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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「毎日疲れたとかやる気ないとかつまらないとか言ってる気がする」「言ってはいない、思ってるだけだ」

疲れた

 どうして、こう、やること、なすこと、会う人、話す人、読んだり、聞いたり、――その他いろいろ、イライラさせられるのか。
 穏やかな気持ちでいたいと思いながら、ますますイライラを高めていく自分にさらにいらだつという悪循環である。

 しかしこう……無気力だ虚無だと言っているのと比べて、イライラしている方がよほど人間的ではなかろうか……んなはずはない。まぁ、人間的かどうかは置いておいて、それが良いことだとは到底思えない。

 とか言うと、「怒ったり、不満をぶちまけることも大切だよ!」なんてしたり顔で言われたりしたらもうさらにイライラは高まっていく。

 じゃあ、お前、いったい、どうして欲しいんだよ? なんて言って欲しいんだ? どうやったら助けてあげられるんだ?


 ――放っておいて欲しい、のだろうと思う。


 こう、なんだ、人との関わり合いはとても重要だと思いつつも、やっぱり、「疲れる」。

「話せばすっきりするさ!」

 って言う方法だってあるんだろうが、どうにも性にあわない、のかもしれない。

矛盾注意報

 おま、放っておいて欲しいとかいっておいて、ブログ書くのは何なんだ、と思う。

 なんなんだろうな。

 ――これは、自分との対話って面が強いと思う。特にこのイライラ対処は。
 対話……というか、口論なり、言い争いなり、ケンカなりかもしれない。

 抑えがたき自分の感情を、理性なる自分が調整しようとしているのかもしれない。

 これが、他者との会話や関わりになると、「他者」という調整相手が増えるために、余計に疲れてしまうのかもしれない。

ニヒリズム

 他者の言葉を受け入れられない、他者を認められない……というのは、反転した全許容のせいもある。
 自分の最初に印象というか、浮かんだ言葉を使うとわかりづらいが、要は、「人は人、己は己」という言説である。

 これを突き詰めると、他者の考えは正しいけれども、そうじゃない考えもある、ということで、どこまでいっても相対主義や懐疑主義に陥る。

 本当に正しいことって、必要なんじゃないか?

 ――そんなもの無い。とニーチェさんはいう。真理や神なんてのは、ルサンチマンを抱えた弱者がつくりあげた幻想蒙昧に過ぎないと。

 ――だから。真理なんてものは捨て去って、「力への意志」……つまり、欲望のなすところを目指せと。自分の感覚を信じろと。


 人生は永遠回帰なのだと。
 お前は、今のこの生活、この時間を、毎回毎回繰り返すのだ。すべての条件、すべての感情、すべての環境がそのまま繰り返される、終わりなきメリーゴーランドなのだと。
 そうした人生において、お前は、今行おうとしていることを、この先、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのだけれども、それでも、今お前は、その為そうとしていることを、やる気になるのか?
 やる気になるのだとすれば、やればよい。
 そうじゃないと思うのなら、やめたほうがよいだろう。

分かりやすい人生訓である

 超人になれとニーチェさんは言うけれども、どうやったらなれるんだ、と。

 確かに、今なそうとしていることが、「永遠に繰り返されるとしても、それでもやるべきことか?」という問いかけは、力強さを思わせる。

 ところが、その実践的側面を考えたときに、まずもって、人は自分の呼吸を意識するのも大変なのに、絶え間なく過ぎ去る時間と、空間(そして身体)の制約の中で、逐一の決断を本当に意識的に行えるのだろうか――いや無理である。

 すべてを意識することは不可能である。――とはいいつつ、結構何度も試してみたことはある。より実践的に、24時間をセクション(ある単位ごと)に区切って、それぞれの時間帯に自分はどういった状態でどういった判断を行っているのか、明確に規定しようとしたり。

 人間の行為行動は、必ずしもすべて意識下において行われるものではないので、無理な試みであった。それでも、無駄なこととは思わない。スケジュール管理なんて、その一端である。しかし、感情や悩みというものが存在する以上、常に明確な判断などできないのである。

悩むということ

 判断が難しいのは、時間が未来に向かって常に流れ続けていることも一つ原因だ。

 時間の意識がなければ、実は判断は単純なのである。
 今この瞬間の快をとるか、どうか、それだけだ。

 しかし、人は、未来を想像する。
 例えば、遅い時間に目の前の甘いプリンを食べることは、将来の健康に悪影響だろうが、いま・この瞬間においては、悩む必要などない。食べろ。そうして、背徳的な甘美にすら身を包み込むだろう。

 未来。

 しかし、未来とは、本当にやってくるのだろうか?

 明日という時間が、どうしてまぎれもなく自分のものだと信じられるのか?

 なんの根拠もない。根拠もないが、しかし、単に信じる。

 しかしだ。その、途方もなく、朧げな未来という奴があるおかげで、「悩み」が生じるのだ。



 今こうして、夜も更けて、体も疲れた状態で、なお、書き続けること……それが、何故必要なのか。わからない。悩む。でも、これまでの経験上、僕は、今、書くことを選択する。他の様々なことよりも優先させて。

わかりやすい記事にしよう

 昨日の記事は、分かりやすかった。
 今日の記事は、正直分からない。ただ、分かりやすくするための努力はしよう。

 分かりやすくするためには、何が必要なのか? ――素直さだ。

 ええと、素直に書くと、疲れた。

 疲れた……とは何か。疲れたという言葉を説明すると、「体のだるさ」と、「つまらなさ」と、「やる気の出なさ」である。

 とにかく……こう、人とかかわることをできるだけ避けたいと思ってしまう。
 親しい人だろうが、優しい女性だろうが、親だろうがなんだろうが、もうとにかく会いたくも話したくもない。

 ――なんでこう、人を怖がるのだろう?

 怖い? 俺が? 人を? 何故?

 てきとーに、「怖い」という表現を使ったら、案外しっくりきたのが不思議だが、しかし、別に怖いわけではない。ただ、「いらいら」させられる。

 イライラとは何か? 疲れたとは違うのか?

