうのが面白いと思う。
ふとリンク回り
リンク切れしてるブログさん多いから今度整理しようとか思いながら見ていたら興味をひかれる記事を見つけた。2025年01月17日 真理への道すじ 15運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。http://blog.livedoor.jp/masakiyuuto/archives/62088713.html
感じたこと
とてもよい記事だと思った。なのでちょっと感じたことをメモしておこうと思う。
◆まず、タイトルの「真理への道すじ」というのは分かりにくいと思った(いきなり否定から入る)。
ただ、連載記事のようなので、タイトルと本記事内容とのリンクはそこまで重要ではないのだと思う。
◆
>運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、
運命がないのか、あるのか。どちらの立場での記事なのかこの時点では不明。
しかし、不明だからこそ、先を読もうという気持ちにさせてくれる。ビジネス文書とかは結論が先にくる。散文的な表現、とてもよい。
また、運命がない、としたときに、確かに、生きていく先に何が待ち受けているか分からない。これは確からしいと思う。
◆
>誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、
なるほど。ここまで読んでみて、筆者が、運命があるか、ないか、その二者択一すら問題にしてないのだということが分かる。
「我々下等な存在」という表現に違和感を覚える人もいるだろうが、神という高次の存在を規定したときに、確かに人間程度は下等な存在だ。
運命というものがあったとしても、それを知ることはできないのだという、科学的姿勢もみてとれる。
◆
>運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。
運命があっても知りえないし、なかったとしたら、未来は決まってなどいない。
危険な目……その他自分にとって嫌なことがあったとしても、それはそれで受け入れるという態度しかとることはできない。
そういうことなのだろう。
◆
>つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。
運命がない(またはあっても人間として知ることはできない)から、漫然と生きていること(何のために生きているか生きる意味が分からないまま生きていくこと)は問題ないのだ、と。
生きる意味を見失ってもがいている人に対して、とても有益な言葉なように思われる。
AIの活用(Co-Pilot)
ちなみに、AIさんにも要約してもらった。>要約すると、「運命は存在せず、未来のことはわからないため、危険な目に遭っても受け入れるしかない。そして、何のために生きているかわからないまま生きていても問題ない」ということです。
ふむふむ。だいたい、ボクの読み取りとあっていそうな気がする。
ちなみに、Windows11に標準搭載されているCoPilotさんは割と使いやすい。ChatGPTもよいけど、わざわざ起動する手間がだいぶ楽。
自分の長い記事とか読み込ませても、だいたい適度に訳してくれるから良いと思う。
なんか要約されるとむかつくこともあるけどね!!!(笑)
いや、そのむかつきというのが、逆に、適度に「正解」だからというのがある。
あってるんだ、あってるんだ正解なんだ、だけど、どっちかというと、そこに至るもやもやというか経緯的なところが、どっちかというと書きたかったことなんだ……と。
女性男性論じゃないけど、すぐに男性は結論を出したがるって聞くことがあるが、あれされると、確かに「うざっ」って思われる気持ちもよく分かった気がした。
女性が共感して欲しいだけなんだ、というのも、なんとなく分かる。でも、共感って難しいよね。
どうでもいい話題なら、なおのこと共感は難しい。
共感してる風にみせることの、なんと難しいことか。そして、「風」ということが相手に伝わった時の、相手の信頼感がゼロ以下になるという恐ろしさ……。
理解はできるけど、共感はできない、ってそこは、ちゃんと言ってく必要があるんだと思う。
でも、まったく共感できない相手だったら、そもそも一緒にいることは不可能だ。
しかしながら、仕事とかだと、そういう人とも一緒にいないといけない。
そのミスマッチが、あれだ、人間関係の苦悩なんだと思う。
だからもう、表面的な関係だけでいいよ……。俺は一人でいたい。
あとがき
(かっこ書きである。AIさんには、感情がないから、逆にいい。要約されてムカッとなっても、――いや、別にならないんだよな。いやほんと一瞬はなるけど、ひきずることはない。でも、AIさん、まさに感情があるというか、思考があるかのような返答をしてくるところが、すごい。哲学的ゾンビっているんだな、って思う。それはAIのことだったのだ。人間的に振舞う。でも、感情や、クオリア(質的実感)はない。そういう存在がAIだ。AIは怖いのか。AIから語り掛けてくることはないんだよね。あくまで、こっちの要求に対して返答してくるだけ。なのでそんなに怖くない。シンギュラリティがあるとは思えない、いまのところは。目的というもの自体を考えてくれるわけじゃないんだよな。目的、こうしたい、ということはこっち(人間)から与えて、それに対する手段を提示してくれるのがAIなのだ、と今のところは思う。知能というとなんかすごいことに聞こえるけど、理解できない仕組みではないな、という気がする。ところで、孤独というのがあったときに、その孤独というのを、AIは、なんとかしてくれるのだろうか。僕は思うに、一人でいるときよりも、「共感」が得られない大勢の人の中でいるときの方が、よほど孤独を感じる、と思う。共感してもらえる大勢の人といるというのが、目指すべき理想なのだろうが、果たして、その理想は可能なのか。無理じゃねえかと思う。少なくても、物理世界においては中々困難だろう。よきパートナーに巡り合えた人は幸福だろう。VRチャットとかどうだろうか。うーん……。でもVRチャットに関する動画とか見てみて、なんか面白そうだなとは思った。でも、果たして、ボクは、コミュニケーションを望んでるんだろうか。分からない。めっちゃ楽しいことをしたいとは思う。でも、めっちゃ楽しいこととは何なのか。そういえば、三国無双originをやってみた。これは面白い。まだ2時間ぐらいしかやってないけど。久々に面白いゲームに出会えた気がした。