忍者ブログ

30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「ビールを飲みながら書くとどうなるのか」


近況

 ルーチンが早速とん挫したようなグラフになっているが、他の連載中の作品を書き進めているので、ゼロではない。
 どうも、気が散りやすいのか、一つの作品だけ集中して手掛けるというのは、あまり効率的ではない気がする(精神的に)。でも、「書くなら、締め切りをもうけなければ絶対ダメ」とかいう先人たちのお言葉も見聞きする。そりゃそうなんだけど、気分が乗らないときにWORD開いても、何分立っても真っ白、ってこともあるのだから、それよりかは、複数作品をもぐらたたき的に少しずつ進めていくのも悪くない気がする……とか言えるのは、ある程度完成品を量産させてからだな。
 全部中途半端で投げ出してしまえば、いっくら、1時間向き合って0文字! ってことが続いても、その向き合う空白の時間がいずれ芽吹いて、一気に完成に到達するかもしれないのだ。

 とかって話は、まぁ、気持ちの慰みにはなるかもしれないが、早い話、そんなグダグダいってないでイイから書けよ、と。以上それだけの話である、哀しいかな。

暴力は減ってきているのか

 暴力の人類史、上巻を読み始める。ううむ、面白い。
 サピエンス全史も実は下巻の後半を読み切っていないが、これはセットで読むとより理解が深まって、頭の中が混線スパークして素晴らしいカオスになるかもしれない。

 ギリシャ神話、ヘブライ聖書、騎士道物語、そして現代のアメコミ・CM的なところまで、どんな「物語」が求められてきたのか、という整理された表現は非常に興味深かった。
 とにかく分厚い本である。それでいて、文字が大きくスペースが多いかというとそうではない。図表はあったりするけれどずっしりしている。それを作者も分かっていて、「この本は、分厚いんだけど、人類の歴史の中で暴力は徐々に減ってきているのだよと、誰もが「この作者くるってるのか?」と思うようなことを誰にでも納得してもらえるよう説明をこらしたら、こんなに長くなった。だが反省はしていない」とか言っちゃっている。そこにしびれる惹かれる。

 例えば、キリスト教の聖書では、やけに残酷なシーン、拷問とか、そもそも神様やけに怒りっぽかったりするし、なんででしょうと。それは、罪を背負った人類が、聖者と呼ばれるひとが数時間の苦しみを得ることで、死後永遠に救われるのだから、それが逆に救済なのだと。だから、できるだけ苦しく、惨たらしい残虐な刑罰とかシーンが描かれる必要があったのだと。

 これは単に一例に過ぎないけれども、丁寧に、過去に、どういった物語が登場し、求められて、人々を熱狂させていたのかということが触れられている。

 まだ第一章を読み終えたばかりで、途方もなく高い山の麓にもたどり着いていない状態だが、徐々に読み進めていきたい。

死んだ方がよい人間はいるのか

 そして別の本の話。これも、結構前から読み始めている、ある精神科医の話だけれども、「役に立たない人間は死んだ方がいい」というのは、成り立つのか? というお話。

 これに対して、3つの否定が可能であるという。

1.役に立たないという定義が不可能である。例えば不治の病に侵された人でも、新しい病気の発見や治療に役立つ可能性がある。

2.不治の病であっても、それが絶対に治らないというわけではない。

3.価値のない人間、例えば重度の精神病患者であっても、家族から愛されている場合がある。例えば、皆様のお祖母さんが、縁側でうつらうつらしていて、それは何ら生産性がないかもしれないが、皆さんのお祖母さんであるという価値がある。代替不可能で、愛されているのである。


 うーーーん、なんか、たぶん、僕の読解力不足のせいだろうが、実感レベルで納得できなかった。

 そりゃ、そうかもしれない。愛されている人は、「役に立つ」ことがなくても、それだけで唯一性一回性、生きる意味があるのだろうと思う。

 逆に、「愛されていない人」というのは、少ないのかもしれない。基本、親は子を愛するものだ。子は親を大切に思うものだ。――だがそれは所詮は、「基本」に過ぎない。基本すら成り立っているか、僕は、残念ながら微妙に思う。

 いや、分かるのだ。確かに、「愛されている」ならば、生きる意味はあるのだ。死んではならないのだ。

 では、「愛されていない人」は、死んでもいいということだろうか?

 まぁ、そうかもしれん。誰からも嫌われて、人に迷惑ばかりかけて、生産性のあることなど一つもしないような人がいたら、その人は「いらない人」ということになるだろう。

 しかし、その、「いる・いらない」というのを、一体、だれが、どのように判断できるというのか?
 僕は、そっちの方向で何とか反論の糸口を模索したい。

 結論は、僕は何度も書いているが、世界平和を求めている。ので、「誰も、死んでいい人なんていないんだ!」と叫びたい。でも、僕の理性くんは、殺したいほど憎い人って存在はあるよね? と問いかけても来る。難しい、非常に難しい問題だ。

 こういう問題は、結論を出さずに、「なぁなぁ」としておくのが一番賢いやり方だったりする。
 声高らかに、「犯罪者にも五分の魂!」的なことを言うと、轟々と非難されるのだ。怖い。

絶対間違いのない完璧な生き方

 そんなこんなで、大人さんたちは、人生の大切な問題を考えることを辞めるようになっていく。いやそれが正しいので当たり前なのだ。
 何せ、人生で大切なことは、「よりよく生きる」ことなのだから。

 楽しく、充実して、幸せに人生をまっとうすること、それが人間に課せられた使命なのだから。


 ――ほんとにそう?

 と僕は思っている。残念ながら。
 多分、大人な人たちは、とっくの昔に、自分の生きる意味ってのを見つけて(それは無自覚にだったかもしれないが)、人生という長い道のりを走っているのだろう。

 僕もとりあえず、人生という道のりを歩いてはいるけれども、頭の中では違うことを考えている。

 まぁ、ほんと、いつまでこんなこと続けるつもりなのか、というのを、自分自身に問うたびに、戦慄する。いやーまじやべっすなぁ~って。(全然真剣じゃなさそうだ!)