 うーん、ここら辺の内容は、もっと落ち着いたときに書いておくべきだ。


 とにかく、この記事は、このどうしようもない感情というか気持ちを、できるだけ書き残しておこう、表現しておこうというものである。
 そして、人を遠ざけたいという感覚……これが何でなんだろうということをもう少し掘り下げてみたい。


 
(かっこ書きである。全然まとまらないけど、体の方が限界である。寝よう。ああ、しかし、書き足りない。今日、早く帰られたのに、いらいらし過ぎて何も手につかなかった。そしたらウォーキングデッド見てしまった。またダラダラ2時間ぐらいみてしまったよ。うん、これはまず、絶対禁止しよう。昨日宣言したのに、まったく何やってんだか。……あ、もしかしたら、これもイライラの原因だったのかもしれない。……いや、それはちょっと違うな。そもそも見る前からイライラしてたし。だいたい、この「いらいら」って表現がそもそも気に食わないんだよな。イライラってなんだよほんと。もっとちゃんと表現しろよ、と思う。「てめーむかつくんだよ」的なこといってる人と変わらないじゃないか。「むかつく」っていわれても、具体的に何がどう気に食わないのかいわないと、コミュニケーションとしては失敗である。――いや、まぁ、「威圧」とか「恐怖による支配」という意味では役に立つのだろうけれども、そういう奴らがホント好きじゃない。ああ、そうだ、少し思い出したが、「利用される」というのが非常に気に食わない。が、しかし、「利用」という言葉がよくないけれども、「助け合う」というのと、根本的にはあまり違わないとは思う。問題は、そこに「人格」を認めているかどうかだ。人を人として扱ったうえで、「役に立ってもら」っているのかどうか、ということ。それを助けてもらう、というのか、利用している、というのか、もはや感覚の問題だ。ああ、もう、目が明かなくなってきから強制終了)




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今日の一言「矮小な自分を恐れる必要はない」「面白くなさよりも分かりづらくなることを危惧しなさい」

5、6年前の日記を読んで

 まだ、この小見出しを付けない頃のブログ記事を読んでいて、分かりづらいなと感じた。
 この小見出しは、必ずしも内容と一致しているかというとそうではない。けれども、重要なのは、「こういうことを書こうと思った」という方針が見えることである。実際書いている内容が異なろうが、小見出しを書いた時点では、「そう思った」のである。

 ただ、分かりづらいなとは思うけれども、何となく、「こういうことを書きたいだろうな」ということは、自分自身の書いたことなので分かる。

 それで、分かりづらい理由をさらに考えてみたときに、その時の「感情」が見えないことが一番の原因に思った。

 例えば、
大津のいじめは社会に大変な影響を与えた。しかしそれは、文科省のいじめ統計をみれば、その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない。
人間の脳は、一貫性と安定性を求める。しかし人間は、個人であり、差異は発生せざるをえない。もちろん、ジェンダーのように、社会的に構築されただけで、生物的差異に起因しない場合はある。
そうした衝突を調整するのがルールである。
そうしたルールに反した場合にいじめは起こる。
ここでいうルールとは、空気も含められる。いじめを許す空気が支配的であれば、むしろ、いじめ反対と叫ぶことがルール破りである。
言うまでもなく、いじめを防ぐには、ルールに対する自覚と責任と、ルールに対する許容である。
肩にふけが落ちていたことがいじめの原因であったとしても、具体的には、それをみた個人のルールに反していただけであり、その発起人の許容度が低いことが真の原因である。――幸福追求オブセッションと関係性を成り立たせるもの
 というのは、2012年7月ごろの記事だけれども、まぁよく分からない(かっこわらい)。
 自分で書いたものについてもそうなのだから、ましてや他者が読んだときに一体何を理解可能なのだろうか、と思う。
 ただ、この記事は、カテゴリが「イライラ対処」であるし、単に、いじめによる自殺といった事件のニュースを見て、腹立たしく感じたことの表現なのだ。

 僕はいじめ反対である。ところが、このいじめというのは、社会や集団の構造上発生する可能性がゼロにはできないものだとも思っている。ここに、僕の「理想」なるものと、現実と折り合いをつけなければいけないという葛藤が生じ、イライラが生じるのである。

 上の僕の記事におけるポイントは、最初の「その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない」という部分だ。多くの人は、いじめによる自殺といったニュースを見れば、「ひどい」といった同情的な感情が生じる。「いじめはよくないことだ」と口々に言う。だが、その感情を、いかに自分の行動や生活に反映することができるのか。実際に実践しているのか、その点が疑問である。それを、「賞味5分の感傷」と表現している。――ちなみに、これは別に僕の表現ではなく、EDENという漫画の一シーンからの抜粋。

正直な気持ちを書いておく方が面白い

 で、まぁ、何を言いたいか先に書いてしまえば、「もう12月だなぁ」……いやではなくて、先日11月の最後に書いた記事について。あれは、本当に苦痛の中で書いていた。今は、まぁ普通の状況。でも、11月29日の記事は、書くこと自体が嫌だった。

 でも、その11月29日の記事を読んでみて、面白いかどうかは別として、「分かりづらさ」はなかった。その点はよかったと思う。まぁ、「単にイライラして無気力なんだね」というだけのテーマなので、分かりづらさも分かりやすさもへったくれもないが。

 しかし、2012年の記事の方も、まぁいってしまえば、「いじめのニュースにイライラした」というだけなのだ。
 ただ、そのことが、何となく明確に書いていないので分かりづらいのである。

未来に有効な日記にするには

其の一

 自分を大きく見せようとか、そういった感覚など、全部捨て去ってしまったほうが良い。
 そういう意味で、「匿名」のブログってよいと思う。実名でお金稼ぐ目的でやってるブログと、こういうブログとは別の方が良い。こういうブログが不要な人もいるだろう。でも僕は必要だ。

其の二

 率直に、できるだけ素直に書いたほうが良い。でも、昔は、SNSに書いていたときもあったし、ネット社会怖いとか思っていたりもした。そういう意味では、今もそのネット社会に対するこわさというのはずっと持っておいたほうが良い。そういう意味で、匿名性は担保したほうが良い。そのために、若干事実と異なることを書くのも仕方がないと思う(例えば、実際にあったイベントに関してどうしても書きたいのなら、それの日付をぼかしたり。一緒に行った人の人数をぼかしたり)。
 でもそれらはできるだけ最小限の方が良い。ぼかしすぎると、未来の自分に対しても何がなんだか分からなくなってしまう。それじゃあ意味がない。

其の三

 ゼロ秒思考で書くのが良い。
 いや、考えることは必要だ。でも、考えるのであれば、ぜひ、そのプロセス(過程)も書いておくべきだ。むしろ、結論よりも過程の方が重要になることもある。