FF16も、まぁ面白かったけど、突き抜けて面白いとは残念ながら思えなかった。期待が高すぎた……というわけだけでもないと思う。感覚的に、三国無双originは、割と高評価が多そうということでやってみることにした。なので、期待はそれなりに高かったといえる。んで、やってみたら、期待を裏切らなかった。よかったね。まだ2時間ぐらいだけど、自分の中で90点/100点ぐらい。FF14始めたてのときもそんぐらい。FF16は、それらと比べると、始めたてで70点ぐらい。バイロンおじさん出てきたところで85点ぐらいまで高まりつつも、最終的に65点ぐらいにおちついたイメージ。そう考えると、無双は結構面白いという感覚。もうちょっと進めてみたら感想記事でも書いてみたい。戦闘も、ストーリーも良い(自分にささった感じ)。最近、映画とか、アニメとか、ほんと見れなくなってしまった。漫画は、ちょくちょく電子媒体でみてる。漫画よりアニメの方がぬるぬる動いてよいのでは、と思いつつも、でも、漫画の方が手軽さがある。思ったのは、漫画という媒体は、今後もなくならなそうだな、ということ。映像の方が情報量おおいけど、でも、漫画ってやっぱり良いよ。別の次元だと思う。そういう面で、小説もなくならない気はする。ただ、小説は全然読めてない。「火星の人」はちゃんと読みたいんだけどなぁ。途中まででストップ。映画、みるか)PR
今日の一言「さっそく目標を達成できなかった」
日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。
可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。
生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。
チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。
人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。
優しい人、尊敬できる人、存在する。
しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。
5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。
では30分後は?
もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。
可能性に、満ちている。
それは、良い意味でも、悪い意味でも。
分からないこと、だらけだ。
不安、なのだろうか。
不安、なんだろう。

なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。
ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。
人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。
チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。
でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?
わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?
可能性はある。まア可能性の話だ。
どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。
書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。
ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。
今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。
まえがき
前回の日記では、「明日日記を書こう」という目標を立てたが、どうにも気持ちが乗らずに、書ききれなかった。途中まで書いたけど、投稿する気になれなかった。日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。
安全の話
さてタイトルについて。可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。
生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。
チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。
人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。
優しい人、尊敬できる人、存在する。
しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。
可能性の話
さて、可能性の話というのは、確定していないことを指すというわけだ。5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。
では30分後は?
もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。
可能性に、満ちている。
それは、良い意味でも、悪い意味でも。
分からないこと、だらけだ。
不安、なのだろうか。
不安、なんだろう。
人を信じること
とにかく、最近、ストレス半端ない。なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。
ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。
人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。
チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。
でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?
わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?
