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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「神と人との契約の物語」「信仰は失われるためにあるのかな」

旧約聖書

 神が光あれ、と仰られ昼と夜ができて、土からアダムを造り、その他動物たちを造った。そしてアダムに協力して地を耕すため、アダムのあばら骨からエヴァを造った。
 エヴァは蛇にそそのかされ、アダムと一緒に知恵の実を食べた。それによって、地は呪われ、女は子を生む苦しみを与えられた。

 エデンは、智天使ケルビムの炎の剣によって閉ざされた。アダムとエヴァは、エデンの東の地で新たな生活を始めた。

 アダムとエヴァはカインとアベルを生んだ。カインはアベルが神に優遇されるのに嫉妬し、アベルを殺す。カインは神の怒りをかうが許される。

 その後何世紀か経って、ノアという人がいた。ノアの住む町の人たちは堕落していた。神は大洪水を起こして世界を滅ぼした。ノアは信心深かったので、家族と番の動物たちと箱舟を作って難を逃れた。


 ――この後も、人は堕落したり、信仰をなくしたりして、神が怒って罰を与えたり滅ぼしたりする。その都度、選ばれた人(預言者)が神の教えをもって人々を導いていく、旧約聖書はそんな物語である。(最終的にイエス・キリストの誕生までが描かれる)

良い生活とは何かが不明

 ユダヤ教とか、キリスト教において、イスラエルの人々が、アダム・エヴァの直系子孫ということであるが、そもそも、6日と1日の天地創造から考えると、僕らみんなアダム・エヴァの子孫だと思う。それが、バベルの塔の時代の神の怒りによって、言語がばらばらになって、各地にわかれていったという。

 さて、

 生めよ、増えよ、満ちよ。

 と神様はいうが、その「そもそもの意味」を語ることは無い。それを考えることはそもそも不遜である。神によってつくられた僕ら。それだけで意味である。僕らの生きること、そのことに懐疑するのは、すなわち信仰の不足、神への反駁に他ならない。

 だから、信仰に生きなさい。祈りなさい。
 信仰をなくした人は、殺しても構わない。大洪水はもうやらないと契約(人と約束)したが、イスラエル人を虐げるエジプトのファラオの幼子は全員殺しちゃうよ。

 イエス・キリストを人としたとき、素晴らしい方だったと思う。多くの人の迷える魂(大衆の悩み苦しみや生き方について)を救ってくださったのだろう。


 その価値について疑いようはないが、しかし、「神」という存在を規定(大前提)にすることで、一つ、重大なことが抜け落ちる原因になっている。
 思考の根源……そして、科学的態度である。

無批判な信仰は破滅をもたらす

 キリスト教にとどまらず、各々の宗教には、「悪」という概念がある。悪魔とか超上存在も描かれる。
 それらは、人の心の闇の具現化である。神様を信じられなくなったとき、その表現が、「悪魔にそそのかされた」ということだ。

 でも、その感情は、逆に言えば、人間の率直な感想なのだ。神様を基礎にした物語は壮大で確かに盤石なものなのであるけれども、智の体系だろうと、眉唾な物語だろうと、科学だろうと何だろうと、すべての「体系」(システム)を単一の個体(人として)理解し、その理解を維持し続けることは身体的・物理的限界により不可能である。

 だから、ときに、理不尽なことがおこると、絶対神に対してだって、疑いの心が発生するのだ。そして時に、誤りを犯す。それを、教会に行って懺悔する。そして、神によって「許される」。


 この人間の心の構造は、まさに、旧約聖書によって描かれる、堕落と信仰と許しの流れを、よく表現していると思う。やっぱすげーぜキリスト教!



