今日の一言「サイコパス2期も面白かった」
神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
単独者としての概念
キルケゴールさんの本を読んでいて、単独者という概念を、ふと思い出した。神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
幻想であった審判が実現する社会
で、何故キルケゴールが出てきたかというと、サイコパス2期で取り扱われるテーマが、「集合的社会秩序(集合的サイコパス)」であったため、頭に浮かんだからだ。個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
神への冒涜
ええと、ちょっと違うな。その、システム(神)によって、監視されて等しく裁かれる仕組みというのは、前作(一期)のシビラシステムで既に完成されていたのだ。そういった意味で、キルケゴールさんのいう、単独者として神と向き合わなければいけない、という社会は、既に実現していたのだ。そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
一般意思2.0的な
東浩紀さんという思想家の方の著作を少し思い出した。ルソーの社会契約論の新しい現代版解釈として、WEB(インターネット)社会が、まるで神の見えざる手のように、オートマティックに正義とか秩序といった概念を「集合知」として形成していくのではないか、という提案というか、概念の提供。ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
前向きになれる作品だったか?
ひとまず、いえることは、見てよかったと、自信をもって言えることだろう。例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
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今日の一言「悪夢で眠れない夜に」
ただ、久しぶりの感覚――、これは、離婚を突き付けられたような時よりも、よほど精神的にダメージが与えられたため、その感覚はメモしておいた方がよい気がしたのだ。明け方に、目が覚めてしまったしなぁ。
いやもちろん、その持続性、現実生活への影響と比べてみれば、単純に、一時的な、昔の「夢」(寝たときにみるやつ)は、今こうして覚醒状態にあってみれば、幻に過ぎないことは重々認識できるのであるけれども、この心の動き(と、書いてしまうと、「感動」という表現になる。まぁ間違っていない気がする。ただ、振れ幅は、完全にマイナスに向けてずどーんと動いた感じ)は、ここ数年において苛々するようなことは沢山あったけれども、そんなの完全超越しているよね、と思わざるをえない。
私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ
cf.シロクマの屑籠
上の作品に共感するような奴はダメな奴だ! という記事である(大いに脚色粉飾したまとめ)。
秒速5cmという作品は、いわゆる初恋の人に対する思いを、ずーっと持ち続けて今を生きられなくなってしまった男の末路を描く作品であって、その虚しさや気持ち悪さというものを、新海誠さんは、それをまるで神の愛のように神々しく価値のある美しいものとして描いたのであった。
この作品は、結構有名なので、アニメーション映画をあまり見ない人も、結構知っている。その場合において、評価は大きく分かれる、というよりも、あんまり現実的な関係の人と話したときに、この作品が「面白い」と思ったという人に出会ったことが無い。
上の精神科医さんの言葉を用いると、「非モテマインド」の踏み絵的なもんじゃないか、と思うわけである。
・昔の親友に声をかけたら忘れられていた(あろうことかその人が彼氏に!)