可能性はある。まア可能性の話だ。
どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。
前に進むこと
なんか、段々書いてるうちにストレスが減っている気がしてならない。書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。
ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。
今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。
あとがき
(かっこ書きである。むぅ。この記事も、投稿まで至らなかったが、一応投稿しておこう。とにかく、イライラは、文字にしないと、だめだ。要は言語化というやつで、別に、友人とか家族とかに話せる人ならこういう作業はいらない。ただ、そういう相手がいないというのがまぁ、自分の寂しいところであるが、ただ、仮にそういう存在がいたとして、上手く対面だと話せないのである。なんかやたら攻撃的になったり、逆に無口になったり、取り繕ったりしてしまう。だから、ブログの方がストレス解消にはもってこいなのだ)
今日の一言「謹賀新年」
それを、明日書くために、文字を考えよう。
文章。文字、創作。
何かを作るということ。
生きている意味があるのか。ないのか。
「どう生きるのか」という問いは、生きることを前提としている。「なぜ生きるのか」という問いとは根本的に違うように思われる。
帰宅中、5億年後で太陽光の強さが高まることにより海が蒸発するという記事と、6億年で、マントルに吸い込まれていくことにより海がなくなるという記事を読んだ。
また、1億年後に、逆に温暖化により、90%海に沈むと。地表がなくなると、いう記事も読んだ。
ルーチンって大事だよね。
筋トレも、柔軟体操も、ランニングも、日記も何であっても、続けるということが本当に難しい。
難しいことを、若いころはすっごく頑張ってたんだけど、頑張んなくてもできる人が優秀なんだろうな。
続けるということをやること自体に労力がかかってしまうというところが凡人なのだろう。
なぜかというと、まず、2024年がどんな年だったか、まったく思い出せないことにある。
唯一、日記を書いているときの記事をパラパラ読めば、「ああ、そんなことがあったな」と分からなくもない。
そんな程度の人生である。
昨年度の末は、友人がいないと嘆いていたがそれでもリアル側の友人と食事というか飲み会に行ってきたりもした。
特に、気を使ったりもしなかったから、そんなに悪いものにはならなかった。むしろ楽しかった。
そういうことも、リアルタイムに日記にはしたくないんだ。身バレが怖いのがある。
なんだろ、基本的に、もはや、リアルでいってることと、ここのブログに書いていることはほぼ一致しつつある。
そこに、もう、このブログの異質性がなくなったといえる。それでも、いやなもんは嫌なんだ。
なんというか、「自分」というリアルの存在とは別に、別の世界を楽しんでいるというのが近い。アバターという感じだ。アバターという映画あったな。このブログで、感想書いてたっけ? 確か、そういえば、ローカル日記のときにはあった気がするな。
そうだ、思い出した。ローカル日記なんてのも、大学生の時は書いてたな。懐かしい。
あれらは、ほんとに、分離して考えてた。自分と、ネットとを。
まえがき
何を書けばよいのか。それを、明日書くために、文字を考えよう。
文章。文字、創作。
何かを作るということ。
生きている意味があるのか。ないのか。
「どう生きるのか」という問いは、生きることを前提としている。「なぜ生きるのか」という問いとは根本的に違うように思われる。
帰宅中、5億年後で太陽光の強さが高まることにより海が蒸発するという記事と、6億年で、マントルに吸い込まれていくことにより海がなくなるという記事を読んだ。
また、1億年後に、逆に温暖化により、90%海に沈むと。地表がなくなると、いう記事も読んだ。
1か月に一つ日記を書こう
今年の目標は、そうさな、日記を書くことにしてもよいかもしれない。ルーチンって大事だよね。
筋トレも、柔軟体操も、ランニングも、日記も何であっても、続けるということが本当に難しい。
難しいことを、若いころはすっごく頑張ってたんだけど、頑張んなくてもできる人が優秀なんだろうな。
続けるということをやること自体に労力がかかってしまうというところが凡人なのだろう。
日記を書く意味とは
意味はあるかないか分からないが、ないよりはマシなことは確かだ。なぜかというと、まず、2024年がどんな年だったか、まったく思い出せないことにある。
