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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
前の、いつかの記事で、ゾンビなのだと書いた。
ゾンビ状態でも生きることはできる。ルーチンはできる。筋トレは続けている。一昨日は酒に飲まれてさぼってしまった。今日はその分も頑張ろう。

前回の記事は、なんか、とてもひらめいて、書いておかなきゃっ! けど書けないっ! といった気持ちでなんとか書いていった。

読み返してみると、面白くなかった。
うーむ。

そして、もっと前の、パソコンで書いてた記事をいくつか読む。
まあまぁ、面白い。

何が違うのか考えた。
前回の記事は、一般論っぽくて、なんか、お前はなんなんだ、というのが見えにくかった。

ぶっちゃけ、価値観って、様々。
君はそう思うのね。って、そのレベル。

年配者の話が説教じみるのは、自分の経験を一般論っぽく語っちゃうから。
でも、それは、自分にぴったり、当てはまってなどくれない。

その人の、その人のもつ環境や能力やその他の中での結果。
参考にならないとか、そんなこと言ってるんじゃない。
ただ、それを、絶対のこうだとか、正しいとか、そんな風にかたっちゃうと面白くないのだし、聞いてるがわも懐疑がはしる。



そういった、なんか感じが、前回の記事にはあったなぁ。それがつまんなさにつながったと分析。

さすがに日にちをあまり空けない記事なので、言いたいことは分かるし、自分としては同調する。
当たり前だ、自分の書いた記事だ(笑)



と、批判は簡単だが、まぁ、よく書いたと、ほめてつかわす。
ボロボロのないようでも、日本語おかしくても、それがゼロだと、分析すらできないのだから。



なんかその、楽しくあるべきだと思うのだ。

その目的において、仕事や、結婚や、子供といった選択があるんだと思う。

仕事というと、みんな苦しくて、月曜日は憂鬱だというけれども、そうじゃない世界、社会があってもいいと思う。
ヨーロッパのどこかは、休暇のために仕事がある、という考えがメインという。そういう考え方もありだと思う。

ただ、その休暇ってものに、僕はとても、よく考えるべきだと思う。

長期休みに、旅行にいくというのが、バカンスとかいう言葉で思い浮かべるけど、それは、リラックス、息抜き、的な意味だと思う。

息抜き、大事だよ?

ただ、息抜きって
なんのためにするの?

息抜きってのは、メインの活動があるわけでしょ?

じゃあ、君のメイン活動はなに?



わりかし、ゲームをするのも、本気で俺はやったりする。そういう人も、昨今は少なくないだろう。
でも、惰性になっても続けてしまったり。

ただ、ゲームには終わりがあるのであって……いや、いまや、課金ゲーとか、マインクラフトとか終わりがなかったりするけど、まぁ、終わりがある、と表現しておく。

そうしたとき、次の新しいゲームをやって、次へ、次へ、と繰り返す。

それも価値としていいんだけど、
個人的には、そこに、生きる意味を徹底して考える上での疑ぎが生じる。



仕事や、結婚、子供も何もかも、それは、死へ繋がっている、と、書くと飛躍しているわけであるが、ルーチンが人生、というのは、ニーチェ的な思想を乗り越えないとつらい。辛すぎる。

いや、そんな深刻じゃないんだけど。よっぽど、10代のほうが深刻だったと、いまにして思う。
あの頃や、あんな頃に比べたら、いまの生活人生はイージーモードである。


続く

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15分くらい時間ができたので、スマホ投稿。

現実の生活が満たされれば、二次元、小説や漫画や映画やその他は不要なのか?

否、と認識する。

理由は、人には物語が必要だからだ。
楽しいことばかりの人生は存在しない。これは、苦しいこともあるという表面的な意味と、楽しいことに飽きるという性質をもつという裏の意味の二重性をはらむ。

そうしたとき、苦しいこと、つまらないことに何らかの意味を与える必要が出てくる。
その意味を与えてくれるのが、物語なのだ。


物語とは、目的と言い換えてもいい。
目的とは、到達すべき場のことであるが、不可逆な時間の中で、その時間を進めることに納得するために、目的が必要なのだ。

時間を進めるというのは、行動のことである。
何もしない、ということは、ありえない。
何故ならば、時間は止まらないからだ。

なにもしないというのは、逆に、何か目的があるからこそ生じる相対言語である。
なにかすべきことがあって、それをしていないから、なにもしない、ということになる。

例えば、僕は、生きる意味を徹底して考える、ということを目的としているが、それに関係しない行動、生活をしていると、それは、なにもしていない、ということになるのである。