 なんか、ふと思うのは、「あーよく生きてきたなぁ」という感覚。お風呂場でシャワー浴びてたりすると、「あー生きててよかったなぁ」とかも思ったりする。
 なんか、物語のエピローグ的な感覚である。

 仕事で「ありがとうございます」と感謝されたり、後輩さんから頼られたり、友達とワイワイ遊んだり、愛機で旅に出たり、独りお酒を飲んだりと、楽しく充実している、と書くと、リア充乙といわれるのだろうか?
 そういう意味で、先日、「ゲーマーズ」という作品で、中学時代はがり勉オタクと呼ばれてた男の子が高校デビューを果たしてかわいい彼女もGETしてイケメン化するんだけど、その子に対してパッとしない主人公が、「君みたいなリア充に分かるわけないだろ!」みたいなことを言って、「ふざけんな! リア充なんて言葉で片づけるんじゃねぇ! 俺が今の生活を得たのは俺の努力の結果だ!」って怒るシーンが面白かった。それ以外はあんまり面白くなかった――けど、物語のけつまつ的には気になるから、ダイジェストで最後まで見たいきもする。
 取りあえず、いっつも簡単だから「リア充」という言葉使っててさーせん、と思った(かっこわらい)。

 まぁ昨今、学校とか電車の中とか、会社の中でまで、ゲームとか漫画とかの話題が出ても、別にふつーになった時代において、リア充とオタクという境界はもはや関係ないのかもしれないと思っている。
 外国籍をもっていようが、バイセクシャルであろうが、そこら辺の偏見ってのは、あんまりもうなくなってきてんじゃないのかな。俺は昔からそういうのに疎いというか、興味がなかったけれども、そういう感性の人は少しずつは増えている気がする。というのは、都市部に住んでいるからそう思うだけかもしれない。この都市と地方という区分も、意外と根強かったりするから、無視して書いているとしっぺ返しを食らう。だから、人文系の論文って面白みがないそっけないものになっちゃうのかもね。書きたいことを書くと反論の種になっちゃうから。

長いな

 やっぱり長くなったな。
 俺は一体、この文章群をだれに向けて書いているのだろう。

 最近、よく分からなくなってきた。

 いやー、そう、よくわからなくなってくるのは昔からで、その都度、「ブログに書く理由」みたいな記事を書いて、自己肯定してきたわけだけど、ほんと、「誰かの役に立っている」ということがないと、正直……。

 ま、どっかで、結論を出す必要はある。

 結論を出さないまま、ズルズルやっていって、突如、こと切れる、というのもあるかもしれない。それはそれで、俺は正直だめだとは思っていない。大半の人の人生がそんな感じかもなと思ったりもする傲慢にも。

 うーん、……昨今の悩みを、ごく端的に書くと、「物語」ということになる。
 短すぎてわからないな。

 例えば、すげー人生を送ってきた人がいたとして、まぁそれが事実だとすれば、素直に「すごいなぁ」と思うわけである。
 そこで、「俺もこの人みたいになりたい!」と思うのか、「ほへーすごいなぁ」と思って終わりなのかにもよるけれども、「それはそれ」みたいに思ってしまうのがよくないところ。

 いやぁ、だって、すごい人といったら、ゴウタマさんとか、キリストさんとかすごいじゃないですか。でも、自分がそんな聖人君子になれるとは思えないじゃないですか。
 そしたときに、「自分なりに精いっぱいの」人生、ってやつを目指そうと思うわけじゃないですか。
 そういう意味だと、ある意味、僕は過去に比すると、相当に完成された人生(生活)に到達したわけですよ、はい。


 いや、すごいう傲岸不遜無知蒙昧なことを書いているのは分かる。
「はいはい、そう自分で思わなけりゃやってられないほど惨めってことだね。プギャー」
 と言われるだろう。まぁそれはそうだろう。
 しかしっだ、自分の能力値(ルックス・家柄・財力・身長・筋力・頭の良さ・EQ・その他もろもろすべて総合)を考えたら、よくやってる方だと思うよ。


 でもだ。だからそれが何だ? って感じもある。

「いやいや、おめーさぁ、もっと大変な人だっているんだから、そんな調子のったこといってんじゃねーよ」
 というのも分かる。悪いことが重なって、いまの生活が続けられない状況……例えば内紛が起こったりとか天変地異とか起こったら、そりゃあ、こんなのほほんとしたことは言ってられないだろう。

 でもだ。そういう他者とか他環境とかと比較して発奮させるやり方は、モチベーターとして駄作である。
 色々苦しくて自殺しようとしている人に対して、「もっと大変な人がいるんだから、自殺なんて考えちゃダメ! もっと頑張ろうよ!」って言う? 普通?

 いやいや、おめー、そんな極端な状態じゃあないんだから、やっぱりもっと頑張れよ……となって、ここら辺の話も、これまたきりがない。
 この「きりのなさ」「他者との分かり合えなさ」というのを表現した作品が、18世紀のゲーテさんという方の「若きウェルテルの悩み」という小説である。ウェルテルくんと、彼が愛するロッテしゃんの恋人のアルベルトさんとのやり取りでそんな場面がある(いや例えは全然違うんだけど)。

 そうすってーと、俺が思ってる、感じている問題・悩みってのも、もはや18世紀に表現されたようなもので、古臭くてカビが生えてるようなものかもしれない。そもそも、「青春小説」とか言われるらしい。30代で青春の悩みって(かっこ嘲笑)。

作品を完結させること

 まぁ、なんというか、創作ルーチンは中々手ごわいのである。

 しかし、こんなに大変だなぁと思ったことは、今までなかった気がする。それってのは、「何か表現したいこと」「自己のクライシスへの対応」という直結した問題があったからかもしれない。
 いやー、本当は、そういった自己の切り売り的な作品は、そうとう人格ができて人とか、面白い特殊な人生を送ってきた人じゃあないと、面白い作品にはなりえないのである。凡人が面白い作品を描くとしたら、「エンターテイメント性」というのを追求しなければならない。それはそれで大変だが、努力・研究すればある程度身に着けられるものではある。

 けれども、やっぱり、こう、「面白い物語を創りたい」という思いだけだと、足りない気がする(その、足りないというのは、誰でもあてはまるということではなく、自分にとって)。
 その、面白い物語を創りたいというのは、嘘偽りではないけれども、その「面白い」という意味が、自己に対して明らかにすべき問題に関わること、直結するようなことである必要がある気がする。

 続く……かもしれない。


(話題があっちゃらこっちゃら飛びすぎる。もう少し、同じテーマやら話題やらで、複数回記事を重ねるってのもやってみてもいいかもしれない。ただ、そのテーマが、その書ける実際の時間帯において、それほど重要かどうか、というのがその時々で変わってくるから困るんだよな。あー、来週の土日で空いた時間帯に、この記事のまとめ&続きを書くことにしようか)

拍手[1回]

PR

今日の一言「祭りばやしと太鼓の低音」「人ごみ雑踏もまた風流かな」


ルーチン進まず

 この記事書いてから、残りの時間は創作にあてよう。
 某自サイトの方も、いくつかリンク切れのバグを発見したので、近々直さねば……。

 この土日、ほとんど何もできなかった。体調が悪かったのだ。かといって、熱が上がったとかそういうわけではないが、虫刺されとか、腰がしゃがんだときに痛めたとか、歯がしみるとか、そういう微妙な属性ダメージに苛まれた。

 最近、ビールの量が多くなっている気がする。そんなに飲むほうではなかったけれども、なんか、無性に飲みたくなる瞬間がある。なぜだ。発泡酒? 第三のビール? よくわからないから、普通の高めのビールしか買っていなかったが、「頂」という奴は美味しかった気がした。ALC7%。確か、CMが卑猥で話題になった奴だったっけ。テレビ見ないから分からないが。