 というか、前にも書いた気がするが、「結論なんてそんなに重要じゃない」のである。
 その結論を、いかに自分のものとするか。自分の考えにするか。様々な条件や環境下においても、普遍性をもたせられるか。そっちの方――つまり、実践性が重要である。陽明学すげえ――とかノイズを書くと分けわからなくなる可能性もあるが、これもまたゼロ秒思考である。

 そういったノイズを書くのも悪くない。ゼロ秒思考の良い面でもある。
 ただ、ノイズばっかりになると確かに骨子(メイン軸)が分からなくなるので、そこらはテクニックでカバーする。例えば、「ダッシュ(――)」といった記号で分離するとか、改行して段落わけるとか。小見出しつけるのも有効だ。

まとめ

 そのいち、そのに……とか書いたけれども、全部まとめると、「率直に書く」という言葉で集約されてしまう。その一の「自分を大きく見せないようにしよう」というのと、「率直に書く」というその二の内容の違いなんて、今考えるとよくわからない。
 ゼロ秒思考とか言葉の定義づけをしても、それもいわばその一とその二に還元される内容である。

 言いたいことはシンプルだ。
 シンプルに書いたほうが良い、ということだ。ただ、それは、ノイズを否定するというわけではないという、ことだ。むしろ、ノイズが、そのシンプルな内容の本質だったりする。

 シンプルに書いたことは、ただの「シニフィアン」=「意味を表現しているもの」であり、ノイズこそが、「シニフィエ」=「意味されるもの」ではないか、ということだ。(ソシュールの言語学)
 そういう意味で、先日読んだ本で、哲学者カントとニーチェの事物に関する捉え方の違いというのが面白かった。

認識について

 いきなり話が変わるけれども、この小見出しを挿入する目的は、先日の11月29日記事において、「書くことのみが僕に許されたことである」ということへの補足として、「本を読むのも罪悪感を生じさせない場合がある」ということを書いておきたいということである。

 ――ええと、カントとニーチェである。

 ニーチェといえば、「神は死んだ」という表現が有名である。
 カントは、とっても几帳面(道徳的)な人だったというのが有名である。

 さて、認識の話である。
 カントは、絶対正しい認識がある=真理があるという立場である。同じリンゴであっても、人間と動物、微生物のそれぞれの立場において、リンゴという認識が異なる。
 人間は、赤くて丸い食べ物で甘酸っぱいという認識をもつかもしれない。
 動物は、丸い物体という認識をもつかもしれない(色が判別しづらい動物だったとして)。
 アメーバは、そもそも、丸いという認識すらもてないかもしれない。

 それぞれの身体的限界性によって、認識は異なるということの例である。

 ここまでは、カントもニーチェも同じである。

 カントは、さらに、「神の認識」があると考えていた。つまり、リンゴという物体の分子素粒子レベルでの認識から、リンゴの来歴、未来の価値まで含めた完全な認識である。

 ニーチェは、「そんな神の認識なんてないッス。どこまでいっても、それぞれの個体(人間や動物やその他)の身体と欲望によって、認識なんて異なるッス」といった。


 ニーチェの哲学が斬新であったのは、神という概念をとっぱらったというのもそうだが、「真理」とか「完全」といった概念を壊したことである。
 まぁ、ここまでのことは、多くの人が知っていると思うが、ニーチェはさらに、「その上で」新たな価値体系を築こうとした――とされているが、そこらへんの内容がどうにも僕はよく理解できないので、もう少し勉強しようと思っている。

 いや、その、永劫回帰――あんまり意味のない人生の中で、何かの真理に頼らず、独力として、ただ生きることに意味をもたせて……すなわち「超人」として生きることが重要だ――といった表現は何となく分かっている。
 問題は、その「超人」たるものが、そもそもどうやってなれるんだ――いや、なれるというか、そういう「感覚」、つまり、「意味がないけれども生きた方がいい」、という結論的感覚にどうやったらなれるのか、というのがさっぱりわからない。

 その点は、精神科医のフランクルさんも、三つの価値を説く中でおっしゃっておられて、――すなわち、体験価値、創造価値、実存価値というものの、3つ目の、「ただ生きていること自体が重要なのだ」ということなのだけれども、それがよく分からない。
 いや、分からないのではなくて、言いたいことは分かるのだけれども、なんだか「そう思えない」のである。


 そういえば、――これはノイズだが――ある友人と話をしていて、「いやお前それは分かっていないだろ」と言われたこともあった。その「分かる」という意味を、言葉としての意味として分かったかどうか、という点であれば、僕は分かっているのだ。ただ、「その言ってることが自分の感覚として浸透したか」という意味であれば、僕は分かっていないのである。
 そう、これは、他の人と話していてもそういう話題になることがある。なんだか、不満に思うことが多い。「分かる」という言葉が、実は多元的・多次元であることをちゃんと分かっていて、その人たちはいっているのか、という点と、その「分かる」ということを、相手にどこまで求めようとしているのか、自分自身で理解しているのか、という点が疑問だ。

 これを話し出すと、コミュニケーションとは何か、という話しをしたくなる。
 コミュニケーションとは、情報伝達のことである。で、その情報伝達とは、何のために行われるのか。究極には、相手に自分の思う行動(これは思考も含まれる)を行ってもわるためである。

 そういう意味で、僕は、人の話を「聞かない」し、人の話を「分からない」のである。そういう意味で、周りの人が言うなら、僕は、心より浸透した考えをもって、「ああそうだね、僕は人の話を聞かないし分かっていないよ」と答えられる。ただ、その人の言わんとしていることは「分かっている」。「そういう考えもあるんだね」という意味において。「そういう考えもあるんだね――でも僕はそう思わないよ」という意味ではないが、その、「完全なる認識」にならなければ、「わかったことにならない」というのは、僕はそれは違うと思う。

 そういうことを書き出すと、段々さらに過激になっていくけれども、人は究極的には分かり合えないと思っている。――この表現もまた微妙であり、あまり使いたくないのだけれども、まぁこれは、「人間嫌い」と僕がたまに使うのと同じレベルの、他愛のない表現だ。

 長くなったな。この話とりあえず終わり。

本を読んだ方が良い

 ええと、その、なんもやる気しない、と先日の記事で書いた。
 でも、なんかたまたま手に取った本を読んでみたら、いろいろ思うところは発生した。
 その行為は、僕が、仕事や遊びや睡眠や食事をすることによって、なんだかすり減った感じがすることを、生じさせなかった。
 だから、書くことと、本を読むことは、できるだけやったほうが良い。