 でも、僕は、その、「絶対なるもの」を信じられない。

 それは、運命だったり、お金だったり、友情だったり、愛だったり、科学だったり、神様だったり、資本主義だったり、出世だったり、もろもろ、正しいとか真実だとか言われること全般。


 それらは、すべて、「ある条件」によって成り立つものだという感覚が、僕の実感である。


 その条件が積み重なって、普遍的な「体系」になることがある。それは、巨大なシステムとして、一個の人間としては、到底理解が及ばないことになる場合がある。

 そうしたとき、人は、僕らは、それらを「絶対なるもの」……「神」として呼びたくなる。


 それらは、時に理不尽であったり、妬みの神であったりする。必ずしも、僕らの都合の良いものではない。それでも、神が言うのだから、正しいのだ、許されるのだ、と。

世界平和の実現性

 僕は、世界平和を望む。誰もが争うことなく、協力しあって、お互い切磋琢磨し、許し合って、生んで、増えて、満ちていくのを望む。

 でもそんなこたー無理である。

「無理」

 なのは、人が多様性をもっているからである。価値観が異なるからである。良いと思うこと、悪いと思うことが異なるからである。


 たまたま、その何かが一致して、愛し合って生きていくツガイ、カップルは多いことだろう。
 それでも、そんな幸せな二人の間にあっても、軋轢が生じないことは無い。

 その関係性が、70億人になったとき、統一的な「良いこと」というのが想像し得るだろうか。旧約聖書の、神様でさえも成しえなかったことである。人は、知恵の実を口にしたときから、智慧……価値観と多様性を身に着けてしまったのだ。

 もし、世界平和が実現するとしたら、それは、人が再び、単一体としての存在に統合されるしかなかろう。



 だから。
 悲喜こもごも、妬みや憎しみ、怒りや苦しみ、欠乏や餓えや、哀しみや嘆きがある中で、そんな一瞬の僅かな黄昏時にでも、「しあわせ」という状態が生じることが、貴重で、価値があって、美しいのである。


(ここまでが序文)

僕の価値観をまとめると

 上に書いてきたようなことは、もう何度も繰り返し表現してきた。
 まず、僕は、「絶対」なるものを信じることが難しい。(このことの派生によって、何か押し付けがましい「指導」という名を借りた強制を求める人を苦手とする)

 次に、共通の平和や幸せといったものを信じることが難しい。それが実現した世界は、きっと何もない世界だ。

 だから、いろんな感情や争いがあることが、そもそも、人間の世界だということを、認めなければならない、と。



 上の価値観については、同意してくれる人もいれば、共感してくれる人もいることだろう。
 ただし、このことについて、真剣に問題視している人は、あまり多くないように思える。いわば、上のようなことは、「当たり前」なのであり、さして、各々の人生や生活において、重要な意味をもたないのである。


 むしろ、僕の上のような価値観について、「それは違う、絶対に神は存在する!」として、考えを揺さぶれるような人がいたら、それは貴重に思うけれども、多分、それは不可能に近いだろう。僕はきっと、魔術や魔法や、奇跡を目の当たりにしても、「絶対的存在」を信じることはできないだろう。奇跡を起こせたから神? そんな単純なものじゃあないはずだ。それこそ、神に対しての冒涜だろう。仮に神がいたからといって、神を信じることで、「幸せ」になれると説かれたとして、僕は、その「幸せ」とは何かが分からない。

 生めよ、増えよ、満ちよ。これが幸せなのか? その行為による「快感」は否定するものではない。では、「幸せ」の状態とは、常態として永遠に「快感」を得続けるものだというのか? 快感の権化が幸せなのか? それはそれで、ちょっと気持ち悪い。

無常憑み難し

 なので、「絶対なるものを認めない」(=空(くう)とか無常とか言われたりするもの)を反転して信じる者というのが、一言で僕と言う人間をあらわす表現であると思う。そういう意味では、僕は昔からずっと仏教者なのかもしれない。ただ、高校一年生ぐらいに仏教を教科書で読んだとき共感したのは、単に、「人生とは苦しみである」という一文だけであった。それは単に、その当時に色々と苦しんでいたからであった。

 それって、仏教でもなんでもない。けれども、他の宗教や思想では、何やかんや「幸せ」を求めるのに対して、「人生の本質って苦しみですから」といきなり言い切っちゃうところに感銘をうけたのは確かだ。他の人とは違うことを言ってのける! そこに痺れる、憧れるウ! と、中二的感覚だったのだろう。


 と、まぁ、宗教を信じている、というのは、現代日本人には、「気持ち悪い」と見られるので、公言はしない。ただ、「ポリシー」とか、「座右の銘」的なやつと、僕はなんら変わらないと思う。

 お金がすべてだ!