止められない時間の中で生きていることを、我々は常に意識すべきである。

しかし、現実的には、それは不可能である。だから、節目節目で、目的を再確認することは重要であって、それがゆえ、ローカルだが、目的を部屋の目立つところに掲げておくというのは有効な手段なのだ。



さて、目的が必要なのは、いうまでもない。それに、目的がない人なんていない。
みんなそれなりに生きている。それは、目的をもって、いきているのだ。

会社員として、親として、創作者として。


ただし、僕が、生きる意味を徹底して考える、と表現する際には、それは、生きることそのものの、目的のこと、をさしている。

世界の、ではなく個人の。私自身の存在について。


しかし、残念ながら、人は、単独では存在意義を有することができない。

例えば、孤独な創作者という存在であったとしても、それは、関係する人に価値を見いだしてもらわなければ、存在ができない。

たとえ、みじめに誰からも相手にされずに死んでいく運命だとしても、その運命が、

誰からも相手にされない

ということがゆえに、やはり他者存在を意識せねばならないのだ。


分かりにくいところだが、みじめな、と言うこと自体が、他者の評価を必要とするのである。

完全なる孤独、ということが成り立たない。

完全なる孤独、になるためには、他者という評価軸と、自分自身が相容れない、という自体がなくてはならない。

どこまでいっても、他者存在は切り離せない。それはよいものであっても、悪いものであっても。




第二章
時間切れ、だが、

上のことからして、物語は不可欠なのだ。

その物語は、どれかにコミットする、没入する方法か、もしくは、自ら作り出すしかない。

そうしたとに、
二次元は、必ずしも必要ではないかもしれない。
現実、対面存在、環境だけで、個人の世界観を作り出すことも不可能ではないだろう。

だが、その物語が、より大きな物語になっていったとき、現実と、己の創造力には限界があることが見えてくる。

古くから子供たちにいわれること、それは、本を読め、ということであるが、もはや、現代は、本という媒体にこだわる必要はない。

だが、その金言の本質は生きていて、
要するに、世界と、自分との繋がりを創造できるようにするきっかけを掴むために、多くの物語に、大きな物語に接する必要があるのである。



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生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。

気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。

そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。

書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。

平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。



別に、書かなくてもいいじゃないか。

しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。




なにかを失って、人はようやっと気付く。
そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。

でも、果たして、

働くこと、生きることに、何があるのか


僕は、誰だったのか。


これが人なのか、こういうのが人間なのか


まぁ、これでいいのか


本当か?

俺は、本当に後悔しないのか?

問うているのか? 本当に?




ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。
魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。

ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。


が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。
この先のみちしるべを感じられないでいる。



どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。

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今日の一言「朝目が覚めた」

 コメントや、WEB拍手などもありがとうございます。
 遅ればせながら、しっかり読ませていただき、感謝しております。

 時間が、取れません。

 ある友人のブログでも、「くよくよ」しているようです。

 僕は、落ち込んでいる人をどのように励ませばよいか分かりません。
 というよりも、励ますという行為自体が、果たして可能なのかと思うぐらいです。「相手が」、自分を劣っている(下である)と思っていれば、上から目線として苛立つでしょうし、逆に優れている(上である)と思っていれば、「お前のようにはできないよ」と思うかもしれません。

 などということは、もう以前から書いていることですから、自分の中の、自分という認識に変更はないことですが、こうした文書というものは、まったく悲しいことに、その発するタイミング一つをとっても、相手に与える影響は変わってくるものであります。



 故に、僕は、自分のことを書くしかありません。
 そうしたとき、今、15分、朝目が覚めた段階で、書いておくべきことは、生活が、仕事の面でも、プライベートの面でも変わりそうだ、ということです。



 ぼかして書いても、後々の自分にすら伝わらないので、他者と一緒に住むことをしてみようかということです。引っ越しです。

 果たして、その選択が、自分にとって正しいものなのか、分かりません。

正しさや判断

 問題となるのは……人生、すべての問題に言えることですが、その判断の正しさとなるでしょう。

 人は日々判断をしているわけですが、その判断は「正しい」と自信をもっているものです。
 いやその自覚がない人も多いでしょう。
 お昼ご飯を何にしようかという判断は、「とりあえず」これでいいや、といった「判断」をしている場合があります。これは、「判断」といいつつも、自分の中では「判断を保留した」といった印象があるのです。

 ところが、そんなことはなくて。

 保留という考え方が、そもそも判断なのです。

 ただ、それが悪いことでは当然ありません。それが正しい判断かもしれません。

 しかし、その「正しい」とは、いったい誰が、どのようにして担保してくれるのか?