 ということを書くために、上の小見出し「認識について」を書いたわけだが、――つまり、5・6年前の過去の記事は、その「認識について」小見出し部分しかないようなものが多いのである。

 そうすると、この、「実存的な意味において」の表現が全く分からないので、結果的に「わかりづらい」ということになるのだ。


 以上、この記事は、面白くないかもしれないが、とても分かりやすい記事になったはずだ。
 こういう記事を、是非、これからも目指して書いたほうが良い、というまとめを書いて終わりとする。

(かっこ書きである。かっこ書きなのだけれど、本文の方に書ききれたので、特に書くことがない。そう、このかっこ書きは、補足とかいう生ぬるいものではなくて、むしろ「本題」なのであったりする。まぁ位置づけは特に定まっていないけれど、かっこ書きの方が、「率直さ」は高いと思う。ある意味、適当なことを書いているだけでもある。しかしその、「適当なこと」というのが、本当にでたらめ、創造上の産物、なのであれば別だが、まがいなりにも、僕の頭の中には浮かんだものであるのであれば、「有効な日記を書くために:その三」あたりで書いた、プロセス重視という面で大事だとも思う。あえて、かっこ書きで補足するとすれば、今回は、あえて、「じゃあそもそも、なんでブログに書くんだ」という、いつも問いが発生することをスルー(無視)したことである。そもそも、「自分のため」に書くのであれば、率直に書くのであれば、そのために時折匿名性を維持するための工夫も必要なのであれば、パスワードロック付きのローカル日記にでも書いていたほうがよいのではないか? という疑問についてだ。この疑問は常に生じるのだけれども、まぁ、これは何度も記事にもして「自分自身を納得させ」ているので、あえて触れなかった。――ああ、でも、もうひとつ補足しておいた方がいい。その、本を読んで思うところがあったのは、とても良いところだけれども、そもそも、「イライラ対処」的な状況の時に、そんなことできないだろう、という現実問題である。無気力のときの怖さってのを、知っている人は知っていると思うけれども、あれはホント怖いものである。ああ、怖い。ルーチンさえ脅かされる。そういや、筋トレルーチンは400日超えたのか。それはまぁすごい気がするな。腕振り運動とスクワットは、できたりできなかったりしているけれども、最近は継続できている。創作ルーチンは駄目だなぁ……いや、でも、あれってそもそも、21時前に帰れたら又は特別な事情(イベント等)がない場合やる、っていう免除規定だったんだから、あながち、ダメな期間ってそんなない気もするんだけど……ちゃんとカウントできていないから、どのみちだめだな。そういや、連載も止まっちゃってるじゃないか。うーむ……。しかしその、連載がとまってるとか、ルーチンが崩壊したとか、そんなことそもそも気にできなくなるのが無気力期間であるのだから、そういう意味で、若干、今は回復傾向であるということか。そう、だから、ルーチンというのも、レベル1と、レベル2があるのである。意識して実行できているのがレベル1。意識せずに完全な習慣化された場合はレベル2である。この、レベル1からレベル2へのハードルは結構高い。結構高いので、そのプロセスを、もう少し細かく観察してみてもよいかもしれない。――あと一つ、かっこ書きも結局長くなってしまったけれど、一つ書いておけば、ウォーキングデッドを見ているのも時間が奪われている原因だな。あれ、面白いっちゃ面白いんだけど、なんというか、「得るものがない」感が半端ない(かっこわらい)。というか、なんか、こう、ダラダラ感がある。続きが気になって見ちゃうんだけど、まぁ、その――なんか、見終わっても感慨がないんだよな。それぞれのエピソードに意味はあるし、面白いし、感動もするんだけど、なんか、全体として「無意味感」が強い。――そういう意味で、僕の今の感覚をとっても良く表現している作品な気がして、よいっちゃあよいんだけど、なんか、はっきり書けば「すり減ってる」感が強まるというか、「やる気がなくなる」んだよな。うーん、その、リアリティ・グロテスク・無情・無常感では、ゲームオブスローンズの方が高いのだけど、ゲームオブスローンズは、なんか上手く表現できないけど、楽しい。なんだろう、なんか違うんだよなぁ。こう、人間ドラマ的な表現でいえば似ている気がするんだけど。まぁ、ウォーキングデッド、ダリル氏がかっこよいんだよなー。なんか最初のはみだし感というか、不良感があっていけすかない奴だと思っていた印象が、物語が進むにつれてどんどん変わってきたのがよかった。そういう意味だと、あんましブレてないのって、主人公のリック氏だけな気がする。他の面々は、まぁ、いい意味でも、悪い意味でも成長している。大人でも環境が変わると、いろいろ変わるんだね~という意味で面白い。そして、その成長むなしく突然物語から退場していく……のだけど、まぁ長くなったな。とりあえず、エピソード3まで全部見終わったところで、しばらく見ないようにしようという誓いを込めて、以上)








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今日の一言「やる気が起きない」「この記事は何のオチもないだろうつまらないだろう」

面白いことがない

 ある方が、「充実感は必ずしも必要ではない」と仰っていた。
 僕は、充実感はあった方がよいと思う。が、今は、それどころか、そもそも、面白いと思うことがない。意欲がわかない。やる気が起きない。空虚である、無気力である……。

 ……といった表現も適切かどうかわからないほど、何だか感覚がない。

 先日車内トラブルに見舞われて少々痛い思いもしたため、怒りというかイライラは高まった。
 おいしいごはん食べたり、疲れてお布団にザバッと倒れこむのは気持ち良かったりする。

 いろいろと、感情はあると思う。だから、僕は正常だ。……という言葉自体むなしい。



 善い人になりたい。
 ――というのとおなじぐらい、「せいじょう」という言葉もまた空虚である。空しい。

 言葉が虚しい。

 感覚が虚しい。

好きな女性ということ

 僕に好意を示してくれる女性が二人ほどいる。
 一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりしている。

 楽しいし、よい人だなぁとも思う。

 ただ、それが、「好き」ということなのかというとよく分からない。
 好きという気持ちがよく分からない。分からなくなった? そもそも最初から分かっていない?