 というカイジ的なことを信じている人もいるんだろうし、それらと、次元的には同じことだと思う。
 ただ、仏教の無常観というのは、普通の「信じる」ということとは異なることに注意されたし。
 それは、四句否定(テトラレンマ)というカタチで表現される。

四句否定

 大乗仏教の中心思想となる、空(くう)の思想をまとめたナーガールジュナ(龍樹)という2~3世紀に活躍された方の「中論」という書において、以下の節がある。

1.すべてのものは真実である。
2.いかなるものも真実ではない。
3.あるものは真実で、あるものは非実である。
4.いかなるものも真実ではなく、いかなるものも非実ではない。


 矛盾や詭弁に感じることだろう。いや僕もそう思う。そもそも、1.と2.において、成り立ってねーじゃねーか。

 ただこれは、無限遡及的な次元の否定なのだと僕は解釈というか、思っている。

 言い換えれば、最初の方で書いたように、「すべてのものは、ある条件によって成り立っている」という僕の価値観の肯定として思っている、ということだ。

 今この瞬間、僕と言う存在は「ある」。【1.】
 けれども、突き詰めて、僕とは何か、僕の本質は何なのかを考えていけば、そんなものは「ない」と思ってくる。【2.】
 でも、そんな無限遡及(どこまでも自分と言う最小単位を探し求めること)をやめて、もう一度ふとした瞬間に立ち戻れば、「僕」はやっぱり「ある」。【3.】
 と、言うことは、「僕」と言うのは、存在する(ある)ともいえるし、存在しない(ない)ともいえる――逆の言い方をすれば、「あるわけでもなく、ないわけでもない」。【4.】


 だから、いかなるものにも、執着してはならない。その執着こそが「苦しみ」なのだ、というのが仏教の教えである。
 ――だが、このことを勘違いしている人は少なくない。


「だから、執着はよくない、仏教はありがたい」と思う人がいるだろう。そうではない、その、「仏教はすごい」的な感覚にも、執着してはならないのである。


 と、いうことは! じゃあ、僕らの生きているのは、そもそも何なのか。
 むしろ、「実存的空虚感」に苛まれるそのことが、生きることそのものなのではなかろうか。


 そうして今日も、とめどない思考によって自動筆記により記事をつづる。


(コメント頂いて、めっちゃ明るい記事を書こうと思ってたら旧約聖書関連の本を読んじゃってこうなった! どうしてこうなった、どうしてこうなった!!)


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ここまでで、3000字ぐらい。そして一か月。このペースだと、目標の半年で、1万2000字か。うーむ。取りあえず、目標は達成できそうだけれども、完結させられるかは分からないな。
 以下続き。


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・・・つづきはこちら


今日の一言「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し」「一年が経つぜ」

物語という言葉について

 まず、物語という語をきくと、小説やドラマなど、フィクションを想像する。
 が、辞書的な定義としては、語り聞かせることということでもあり、何もフィクションに限定されるものではない。

 僕はこの記事で、「人生は物語である」という主張をしようと思うのだけれども、その主張の意味するところは、自分の生き方を構築する上での、方法論の整理ということである。

 よって、「人生は物語ではない」という主張と対立をする必要はないと思う。

 人生とは何か。生きてから死ぬまでの、生きている間のことである。それを、どのように全うするのか。



 ……上のような問題提起のやり方では、僕は、言葉が出てこない。何だか、面白くない。心が動かない。

なりたい職業

 他者と自分……。何だろうか、何もないところから、言葉をつむぐのは難しい。
 落ち着いた時間。何も予定がない時間。そんな休日。それが幸せである。

 幸せ?

 幸せって何だ。平穏な感情。時間。空間と時間。


 責任。自らの行為が、現実に与える影響について、自分が引き受けること。
 しかし、その責任の所在は、法律という、人が作り上げたルールに基づくものになる。


 僕は、人に、何かを教える仕事をしたかった。
 しかし、いろいろ考えて、僕自身が、いったい、何が教えられるのか分からなくなって、辞めた。何か、ピンポイントの知識を教えることは可能だろう。けれども、「人格」として、人間として、何か教えることができるかと自問自答した際に、僕は、あまりにも自分自身に、自信がなかった。