 しかし、こう、平日はもとより、休みの日とかテレビを一切みないと、現実世界と隔絶された感覚があるな。
 買い物がてら、夕涼みに愛機に跨り外に出ると、何やら祭囃子が聞こえてくる。じゃっかん、ひび割れた感じのスピーカーから流れる盆踊りティックなどでかい音は興がそがれるが、公園の空き地やらで、出店が出て、大勢の老若男女が集まってワイワイやっているのは、なんだか風流に思った。
 ただ、その出店に並ぶ長蛇の列には、若干辟易させられた(俺が買うわけではないのだが)。そして、その列の隣に、「並ばず買えます10本1000円!スピードパック」とかやっていて、ディズニーランドのファストパスとか富士急ハイランドの何だかパスかよと、心の中で突っ込んだ。時間をお金で買うって奴かぁ……。
 でも、そんなん買うんだったら、近所のスーパーいってお惣菜の焼き鳥とかでもよくね?
 とか思ってしまうのは、風流ではないのだろう。お祭りの雰囲気の、出店で買うからよいものなのだ、そういうものなのだ。

風竜読了す

 風流と風竜をかけたわけではないが、「風よ。竜に届いているか」を読了する。
 この土日、何もやっていなかった気がするけれども、「蛇にピアス」みたり、マクロの勉強したり、部屋の片づけしたり、まぁ、まったく何もやっていないわけではなかったことが振り返るとわかる。

 しかし、なんか、もっと時間を効率的に使えたのではないか、という気がしてならない。
 というか、なんかあの、頭の痛さというか無気力感……あれ、どうにかならんものか。


 それはともかく、小説、面白かった。
1.隣り合わせの灰と青春
2.不死王
3.風よ。竜に届いているか

 この順番でよんだほうがよいですよ、と、ある方からおすすめ頂き、「ふうむ。よく分からんが、まぁ彼の方が仰るならそうしてみるか」と軽い気持ちでやってみたが、――ううむ、なるほど、これは確かにこの順番以外ありえんな。と思った。

 なんだろう、美辞麗句は浮かばず、とにかく面白かったなぁと、心地よい読後感を味わっていたが、これ、自分の家の中じゃあなくて、どこか他のところで読み終えたらよかったなぁ。本を読む場所ってのも、結構こだわりたい性分だったりする。

 確かに、吸血鬼とか、コボルトとかオークとか、竜とか魔法とか、迷宮とか冒険者とか、「古臭い」と言ってしまえばそれまでである。
 しかし、王道はまた王道として面白いのであると感じた。
 奇抜な性格をもつキャラクターが登場するわけではない。超展開を見せるストーリーがあるわけではない。
 それでも、じっくりと世界観を感じさせる筆致、展開、登場人物たち。

 ああ、おもしろかったなぁと、そんな感想しかとりあえずでてこない。


 ――個人的に、ザザさんが良かった。
 しかしそれより、「不死王」がよかった。風竜よりも、不死王の方が何となく良かった。ザザさんってもしかして、不死王と対峙したあの人とゆかりある人なんだろうか……。
 

やることは尽きぬ

 と、まぁ、読みたい本、読むべき本がまたしても溜まっていく。
 そろそろ、某サイトに連載中の某作品の続きも書かねばならない。

 あー。もうちょっと、このブログの量を減らして、インプットなりアウトプットに力を注ぎたい……というか、注いだほうがいいんだろうなぁ。

(ああ……なんか、夏の夕暮れ時のセミが鳴くのとか、心がざわつくな)

拍手[1回]


今日の一言「書くという行為そのものの肯定」

体調の悪さ

 風邪とか、明確な病気だったら話が早いのだけれども、なんだろうこの、頭が痛くて、やる気が起きないのは。
 この無気力感は、思えば、昔から多くの期間で発生したものであった。
 確かに、何もしない、何もできない時間は、無駄なのかもしれない。けれども、その時間もまた、何らかの次の行動のために必要なのではなかろうか。

 などと、堕落を肯定するようなことを書いているわけだが、ここで、その堕落について思い煩い、日々のルーチンまでも壊してしまっては元も子もない。

 もともと、「元気」なときに頑張れるなど当たり前なのである。
 いかに、体の調子が良くなくて、やる気が出なくて、イライラしてて、不安で、無気力な時に、可能な限り堕落を抑えて、少しでも活動を維持することができるのか、その点が重要である。

 すべての行為行動、思考、感情に、因果を求める。

 何か目標を立てて、それに届かなかったとき――これは2パターンある。
 1つは、精一杯頑張って、それでもだめだった時。
 2つは、計画を遂行できなかった時。

 1つ目は、得るものもあるだろうというと、否定する人は少ないだろう。
 ただ、2つ目については、自己を呪う人もいるだろう。しかし、2つ目の理由――つまり、自分の堕落が原因で目標に到達できなかった場合であっても、そこには「意味」があるのである。

 その堕落の原因を突き止めることができれば、そしてそれを受け入れることができれば、一歩、また素晴らしい人間人格に近づくのである。

魂の所在

 脳神経細胞は、シナプスという結合がなされており、電気刺激で興奮し、情報を伝達している。
 そこに、僕らの「意思」といったものは、どのように生じているのだろうか?

 高度なAI・アンドロイド・ロボットの「ふるまい」が、人に近づくことはあるだろう。そうしたときに、「感情」が現象した際に、そこに「魂」(意思)は生じているといえるのだろうか?

 目標の計画倒れ――堕落の話と何が関係しているのか? と疑問に思うことだろう。

 ここで触れたいというか、確認しておきたいのは、「人間」という存在の規定である。あるデンマークの哲学者さんに言わせれば、人間とは「精神」であるといい、精神というのは「総合」なのだという。
 総合とは、あるものとないものとの関係であり、それに関係する関係であり、その関係自身である――と、最初の文章がものすごく分かりづらいために、高校生に初めてそれを読んだとき、僕は本を放り投げた。

 ただこれは、それほど難しく考える必要はないと、今の僕は思っている。
 人は、いろんな要素で成り立っている。――この程度の理解でよい。
 そこに、もう一歩踏み込んだ時に、「関係に関係する関係」という一見トートロジーの概念を、概念理解として頭に入れておくべきことだ。

 A―B

 という要素があったとき、その総体(総合・関係)が、人間・精神であるということ。(もちろん、A、B、C、……と要素は無限大にある)

 AとBが相互に影響を与える範囲にあるという場合に、AとBは「関係している」という。つまり、上の図だと、ダッシュ「―」にあたる部分が、関係だ。

 ここで、この「関係」を「C」という要素としてみたとき、テキストでは表現しづらいが、

 A―C―B

 という図になる。ここで、AとBも関係しあっていることがポイントである。そして、このA―C(※)と、C(※)―Bの関係が、関係に関係する関係ということである。

※Cが、そもそも「関係」なのだから。


 これが、人間は精神であり、総合であるということである。
 言い方を変えれば、人間は多面的で多義的であるといってもよい。

 そうやって具体的に、生活用語にもっていけば、何もそれほど難しいことではない。では、なぜわざわざそんな、抽象化する必要があるのか。

良く生きるということ

 僕はここ半年より前から、多くの方のブログを拝見するようにしている。
 そこには、大切な人と死別したり、理想の男性を追い求めたり、仕事が嫌で仕方ないながら続けていたり、資産運用で生活したり、――まぁいろんな方がいらっしゃる。