 その、なんか、「最近の若者は、自分から女性に告白をしなくて、相手から告白されるのをひたすら待っている」といった言説も聞いたり読んだりする。僕も、はたからみたらきっとそういう存在に思われるのだろうけれども、僕は本当に付き合いたいとか思ったら特に躊躇いなく告白する。

 結婚したことがあるということで、そういう女性との付き合い方とか、コミュ能力あるんでしょ、みたいに言われることもある。誤解である。告白してダメだったり、何度もふられたり、そもそも相手にされなかったり、いろいろである。いろいろやってみた中で、成功したこともたまたまあるというだけである。

 努力したのである。

 努力家なのである。

 継続することは得意なのである。

 頑張ることはできるのである。



 ――それらがいま、反転して僕の様々な意欲を、やる気を、動機を奪っている。そんな気がする。

頑張れば何でもできるの幻想

 努力は大切だ。
 しかし、頑張れば何でもできる――というのは嘘である。頑張れば、「それなりに」「その人にあった程度に」できる、のである。

 だからこそ、だれにとっても努力は必要なのであるが、しかし、同時に、心身に不相応な欲求は叶わない。

 ――同時に、その「不相応な」といったレベルは、誰も分からない。勝手に自分で線を引くだけである。しかし、その線……できることレベルは、時間の経過とともに低くなっていく。減っていく。

 キャリアアップとか、投資の増大とか、逆に時間経過とともに増やすことができるものもあるではないか? と思われるだろう。それはそうだ。ただ、僕が言いたいのは、「無限の可能性」的な意味においてである。

 優れた科学者は、更に偉大な研究をするかもしれない。ただ、野球選手として大成する可能性は、小学校の頃よりは少ないはずだ。そんな、当たり前のことを言っているに過ぎない。こういった例であれば誰しも頷くだろう。

 つまり、可能性の深さは深まる可能性はあるが、可能性の幅は狭くなっていくということである。

 逆に、大人になるというのは、その可能性の幅をおのずから狭くして、「俺が(私が)生きる道はここだ」と、胸を張っていえるようになることだ。

「何者でもない」うちは、いくらお金を稼いでいても、結婚していても、顔が老けていても、子供なのだ。

仕事が忙しいのもある

 働き始めて、2年目から3年目ぐらいが、ものすごく忙しかった気がする。泊まり込みで……みたいなことも何回かあった気がする。
 それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。

 でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。
 土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。




 何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。

 何もしたくない。

 ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。



 疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。

それでも文字おこしするのは何故?

 何もしたくないといいながら、何故ブログを書いているのか。記事を書いているのか。

 僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。

 ブログを書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッド見たり、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。
 なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。

 でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。

 寝る、ということすらそうだ。
 土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。


 唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。
(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)

 たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。
 今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。

 でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。


(かっこ書きである。――ので、こういう無気力期間がやってくるので、「ルーチン」が必要なのである。ルーチンは、もはや、体の一部である。心の一部である。どれほど調子が悪かろうと、意欲がわかなかろうと、無意識であっても行動できる――それがルーチンだ。意識してルーチンをやってるうちは、まだ、最終形態ではない。1か月ぐらい続けられたら、十分、その調子で長期間続けられる可能性が大きくなるが、突如訪れる無気力感によって、簡単に崩壊してしまうものである。ルーチンという横文字使ってかっこ悪いが、要は、習慣化、ということである。んで、その習慣化というのが、大人になるにつれ、難しくなる。それが可能性の幅を縮める原因でもある。でも、可能性の幅が小さいのが大人の特徴でもあるので、それはそれでよい。つまり、子供のうちに、良い習慣をたくさん身に着けていた方が、大人になってからも有利だ、ということだ。別に習慣というのは、筋トレとかそういったものだけではない。ポジティブなモノの考え方とか、あいさつやありがとうごめんなさいをちゃんと言えるだとか、そういった目に見えにくい習慣というのもある。ので、「考える力」なんてものより、十分な習慣を身に着ける教育の方が大事だ――みたいなことをいって、「いややっぱり考える力が必要だよ」みたいな論争というか意見交換をある方としたのも最近だったような気がする。ま、その、「良い習慣」というものじたい、社会環境や時代によって変わったりするから、それを見定める力、見出す力として「考える力」というのは大切だとは思う。けど、そんなもん、子供にわかるはずないのだから、教育という視点でいけば、まずは優先すべきは、習慣化であると考えている。ってまぁ、そんな他人のことはどうでもいいのである。まずは、俺が、自分が、どうやって、なんで、なんのために、なにをするのか、ということだ。――知らん。とりあえず風呂入って寝る。あぁ……PSVITAも買ったのに全然やってないし、なんかいろいろやる気が起きない)

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今日の一言「休日がとても大切」

何もしない時間が必要

 友人との飲み会をぶっちした。ぶっちってなんだろう。さぼり、という意味。行けるけれども行かなかったという意味。
 しかし、少し落ち着いて考えてみる。飲み会に行くことで、時間が使われる。何かを行うという時間だ。それを行うことで、精神の落ち着きが取れなくなるとしたら、それは「ぶっち」なのではなくて、正当な「行けない理由」ではなかろうか。

 つまるところ、何に時間を使うかは、自由である。

 この自由は、とても素晴らしいものだけれども、時に、自由には「責任」が伴うので、その自由自体が重いものになる。
 飲み会に行けなかった……のではなく、会社の強制参加の飲み会のように、絶対に行かなければならないようなものであれば、「ああ、面倒くさいなぁ」と思いながらも、その結果生じること(例えば、体調が悪くなったり、精神的に落ち着かなかったり)の責任は、自分にはない。何せ、選択ができなかったからである。

 一方。行くも自由、行かないも自由だったときに、その責任をかぶるのは、自分一人だ。

お金について

 友人と遊ぶのも自由。
 恋人をつくるのも自由。
 仕事をするのも自由。

 本当にそうか?

 たぶん、そうではない。自由の幅は、過去専制君主時代に比べれば広がっていても、自然や社会の中で人が生きるのであれば、その自由は必ず制限される。

 その制限される自由の幅は、資本主義社会であれば、「お金」というツールによって広がったり狭まったりする。

 一般的、卑近には、お金は欲求を満たす手段である。よい寝床も、よい食事も、よい異性もお金がないと手に入らない。
 しかし、お金の価値は三つあるといわれるが、そのうちの一つは、「価値を保存できること」である。
 欲しいものなんて、そうそうすぐには生じない。必要なものなんて、すべて理解しているわけでもない。
 突然必要になったり、欲しくなったりする。その際に、手に入れられるかどうかの選択の幅を広げてくれるのがお金だというわけだ。

 だから、お金は、あればあったほどよい。

人脈について

 お金は目に見えるから分かりやすい。
 では、俗に言われる人脈というものはどうか。

 確かに、人は一人では生きていけないので、助けてくれる人は多いほうが良い。ビジネスをするにあたっても、初対面の人よりも、顔見知りの方が頼みやすかったりする。

 だから、人脈もあればあったほうだけよい。

有限性と将来性について

 お金も、人脈もあればあった方が良い。

 では、幸せはどうか?