 どんな生き方が正しいのか、分からなかった。

 どうすれば、普遍的に、みんな幸せになれるのか分からなかった。

 勉強を教える仕事もしたことがある。けれども、何故勉強をするのか。勉強をしたら必ず幸せになれるのか、自信はもてなかった。


 言い換えれば、責任をとるのが嫌だったのかもしれない。否定されるのが嫌だったのかもしれない。「お前の生き方は間違っている!」とか「お前のせいで人生が失敗した!」とか言われるのが嫌だったのかもしれない。そんなふうに言われても、他者の人生なんて背負えない、そう思ったのかもしれない。


 そんな風にいろいろ悩んでいた時期について、「必死に考えていた」という表現ができるかどうか、僕は疑問である。遊んでいる時間はあったのだ。一分一秒、ずっと真剣に考えていたわけではなかった。睡眠時間だってあった。寝る間を惜しんで毎日考えていたかというと、そうではなかった。

 必死さが足りなかったと、過去の自分を責めることはいくらでも可能だろう。

残りの人生をどう使うか

 過去を責めても、戻れるわけでもないし、戻ったところで、結局、何か大きく変えることはできないだろう。今の自分の知識や感情があったとしても、時間的限界性や身体的限界性によって、未来を劇的に変えることなどできはしない。
 むしろ、過去にかえって、もっといろんなことにチャレンジしてみて、その結果、もっとひどいことになる可能性だってあることを、タイムマシンに期待する人たちは思わないのだろうか。
「あのとき、ああしておけばよかった」

 というのは、その時間平面上での結果であって、過去にもどって、もう一度その場面をやったときに、その「ああしたこと」の結果がどうなるかなど、わかりゃしないのである。そういう意味で、僕は、過去に戻りたいと思ったことはこの方一度もない。やり直したい自分の人生など、いついつ時点もありはしない。後悔という感情が生じたことがないと言えばうそになろうが、少し時間をおいて冷静に考えれば、せめてできるのは、反省と言う作業にすぎない。


 だから、僕は、この先、残りの、10年なのか、20年なのか、30年なのか、40年なのか、50年なのか60年なのか分からないが、その残りの時間をどう使おうかしか考えないことにする。(する、というか、している。)

 ちなみに、70年はないだろう。60年もない気がする。多分、それぐらいになると、そもそも、「自己」という単一の記憶維持が曖昧になっている気がする。分かりやすく書けば、「ボケ」ているだろう。

 その段階までになって、未だ、「自分とは何か」「生きる意味とは何なのか」なんて考えているとは、ちょっと想像しにくい。
 その、最後の最後で、「ああ、ワシの人生は、本当に無意味じゃったのぅ……」と、そんな風に思って死んでいく可能性がなくもないが、多分、先日みた、「ザ・ノンフィクション」の特殊清掃の現場なんかみていると、「ウッ苦しい、た、助けてくれ、うぁあぐああぎゃああ! ……」と、「死」を感じることができるかどうかも、不明なところだ。

 先日、ちょっと危険な目にあったけれども、その瞬間は、「死ぬ」とかどうとか、感じている暇はなかった。とにかく、目の前の危険の対処に全身全霊意識が集中していた。そんなもんである。

 だから、「死」を考えることができるのは、逆説的だが、結局、安全に生きている今、でしかありえない。

ただ独り黄泉に赴くのみなり

 先日、目標にしていた本の読了が終わってから、目標のない生活をしている。
 トイレ掃除もしたし、エアコンのフィルター清掃も行った。エアコンのフィルターはかなり埃がたまっていた。一か月に一度掃除するというのは必要かもしれない。あの埃の中で暖房を焚いていたと思うと、少し気分が悪くなる。

 料理もするようになった。今日つくった焼きポテトは、分厚く切りすぎたせいか、火の通りが悪かった。まぁ自分で食べる分には十分だ。人に出せるレベルの料理も作れるようになった方がよいのだが。

 目標というのは、何か、「できるようになること」に対しての行動方策である。最近、それがないのだ。

 焦るな、今年の大目標は何だ? そう、整理をすることだ。体系と、住居。身の回りを見渡す。うん、いい感じだ。少しずつ物が整理されてきている。この休日は、箱類を整理した。HDDとかその他ソフトウェア等の空き箱だ。引っ越しとか、もろもろをするときはあって便利だった。けれども、捨てることにしよう。使用頻度が低いけれども、スペースを広く使っているものは、思い切って捨てた方がいい。本の整理にいつも時間を使うけれども、本は、意外と並べておけばそう邪魔にはならないのだ。それ以外の、細々としたものの整理が、綺麗に部屋を保つために必要であろう。