 それぞれ、人には、悩みがあって、生活があって、人付き合いがあって、生きている。

 その中で、「ある事象」に囚われて、それへの呪詛をずっと書き綴っている人も少なくはない。

 何故自分がこんなひどい目にあわないといけないのか。周囲の人は、社会は、環境は、国は、狂っている、間違っている、苦しい、苦しい……。

 ――なんか、分かる。


 いつの間にやら、僕は、「悩み」というもの自体がよく分からなくなってしまっている。それは、感情が抜け落ちたということではない。痛い、悲しい、楽しい、うれしい、それぞれ、存在する。

 けれども、人――じんせい、じぶん、を考えたときに、それらが、何ら重要なものには思えなくなっている。

 ――じんせいはひまつぶしだ。

 こんな表現を目にすることが、若干だけど、増えてきた気がする。人生に意味なんてない、そんなことを、恥ずかしげもなく言う人だっているだろう。

 先のこと、いずれ訪れる死のことなんて考えても意味がないのだから、日々の生活を精一杯がんばろうぜ! というのはよく分かる。
 ただ、その考え方が当たり前になっていると、上記の、「悩んで苦しむ人」は、一生抜け出せない苦しみにもがき続けることになる可能性がある。

楽になるためには

 喪失。

 野球選手になるのが夢だった人が、交通事故で手足を失ってしまった。

 周りは、野球だけが人生じゃあないと。他に生きがいを見つけなさいと、きっとそうアドバイスするだろう。
 で、「美談」は、そうはいっても、あきらめずに、義手義足で野球を続けることができたとか、そういうのが「美しい話」として語られる。あきらめずに求め続ければ、報われるのだと。努力は素晴らしいことなのだと。

 しかし、自分の子供を欲する人が、不妊症だったと分かったとき――じゃあ、養子をとればいいじゃない! とアドバイスする人がいるだろうか?


 世界は、喪失に溢れている。

 優れている人もいれば、劣っている人もいる。

 それは、生まれた時の資産、容姿、周囲環境、運……様々な要素が複雑に絡み合っている。

 恵まれた状況の人も、ちょっとしたことで転落してしまうこともある。



 ……と、いうけれども、そもそも、その「恵まれた」とか「不幸」ってのは、何に対してなのか?

 自分の欲求・欲望に対して、である。


 楽になるための究極の方法を示そう。「諦める」ことだ。


 これが、キリスト教と仏教と、御利益仏教と原始仏教との違いだと僕は思っている。
 広い意味で、「救われること」を仏教も望んでいるのかもしれないが、その方法論が異なっている。神に祈るのではなく、ひたすらに諦めて、「正しい」生活を繰り返していく――それが仏教だ。

仏教はさいつよか?

 欲望をそぎ落としていけば、なるほど、きっと「悩み」は消える。

 大好きだった彼が死んでしまったことに、「どうして自分じゃなかったのか」「もっと一緒にいたかった」「周りの人は愛する人との子供にも恵まれて楽しそうにしているのに、どうして自分はこんな目にあわないといけないのか」……。
 その人は、「理想の生活」を欲していた。
 それが、死別という運命によって、引き裂かれた。

 ここで「物語」は、その人に、「新たな恋人」を描くだろう。ファンタジーなら、霊魂が動植物に宿ったり、霊体となって戻ってきたりするだろう。
 そうして、その主人公が、「人生に再び前向きになること」を描くのである。


 僕は、以前から、その構造に疑問をもってしまった。(もってしまったというのは、自分自身それが良いこととも思えていないからである)


 最初の欲求を「諦めて」、新たな欲求を見つけるということ。抽象化すると、物語のプロットはそういうことになる。
 それってのは、「人生」ってもんが結局、「諦めの連続」であるという証左でなかろうか?

 まぁ、それはそれでいい、という人がいるだろう。そういう人は、「生きてる意味なんて小難しいこと考えないで、精一杯生きたらいいんじゃね?」というだろう。
 と、いうか、多くの人、大半は、そういうテーゼだと思う。何せ、「さっさと死んでしまうのが正解だぜ?」なんて、聞いたことない。

 でも、おかしくないか?

「人はみな、生まれたときにおギャーってないて、それは意味があることなんですよ」

 とも言われる。「人は生まれたことそれ自体に意味がある論」である。

 意味がある、として生まれてきたはずなのに、段々長く生きていると、「生きてる意味なんてなくなる」の?

 そんな馬鹿な。やっぱり、なんか意味があるんでしょ? と僕は思う。
 思うのだけど、でも、同時に、テーゼは、「諦めの連続」である。何故か?

成功し続ける人生

 諦めの連続、と書いた。これは少し補足すべきだろう。
 例えば、「成功者の哲学」的なのがある。「人生はチャレンジの連続だ!」的なアレだ。人は日々成長していかねばならぬ、的なのだ。みなさまもよく聞くだろう。親や、上司や、教師や、その他指導者たちは、「ゴール」を描き、挑戦させ、努力させ、目指させる。

 ここで、自分自身が、「失敗の連続で何のいいこともなかった」とウジウジ言っているわけではないと、まず前提として書いておこう(その事実は置いておいて)。どういうことか、何が言いたいかというと、「成功した時のカタルシス」を認めないわけではない、ということだ。なんか頑張って、手に入れたときとか、仕事して作って、それが評価されたとき、作品やプログラミングなんかして完成したときの晴れやかな気持ちってのは、「ある」。

 そういう意味で、今この瞬間、僕は、「どう生きていいか分からない」という深刻な状況ではない、ということだ。

 だが、常に頭にあるのは、その晴れやかな気持ちの連続が、本当に「人生」そのものであると言い切ってしまってよいのか? ということだ。
無為に無駄に徒らに時を過ごしてしまっている。日々の仕事や現実的な雑事で忙しくしてると、人生の意味について考えることをついついおろそかにしてしまい、なおかつ、一生懸命やっているという誤った充実感を抱いてしまうせいで最重要課題の人生の意味を考えることをしそこなっている機会損失の自覚もなく、慢心して過ごしてしまっている。考えて、何か手がかりが得られると人は達成感や自己効力感を感じて、充実した良い気分を味わえる。しかし、この良い気分というのは、単に、脳の報酬系にドパミンが放出されてるだけのことで、それは側座核を電気刺激されてるラットのようなものに過ぎない。
本当の悟りとか、人生の意味に対する答えとかは、そういうものではないだろう。たぶん、きっと、静かにしみじみ味わうような感慨深いものであろう。
それにしても、本当に大切なこと、ではない全然別なことでもそれに夢中になって取り組み何とかかんとか仕上げると達成感が得られて、本当は時間の浪費だったということに気づかないでしまっていて、それで日々が過ぎ去ってしまう…。 何をすべきかを考える前に何をすべきかを考える習慣をつけていきたい…考える時間を作り、その大切な時間を他の世俗的な雑事に使うのではなく、忘れずに人生の意味について考えることに費やす習慣を。――雑事ではなく、1番大切なことを忘れずに考え続ける習慣をつけること
 普段訪問させて頂いているブログさんの記事を引用させて頂いた。下線部は僕が引いている。
「誤った充実感」
 この表現、頂き、である。舌を巻く表現であった、と書くと、いつもの上から目線ティックになってしまうけれども、ほんと、よいと思った。

