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理想自己と現実自己
2008/12/04 21:07 | Comments(0) | イライラ対処
21:07
 頭が悪いのに関わらず、下手に考えようとするから苦しむのではないか。思考はいわば、積み木のようなもの。基本は「AはXという理由からBである」という構造だが、それが再帰的に拡大していく。基本構造が単純でも、再帰が重層的になっていくにつれて、自然に複雑になっていくのだ。
 頭の良さとは、その重層的に連なった思考のパーツの段階と考えられる。積み木の下へ下へと目を向けると、実は底なし沼のようになっている。つまり、考えれば考えるほど深みにはまるという状況になるのだ。特に考えなくても、当たり前としてパーツを使えることが頭の良さなのである。
 ところが私はその点に気付かず、むしろ、そうやって思考を深化させることが重要だと考えていた。もちろん、時に、自分の行動や指針を判断するために、何故という思考を働かせる必要がある。しかしながら、日常生活においては、――「考えろ」という言葉は溢れているにも関わらず――「何故」は封印する必要があるのだ。
 卒業論文とは、非日常だから、その「何故」を追求することのように感じられる。しかし、それに関しても、最初はパーツを仕入れることだけで十分なのだ。パーツを仕入れ、それを何の考えなしに利用する。そうしていかなければ、全く先には進めないのだ。
 もちろん卒論で仕入れたパーツは、積み木のような固定的なものではなく、流動的なものだ。見方によって全く違った様相を見せるだけでなく、パーツの構成によっても形を変える。ゆえに、何も考えずにただ仕入れたパーツを組み合わせるだけでは、いざ完成させたと思った途端に崩壊する危険さえある。
 会話が果たす意味は何だろうか。意思伝達と、感情伝達である。意思と感情の伝達は、それぞれ別々に行われるのではなく、同時に行われるのが普通である。さらに会話は、言語だけを指すに止まらず、身振りなどの身体言語も含められる。
 人と会話をするときに気をつけるべきことは何なのか。まず、こちらから情報(意思と感情)伝達を行う場合においては、自分の発した情報が正確に伝わるためにはどのような手段が適切かを判断する必要がある。例えば、難解な言語を使っての会話は、確かに、単なる知識や状況を伝えるという点においては効率がよくない。しかし、難しい言語を使えるというアピールをすることが目的であれば、それは適切な情報伝達手段である。何を目的に、どのような内容を伝えるのか。それによって使う手段は考えるべきである。
 その際に必要なのは、想像力である。自分が発した言動が、どのように相手にとらえられるのか。それを想像する力が、いわゆるコミュニケーション能力である。コミュニケーション能力というと抽象的で高度なものをイメージしてしまうが、具体的にいえば、自分の言動をモニタリングする能力なのだ。
 次に、相手から情報を受け取る場合についてだが、これも想像力が重要である。しかしそれだけではなく、相手が情報を発した文脈や、場所、環境などといった事柄も、複合的に判断する必要がある。もちろん、自分から情報を発する場合も、相手にどう伝わるかを考える場合においてはそこまで講じるべきではあるが、伝えたい情報が明確であるだけ、容易であるといえる。しかしながら、相手からの情報を受け取るのは簡単ではない。むしろ、100%正しい情報を得ることは、不可能だと考えた方がいい。
 実は、自分から情報を発する場合も、伝えたい情報が明確ではない場合が多いのだ。それは、感情要素が関係している。約束に遅れてきた友人に対して、ここでそれを咎めることは、互いに利益はないと分かっていても、「何故遅れてきたのか」と不快感という情報を発信してしまう場合がある。これは、不快感という情報を伝えるという意味においては正しい適切な判断である。しかし、それが何の利益にもならないという思考も同時に存在し葛藤する。その葛藤こそが、コミュニケーション不全の原因となっている。
 そもそも、約束に遅れてきたという事態が、何故不快感の起因となってしまったのか。それは、自分の時間が奪われてしまったという、「損をさせられた」という損得感情が原因と考えられる。しかしそれだけではない。それは、「約束」という事柄自体に原因がある。というのは、約束が、相手への信頼を作り出しているからである。ここでいう信頼とは、「相手が時間通りに来る」ことについて期待することである。その信頼が損なわれたとき、人は不快感に陥るのである。実際、「後さらに15分遅れる」という連絡を受け取っていれば、同じ15分待たされる場合でも、不快感は起こらないことが多いだろう。
 他者との関わりにおいて不快感が生じるのは、以上から、信頼が構築され、それが裏切られた場合においてと考えられるだろう。そこから得られる行動方策は、信頼をしない、もしくは、信頼のレベルを低く保つということである。前者は信頼の構築そのものを拒否し、後者は信頼が裏切られることを回避する方策である。後者の場合は、完全ではないが、行動方策としては採用しやすいだろう。
 不快感が生じるのは、信頼問題だけではない。理想自己と現実自己との乖離も、また不快感情表出の原因となりえる。単純に言えば、プライドが傷つけられる状況のことである。
 それでは以上の知見をもとに、これから不快感情が表出した場合、信頼問題なのか、理想自己との乖離問題なのかを判断してみようと思う。
 さて、これまで不快感情について考えてきたが、「不安」(焦燥)感情は、どうなのだろうか。それらも、快・不快に二分すれば、不快であろうが、「不安」は、信頼と乖離問題のどちらに含まれるのだろうか。不安は、他者を想定していない場合が多い。ゆえに、消去法的には乖離問題であると考えられる。では、実際に乖離問題であるのかどうかを検証していきたい。
 不安は確かに、何か成功することを期待している状況において生じる。逆に、失敗する可能性が存在する場合もこの不安感情は生じる。例えば、「私はこのままでいいのだろうか」という不安は、何か成功を想定しているとは言いがたいが、将来何か失敗して苦しむのではないかという失敗を想定しているといえる。ゆえに不安感情は、成功する(もしくは失敗してしまう)自分に対する信頼が、原因で生じているといえる。
 残念ながらここまでで時間切れだ。

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