書きたいしかし書けない

 ああ、しかし、書くことないなぁ。いや、なんというか、「書きたい」という衝動はあるのだ。

 なら書いてみよう、書いてみる。その内容のなさに驚愕する! 仕方がない、知能が低いのだから仕方がないと思いつつ、いつもなら、そのまま投稿する。しかし、最近、他者のブログで面白い記事を読んだ。おーん。これは……こんな、どーでもいい、くだらないことを書いている俺は、いったい何なんだ。こんなもん投稿していいのかあああ(言外の叫び)。

 ふむ……。



 なるほど、やはり、何か、インプットが無ければ、僕は書けないのだ。一からなにか新しいことを生み出せるなんて、そんな天才だなんて自分を思ってはいかんのである。
 んで、そのインプットした内容に対する感動さ……思いというのが、なにも、自分だけの特別なものだという思い、それすらもかなぐり捨てて良かろう。

 信じて、よかろう。
 自分のこの感性、感覚、思い、思考、感覚、感動、目的、意味……信念、生き様、その他に共感や、近いものを思ってくれる人が存在することを。

 まー苦難である。深い付き合いをしなければそんな人と出会えることはないし、それをするにあたってぶつかりあって、時に傷つくことや嫌な思いをすることもあろう。
 それだけではない。そもそも、他者とかかわるということは、自分自身の上記の感覚等を、上手い具合に表現する方法を明確にしておく必要がある。

 それでも、何もせずに厭世するよりはよかろう。


(たまには、ものすごい明るい記事でも書いてみようか。嘘くさくなりそうだな)


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今日の一言「死後の体液すごい」

特殊清掃員の仕事を見た

 事故物件、大家さん、遺族とのいざこざ、死臭、孤独死、体液、しみ、床下まで浸透。

「ザ・ノンフィクション」

 よい作品だった。テレビ番組に「作品」というのは間違っているだろうか。内容が内容なので、「よい」というのは間違っているだろうか。いささかの言葉遣いに悩むよりも、書きたいと思ったこと、書かなければならないことを優先して書き進めたい。


 ここ一年の間に、漫画で、同内容を取り扱った作品を読む機会があった。タイトルは忘れてしまったけれども、中々に興味深かった。
 自殺や、孤独死した人の部屋の清掃を行う、「特殊清掃員」。死後、二週間足らずで、死体の腐敗は進み、悪臭が部屋の外まで流れ出す。死体はぐちゃぐちゃになって、体中の血液や汗やその他の体液は、カーペットや畳など当たり前で、床板もたやすく浸透し、家の基礎までしみわたっていく。
 それらの影響範囲を瞬時に判断、確認し、特殊な道具や薬品で処置をしていく仕事である。

 一般のテレビ番組で放映できる程度の編集がされているとはいえ、それでも、その現場の凄惨さは伝わってきた。

言葉を丁寧に使いたいと思った

 孤独死をした人は、みな、玄関を向いているのだという。それは、苦しいから。苦しくて、もがいて、助けを求めようと、出口を求めるのである。しかし、力尽き、倒れる。




 最近僕は、「面白いことないかなぁ」とか言っている。それは否定することではない、ただし、「死んでしまいたい」とか、「生きている意味が分からない」とか、そんな表現をする前に、よくよく、「死」について、考えてみたいと思う。

「つまんねぇなぁ」

 という言葉を発する、その瞬間に、自分が、自分のいるこの部屋で、喉をかきむしって、胸をつまらせ呼吸困難に陥り、助けを呼ぼうと腕をあげながらフローリングに倒れ込む、その瞬間を、想像してみたらどうだろうか。


 生きることも死ぬことも、その表現について、言葉が、軽くなってはいないだろうか。
 感情を込めて言葉をつむいでいるか? よく自問自答したい。

 表現的に、言葉の使い方など気にせず書き進めたい、と書いたけれども、その書きたいことは、「言葉を丁寧に使いたい」という思いである。

 どういうことか。つまり、「生きる意味」とか、「生きているのがつまらねえ」とか、「一生独りでいいや」とか、そういった感覚を表す言葉について、よく考えて使いたいと思うということだ。

