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2009年2月から12月までまとめ
2009/02/01 00:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと

2009/02/01


 やはり、大ヒットする作品は、それなりに面白い。これを気付かせてくれたのは、涼宮ハルヒの憂鬱だ。



 単にEDの踊りが良かったからという理由だけではない。

 映像が京アニが作って、クオリティが高かったというだけでもない。

 やはり、原作自体が非常に良いものだという理由が大きいだろう。




:
 ファンタジーやSF要素もありながら、主人公のハルヒはごく普通の高校生として設定されている。

 宇宙人だとか超能力者だとかいう非現実的な状況と、ハルヒは乖離している。

 しかし、ハルヒはそういった、普通じゃない何かを追い求めているのである。

 それは、単に頭がいっちゃっているというわけではない。彼女自身は、とても理性的なのである。理性的であるが故、非現実的な状況が本当にあるとは、心の奥底では信じられていない。

 それでも、日常のルーチンにほとほと辟易しているのである。きっかけは、小学生のころ、野球場へ行き、自分がその他大勢の中の一人に過ぎないことを思い知った経験からである。



 このエピソード自体も秀逸である。誰でも、自分が世界の中で、本当にちっぽけな存在だということを考えたことがあるだろう。それゆえに、自分の存在意義を見失いそうになったこともあるだろう。



 ハルヒのすごいところは、たいていの人は、そんなもんだと自分を納得させるところ、なんとか面白いことを、普通じゃないことをしようと、精一杯取り組むところである。そして、その精一杯の取り組みが本当に常軌を逸しているところが面白いのである。



 もっとも、ハルヒは、オールマイティな天才であり、天才ゆえの苦悩であるともいえる。すなわち、何をやっても人並み以上にできてしまうので、日常的な場面においてなかなか面白いものを見つけることができないのである。

 だから、単純に感情移入はできないのだけれども、それでも、彼女の一生懸命さは素晴らしいと思う。







 ここまでがタイトルの「面白さ」の部分で、「切なさ」は、やはり同じ一生懸命さと、キョン君との関係が、なんだかズキズキ心を痛めつける。

 昨日の某氏の高校時代の話じゃないけれども、自分のと比較すると、なんとも、「ずるい」って気持ちになる。


2009/02/19


友人二人とと池袋サンシャインシティで買い物。2/40の割合で女の子とか、買い物以外で楽しかった。
意外に疲れていない。そもそも買う気がなかったためか。
よくもまぁこんなに人がいるものだと感動する。それも身なりのために。まぁ電気屋なら何時間でもいられるし同じか。

2009/06/29

徐々に、公開性を強めてきた。

特に何を書いても、現実にあまり影響しないということがわかってきたからだ。:


  とはいえ、面白いことに、EKさんからメッセージがあった。

やはり、影響は少なからずあるということだ。それも、意図しない方向からやってくる。プログラム化されていない現実。何が起こるか分からない。それが楽しいという人もいる。まぁ、予期しない楽しいことがあったら、それは予期された楽しいことよりは楽しいだろう。そういう経験は少なかったから、なおさらだと思う。

ミクシィからのリンクを貼ってみたり。

いろいろ試してみることはあるな。情報は統合するのがベストだけど、リレーションで繋ぐのがデータベースの構想だし。



続けようという気持ちはなくてもいい。残したいという強い動機があるものだけを残せばいい。

ログは、ログとしての意味は果たしたけれども、再利用性という面では十分ではなかった。その点ブログは、カテゴリやカレンダーの表示などから、再利用性が高いといえる。トラックバックの機能もどんどん活用すべきだ。





ミクシィへのリンクも、ログイン情報をクッキーにいれておけば、一発で飛べる。

うん、相互の利用性は高いといえるだろう。



そうそう。昨日だが、社会保障の雑誌を年間購読で4万円で購入した。

果たしてそれだけの価値があるのか分からないけれども。買ったからには活用しようと思う。まぁ、どこぞの新聞買うよりはましだと思う。



あと、制汗液を買ってみたけど、結構いいにおいがほのかに。ロールオンとのコンビネーションをするか、単独で十分かは分からないけど。ああ、そうだね、こういう情報は、mixiに書くべきではない。やはり、こっちにしか書けないことってあると思う。

じゃっかん、このエディタが使いづらいというのはあるけどね。

ん、これもしかして、最初の一文字が勝手にデリートされるのか!?