 ああ、満たされているなぁ、楽しいなあ、充実しているなぁ……と、それって普通はよいことである。
 けれども、そういう考えしかもててない所謂ポジティブさんは、「喪失」に弱いんじゃないかと僕は思っている、勝手に。まぁ、その「喪失」をいやす装置ってのは、「泣き作品」だったり、友人・恋人、家族とかのコミュニティだったり、たくさんあるから、そんなに困らないのだろうが。

 ただ、本当に「致命的な喪失」を経験した人は、なかなか立ち直れなくなる。それは、「諦め」ができなくなるのだ。

 そして、その喪失への執着が強くなればなるほどに、反転して、その喪失を、手放せなくなる

自己の弑逆

 おかしな話だ。「救われたい」と欣うはずなのに、その喪失感情を手放せなくなるなど、そんなことありえるのか?

 構造は簡単だ。「人は、なかなかすぐには変われない」という前提がある。
 そうしたとき、その執着期間が長くなると、「喪失感情を抱いている自己」というのが醸成される。そうしたとき、他者の、「ほかにもっといいひといるさ」「人生、それだけじゃないよ」というアドバイスは、それが至極もっとも正論だったとしても、「自己によって受け入れることができなくなる」のである。

 そんじゃあ、「わかるよ……つらいよね」と寄り添ったらどうか?
 それはそれで、その喪失感情を肯定することになるので、まぁ、八方ふさがりである。

 結局、自分で立ち直るしかなくなる。けれども、ポジティブ人間さんは、喪失の体験が少ないから、どう立ち直っていいか分からなかったりする。

もう少し続けよう

 最初に書こうと思っていたことは何となく、書いた気がするけれども、ここまでのことは、いつものことの繰り返しだ。少し、話を進めることができそうだから、このままもう少し書いていこう。

 僕は、反転したポジティブ人間さんである。

 基本、人生楽しんだ方がいいと思っている。

 どんなことをしたら、自分が楽しいか、ってのも、段々洗練されてきた気がする。


 けれども、だ。
 そうやって生きていけばいくほどに、どんどん、「諦め」度合いが強くなっていくのである。
 表現は難しいが、……誤解を恐れずに書けば、人生が「ゲーム」のようなものに思えてくるのである。
 そりゃあもちろん、ある精神科医さんが言うように、人生とはリセットできるものではなく、唯一性・一回性のものである。

 しかし、幸福も、不幸も、それは単に、その80年という期限の中でのイベントに過ぎない。
 時間が経てば洗い流されてしまうもの。

 そんな恐怖から、僕はずっとログというか、日記的なのを書いてきたのかもしれない。そういう意味で、僕は、何か、忙しく生活していても、日々が充実していても、「書くこと」を欲するのかもしれない。

 なんというか、一時の感情や感覚に対して、あんまり価値を思えないのだ。

 いやいや、こんな、長くなってしまったから、だれにも読んでもらえず、ぐだぐだしたことを書いているのも、そんな価値なんてないだろうとは思う。


 けれども、なんか「楽しい!」と思った一瞬よりか、この無駄な500字でも、1000字でも書いていた方が重要に思うのである。



 僕は離婚したことあるけれども、過ぎ去ってみると、あーそういうこともあるんだなぁ、という感覚である。友人などが結婚します、ということで、結婚式場の下見にいったりとか、たくさんの人に祝福されて、二人の家を探して生活を始めたとか、思い出そうとすればいろいろあったなぁと思う。

 哀しい気持ちにもなれる。寂しい気持ちにもなれる。

 でも、もっと嫌なことだってあったし、不安や怒りや不快感が連続した期間が長かった時期もある。

 それが今では、あー、いろいろあったなぁ、と、そんな程度である。

素晴らしき人々

 例えば、の話。
 TOEICなんて、何の英語力にもならない、無駄だ――と、権威のある人、人気のある人がいっていたとする。その事実がどうか、はここでは関係ない。しかし、仮に事実だとしよう。

 その際に、そういった記事や、権威のある人の話を聞いた人が、「え、きみ、まだTOEICの勉強なんてしてるの? それって、意味ないよ?」と、したり顔で言ったとする。

 それほど滑稽なことはないと思う。

 しかし、こういった例えばの話は、結構ありふれている。「意味がない」という言葉を使う人について、よくよく観察するべきである。

 意味とは多義である。

 すべては条件である。その人にとっての意味と、私にとっての意味とが同じとは限らない。
 だから、大事なことはプロセスである。

 いや、僕は、他者と話すときは、意識して、「結果が大事」といっている。それは、結果しか、目に見えないから、他者には判別しようがないからだ。
 しかし、その根本にある考えは、「プロセス」が大事ということである。

 結果は、一面的にすぎない。その場限りの、その場における現象である。



 素晴らしい人とは、そのプロセスを語れる人である。理由をどこまでも突き詰めて、考えていける人である。
 それを、「自分で考えられる人」という。思考力がある人ともいう。

 いろいろな、様々な分野で、考えられる人は多い。けれども、僕が特に欲するのは、根源に至る道を考える人である。

 僕は、幸せに生きる方法とか、そういったものは興味がない。お金についても興味がない、のだけれども、例えば、「人生とはすべてマーヤー(幻)なのですよ」と語る導師がいたとして、その導師は親兄弟に養ってもらっているニートだとしたら、なんか滑稽ではなかろうか。

 語ることができるというのは、自分で生活できるという前提に立っている必要がある。

 その、「養ってもらっている」というのが、たぐいまれなカリスマ性で、その庇護者が自ら進んでその人を養いたいと思えるほどのレベルに到達しているのなら、それは立派な「仕事」だろうが。


 そういう意味で、お金について、「興味がない」というのには抵抗がある。やっぱり、必要最低限は欲しい。でも、給料を2倍にするから、金輪際一切、仕事以外に「書く」ことをしてはならない、と言われたとしても、僕は即答断るだろう。