でもつまらないもんはつまらない

 話しが若干変わってしまうが、先日、「生産的エンタメも消費的エンタメもどっちもどうでもいい分類である」ということで、「そうかもしれないなぁ」と思った。
 ただ、先日夜、帰宅の途を歩んでいるとき、「いや、やっぱりちがうな」と思った。

 スポーツ観戦を、僕は否定するわけではない、と最初に書きながら、しかし、野球やサッカーを観るというのは、消費的エンタメ行為であると思う。
 ボクシングを観戦するのは、「自分ではない誰か」が戦っているのに、血沸き肉踊らせるのである。スポーツチームの勝ち負けに一喜一憂するのは、その勝敗が、まさに自分の運命を左右するような何かであるかのように思い込むことである。

 いや違う、そんな大そうなものではないのだ。単に、楽しきゃいい、なんか、ルールに従って人同士が対戦するのを、勝ち負けを観るのが楽しいのだ。それは、それ以上でも、それ以下でもない。


 もう一度念のため書いておこう。スポーツ観戦を、僕は否定しているのではない(※)。同じスポーツを行う人たちの会話のタネにもなるだろうし、自分がスポーツをやるうえで、参考になることもあるだろう。
 しかし、やっぱり、自分の「生き様」的な何かに影響を与えるようなエンターテイメントと、ただ現実的な問題の解決とは異なる次元において感情の恒常性(つまり落ち着きたいとか癒されたいとか)を求めるエンターテイメントとは、大きく異なるものに思える。


 もちろん、創作するうえで、自分がどっちを目指すかなど、それを、最初から決める必要などないし、作り手と受け手との関係性からも、どっちになるかは分からないだろう。
 しかし、エンターテイメントというものに、「生産的な何か」を求める人と、「癒し的な何か」を求める人と、両者は存在することだろう。

※「それじゃあ、自分が野球するわけでもないのに、どっかの球団の勝敗がとっても気になる人については否定しているのか」と問われると、そうかもしれない。

エンタメの語がそもそもブレている

 そもそも、「ザ・ノンフィクション」的なテレビ番組を、「エンターテイメント」と僕は今表現しているわけだけれども、それが間違っていると言われたら、そうかもしれん。

 しかし、エンタメとはそもそも何だ?

 人生とは、物語である。そして、それをどんな物語にするかは、自分の、自由意志に委ねられている。自由意志があるのか、ないのか、その疑問というか、問いというのも大事だけれども、現時点の僕の考えとしては、自由意志は「ある」としている。いやそもそも、じゃあ、「自由意志」って何だよ、という表現の無限遡及を回避するための、十分な定義をする紙面はここにはない。

 法律の条文が難しい理由や、専門書が難しい理由は何だろうか。
 それは、「定義」が緻密であるからだ。複雑な文章構造で、読解が難儀である文章であっても、驚くほど、その意味するところがシンプルだったりすることがある。それは、法律の条文や専門書は、厳密な、普遍的な表現を目指しているからである。

 しかしそもそも、現実の「世界」は、「言葉」で区切れるものではない。
 厳密な相互理解など、不可能である。しかし、お互いが「分かっている」という前提を共有することが、人間は可能である。その高度複雑化した体系的な決めごとが、「社会」であったり、法律であったりするのである。

 その、「お互いが分かっている」というために必要なのが、「感情」という機能である(※)。


 さて、じゃあ、改めて、エンタメとは何か。僕は、「物語」という語と同様に使っているのだ。
 人生=物語=エンターテイメント

 としているのだ。しかし、エンターテイメントとは、「娯楽」という訳である。変じゃないか? 娯楽とは、現実でメインでやることから外れた、余暇に行うことである。そんな定義は分かっているが、僕は、その「現実でメインでやること」というのが、そもそも、「生きることそのものじゃなかろうか」と思うのである。


※そういう意味で、「アイ・ロボット」や「エクス・マキナ」に登場するアンドロイドが、見た目が完全にロボット(アンドロイド)であるにも関わらず、その言わば不思議な「人格」(攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」)を感じさせるところが面白い。

生きているから生きている

 現実……仕事、と言い換えても良いが、仕事と余暇という対比は、あまり重要性をもたない。(少なくても僕にとっては。そして、今後の社会や人々にとっても、恐らくは。)