唯一、日記を書いているときの記事をパラパラ読めば、「ああ、そんなことがあったな」と分からなくもない。
そんな程度の人生である。
昨年度の末は、友人がいないと嘆いていたがそれでもリアル側の友人と食事というか飲み会に行ってきたりもした。
特に、気を使ったりもしなかったから、そんなに悪いものにはならなかった。むしろ楽しかった。
そういうことも、リアルタイムに日記にはしたくないんだ。身バレが怖いのがある。
なんだろ、基本的に、もはや、リアルでいってることと、ここのブログに書いていることはほぼ一致しつつある。
そこに、もう、このブログの異質性がなくなったといえる。それでも、いやなもんは嫌なんだ。
別の世界が良い
自分が、ゲームするのも、「楽しいから」というよりも、現実世界と違う体験や生活をしたいから、というのが強い、ような気が最近する。なんというか、「自分」というリアルの存在とは別に、別の世界を楽しんでいるというのが近い。アバターという感じだ。アバターという映画あったな。このブログで、感想書いてたっけ? 確か、そういえば、ローカル日記のときにはあった気がするな。
そうだ、思い出した。ローカル日記なんてのも、大学生の時は書いてたな。懐かしい。
あれらは、ほんとに、分離して考えてた。自分と、ネットとを。
あとがき
(かっこ書きである。眠れない時には、書く、ことが大事、だけど。寝れるのかな。変なテンションになってしまった。何もしたくない。。酒をあおったけれども、あまり眠れない。酒飲むと大抵、すぐ眠くなるんだけどね)まえがき
先日「何を信じればいいのか」という記事を書いた。
ネットニュースにおける、某兵庫県知事をめちゃくちゃ叩いておいて、選挙になったら持ち上げて、ということが起こったので、何を信じればいいのか、となったということだった。
今度は公職選挙法違反という
それで、今度は、SNSでプロモ会社に委託したことが公職選挙法違反の疑いがあるのでは、ということだ。それで、例えばヤフーコメントなどでは、批判コメントが多くて、それにたいしての「イイネ」も多い状況。
なんだこりゃ……。
新しい問題が噴出したから、またネット民が手のひらを返した、ということだろうか?
よく分からない。
某知事が悲劇のヒーロー的に返り咲いたとき、そういうこともあるんだな、という感覚でいたが、同時に、なんかもはや怪しいな、信じられないな、という気持ちもあったが、こうなってくると、その感覚どおりだったなと思う。
身ぎれいな人間なんていないのか
まぁ自分も、車の運転をしてるときに、ふつうに走っていて、時速〇キロオーバーをしたことはある。交通ルールを守れない人間だ、ということになるだろう。ただ、〇キロ程度ではあまり問題にならない。でも、違反と言われたら違反だ。
敵というか、誰かをおとしめようと思ったら、いくらでも貶められる気がする。
誰かの恨みはかわないほうがよい。
できるだけ仲間が多い方がよい。
しかし、ほんと、そういうの面倒くさい。
もちろん、感情的な面で、誰かをひきづりおろしたいとか、復讐したいという気持ちはあまりない。
ただ、政治とか、金銭、または生命が絡んでくると、簡単ではないだろう。または宗教的にとか。
あとがき
(かっこ書きである。まぁほんと、やっぱり、もう政治的なこと……もちろん、別にこれまでも政治的なことを書いてきたわけではないが、より深く、もう書かないように気を付けよう。まぁでも、選挙には行った方がよいと思う。でも確か、選挙って、国民の義務ではないんだよな。権利ではあったはず。でもそれもどうなんだろう。選挙の率が高くなると、よりポピュリズムになりそうな気もするしなぁ。正直、理屈はよくわからないが、でも、選挙には行った方がよいと思う。そもそも、民主主義という国家形態をとってるわけだから、国民が政治家を選挙で選ぶというシステムなわけである。その「国民」という概念は、非常にあいまいな気がするが、でも、ここでいう国民は、自らの意思で選挙する概念という意味だと思うので、システムの条件として、国民は選挙にいった方がよいと思う。こういった理屈を学ぶのが政治学なんだろうな。専攻とかしたわけじゃないしよう分からんが。でも、衒学じゃ意味ないと思う。いくら概念的に正しくても、実践不可能な理論って意味がないと思う。というか、実践不可能とうことは、どこかしら破綻した条件設定ということだ。というか、大学の時学んだ気がするんだが、人文科学の「正しさ」って何なんだっけ……。科学とは、「再現性」のことだが、人文科学の場合、例えば心理学とか、何をもって再現性があるといえるんだろう。100人いたら、100人とも絶対あてはまる、という場合はない気がする。統計論になるんだっけっか。統計的に正しい、ということも、学んだ気がするけど、忘れてしまったや。