 法律はあります。
 法律に背くと、それは違反です。しかし、そのレベルの話ではなくて、日常生活としての基準とは、何でしょうか?

 家族。
 学校。
 仕事。会社。
 地域社会。
 友人。
 恋人。

 いろんなコミュニティがあって、その中にルールがあります。そのルールは、明文化されているものは少ないでしょう。暗黙のルールというやつです。

 でも、目に見えなくてもルールです。僕らは、ルールに縛られています。しかし、「縛る」という言葉はネガティブなので、そうは思っていません。ルールに対して自分の行動を、「正しい」として感じられるようになっているのです。



 しかし、大きな選択……転職や、結婚、卒業や入学、別れや出会いなどなど、日常と異なる状況に直面した時、僕らは、はたと立ち止まって、「考え」はじめます。

 そうしたときに、今まで自明だったルールというものが、疑いだされたりするのです。



 が、そういった一般的な話は自分にとっては、もう通り過ぎたことなのであまり興味はわかずに、自分としては、要するに、そもそも日常的にも、いったい「ルール」って何だろうと疑問であるということであり、要するに、何らかの判断たるものが全て「保留」のように感じられるという病的心性を問題と思っているわけであります。

有限性

 何故、「保留」ということがいけないのか。
 それは、人生が有限だからに他なりません。無限の思考が許されるのであれば、保留は可能となります。ゲームにおいては、ポーズ(一時休止)が可能です。

 しかし、人間は時間的存在ですハイデガー。
 誰であっても、「死」という目的に向かって歩んでおります。
 死という目的と書くと、やはりネガティブでしょうか。しかしこれは自明であって、僕でさえも、あまりにも自明なので、「目標や目的」のことをブログに書く時でさえ、「死」というのは掲げてきませんでした。

「それをいっちゃあ、おしまいよ」

 というやつです。不可視領域です。見てはなりません。知ってもなりません。考えてもなりません。


 コメントでいただいたこととして、誰しもそれを思ってもいるし考えることもできるが、敢えてそれをやっていないのだ、ということを読み取りました。ゆえに、「間違い」なのでしょう。――いや、その「まちがい」という表現も、次元によって微妙になるのですが、それはおいておきたいと思います。


逃げても

 一つ、確信めいたこととして、多分、僕はもう逃げられないのだろうなぁということ。
 何から? 思考から。

 生活が変わっても、仕事が変わっても、僕はきっと考え続けるのだろう。

 終わりのない、答えのないものだとしても、きっといつか辿り着けると信じているのだろう、と思う。

 それが、「実存的価値」というか、人生から逆に求められていることなのではないかフランクル、とすら思う。

 論理的ではないし、よく分からないものだけれども。


 どう考えてもちっぽけだ。

 ニュースなんかみて、政治的なかけひきとか、やりとりみて、「まったく政治家たちは……」とかって思っている人もいるだろうけれども、どんなコミュニティでもよくあることだと僕なんかは思ってしまう。純真爛漫(かっこわらい)の子供たちの世界でだって、ドロドロとした関係なんてのは珍しくないだろう。



 正直、僕は、世界(人や社会)に対して、期待していないのだと思う。

 ただ、これは、コミュニケーションの上では危険というか、障害でしかないことも理解している。
 でも、それを隠して生きているのもメンドクサイのは事実である。


 僕が理想とする社会というか世界というか、関係というか人生は、「人生や世界なんてくだらねぇ。ただの暇つぶしにしてもクソゲーだ。でも、美しいものや綺麗なもの、耽美はある。だから、たった一人でも、周りに理解者がいなくても、それを目指して歩んでいくべきだ」という価値観を共有できるものである。

 後半の、「まっとうに生きよう!」的なのは、多くの人が納得することである。
 重要なのは、最初の「くだらない」という点である。このあたり、この最初でつまづくと、僕はコミュニケーションを深めようとは思わなくなる。

 いや、「そう思って」くれている必要はない。ただ、そういったどす黒く汚い面があることを認められる人かどうか……という点が重要だ。

 同時に、単に「どす黒い」人には、まったく興味がない。僕の言葉で書けば、反転したポジティブが重要なのだ。あえて注視している、とあるブログさんは、常に、過去に自分が受けたトラウマというか、他者への怨念をいつもいつも綴っている。「どす黒い」。が、「だからどうするか」というのがなければ、面白くない。



 僕は、「どす黒い」ことを全然悪いこととは思っていない。それどころか、それが「当たり前」だと思っている。
 だから。――だからこそ、そんなくそみたいな状況で、どう生きるんだ、ってのが大事である。と思う。
 死ぬのだってよい。完全自殺マニュアルは手元にある。

 しかし、どうせ死ぬ。
 早いか、遅いかだけだ。

 だったら、何か、するか?