 前述のテレビ番組においては、結局遺族が一度も訪れずに清掃費用50万ぐらいも支払いたくないと大家さんともめるケースもあれば、まだ清掃が完全に終わっていない現場にかけつけて、故人の想いでの品をみながら涙を流すケースもあった。

 後者が感動的だった、というのはそうなのだけれども、僕はもう一つ思ったことがあった。

 ――家族がいようがいまいが、独り死ぬこともある。


 

しばらく経って

 ある方のブログを読んで、「文章力がすごい」と思った。「読ませる文章」だと思った。
 そして、この記事の自分の文章を読み返してみて、「うーむ、面白くない」と思った。

 何というか、何を言いたいのかよく分からない。Aか、Bか、それともCなのか、Aの否定をしたいのか、Bの否定をしたいのか、それによってCの肯定をしたいのか、よく分からない。

 分からない、分からないを連発している記事が、面白くなる可能性があるのだろうか?

 問題提起は重要だ。しかし、問題を提起したまま終わってしまえば、先日触れた、アイアムアヒーローの最終巻のような印象を与えることになるだろう。問題を提起したら、解決しなきゃならないのだ。それが「責任」である。


 が。

 そんな肩ひじ張って、真面目くさった感覚をもって書いていくと、そりゃあもう、面白くない。読んだ人は面白いと思う可能性があっても、自分はきっと、面白くないだろう。

 僕が他者のブログで期待しているのは、「プロセス」である。
 結果ではない。結果は分かっている。「幸せになっちまえよ!」で以上だ。

 婚活で頑張っている人がいる。付き合っていた人に先立たれてしまった人がいる。子どもを失った人がいる。子どもが障害を抱えていた人がいる。不妊治療に苦しむ人がいる。難病を抱えている人がいる。孤独に押しつぶされそうになっている人がいる。いじめにあって苦しんでいる人がいる。貧困に喘いでいる人がいる――いろんな「物語」がある。

 それらすべてに共通した結論、最終回、エンディングは何だろうか? ハッピーエンドになりやがれ、である。
 僕がいつも思う、全世界の平和と幸福というのはそういうことだ。

 だから、「〇〇したら●●になりました!」とかいう、結論が見えているブログに、価値を僕は求めていない。

 ある方が言っていた言葉をふと思い出した。
「物語(小説など二次元の世界に限る。以下同じ)であれば、うだうだドロドロしたのを求めていないんです。そんなの、現実(僕らの物理環境に限る。以下同じ)で沢山溢れているじゃないですか。けれど、現実において、何かもがいているとか、必死になっているようなものは、ちょっと物語とは違って、面白いんですよね」


 僕はこの記事において、物語、という言葉を、現実も含めて全部、物語である、と書いてきた。それは、二次元の物語でも、現実の物語でも、どちらも、終わりがあることには変わらないからだ。

 けれども、上のある方の言葉における表現においては、二次元と現実の物語では決定的な差異がある。それは、その「終わり」を第三者として追体験できることである。時間軸を異なってみることができるということだ。

 今まさに、物語の中に組み込まれているのが「現実」であり、物語を物語として俯瞰することができるのが、二次元の物語である、ということだ。


 何だか、長くなってきたし、主旨が分かりにくくなってきたので、強制終了とする。


(続く)

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ちなみに、ちなんでもいないが、この連載作品は、オチが決まっていない。ある意味、僕が小説を書く過程そのものかもしれない。いや、普段は、おぼろげながら、ゴールというか、エンディングとか、核になるストーリー・エピソードの骨格は考えてはいる。そして、こんなもんかなーっと、表現とか描写とか設定とかあまり細かいこと考えずに、先へ先へと書き進めてみる。それで、前後の整合性などを踏まえながら、「あーこのエピソードは矛盾するから使えないわ」とか、「ここでこうしないと後々流れが悪くなるな」とか考えながら、切ってはくっつけ、ちぎっては直してあーだこーだつくっていくのである。

 まぁ、公開していなければ、水面下で設定を変えつつ新しい方向性に舵取りしていくこともできるが、今回、途中で詰まってしまったらどうしよう……。公開して航海ができなくなって後悔……。
 以下続き。


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