やはりそうか……。迷惑な機能だな。

2009/07/06


 非公開設定など、こちらのブログを公開用にしようかと考えたが、いや、そもそも、他のブログにしたらどうか、とも思い、FC2ブログに登録してみた、が、ダメだった。



広告が気に食わない。エディタもなんかいや。



 やはり、こちらのブログを公開用にするか。しかし、一マス削除が気に入らない。なんとかならないか。半角ならいけるとか?



ふむ、半角なら、いけそうだ。しかし、いちいち半角に直すのもどうか。



いやもしかすると、自動改行を切ったことが問題なのか。段落設定の問題……?
 む、しかしこの自動改行は、やはり迷惑な昨日だ。
 第一、一マスがなおるのか?

2009/07/14


(ある方と出会う。この頃だったんだな)
 うん、この方の日記、面白そう。

2009/07/27


 へぇ、面白いことになってきたね。僕の思考の「次元」で思考している人がいるなんて、驚いたよ。
 せっかくなので、「お前ら分かってない」と飲み会で僕が叫んだ真意と、理解してくれる人が現れて嬉しいけれども、それを突き放さなければと必死になろうとする僕について、ちょっと書いてみようと思う。

:
 先に、じゃあ、その人について書こうか。
 面白い人だ。僕の思考を僕以上にトレースし、僕の言葉じゃない言葉で巧みに表現する。こんなことをやられたら、まぁ、ふるえちゃうよね。
 でもね、僕はそうなればなるほど、その人に期待しちゃうんだよ。同時に、ものすごいプレッシャーを感じる。だってね、人は相互依存して成り立っているものなんだ。僕がこんなに感動しているのなら、どうじに僕も何か彼に与えなきゃならないんだ。それができないと、いずれ関係は崩壊する。そうなって欲しくないという期待とプレッシャー。
 だから僕は、さらに自分に閉じこもろうとする。自分の快感情を維持しているのは、他ならない自分なんだって信じ込もうとするんだ。でも違うよ。実際は、その人が与えてくれた快感情に過ぎないのだから。
 でも怖いんだよね。信じられないんだ。この良好な関係を。いくら心地よくても、下を見たら細いロープの上に立っているようなものなんだ。風が吹いただけでまっさかさまさ。
 比喩に逃げるのはよくないか。じゃあ具体的に書くけれども、例えば、僕がこんなことを書き綴っていくうちに、おそらく、決定的に「異なる」部分が見えてくるはずなんだ。当たり前だよ、だって、クローン人間なんかじゃないんだから。もっとも、クローン人間だって、ちょっとでも成長環境が違っていたら、「全く違う」思考をするようになるだろうね。
 
 ちょっと補足しておこうか。この「全く違う」というのは、一般的には、とても些細なものだと思うよ。ところが、内面の奥底へ入り込んでいけばいくほど、その差は巨大になっていく。分かるかな? 例えば、ミクロがあるのは、マクロがあるからなんだ。ミクロという概念だけが、その本質を表しているわけではないんだよ。マクロという概念があってはじめてミクロが成り立つ。でも、マクロという概念だって同じこと。分かりにくいたとえだったかもしれないけれども、つまり、内面の奥底へ入っていくにつれて、その深層部分の理解レベルが、その「一般的」な環境を作り出すんだ。なんだろ、中学校で学年一位だった人が高校にいったら中間層に陥るみたいな感じかな。
 
 話がそれたけど、僕が怖いのは、そういう深部の決定的な隔たりなんだ。人は理解し合えない。一般に理解と読んでいるのは、共同幻想に過ぎない。それを「知って」しまい、でも、そう信じたくはないという思いゆえに、僕は他者に「期待しない」んだ。
 