(かっこ書きである。やっぱり長くなった。まぁ久々だから、いろいろ書きたいことはあるはずなのだ。忙しいとよく分からないが。ただ、書き始めると奔流は止まらない。しかしそれも、眠気や疲れに勝るものではないから、更新がぴたっと止まったりする。――要は、家の更新が迫っているので、そう、もう生活が大きく変わったのが2年前なのである――どうしようかな、ということだ。いい人に巡り合えた。一緒に暮らさないかって言われたので、本気にしてみる。まぁ、きたるべきときを想定し、部屋の片づけというか、断捨離的なのを昨年から実施していたので、引っ越しに対する大きな障害はない……けれども、やはり愛車どうしようかとか考えることは多い。まぁでも、生活を変えてみるというのも、良いタイミングかもしれない。ああ、しかし、創作はどうなってしまうのか。ブログは、どうなってしまうのか。それが少し心配である。……しかし、まぁ、ブログ本文にも書いたけれども、僕はきっと考えること――というか、書くことから逃げられないだろうし、一生付き合っていくことだろうし、それほど心配することではないだろう。ただ、その点を、一緒に生活する人が分かってくれるのか……いや、ううむ、その必要は、あるのだろうか、うーむ、その点がなんというか)

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今日の一言「人と会いたくなければ、何もしたくない」

 この記事で、何を表現したいのか? 正直、思考ができるだけの余裕がない。

 よゆう?
 なんの?

 心の余裕だ。しかし、心とは何か?

 そういった問いからいつも始まるのが特長の私のblogだが、当然答えはでなければ、そもそも言いたいことも異なる。

 言いたいことは、忙しくて疲れた、ということだ。

 こう、未来が見えない、という表現を何度かしてきたと思う。よく言い当てている。

 僕がいつも言ってるのは、目標を立てることが重要だ、というものだ。

 だが、その目標は、まずもって、自分が達成したいものであるべきだし、次に、それを自分で考えて設定できるものであるべきだ。



 やりがいあって、楽しい仕事ってあるのだろうか?

 もしくは、楽しくなくても楽で早く終われる仕事はあるのだろうか?

 分からない。いまやってることを肯定するのもありだけど、毎日24時過ぎに帰るのが、いつまで続くのか。

 きっと落ち着くタイミングはある。
 そして、手を抜こうと思えば、もっと楽にもできる。


 ただ、そういう問題でもない。
 もっと人間関係がひどくて、忙しいこともあった。それに比べたらいまはましだ。

 が、もはや、そういう比較の問題ではないのだ。



 嫌なこと、苦しいことをする意味が分からない。
 それが人生だと、したりがおな大人たちはいう。くだらない、と思う。



 何故人は、そうまでして生きるのか。

 楽しいからだ……という、中学校ぐらいに導いた哲学は、もはや役に立たない。

 フランクル氏のいう、人生は意味をみつけるものではなく、人生から意味を求められているのだ、とか、創造かち、体験価値がなくなっても、実存価値があるのだ、とか。

 その説明が理解できれば、僕は、もう一段階高次の世界に行けると思う。
 これまでの人生の意味や体験にも、新しい意味が与えられるかもしれない。



 しかし、分からない。理解できない。
 文字としては分かる。日本語としては分かる。しかし、理解できない。いや理解というか、それはどちらかというと、納得というか、感覚が伴わないというか、そういった状態だ。



 しかも、やっかいなのが、世界の不条理である。
 今日も、昨日も、テロや殺人は起こり、たくさんの人が意味もなく死ぬ。
 たまたま、僕は生き残っている。日本は、生き残る可能性が高く恵まれているといえる。



 だから、なんだ?

 という感情。



 他人がどうだから、なんだ。社会が、家族が、なんだ。


 この、なんだ? という感覚、これがつらい。

 簡単に表現すれば、無気力……なのだが、いろいろと行動はできる。


 行動や思考はできるのだけど、それらが、いったいなんだ、なんなのだ? という感覚が付きまとう。




 俺は疑問なのだが、この感覚は、たくさんの人が……女子高生や、おばちゃんたちや、リーマンや、オタクや、大学生や、ミュージシャンや、その他、普通の人たちは、みな常に感じているのか???