結論先に書いてしまうと、夢を見て、明け方に目が覚めましたと。その夢というのは、とっても自分にとっては、悪夢でしたと。
そういう記事である。
ああ、でも、可愛かったなぁ……と、先日帰省して、卒業アルバムなんつーものをみたりしたのも、時間差攻撃となったような気もする。まぁしかし、その時は、その諸悪の根源(なんつー書き方だ!)をみても、それほど感慨は無かったのであった。まぁ確かに、一般的に可愛いような気もしないでもないが、じゃあクラスでトップをはれるか、というとそうでもなかろう。それにも関わらず、相手のことが気になって、あっていないときも脳内占有率を高め、些細な一言や動作に一喜一憂し、感情の高鳴りを抑えられなかった日々を、朝も夜も日柄ずっと過ごしていたというのは、いわゆるそれは「恋」という状態であったと思う。
こんな気持ちの悪いことを敢えて書くというのは、本当に珍しいというか、ここ何年も、いや10年近くなかったような、そんな気さえしたからである。と書いてみると、まぁ恐らく、何年かおきぐらいに、こういった夢はあった気がするから、ちょっと大げさな気もする。ただ、その時は文字通り憔悴してしまって、記事は残っていないと思われる。逆にもったいないよね。そんな精神ダメージを受けて、一人悶々としていたなんて、それは、誰にも分からないことであった。それは、今の自分、即ちその時における未来の自分にさえも、伝えることが叶わなかった哀しき思いなのである。
はっきりいって、
「こういうことだから」
と、離婚を突然突き付けられたときよりも、ダメージは大きかったように思える。それは、ひどいことを書いているのは間違いないが、多分、「恋」という状態ではなかったからなのだろう。いわば、生活の基盤の一つが失われるような、そんな喪失感の一つに過ぎなかったのではないかと、そんな邪推である。
しかし、あの頃を思えば、逆に異常だったのではないか、とも思う。一人の人への執着、「愛」ということについて、恐らく、ああまで狂わしく思い続けるということは、あまり人は無いものなんじゃあないか。
これは、簡単に成就してしまったのなら、きっとそれほど自己の肥大化みたいなことは起こらないと思われる。仲良くなって、好きになって、気付くと自分の友人と仲良くなっていて、付き合っていて、恋愛相談とかされてそれを笑顔で聞いて必死でその人のためを思ったり、そんなことしているうちに、だんだんおかしくなっていくような類のものだと思う。
そんなバカげた思い、行動、思惟、感情、それらを現代風に表現したのが、前述の秒速5cmだったのだろうと思う。
このキモチワルイ文章は、しかし、重要な(おそらく自分にとってのみ)ことを教えてくれる。例えば、その秒速5cmという作品、かなりヒットしたとはいえ、共感した、面白かった、という人と、そうでない人は分かれてしまうということである。普遍的な作品を検討することの、虚しさを感じさせてくれはしまいか。その作品があったから、ある精神科医さんは記事を書いてくれたし、自分もそれを読むことができた。
そのせいで夢をみてしまったのかもしれないが、ただ、過去の狂ったような感情は確かにあったわけで、それに対する「解釈可能性」を与えてくれたことは、非常にありがたいことだと思う。
もっと書けば、こうした文章表現を、僕がずーっとしてきたというのは、その、恐らく「恋」という状態のカオスさを、いかにして表現するか、感情のコントロールをするかという、長年の自分の心との戦いであったようにも思われる、今にしてみれば。
無駄な時間を過ごしたと、僕はただ過去を悔恨し頭を抱えるだけなのか?
くしくも、某国の残虐な処刑動画や、首つり自殺の一部始終を移した映像などをみて、ああ、死ぬの怖いなと思ったその翌日ぐらいに、過去の夢をみて、本当に死にたいくらい惨めな気持ちになった。
夢だし、過去のことさえも記憶が曖昧だから上手く書けないけれど、本当に好きになった人から、その人が好きになった人のことを楽しそうに話されて、それを辛い気持ちで聞きながらも、ああやっぱり可愛いなぁとか思っている状態というのは、まー、NTR(ネトラレ)とかいうジャンルもあるようだから、これも残念なことに別に珍しいことではないのだろうけれども、それでも、精神的にはよろしくない状態に思える。特にそれが何年にも渡った場合にはそうだろう。