 お金よりも、創作や、考えることの方が重要だ。
 それは、大学入試や、就職活動しているときも同じだった。

 そのときは、まぁむしろ、大学に入ったり、就職したりすれば、そういった思考も手放していいものだと思っていたが。

 むしろ、ますます、30代に突入し、その必要性が高まっていると思う。

なぜ考えることが必要なのか

 もう、この辺りは書き尽くしたと思っているが、振り返りも兼ねて書いておこう。

 まず、思考が「自分」というものと切り離せなくなったという実感故である。
 つまり、「喪失感」を遠ざけようとするあまり、その喪失感を抱く自分というものを強固にしてしまう悲劇を先ほど挙げたけれども、15年程度付き合ってきたこの「思考」というものを、なかったことにするというのは、自分の半生を捨て去るということを意味する。

 いや、たかだが30代の半生なんて大したことないでしょ、というのもあるが、でも、10歳未満の記憶など、それは自己の根源の成り立ちとしては重要だろうが、思考という状態とはいえないだろう。
 若いころの、そこで受けた「嫌な思い」というのを、自分の思考の源泉とする方法もあるけれども、それは、「喪失感」を拠り所にするようなもので、忌避する。


 次に、人生とは有限であるという事実故である。
 僕は、「なんでわざわざ生きる必要があるんだ?」「こんな苦しい思いをするなら、死んだほうがいいんじゃないか?」「いつまで頑張れば楽になれるんだ? いつまでこんなことに耐えてなきゃいけないんだ?」と思ってきた。
 それに対しての答えを出してあげたい、という菩薩的心もあるかもしれないが、それ以上に、「まぁ生きても死んでも、どっちにせよ、いずれは必ず終わりがくるのだ」という感覚が強くなっていった。結婚生活にもいずれ終わりがくるように――ってそりゃちがうか(かっこわらい)。

 最近、一人になると、「あー、生きていてよかったなぁ」「生きているなぁ素晴らしいなぁ」と思ったり、自然と口に出たりする。

 それは、何か良いことがあったからというよりも、なんか、ほんと、身体が動くことそれだけですごいことだなぁと思ったりするのである。

 別にこのままでいいんじゃないか、と思ったりもする。わざわざ考えたり意味なんてどうでもいいんじゃないか、と思ったりもっする。これは、生きるということが、そのうち終わる朝露のようなものであるという感覚が強くなったからかもしれない。


 もう一つ、考えるべき理由を挙げれば、やっぱり、自然に考えてしまうということである。
 これは理由でも何でもないかもしれない。
 ただ、そうなってしまうのだから仕方がない。まぁ、この辺りは、無心でルーチンを行ったり、瞑想や坐禅といった時間を取り入れて、調整することも必要かもしれないな。


人格について

 ああ、この記事、「人格」とは何か、書いておこうと思ったからだった。忘れてた。

 人格。という単語から、「人間とは精神である」という話になって、そっから脱線を繰り返したわけだな。

 そもそも、「善い人になろう」と思ったからだった。
 善い人というか、魂を磨こうとか、まぁ、そんな表現はどうでもいいのだが、とにかく、優れた人格を持ちたいものだ、と思ったのだった。

 しかし、なんだろう、そのよい人という概念は。困っている人をみたら助けなくてはいられない性格? しかし、この世は困っている人だらけだ……。それに、自分が満たされていなければ、「正しく」他者を助けてあげることもできない。なぜなら、助けるという行為は、その助け出すべき方向が明確でなければならないのだ。陳腐な例を持ち出せば、レスキュー隊員は、自分らの安全が確保された状態でなければ、救助などできない。自己犠牲はかっこいいかもしれないが、合理的ではないのだ。

 そう考えたとき、とりあえず、残り少ない紙面で表現するとしたら、「明るい人」ということになるかもしれない。
 さんざん、うえで、「ポジティブな人は喪失に弱いのではなかろうか」とか言っておいて、結局「明るさ」が大事なのか、ということだが、でも、そうだと思う。
 大事なのは、その「えせ」的な明るさなのか、本当に明るいのか、どっちかだ。

 だが、本当に明るい、というのは、むしろ、サイコパス的な感じでなければ成り立たない気もする。難しい問題だ。

(いろいろ書いたけれど、思考と実践は切り離せないと思う)

拍手[1回]


今日の一言「信じたいものを信じ、見たいものを見る」「独善が悪いことであって現実と虚構の問題ではない」


創作進捗グラフ作成ツール(お知らせ)

月またぎの際に、文字数(日ごと)が引き継がれないため、一部関数を修正。ver1.1として修正しましたが、データ移行するほどの修正ではないため、気になる方、直したい方は、「C10」セルに以下の数式を入力すると、前月の文字数(日ごと)が引き継がれます。原本シートを直しておくと、今後「シート追加」した際にも反映されます。

=IF( ISERROR(INDIRECT(B5&TEXT(D5-1,"00")&"!D8") ),0,HLOOKUP(C7, INDIRECT(B5&TEXT(D5-1,"00")&"!C7:AI10"),4,FALSE) )

希望の声があればver1.1を公開します。

日々の日課

 創作のルーチンを組み入れると、平日が本当に、よく言えば有意義になるな。悪く言えば、忙しくてつらい。
 まぁ問題はそこじゃあない、何をやるかは別として、「自分で決めて始めた」という点が重要である。明確にいつまで続けるというのが無いから、気を抜くと簡単にやめてしまうような状態。早めの目標設定が必要だ。もちろん、大きな目標としては、一つ作品を完成させられたらいいのだが、それは目標とは言わない。もっと具体的、数値的にあらわせるものが目標だ。
 100万円稼ぐというのは、目標とは言わない。節約して実施するのか、投資をするのか、何か月でためるのか、何年でためるのか。いつまでに何をどうする、というのが目標には必要だ。

現実と虚構

 先日の、ペルソナ4の感想の続き。
 もう少しだけ書いておこう。今、眠くて……仕方がないが。
 ええと、「現実から目を背けるな!」「人との関わりを諦めるな」「自分の殻に閉じこもってるんじゃない」というのが、どんな物語でも、よく主人公陣営として語られることである。

 それ自体悪くないと思うんだけど、でもさ、「現実史上最強最高!」という人が、創作(エンタメ)に触れようとするだろうか?

 本当に、大切なのが「現実」だけであるという人は、まさしく、テレビもアニメもゲームも映画も小説も何も触れずに、ただ「現実」のことだけを行っていることだろう。

 じゃあその、現実って何? といったとき、想像すれば、お金を稼ぐこと(資本主義)だったり、日々の労働だったり、子供を育てたり、彼女とデートしたり、美味しいご飯を食べたり、スポーツで汗を流したり……と、そういったものだろう。

 しかしだ、よく考えてみれば、今上にあげた中で、本当に純粋に「現実」といえるものがあるだろうか?

