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何もしない休日
2016/09/20 08:06 | Comments(0) | イライラ対処
ぐずついた天気のように、晴れやかにならない三連休であった。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。

時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。

今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。

物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。

物語の必要性



あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。

ストレス社会とかいう言葉も好きではない。

そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。

概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。

話が噛み合わない、
物語の話だ。


リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。

不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。

一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。


三つの人生要素



政治や、会社での出世。権力。

インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。

お金や株や債券。富。


これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。




なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。

だから、なんだっていうのだ。


面白くなさそうだ。

でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。

やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。

いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。


まぁそれは甘んじて受けよう。

自分はダメなやつである。

わかった。

が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。

いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。


それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。

俺は、何を目指す?

何が理想だ?


そんなこといいから勉強しなさい



将来の夢。
なりたいもの。

大人になれば見つかると思ってた。

いや、信じていなかったかもしれない。 
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。

大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?

そんなこともない。

何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。

何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。


しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。


気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。


心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。

だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?

なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?

宇宙はなぜ137億年前に生じた?

なぜ?


とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。


では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。

はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?


ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。

考えることがよくないとしたら



やはり、考えることそれがダメなのか。

じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。


いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)

大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。

もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。


死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。

それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。

もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。

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