 幸せもあればあった方が良い。理由はない。幸せという言葉の定義は、「あればあったほうだけ」豊かであったり、うれしかったり、気持ち良かったりするものだからだ。そういう定義なのである。そういった概念なのである。
 だから、幸せを求めるのは自然なことである。

 問題は、その幸せという言葉の「中身」である。

 幸せがよいか、不幸がよいかという問いの立て方は無駄である。
 しかし、一方、生きることがよいか、死ぬことがよいかという問いは無駄ではない。
 生きる意味を考えるべきか、考えないほうがよいかというのも無駄ではない。

 そういったすべての上に立つのが、「幸せ」という言葉である。

 ――だから故に、幸せについて考えることは無駄である。

 もっと簡単に書けば、幸せについて考えることは無駄である。何故なら、幸せであるしかないからだ。幸せでなければ失格だ。失敗だ。間違いだ。

 だから、選択を迫られたとき、難しく考える必要はない。その選択が幸せであるか、そうでないか、それだけを考えればよい。

 ところが、有限性の中では、その選択が正しかったかどうか、その判断ができない可能性がある。
 10年先の選択としては正しかったことが、5年先で方向転換を余儀なくされたとしたら、その選択は失敗だったことになる。

選択の難しさ

 何故選択することが難しいのか。
 判断基準は、「幸せ」であるかどうか、だけである。それなのに、何故?
 その理由は、選択が、「いま・このとき」のためだけにあるものではないからだ。

 人間が、抽象的な言語を使用するようになったこと――いいかえれば、抽象的な言語を使えるから人間だともいえるが、それゆえに、人は、「未来」を想像することができる。


 何故人は悩むのか。

 未来があるからだ。

 未来がなければ、選択など簡単である。いま、このとき、瞬間における幸せを選び取ればよいだけである。

 しかし、理想的な身体を手に入れるため、病気にならない健康な体を手に入れるため、食事制限したり、ダイエットしたり、筋トレしたりするのである。それ自体は、「いま・このとき」の幸せの放棄である。諦めである。



 何故物語を書くのか。
 手っ取り早く、だれかほかの人のつくった物語に興じればよいではないか。ゲームやアニメ、ドラマや映画、様々なエンターテイメントがある。

 自分の頭で考えるのはとても大変だ。
 それは、未来に、楽しい面白い物語をつくれたときの、だれかほかの人を楽しませられた時の未来の幸せを求めているからだ。

何もしない時間

 テレビも、人との会話も、勉強も、仕事も、睡眠も、全部やめてしまって、何もない時間が欲しい。

 実は、そんな時間がとても貴重なのだ。

 何もない時間。

 何も考えなくてよい時間。

 何もしなくてよい時間。

 ただ、あったかい部屋で、コーヒーと少しの甘いものをつまみ、椅子に深く腰掛け、外の流れる雲を見つめる。ゆったりとした音楽と、風のそよぐ音が耳をかすめていく。
 そんな時間がとても素敵だと思う。

 古い一軒家の縁側に座る老人のようか。

 何も生産しない時間。

 一般には無駄だといわれるような時間。



 僕は、何か、「目的」や、「目標」なるものを目指して、――いや、目指さなければならないと思っていた。いや、今も思っている。

 ただ、それは何らかの「もの」や「こと」なのではなくて、むしろ、「なにもないもの」や「なにもないこと」なのかもしれない。


 努力すること、頑張ることというのは、何かを手に入れるための手段である。
 僕は、それにどうしても本気になれないでいる。

 それは、本当に欲するものではない気がしているからだ。

 でも、少し考え方を変えて、「なにもないもの」を求めるための努力であれば、もう少し本気になれるかもしれない。

なにもないものと死とは違うのか

 何もしないことをよしとするなら、それは死人と同じではないか。

 しかし、何かに対して感動すること……その、ゆったりとした時間に身体をまかせるということ、それ自体は決して、死人とは違う。

 無であるが、無ではない。――四句否定、テトラレンマ。

 

 しかし、今のように、凪のような心でいられない時間帯もある。
 こういうときはどうしたらよいのか。酒だ、酒をもってこい。
 昔、10年くらい前に、発泡酒というか、第三のビールというかを飲んだ時は、まずいな、と思った。最近は、確かに普通のビールとの違いは分かるけれども、発泡酒とかも、これはこれでおいしいなと思う。それで100円ぐらいなのだから、安い。
 ちなみに、第三のビールは、「リキュール」って書いてあるとそれらしい。発泡酒とは違うらしい。難しいね。

 でも、なんでアルコールが必要なのか。別においしい果物ジュースでもよいのではないか。

 僕もそう思っていた。けれども、やっぱり、アルコールがあると、気分がよくなるのである。「お酒飲んでる感」があるのである。これは何故なんだろうか。

 気持ちをリセットするのに、お酒が必要なんだろうか。そういう意味で、タバコを吸う人も同じなのだろうか。――またしても極論だが、煙草も麻薬も、その違いはあんまりないと思ってる。違いは単に、体への悪影響さだろう。