「お金を稼ぐ」という手段はいろいろあるが、いわゆる、エンタメ産業(アニメーターや小説家、映画やドラマの俳優さんとか)って、それは「現実」なのかもしれないが、同時に創作(虚構)も取り扱っているということである。

 なるほど、子育てはまさしく「現実」かもしれない。しかし、エンタメに触れずに育ってきた人なんているだろうか? 日曜朝の戦隊ものとか、魔女っ子系のアニメとか全くみたことない子がいるだろうか? 人形遊びや、ブロック遊びをしたことがない子はいるだろうか? ましてや、昨今はゲームが広く普及している。


 そういったレベルのこともそうだけれども、僕はさらに、じゃあ「社会」というのは、本当に「現実」といえるのか? とも思う。
 資本主義というルールや、法律でさえ、ある意味決まりきったルールの上になりたつ、僕らの「解釈」の総体である。
 学校という場では、先生と子供という、ロールモデル(役割)が存在する。先生は先生らしく権威があるようにふるまい、子供は子供として従順となる。

 そんなことを昔から何となく思っていたから、サピエンス全史で、いやいやそもそも、「言語という発明は、現実にないものを創造することができるようになるのに寄与した」といった表現に、僕は非常に感銘を受けたりしたのだった――はなしをもどそう。

ペルソナ4で現実は大切というけれど

 ある方が、「リア充とか非リア充とか、そんな見方はしてなかったなぁ」と書かれていた。そのあたりも、いずれ書いておきたいと思っていたが、それは今回は置いておいて。

 まず、書いておきたいのは、「現実と向き合えよ」というテーマは、それはとても重要なのだが、それをそもそも「二次元」でやるってのは、結構難しい問題をはらんでいると思うわけである。

 これは、エンタメに対しての立ち位置というか、とらえ方というか、「活用方法」的な、全般的な問題に対して、僕は書きたいのかもしれない。

 ここで、便利だから、某方から頂いたコメントとして、「政治のことも、しっかり書くのが、大人としての役割だと思います」的なものを引き合いに考える。
 政治は確かに、「現実」ちっくなものである。だが、政治こそ、非常に「虚構」が必要であると思うわけである。
 政治というのは、ある意味「理想」を語らなければならない。本音と建て前という個人レベルのことも大きな問題ではあるが、そもそも、私たちの生活や、国のあるべき姿というのは、非常に抽象的な概念である。

 そりゃ、ごみの出し方について、これからは有料にしますとか、図書館のシステムを更改しますとか、その生活に密着するレベルであれば、さほど抽象化は不要だろう。しかし、多くの人、国民などに理解をさせて、大筋、「それが正しいんじゃないか」「そうするしかないんじゃないか」と思わせるためには、抽象――虚構の言語表現が必要になるのである。


 話がそれるな。ペルソナ4の話だ。
 つまり、先日挙げた、真犯人氏(人間としての)は、何故糾弾されねばならなかったのか、ということである。

 それは、「現実なんてつまんないものだろ」という点ではなく、単に人を殺した(これも疑問なのだが)からであるのだ。
 彼の主張は、「現実なんてつまんないし、人はいずれ死ぬから、好きなように生きて、自分の心に正直になることが必要だ」というものである(たぶん)。
 これだけ聞くと、非常に自己中心的な、子供がダダこねてるようにも思えるだろう。

 しかしだ、「人はいずれ死ぬのだから、好きなことや楽しいことをとことん突き詰めて、自分に嘘をつかずに正直に生きていくことが大事なんだよ」と、微妙に言い換えれば、これはこれで、「あり」なんじゃないかなぁとも思わなかろうか?

 今あげた例との違いは何か?

「現実はつまらない」

 という前置きだけである。――しかし、ここで疑問は、「現実がつまらない」からこそ、その真犯人氏は、おのずから、退屈な田舎町での生活を楽しくするため、行動したといえなかろうか?

 そうすると、糾弾されるべきは、「他者に迷惑をかけてしまった」(自己中心的な思いで女性を虐げた)ことに尽きる。
 しかし、この「迷惑」という概念も、非常に難しい問題をはらんでいる。「いやだと感じたら迷惑」……しかし、「いやだと感じられることがそもそも迷惑だ」という繰り返しの応酬になる可能性もある。そういったことを防ぐため、「法律」(民法)という第三者が判断するルールがあったりする。

中々言いたいことに到達しない

 眠気、マックスファイアーである。もうダメだ、寝よう。

 あーその、なんだろ、上手く考えていること、思っていることが表現できない。

 そもそも、「性格がよい人」って何なんだよ、って僕は、帰りの電車でずっと考えていた。
 人格者とは、いったい何なのか、と。

 どんな感情や、思考体系があれば、その人は優れている人ということになるのだろうか?

 横断歩道で重い荷物を持っている老人がいたら、助けてあげようと思う心があること?
 嘘をつかないこと?
 自分の心に正直なこと?


 そんな聖人レベルの人格を持っている人なんて、神様か、仏陀か、キリストか、マザーテレサかガンジーか、そんな感じかもしれない。
 でも、やられたらやり返す、10倍返しだ、的な、こう、仲間のためなら敵に対して徹底的に残虐になれるような、そんな人もかっこいいような気がする。(風龍のザザさんとか)

 あー、ねm


(短時間・短文で、自分の考えや感情を明確に正確に瞬時に伝えられるようになりたい。なんというか、敵意は、だれに対してもないのだけれども、それを伝えるのが難しい。しかし、その、誰も憎まないというのは、誰も愛していないというようなことかもしれないとかなんとかかんとかもう寝よう)


拍手[1回]


今日の一言「ペルソナ4見終わる」「ほぼ100点、しかしまだ望む」

(創作グラフの「0」文字は、免除規定! まだ続けられている……しかしきつい。気を抜くと倒れそうだ)

現実に目を向けたって……

 あー、おー、見終わる。
 犯人が、二段階、三段階と、真実に近づいていくとは、ストーリーとしてもすごいなぁと思った。
 以上。

 ……身体が、重い。肉体的にダメージが。(作品を見たからではなく、ここ数日、予定があって頭と身体を使ったため)

 こんな状態で見るような作品ではなかった。もっと万全の態勢でエンディングまで見たかった。しかし、寝る前に1話だけ……とかそんな軽い気持ちで見始めたのがいけなかった。
 以前から、エンディングに近づくと、小説でもアニメでも何でも、自分が置かれている環境を一切無視し、プライオリティマックスファイアーで最後まで読んだり見てしまう、そんな癖を分かっていたのに、やってしまった――後悔。

 何がいけないか、というと、体力が残っていないときに素晴らしい作品を見てしまうと、それを振り返るだけの頭の余裕がなくなるからだ。――面白かった、以上(しょうなみかん)てきな感じになってしまっては、なんとももったいない。

 ので、体力が尽きるまで、取り敢えずメモを行う。

話としては分かりやすかった

 真犯人(人としての)については、具体的にどこかは忘れたが、かなり序盤から推測していた。根拠はなかった。けれども、この人、真犯人っぽいなぁと思っていた。その意味では、意外性はなかった。
 むしろ……なんか、動機が、経緯が「こじつけ」に思ってしまった。まぁ、「真犯人」にするのだから、具体的な描写などにおわすことはできないのだから、ある程度仕方がないのだろうけれども、その点はいまいちに思った。

 二人目の容疑者について、「僕だって、……殺してやりたいぐらいですよ」というセリフと描写、あれが逆に、すげー違和感になって、僕に「この人を犯人にしたいんだろうなぁ」という感覚を強く与えた。なんでそう感じたかはわからないけれども、決定的に真犯人感が高まった。

 まぁ、そういったストーリー的な、構成的な、描写的なのはいいんだ。

 とにかく、「面白かった」。

 面白かった理由を挙げるのも事欠かない気がするが、それより、今一番メモしたいことを次の章へ。

現実なんて基本は退屈でつらいだけだろ?