 で、今の思考を重要なパーツとして、この前の飲み会で僕が「お前ら全然分かってねーよ!」と叫んだ真意について書こうと思うのだけど、今日はさすがにもう寝よう。
 

2009/08/02


 (*・ω・)ノ  先ほど友人から、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」とアドバイスされました。「どんだけ自由に生きてるんだ」「自分についてしか興味がないんだろう」とも。  友人がいう次元においては、わたしは「全くその通りだなぁ」と思いました。ここでいう「友人がいう次元」とは、特定の他者、例えば身近な人に対しての情報を、もっと知ろうとするべきだ、ということでしょう。確かにわたしは、誰々が今どんな職業に就いているのか、誰々がどんなものを好きなのか、なんてことを殆ど知りません。というよりも、ご指摘の通り、あまり興味をもてないのです。  と、今書いて改めて分かりましたが、本当に、そういうことに興味をもてない。むしろ、何故そんな「普通の人」は、誰々が誰と付き合ったとか、結婚したとか、どこに旅行に行ったとか、そういうことに興味をもてるのか、分かりません。まぁここで、「本当は興味がないが、自分の話を聞いてもらいたいために相手の話も熱心に聞くようにしているのだ」というモデルを持ち出すこともできますが、今日はそういうことは置いておきましょう。おそらく「普通の人」は、そういうこと言われると猛烈に腹が立つだろうと思いますので。  それよりも、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」という点において少々書きたいと思います。わたしはちゃんと人に興味をもっているのだよ、と、そう言いたいわけです。でも、わたしが興味のあるのは、特定の人ではなく、広い意味での「人」です。認知症や精神病の本など、非常に面白いと思います。以上です。  ……、本当に少々しか書けなかったので、置いておこうと思った、何故「普通の人」は、身近な人の個人的なことに対して興味を抱けるのか、という点について、完全主観に予想してみようと思います。これについて、いろいろ教えていただけると非常に嬉しいです。  さてまず、上記に挙げたモデル、つまり、自己中心的な理由によるものが考えられます。

2009/08/15


  うーん。
 やはり、ブランクは大きいか、というよりも、そもそもそれほど、自分で書いたことはない。
 口で言うは簡単だけど、実際やると難しい、まさにこのことだ。
 小説というのは、直接説明しないことによって、説明する、説明文だ。
 そしてそもそも、私の書きたいテーマそれ自体は、大したことではない。ただ、私が何を述べたいのか、それを説明するためには、小説という形を取った方が伝わりやすいと思うからこそ、こうやって頭をひねっているのだが、なんというか、無価値なものを価値あるように見せかけようとしている感じがしないでもない。
 
 ――まぁ、そうだね、夜は思考を鈍らせる。
 

:
 


 私の「笑顔」は、経験と訓練から得たものなのです。
 理由は簡単。笑顔は、他の人に良い印象を与えるのです。私は幼い頃から、それを何となく感じていました。というよりも、人の何らかの表情というものが、他の人に良い印象を与える場合と、そうでない場合があるということが、経験的に分かっていたのです。
 私は、その良い印象を与える表情を一般的に「笑顔」と呼ぶことを知ってから、鏡の前で、どうしたら自分もそうした表情を作ることができるのか、練習し始めました。
 
 その練習自体は、それほど難しいものではありませんでした。すぐに私は、意識して「笑顔」を作ることができるようになりました。
 実際、これはとても役に立ちました。


:


2009/09/25

金曜日に自殺するなよ…。
帰りの電車に乗っていたら、突如人身事故でストップ。
そのまま待っていてもよかったのですが、以前同じような状況で1時間以上立ち往生だったので、思い切って振替輸送を使ってみることにしました(人生初)。
改札に出ると、若い駅員さんの前に人だかりができていました。
そして、たった1人で輸送券を一人一人に渡しているのです。
私も行き先の駅を告げて、バス用と電車用の2枚の券をもらいました。
何か特別なものかと思ったら、ただの紙切れでした。
とまぁそこまでは良かったのですが、実際にどうやって目的まで行くかというのは、もう自由なようです。
しかしながら、ほとんど知らない駅で降ろされて、路線図もないのに、どうしろと…。
このあたりで、私の中ではアウトプットモードに切り替わっていました。
わからなきゃ聞けばいい。
取り敢えず、停車中のてきとーなバスに乗り込んで、運転手さんに、自分の知っている路線に向かうかどうか尋ねてみました。
ラッキーなことに、そのバスの終点はその路線行きでした。
この時点で、ほぼ問題は解決していたのですが、私のアウトプットモードは戻りません。
たまたま隣に座った、50代後半くらいの男性に話しかけました。