 これまでの経験から、どうも違うようだと、あんまし、他者はそんなこと感じてなさそうだと、そう思うようになってきた。

 それがさらに孤独感を深めたりする。


 で、その、独りよがりな考え、なのであるが、これによって、他者を尊敬できる可能性が減ってしまっている。

 仕事ができる人。よい物を作れる人。話が面白い人。スポーツができる人。心が優しい人。

 すごい人、たくさんいる。

 すごいなと、思う。

 思いはするが、なんか違う。


 その違うというのは、すごいというのの否定ではなく、モデルにならなそうである、という意味が近い。



 だから、なのか。

 なんだか、それがなんだ、という思いが強くなる。




◇死ぬこと

 携帯からだと、たくさん書いているようで、たいした文字数ではない。

 この、内から溢れる言葉と、実際の文字に表れる表現との違い、は面白い。
 僕が、僕の記事が長くなるのは、タイピングが速いからというのはあるだろう。
 もちろん、思考言語よりはタイピングが遅いが、普通の人よりは速いので、その反映が多くなる。そうなると、結果、カオスな文書津になったりする。



 関係ないことかいた。
 死ぬのが、怖いのかもしれない。

 怖いから、意味をもたせないのかもしれない。

 別に死んでもよければ、今すぐでも死んでよければ、未来も、目標もどうでもいいはずだ。



 ふと、過去を思い出す。
 その過去とは、直近十年ではなく、もっと、小学生とか、中学生とか、高校生とか、十代のころだ。

 うむ。いまよりつらかったかも。

 比較すると、幸せな気分にひたれる。が、やっぱり、なんの意味もないと思う。

 まぁただ、戻りたい過去が一切ないってのも、いいもんかもしれない。

 ないか? ……ないな(笑)


 これは、珍しい人間なのか? いや、そうでもないか。その、過去よりもいまが大切、と思ってる人は多いだろう。



 あー。そうだな、やっぱり、あのときや、あのときはつらかった。大変だった。過去に比較を求めればたくさんある。




 だからこそ。

 だからこそ、なんだって、生きてるんだろう。

 毎日死にたい、終わりたい、消えたいといって泣いた。
 涙が止まらなくて、声を出さずに枕に突っ伏して泣いてた頃が、どんだけ続いたろう。



 最近はそんなことない。疲れてるからだが、すぐ眠れる(笑)

 じゃあ幸せなのか?

 よく分からない。


 決定的に努力して、決定的によくなった、とは言えるだろう。


 その、自分の頑張りを、行動を、どこか他人事のように、どうでもいいことのように感じ、見ている俺。




 そして、こんなこと書いてるのを、くだらない、文章で、分かりにくく、ネガティブで、ダメ人間だなぁと思っている俺。


 ああ、つまらないなぁ。

 明日は、少しは早く帰れるかもしれない。


 でも、だからなんだ?




 ああ……もう、言葉もでなく、、なってきた。





 まぁ、対策は。
 徹底的に休むべきだろう。が、それすら、結局やすんだところで、人生は続くわけだし、課題や問題は続くわけだし、どうでもよく思ってしまう。

 休んで、気力が回復し、元気になるだろう。それは分かってる。
 けど、いずれはまた、日々の忙しさや苦しさや繰り返しに飽きて疲れて、同じように感じるようになるだろう。


 そうしたとき、今度は、再び立ち上がれるだろうか?

 正直、困難に打ち勝つごとに、問題を解決するごとに、自信がなくなっていく。





 だから。

 だから、前から……といっても、二年前ぐらいからだが、僕は、子供を作る必要があるかもしれない、と書いたのだ。

 しかし、それすら、解決になるかもわからなくなってきた。
 子供ができて、もっと別の意味でも忙しくなって……といったときに、これでの忙しさや問題や課題と違って、ああ、これこそ生きているという意味なのだ、って思えるだろうか?

 ああ、また面倒がふえたぐらいに思ってしまったら、俺も不幸だし、子供も不幸だ。


 どうしたらいいんだ、しかし、この、経験の悪魔というのは、やってみないことには絶対分からない、ということになるのだ。恐ろしい。


 ああしかし、この、子供というイベントが、拠り所にならなければ、本当に詰みかもしれない。

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