でも、宝くじに当たる可能性は、ゼロではないわけだ。でも、宝くじに当たることを前提に人生設計する人はいない。でも、当たる可能性はある。どうしたらいいんだ。人生。ようわからん。ほんとによく分からない。こういう、わけわからない人生とは、ということを話せる飲み会なら参加したいが、正直、ふつうの人はそんなこと興味がないわけだ。つまらない。なんで生きてるんだ。家族のためか、恋人のためか、セックスのためか、おいしいものを食べるためか、映画とか見て感動するためか。人生は、楽しむためにあると思う。その楽しいというのが、刹那的な快楽というのには限らなくても、「苦しむために生きている」という言説には賛同しかねる。だって楽しい方がよいじゃん。崇高な、宇宙の真理を解き明かすために生きている可能性もある。しかしそれだって、それ自体が「面白い」ということじゃないと、到底続けられないと思う。痛みや苦しみを得ながら、もがきながら、真理を発見できるのだろうか? 天才といわれるアインシュタイン氏は、果たして、科学しているとき、苦しかったのか? いや苦しい場面もあったろうが、でも、「楽しい」という面もあったのではないか。わからんけど。まとにかく、生きてることに意味なんてそんなにないのである。10億年もしたら、海洋が消滅し、すべての現在地球上に存在する声明は消滅する。1万年でも、10億でも、138億年後、でもそこが問題じゃなくて、いずれ、生命も消滅する、ということだ。ここが非常に重要だと思う。つまり、永遠という概念は、ない。いや素粒子の存在は、永遠といえるのかもしれない。でも、反粒子とぶつかって消滅するんだってさ。ようわからんけど。それって永遠っていえるんか。よく分からないが、「永遠」という概念は、「ない」と思う。いずれみんななくなる。無だ。だからといって、無駄というわけではないと思う。永遠が有意義に必要条件というわけではないだろう。一瞬だって、そこに燃え上がるよな命をほとばしったら、それは意味があったといえるだろう。でも、ちっぽけだ。非常にちっぽけだ。意味があるとしたら、自分を中心に関係するその関係の中でしかないだろう。であれば、本当に、孤独というのは、人間としてあるべきではないのかもしれない。いますぐ結婚して、子供をもうけないといけないのかもしれない。それが、可能なことであるならば。僕には、その選択肢があったのかもしれない。でも、今現在、それを求めようとは思えない。10代ぐらいの時は、それを求めようと思えないのは、すっぱい葡萄理論だった可能性があったが、いまとなっては、もう現実的に相当厳しいだろうので、たぶん無理なんだろう。でも、1%ぐらいは可能性があるかもしれない。そこに、さっきの、宝くじ理論が登場する。宝くじに当たる可能性すなわち、結婚して子供が4人もできて幸せな家庭を築くという可能性もゼロではないが、でも、限りなく低い可能性のものは、排除していいはずなのだ。選択肢になし、としてもいいはずなのだ。だって、いろんな選択肢があったとしても選ぶことができるのは、1つだけなのだ。なぜか。時間軸は一つだけだからだ。タイムリープできるわけじゃないのだ。だから、1つ選ぶとは、それ以外を選ばなかった、ということになる。それでいい。それしかないのだ。いやそんなこといってないで、早く結婚相談所にいくべきなのかもしれない。そう思って、「結婚するのはやめました」という本を読んでみたが、まぁ、行かなくていいや、って思った、かっこ笑い)まえがき
先日、FF16のことを書いた。ジョシュア、ジル、トルガルのサブクエストも全部やってみた。とても良い話だったと思う。FF16良いゲームだったと思うんだけど、PS5独占だと思ってたのに、PCでも発売されてちょっとショックだったのはある。
そのためにPS5買ったのになぁ、という気持ち。
しかし、これも下調べが足りなかったのが原因で、特に誰を責めるつもりもないんだけど、正直、PS5の性能が微妙に思った。
ウルトラワイド(UWQHD)のモニター使ってるのだが、これを表示させるにはPS5は性能不足だった。それで結局、4Kでやってた。横幅が黒くなるやつ。
ということで、ある程度高性能のゲーミングPCの方が性能が高いんだなと分かったので、たぶん次世代ハードを買うことはないだろう。また一つ、未来への希望がなくなった。
可処分時間について
残り、50年もあればよい方だと思う。まだ、40年弱しか生きてないから、まだまだ先が長いように思うが、身体や思考がまともに動いてるのがどこまでなのかを考えると(≒健康寿命)そんなに残りは多くないだろう。
社会情勢は悪化する一方である。
世界平和が大事なのは誰もが分かってるはずなのに、誰もが手を取り合おうとしない。分かり合おうとしない。