「振替輸送ご利用ですか?」

私が話しかけると、その男性は一瞬視線を左右にふって、自分が話しかけられているということを理解したようでした。
「はい、そうです」
穏やかで、丁寧な話し方で、私は一瞬でこの男性を気に入りました。
「人身事故で、困ってしまいましたね」
私は、自分も同じ境遇に陥ったのだと示し、警戒心をといてもらうようにしました。
「どちらまで行かれるのですか?」
私がさらに問い掛けると、
「○○駅です」
と、これまた丁寧に答えてくれました。
その駅は私も知っている駅で、私の目的の駅の一つ先の駅でした。
「あぁ、○○駅ですか。私は△△駅に行きたかったのですが…」
こういった場合は、無闇に指示語を使うべきではなく、できるだけ具体的な地名や名称を用いるように注意します。
「△△駅ですか。そうしますと、やはり××線で□□駅からバスで行った方がよいですね」
男性は、私が尋ねていないのに、私が欲しい情報を提供してくれました。
そうこうしていると、その男性の私と反対側に座っていた、これまた50代ほどの女性も会話に入ってきました。
結局、バスを降りると皆バラバラになってしまいましたが、その間はずっと会話を楽しんでいました。
どうやって向かったら目的地に着けるのかといった効率的な話から、いつのまにか、その男性には35歳の息子さんがいて、まだ独身で心配しているといった話まで聞くことができました。

2009/11/28


 ふと突発的ひらめきが生じるのは、電車の中とか、友人と遊んでいる最中だったり、単調な仕事をしていたときだったりするので、メモもまともに取れないのだけど、今、ちょうど何もしていなかったら浮かんだ。

:
ひらめき、というか、気付き、か。
人間信頼による、自分の劣等感のすべてが払拭されるかのような感覚。
人間が愛しくて愛しくてたまらないがために、もはや、劣等意識など生じようがないといった、逆説的感覚である。
ここでいう劣等感とは、他者へ施しができないということであるのだけど、しかしながら、これは、或る行為ゆえの根源存在が原因で生成しているもので、であれば、同次元で思考不可能なのは明らかであって、劣等意識が生じる余地が全く無いのだという気付きである。
何故に言うなら無理なのだ。
 
まぁ、敢えて保存しておこうとしたのは、これが応用可能な理論体系であるからだ。
人を信頼すればするほどに、もはや、こういった事象での精神を取られることがなくなるだろう。必要ないのだから。

2009/12/04


ただし、肉体の支配から逃れられないという実感は常に置いておく必要があるだろう。
その場合、任せるしかない。思考は隷属するものだ。理性など、何の役にも立たない。
 
それと、思考の劣等感は持つ必要がない。
与えられた肉体を信じ、そして上記の実感をもってすれば、如何に大勢の言説、風説その他の評価が意味をもたないものかが分かるだろう。
敵は多ければ多いほど戦いがいがあるが、それは、死なない程度であれば、だ。 

COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡
DATE: 12/05/2009 20:12:45
> 理性など、何の役にも立たない
んな訳ないですって(笑)理性そのものは、人との感情であり、国の人それぞれが所与しているのが理想ですよ。明らかに視点がズレているので、否定します。遠藤さんがここで『何の役にも立たない』って感じている正体は、第三者から見れば、明らかに『半端』としか感じません。概念に対してこういう『露骨なバイアス』に苛むのは、大概、半端さに飲まれているだけですよ-

COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡
DATE: 12/05/2009 20:24:24
ホワイトな感情を破壊するのは、半端になれないからってだけです。けれども、本来は、理性破壊などは、自制心を得る手段となります。自制心は、理性あると飲まれてしまうからこそ、抑制感情で、多数性に見合わないのを破棄するという経由があります。文脈を見た限りでは、視野狭窄で、白い感情を半端に棄てるという、最も醜い白い精神の堕落かなと。白い精神を棄てる覚悟は、ドス黒い思考程度では、とてもじゃないけれど、半端レベルでしかありません。あくまでも、一度は『突き落とす』という考え方は、思考はドス黒くも、精神は白の考え方。色彩感情と思考は割り切れても、真っ白である精神は、黒一滴をも痛みにする。なのでこそ、その痛みを吹き飛ばすほど常に全力でドス黒い思考を一貫しないと方向性逆に進行するだけで、何年間をも生産性なく過ごしてしまいます。半端に
なるなら、最後まで半端を通す以外は、半端でしかない無様ですらない生き様。自己の美的感を破棄する度合いは、人というル-ルに、自らで裏切りを内包しているともなります。白い精神は、自傷を醜いと嫌悪します。それを裏切り続けているからこそ、ドス黒さでは、世界をも敵に回そうが、純粋でしかない度合い。裏を返せば、どん底に精神は真っ白で、
白い世界は、暗黒すら可愛い感性ッス。

2009/12/04


ただし、肉体の支配から逃れられないという実感は常に置いておく必要があるだろう。
その場合、任せるしかない。思考は隷属するものだ。理性など、何の役にも立たない。
 
それと、思考の劣等感は持つ必要がない。
与えられた肉体を信じ、そして上記の実感をもってすれば、如何に大勢の言説、風説その他の評価が意味をもたないものかが分かるだろう。
敵は多ければ多いほど戦いがいがあるが、それは、死なない程度であれば、だ。 


COMMENT:
AUTHOR: 塵
DATE: 01/08/2010 23:23:08
出力タイプ、アウトプットタイプ、というやつですか。
注意すべきは、この記事の著者が、共感できないことを嘆いているのではなく、共感という天賦の才への憧憬が失われ、かつ求め続けている悲劇にあるのかなと思います。
わたしとしては、彼に、お前はこの芸術写真の中の登場人物であるという慰めをしてあげるでしょう。しかしそれだけでは足りません、何故なら、彼はおそらく、芸術写真の中で選択を始めるからです。そしてわたしとしても、彼の希望を求める心理に対して、有効な一手を打つことができません。
今日、
こんな記事を読みましたが、この記事の最後で、台所に行って包丁とってこいというのは、なんという優しい言葉なのだと、感極まったほどであります。

2009/12/17

こうやってブログやミクシに書いていることは、真実しかないけれども、ただ、それだけでは、全く信憑性がないものである。
自己と自分という話をしたところで、おそらく、誰もそれを実感してはいないことだろう。
 
ということなので、如何に自分は自己に自分を委託し、自己の規定が強烈であり、逆にそれによって自分を操ることが可能なのかということを試してみようと思う。
これは行動を前提とする、いわば宣戦布告となる文章である。それゆえに、これだけでは意味を全くもたない。
〇〇という神がいるけれども、彼などは、かなりの戦闘を潜り抜けることで、戦神となった努力家だ。
私が求めるのは、神になることなどではない、けれども、そのプロセスは楽しいじゃないか、と思うわけだ。
 
ただ、所詮は、ある安全な場所に身をおいて、高みの見物を決め込む、漫画なんかでは最終的に主人公に敗れる悪役なわけだけれども、連続性という欺瞞を突破した境地としては、そういったアミューズメントに心を置くのは笑える行為である。
いま、獰猛な感覚にとらわれている。
成功の確率など、10%にも満たないだろう、だがしかし、どう考えても、失敗による有用性と、成功による幸福感は、失敗による有用性の方が強烈だ。
その高揚感は、こちらのブログに書いているということが
 
まぁ、その戦闘まで、HPがもつかどうかが問題か、はははん
 


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