「うまくやれるやつは最初から決まっているのさ。才能というチケットを持ってる――(奴だけ)。そこに気づいちゃったら絶望だけ」

 真犯人が誰かとか、実はそういう点をあまり気にしない(そういう意味で、推理ものとかサスペンスとか、嫌いではないのだけれども、あまり読んだり見たりしない)。むしろ、その「敵」が魅力的かどうかを気にする。

 そういう意味で、100点! を挙げたい。
 某ミツオくんも良かった。――ミツオくんというか、彼のペルソナ(シャドウ)が良かった。シャドウの精神攻撃も実によかった、えぐられた。
(あの、地獄少女? だっけ? あれらに出てくる「敵」は非常に退屈だった。単に人間の嫉妬とか、見栄とか、怒りとか。そんな単純な感情にほだされて他者を貶めようとする程度の敵は、非常につまらない。それこそ、現実にたくさんいるだろう。で、そんなやつを倒したところで、一時のカタルシスにもなりゃしない。愚痴吐いて「あーわかるわかる~」的なレベルのポジティブさなど、僕は「認めない」。(認めないという表現が一番しっくりきたから、とりあえずそのまま書いといたけど、他者のその気持ちを認めないわけでは決してないことは書き残しておこう))

 そういう意味でだ、真犯人(人として)は、非常に多くの名台詞を頂けた。

 ……いま思ったが、僕が真犯人に「いきなり感」を思ってしまったのは、「名台詞」ゆえに、そこに行きつくまでの、そのお方の来歴が不十分に思ったからかもしれない。
 その点、某ミツオくんの方が僕はしっくりきた。なんか、リアリティがあった気がした。


 そうは言ってもだ、やっぱり真犯人さんも悪くない。

「どんなやつでも、80年もしたら終わるんだからさぁ。だったら、シャドウ(影。自我を失い精神世界を彷徨い続ける)になったほうがましだろう?」


 だがそこじゃない。ここで、そのお方の良いセリフを挙げていくのも悪くない。僕が、いま残り少ない時間で書いておくべきは、……。

お前の理屈なんて子供以下の単なる我がままだ

「社会と折り合うことを投げたら、生きづらいに決まってる!」
「生きるのもいや、死ぬのもいや、人であるのも放棄しようとしている! そんなの、ダダこねてるだけじゃない!」
「お前は選ばれたんでも何でもない! ただの犯罪者だ!」

 まぁ、いろいろ言われて、力を取り戻した主人公陣営に、そのお方、涙目になって負けちゃいますよ。
 まぁ、人類的にはその方がいいと思いますよ。

 でも、僕は思った。

 ――いや、なんか、話し合いとしてはお互い全然なりたってなくね?

 と。
 なんというか、だ。ぐだぐだ言ってないで、現実をしっかり生きなきゃだめだ、という「大人」な主人公陣営の考えも意見も分かる。
 分かるんだけど、この戦闘シーンにおいての会話(議論?)においては、どっちが勝って、どっちが負けてとか無いと思った。

 結局、主人公たちが、暴力で敵をねじ伏せただけなようであった。
(これは、ペルソナ4中盤あたりから、「自分と向き合ってシャドウを倒し新たなアルカナ・ペルソナを手に入れる」というのが、なんか単純に暴力的にシャドウを倒しているように感じ始めたのと似ている)


 何を言いたいかというと、別に、世界をシャドウの世界(自我が失われて魑魅魍魎と化した世界)になった方がいいというわけじゃない。
 そうじゃなくて、「現実なんて……」とか言ってしまったり、思ってしまう人に対して、「それは絶対に間違っている」と言えるような、そんな表現・論理が、欲しかったというところだ。

 現に、真犯人氏は、暴力で負けた後、「つまんねぇ……。まぁいいや……どうせもうすぐあっち世界はなくなる……」とか言っちゃう。

 いやまぁ、ここで、真犯人氏が、暴力でも、論理でも負けたただの敗者であることを決定づけられるわけだけれども、僕はここで「すっきり」とか「すかっと」とかしなかった。
「ああ、また一人、救えなかった人が増えたのだなと」


 いやまぁ確かに、そりゃあそうさ、間接的とはいえ、人を二人も、それも身勝手な理由で殺した奴に、同情など必要なかろう。実際問題、その「犯罪行為」自体は何ら認められるべきものではないし、その点においてはただのおぞましき犯罪者である。

 その点と、切り離してなど考えてはならないだろうから、本来このシーンは、主人公たちがついに犯人を追い詰め、これまで培ってきたペルソナ・絆の力で敵を粉砕するという、清々しいシーンなのだろう。

 だが、足りなかった。

長くなったから強制まとめ

 だからさ、「犯罪行為」の「言い訳」としか捉えられなかった点が残念だと思ったわけ。

 だから、真犯人氏までで、この物語が終わっていたら、僕は「残念だった」という感想を抱いたことだろう。それが、ほぼ100点と思えたのは、超犯人氏が最後に登場したからである。

 超犯人氏もまた、名台詞の数々を残してくれたわけであるが、今回の記事の目的とは少しずれるので、ここでは書かない。
 しかも、超犯人氏は、字義通り人知を超えてらっしゃるので、思考対象とするのはいささか難しい点もあり……


(体力の限界のため強制終了)

拍手[1回]


  
プロフィール
HN:
遠藤
性別:
男性
自己紹介:
カウントアップ
カウントダウンタイマー
創作カウントアップ
カウントダウンタイマー
カレンダー
07 2017/08 09
S M T W T F S
2 3 4
7 9 10 11 12
17 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[08/05 遠藤]
[08/02 バール]
[07/26 遠藤]
[07/26 辻]
[07/25 バール]
[07/21 遠藤]
[07/20 バール]
[07/12 遠藤]
[07/10 バール]
[07/09 遠藤]
[07/09 QUWE]
[07/05 遠藤]
[07/04 うーたん]
[06/29 遠藤]
[06/29 遠藤]
[06/29 QUWE]
[06/28 バール]
[06/27 遠藤]
[06/27 遠藤]
[06/26 うーたん]
[06/26 うーたん]
[06/25 QUWE]
[06/25 遠藤]
[06/25 うーたん]
[06/24 QUWE]
Copyright ©  -- 生きる意味を徹底して考える --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]

アクセスランキング