 鎮静剤だって、使い方を誤れば毒になる。薬と毒の違いもあんまりない。益虫も害虫も、「人にとってどうか」という判断のもとに下された区別だ。

どうでもいいことを書いているのは気分が良い

 ああ……ほんと、どうでもいいな。
 だから何だって話だ。

 でも、この「どうでもいい」という気持ちがわいてくると、すぐに、生きていること自体も、そんなに意味があるようには思えない。

 だから逆に、この「どうでもいい」ことを大切にしたいと思ったりする。

 役に立つこと、無駄なこと、有益なこと無駄なこと。効率が良いこと悪いこと。

「良いこと」

 が、よいことだとみんな思っている。僕もそう思っている。でも、良いことを求めても、きっとそれはイコール、幸せではないと思っている。

 何度も書いているけれども、良いことと悪いこと……その区別が、そもそも問いとして無意味だ。

 幸せという概念は、ただそれ自体が良いものである。
 良いという概念は、ただそれ自体が良いものである。

 良いものがよいか、悪いものがよいかという問いは無意味である。良いものは良い。ただ、その「良い」の中身は分からない。


 中身。

 そう考えていけば、まさに、中身なのである。つまり、抽象的な思考は無意味である。

 演繹的に、最高の真理からトップダウン的に生き方を示すなんて、無理なのだ。

 漸進的に、失敗しながら、調整しながら、それでも良い方向性を探しながら進んでいく。それしかないんだ。


 そうなんだ……、なんか、すごく憂鬱である。


(かっこ書きである。憂鬱な理由は次回記事に書こう。ウォーキングデッド見進める。退屈な部分も多いので早送りしながら見る。これ、ゾンビじゃなくてもよい気がしてくる。つまりが、世界というルールがなくなった場合の男女というか、社会集団のあり様を表現した作品だと思う。ゾンビはわき役である。社会ルールがなくなったとき、人はどう行動するかという社会実験である。保安官のリックさんは、道徳の化身。善というのは、時に現実と矛盾する場面に出くわす。そんな中、家族と仲間と道徳と、そのはざまで悩むリックさんの決断は時に遅く、イライラさせられたり、逆に不条理に思ったりするけれども、こういう人がリーダーじゃないと人間集団って上手く機能しないのかもしれないなぁと思ったり。一方、同じく保安官のショーンさんは、「合理的」の化身。仲間も、必要に応じて殺しちゃう(ゾンビの囮として見殺しにしちゃう)。その行動は時に短期にうつったり、非情にうつったりするけれども、極限状態で悩んでたら自分が喰われちゃう。まぁ仕方がないかなぁと思ったりする。その結果よいほうこうに事が運んだりもするし。でも彼がリーダーになったら、きっと弱肉強食的なモヒカン的世界になるんだろうと思う。『暴力の人類史』を読んで面白かったのは、その、強いものが支配するという構造に、人間集団は必ずしもならなかった、という点である。その理由について、「それがまた一方で合理的であった」からだという説明は、納得しそうで、ちょっと腑に落ちない部分もあるけれども、でも面白いと思った。人間としての尊厳という言葉や、命の尊さって言葉が、なんか空虚に感じることがあると思う。平和が大切とみんな知ってるはずなのに、ナショナリズムは横行して、テロリズムでまた中東の方で何百人が死んだとかニュースが流れる。それでも、人は、「正義」ってものを信じられるんだろうか。――いや、ここで正義という言葉を持ち出すのは不適切だ。テロリズムもまた、その集団においては正義だったりする。そうでなければ、多くの人は、顔をみたまま人を殺せるようには生物的にインプットされていない(と信じたい)。人の顔には、「汝殺すなかれ」という表現が組み込まれているといったことを、何かで読んだことがある気がする。だから、スイッチ一つで何万人も殺せるような装置はやっぱり危険だと思う。面と向かって人を殺すというのは、やっぱり、特殊な訓練が必要だと思う。漫画やアニメの登場人物が逡巡するシーンに、「え、なんでそこで躊躇うの?」と疑問に思うことは多いけれども、まぁ、覚悟や経験がなければ仕方がないと思うし、それが人間として普通だとも思う。……ってなんの話だ? リアリティの話である。ウォーキングデッドのある生存者の家長は、ウォーカー(ゾンビ)を、病人だとして、頭を打ち抜いたりぞんざいな扱いをすることを禁じている。それが危険なことだと周囲から言われても議論をする気もない。信じていたのだ。ウォーカーは、ただの病気だと、必ず治るものだと……妻を救えるものだと。それは、視聴者からみたら滑稽な選択で考えで、愚かともうつるが、しかし、それはまた彼にとって真実で、むしろそれがなくなったら、彼は生きる意味を失うだろう――と思っていたら、シーズン2の何話かで、やっぱり酒浸りになってしまった(かっこ笑い)。まぁその、……生きるって大変だよな)


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今日の一言「でもあえて言おう。指が重い、疲れた」「この記事では『疲れた』が頻発するため、ネガティブを完璧に排除すべきという思考体系をお持ちの方は読まない方がよい」

この疲れたことの表現を

 その、ツイッターとか、一昔前のSNS(ミクシィ)なんかだと、「疲れたー」といった一言の記事が投降されたりする。アメーバブログも、なんだかそういった傾向がある気がするのは偏見かもしれない。

 そういった短い記事に、僕は価値を見出せないのである。
 長くないと、ダメだ。

 それも、「疲れた疲れた疲れた」などと、コピペですむような奴はだめだ。しっかりと異なる表現で、それでいて、意味は破綻していなくて(論理的である必要などはない。ただ、そこに何らかのつながりがなければ、A.I.でなくても、単語の組み合わせと乱数を使えば簡単に「会話もどき」マシーンが作り出せるだろう)。


 しかし、今、僕がこのブログにおいて、この記事において表現「したい」ことといえば、「疲れた」という3文字になるだろう。

 どんなに頭をひねって、雅な言葉をつむぎだそうとしたとしても、その「テーマ性」は「疲れた」なのだ。

 それはどんだけ面白くないことだろうか。

夢をみた

 昔の、夢だった。夢とは、夜に見る奴のほうだ。「将来の夢」的なのではない。
 知人と、女性関係の話について語っていたので、その影響だろうか。
 起きてから、いやな気分になった。

 その夢の内容が良いか悪いかと言ったら、悪くはなかった。
 けれども、基本的に夢とは、良いものではないと思う。その夢が「良いもの」であろうが、「悪いもの」であろうが、それは「夢」であり、虚ろであるため、現実ではなく、いざ目が覚めて現実に戻った時、それは一概に虚しさを与えるのである。

 その一時の快楽について、「ああよかった。気持ちよかった」と満足できる人は幸いである。
 そういった人こそ、本当の悟りを得ているのかもしれない。


 何の話だ?

キノの旅

 お、アマゾンプライムで、キノの旅のアニメの新作やってるじゃないか。旧作はあるのを見つけて、時間をみつけて少しずつ見ていた。
 この作品は好きである。喋るモトラド(バイク)と旅人キノが、いろんな、変な……特徴のある国を旅をして、いろんな人と関わっていく。なんやかんや、ライトノベル的なのを初めて読んだのって、この作品だった気がする。

 お、前からある方が語っていて気になっていた、マジェスティックプリンスも出てるじゃないか。こりゃ「いぬやしき」なんてみている場合じゃねえ。でもキノの旅は気になる。

書かねばならぬ

 ところで、もう今すぐ寝たいぐらい眠い。
 目があまり開いていない。
 でも、書いている。何故か? はたからみたらお馬鹿さんである。でも、僕は、これが今すべき最重要課題であると認識している。

 書くことが。
 いただいたラインによるメッセージや、同窓会の案内に対する回答、友人グループからの忘年会の誘いへの回答、など……それら、現実におけるプライベート的なすべきことよりも、こうやって書くことが優先だというのか?

