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後出しじゃんけんに苛立つ
2019/02/05 21:14 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「臨時の記事」「土曜日も書く」

前書き

 精神的に弱っているときは、インプットが足りていないときである。

 自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。

 本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
 と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。

 ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。

議論における後出しじゃんけんは卑怯だ

 全然、自分とは関係ない(当事者)ではないのだけれども、ある会議において、事務局が、
「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
 と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
 と意見が出た。

 意見?
 俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。

 だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
 いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。


 まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
 ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。


 いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。

最近話題のLGBTについて

 その、要するに、「当事者意識」がない人に苛立つ。

 いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。

 で、あるとしても――ということだ。


 例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
 で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
 公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。

 ……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。

 社会制度の維持は、「税金」である。
 まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
 この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。

 税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。

 そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。

 おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。

独身税制控除制度を設けるべきだ

 むしろ、逆である。

 今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。

 え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。


 子供というのは素晴らしいものだろう。
 自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
 衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
 子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
 子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
 幸せな人生だ。


 という前提があるだろう。
 もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
 エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。

 幸せな家庭、夫婦とその子供。

 ああ、何と羨ましい法界悋気!


 ――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
 そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!


 とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
 同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。

ちょっと役に立つかもコーナー

(唐突に入れる)

「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。

「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。


マイノリティはマイノリティで尊い

 累進課税制度と、限度額を設けた、社会主義的で、かつ資本主義的な制度は、現状、これを超える納得感が得られる考え方はないと思っている。
 いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
 配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。

 そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。


 マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
 先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
 不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。

 ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
 思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。

 むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。

 そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
 いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?

 馬鹿げた妄想?
 そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。


(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))

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