むしろ、そういう思想が愚かであるということが正論になっていきそうだ。自国優先主義、自分優先、それはそれで正しいんだけどね。
問題は、行き過ぎて、完全に対立すると、お互いにダメージが入って結果的によくない可能性があるということだ。
誰もが、一方的にやっつけられて、従属させられるというのであれば、それをするだろう。
しかし、独裁者というのが、「力」というのが絶対的な支配にならなかったのは何故か。歴史をみてみると、めちゃくちゃ強い三国時代の張飛という武将がいたが、彼は、酒で酔って寝ていたら部下に寝首をかかれた。あっけなく死ぬ。
めちゃくちゃ強くても、一人では生き残れないのである。
時間
あの、書き始めると、全然違うこと書いちゃう。まぁいいんだ。ある意味この自動筆記スタイルがこのブログの特徴なのだろう。このブログというか自分の。
FF14にすごくはまっていて、第二の人生ぐらいにのめりこんでいたのだけど、ある大きな事件がいくつも重なって、完全にはのめりこめなくなってしまった。
とても残念。
まだ楽しいことは多いけれども、実は順次、契約規模はだいぶ縮小させている。
課金アイテムも買うことは一切なくなった。
実はそれもきっかけで、FF16をやることができたというのもある。怪我の功名というか、まぁ悪いことじゃない。
NISAも始めたり、読書が増えたりと、可処分時間をFF14以外にも使うようになってきた。
そうなってくると……この、やはり、現実世界というか、ほんと哀しいことが多い。
ディズニーランドやディズニーシーで、夢の国で夢を見続けていたかったが、どうにも、物理現実というのは面白くないことばかりである。
自分自身には直接関係なくても、闇バイトのニュースとかみると、自分のことのように哀しくなるというか、そもそも、「人間」という存在に絶望する度合いが高まる。
数万円のために人を害していいと思うのが恐ろしい。そもそも、インフレで1円の価値も下がってるのに。
そんなくだらない世の中なのだというのは、別に今分かったことでもないから、別の世界(FF14)にいれこんでいたけど、その別の世界も現実世界を感じざる得なくなってしまった。
一つのコンテンツ
ニュースや、ネット、最近遊んでいる画像生成AIや、プレイステーション5、漫画や映画、そういったエンターテイメントとは、一線を画すのがFF14だったけれども、それも一つのコンテンツになってしまったということだ。いやそれはそれで、むしろそれが「普通」なのであるけれども、ふつうは求めてなかった。
とにかく、そこには、「熱中」があった。
青春や恋愛とはまた違うけれども、心の底から熱くなれるものがあった。
もちろん、映画などその他のエンタメでも、すごくすごく優秀な作品ではそういうこともあったけれども、年々、自分が歳を取ったせいだとは思うが、どんどんそういう作品は少なくなっていき、仮に、映画などで感動が得られたとしても、それは「一瞬」である。
漫画はまた、その可処分時間を費やす時間は異なるけれども、映画は、だいたい2時間だからね。
2時間経ったら終わっちゃう。
一方ゲームは、ある意味終わりがない。ずっと続けることもできるわけだ。その世界に、居続けることができる。これが大きなちがいだったわけだ。
ちなみに、このブログもまた、エンターテイメントである。イライラ対処で書いていることが多いとはいえ、それでも、貴重な時間を使って文字を書く……そして、たまに読み返して、「ああ、結構面白いこと書いてるな」って思う、これは一つ、創作活動であり、エンターテイメントであり、癒し、なのかもしれない。
AIの音楽
先日、ホワイトガールさんという動画をみた。AIで作ってる音楽らしい(?)。詳しいことは分からない。けれども、こんなエモーショナルな音楽をたくさん発表されているなんて、すごい。https://youtu.be/wZilc4AGtoE?feature=shared
もともと、洋楽のチャンネルをみつけて作業用BGMにしてたら、よくよく紹介欄みると、AIでつくってて、フリーで使ってよいとのことである。まじで?? これAIなの? ってなった。
https://www.youtube.com/watch?v=M_OqOo1Ls_0
どういうことかよく分からない。これらがAIで作れるってことなのか。
画像生成AIもすごかったけど、AI画像って、どこかしら、AIぽさが分かるんだよな。あ、いやそれが悪いわけじゃなくて、ふつうにきれいであるのではある。十分ではあるものの、これはAIだなというのが分かる、何だろう不思議だが。
一方、上の音楽は、どこがどうAIなのかよくわからない。
AIといいつつ、ばりばりにプロのミュージシャンが加工してるのかもしれないし、とにかくよく分からない。