 そうだ、と僕は、その点は自信をもって言う。この判断は間違っていない。その根拠は、「これまでそうだったから」だ。つまり経験である。それも個人的な。だから、誰にでも当てはまるわけではない。そんなこと書き残して何になる? さぁな。でも、この、断片さ、壊れ具合が、人の話をシャットアウトしようというその姿勢が、「疲れた」というテーマ性をよく表現しているような気がする。

生きる意味がない

 若者を騙して何人も殺害した容疑者が、「生きる意味がない」などと、父親にもらしていたことが分かったという。
 何をどうして、そういった経緯が分かったのかは知らないが、やめてほしいものだ。

 生きる意味……なんてものを考えたりする人たち――すなわち僕のような人が、ますます奇異な目で、犯罪者のような軽蔑した目でみられるではないか。やめてほしい。
 僕は自動二輪車が好きで乗っているが、爆音のうるさい奴らが大嫌いである。まぁ、自動二輪車が嫌いな人にとっては同じ穴のムジナだろうが、なんでもかんでもひとくくりにされるのは気分がよくない。なにその、小学校の頃の連帯責任とか。え、小学校だけじゃなく、大人でもそういうのあるって? なにそれ、江戸時代の5人組なの?

 どうでもいいことを書いてしまった。これも疲れている証拠である。
 あの、「人生に絶望した」という表現について、よく犯罪者から引き出して大々的に報道しようとしたりする気がするけど、犯罪の動機を何故人は欲しがるのだろうか?
「納得」したいからだ。
「あいつは、犯罪を犯すような動機があった」と、理解したいからだ。

「そういう奴ら」というのを、スクリーニングの(ふるいにかける)ための方法を欲しているのだ。

 だから、アニメばっかりみていたとか、ゲームばっかりしていたとか、そういう「分かりやすい」理由を欲するのである。そういうのを好きな人と付き合わなければ、自分たちは安全なのだと、意識的・無意識的に思っているのである。

 ただ、いまやゲームもアニメも、それほど忌避されるものではなくなってきている。だからより一層、「犯罪者たるもの」が必要になってきている。

 次にスポットがあてられるとしたら、「絶望」である。

絶望とは

 絶望、と一言で表現したけれども、どっちかというと、精神科医フランクル氏のいうところの、「実存的空虚感」である。もっと砕くと、「生きている意味がわからない」的な感覚である。

 正直。この疲れた思考と身体においては、頑張ろうが頑張らまいが、生きようが死のうが、気持ちよかろうが悪かろうが、大した意味はないと思っている。

 そして同時に、こういった思考がよくないものだと、言われていることも分かっている。
 いやお前、それは「わかっている」とは言わないのだぞと言われるが、分かることは分かるのだ。ただ、それが「間違っている」とは思えない状態である、というだけだ。

 ちなみに、何故間違っているのだろうか。それは、答えがないからだ。証明できないからだ。客観的ではないからだ。そういうものを考えることは、思うことは、感じることは、「間違っている」のである。


⇒いやお前、そんな、楽しいことばかりじゃないぞ。いやな思いや、苦しいと思うことも含めて、人間なんだ、感情なんだぞ?

 否。明確に否定する。それは、お前、それこそ人間の可能性に対する否定だぞ。――この表現嫌いだが、あえて使おう。その「人生楽ありゃ苦もあるさ」ってのは、諦めである。いいことも悪いこともあるのが人生? お前、そりゃ結果的に悪いこともあるかもしれないが、「悪いことがあっていい」というのは、お前らが嫌いな、「必要悪」みたいな考え方に過ぎないじゃないか。

 違うだろ。本当は、すべて良いことであるべきだ。悪いことなどあっちゃならないのだ。



 ……などといったことも含めて、「どうでもいい」という感覚。空虚感。そういった表現。


 例えば、僕が何らかの悪いことを犯したとして、このブログの記事が発見されたとしたら、まぁまぁ、きっと、「ああ、なるほどな」と、何が「なるほど」なのかも分からないままに、みんな「納得」するのである。ニュース報道的には、「会社や友人環境など恵まれていたようですが、ある一面で悩みを抱えていたようです」みたいにキャスターが言うのである。

 ま、確かに。生きる意味がない、ってのは、無気力ってのは、「人の命なんてどうでもいい」とか思ってそうに感じられるかもしれない。意味がないから殺してもよい、と思っているとか。

 そんなの、無気力でも、絶望でもなんでもない。
 無気力や絶望ってのは、「人を殺したい」という欲求すら浮かばない。いやむしろ、いくら絶望していたとしても、人を殺した瞬間、それは、欲求に変化するのである。(ここで「いや、人がどれぐらいで死ぬのか試してみたかったとか言うやつもいるじゃん」という反論があるとしたら、それはもともと無気力でも絶望もしていないので関係ない)

 何か、行動をしたいという思い、そして、その行動自体の意味について、意義を失っている状態、それが無気力である。
 絶望とは、欲求がなくなった状態である。

睡眠欲には勝てない

 ――だめだ。目が明かない。もうタッチタイピングで書くしかない。誤変換が多発するだろう。

 ああ、その、なんだ、「疲れた」という表現をするため、それなりの長さになったわけだが、さらに疲れた。でも、睡眠欲と闘いながら、書くということを優先させたのは、――そして、こんな意味のつながりがおかしい記事を投稿するのは……。


(かっこ書きである。何故書くのか。それは、書くことが、唯一、僕の現在の心(精神というか、目的というか、目標というか)において、「ダメ」と言われないことだからである。仕事をすることも、友人などと遊ぶことも、ゲームをやることも、ダメとは言われないけれども、なんだか、罪悪感や焦燥感が与えられるのだ。だからたぶん、消費的な行為行動で満足して生きることができるなら、それはもう満足した豚であって、悪いことではない。不満足なソクラテスが本当によいかは僕は分からない。でも、ただ食って寝て増えてといった本能的なものだけで人間が生きているのだとしたら、――いやむしろ、そうだとしたら、人類が抽象化の言語を獲得し、他のホモ属を淘汰し、地球の食物連鎖ピラミッドの頂点に達したのだろうか。……どうでもいいや、眠い)

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