(いやぁまぁ、ゲーテさんのウェルテルくんの悩み、みたいな作品もあるから、まぁやっぱり別に珍しくない。ただ逆に、その「純愛」的なものが、自死に繋がる可能性もあるんだよ、という示唆というのは、やはり古典、名作と呼ばれる所以に思える)
逆に、それ以来、「恋」というのは、してなかったのかもしれないな、とふと漠然と思った。
それが、よいことなのか、わるいことなのかは、正直全然分からない。
ただ、2017年としての目標として、「婚活をして素敵な女性と付き合う!」という目標よりも、「燃えるような恋をする!」という目標の方が、断然ハードルが高いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
とはいえ、仕方がないだろう、生きる意味を徹底して考える、というのであれば、こういった気持ちの悪い感情についても、十分に吟味する必要があるだろう。今ようやく衝撃体験からしばらくして、明け方に目が覚めて、二度寝して無かったことにしようなど、しなくてよかったと、そう思う(ものすごく眠くなってきたが……)。
良い悪いの判断は、今じゃない。
それも、所詮は主観的な問題に過ぎない。
その長期間精神をすり減らした過去の経験があったから、離婚というまぁ日本人の1/3しか経験しないと言われることになっても、比較的早く立ち直れた(というよりも、そもそも、立ち直るとは、どっからもって、「正常に戻った」という意味で用いるのか。何を異常とするのか)とも換言(還元)できるのである。
――もちろん、当時メッセージくれた方々のおかげで、そもそもこのブログというか記事を書くことができる場を維持できたことが、実は、とてつもない奇跡というか、ラッキーだったと思っていて、こうしたより気持ちの悪い記事を書くたびに、同時に感謝の念がわきあがってくるというのも、またいと面白き。眠い。
もったいないよなぁ。無駄だよなぁ。「キモイ」という感覚というのは、逆に、別に、悪いことじゃないと思うわけだ、ただ、その感覚を、ただその程度の言語表現しかできず、コメントに残すというのに、いったい何の意味があるというのだろうか。まぁ、その「キモイ」というのが、筆者が気付いていない場合も往々にしてあるから、それを気づかせてあげるという意味はあるのかもしれないが、その「キモイ」という感覚を、是非うまい具合に表現して欲しいと、僕は思う。
どれもこれも、それがよいものだろうが悪いものだろうが、長期的に見れば間違いかもしれないし危険なことかもしれないが、瞬間的に生じたソレ(感情)は、人間の嘘偽りのない思考感情なのだろう。それ自体に、「よい」も「わるい」もないと思う。ただ、それを上手くコントロールして、社会的に、家族的に、上手い具合に円滑に関係をまわしていくために必要な「感情」というのはあるのだろうから、それに向けて「修正」することもまた必要だろうと思う。
その、円滑さに対しての基準からズレたときに、「キモイ」という感覚、感情がわきおこるのだろうけれども、僕がもし唯一悩める人に傲慢にもアドバイスできるとしたら、その悩んでいる状態における「感情」というものに対する価値判断というのを、意識的にストップすることが、手始めに重要であると、そんなことかもしれない。などと、蛇足であった。まずはてめーがしっかりやれや。
夢のもつ感動さ
最近、特に、書き出しが憂鬱である。何だか、とてつもなく面白くない話しにしかならないのではないかという強迫観念。あぁ、その、先日書いたように、面白い面白くないというのは、所詮は究極の自己満足に過ぎないわけで、不特定多数を気にしては仕方がないというのはその通りと思いつつ、ここで思う憔悴した気持ちというのは、ごく僅かな人に対しても、そして自らに対してもそう(面白くない)のではという気持ちである。ただ、久しぶりの感覚――、これは、離婚を突き付けられたような時よりも、よほど精神的にダメージが与えられたため、その感覚はメモしておいた方がよい気がしたのだ。明け方に、目が覚めてしまったしなぁ。
いやもちろん、その持続性、現実生活への影響と比べてみれば、単純に、一時的な、昔の「夢」(寝たときにみるやつ)は、今こうして覚醒状態にあってみれば、幻に過ぎないことは重々認識できるのであるけれども、この心の動き(と、書いてしまうと、「感動」という表現になる。まぁ間違っていない気がする。ただ、振れ幅は、完全にマイナスに向けてずどーんと動いた感じ)は、ここ数年において苛々するようなことは沢山あったけれども、そんなの完全超越しているよね、と思わざるをえない。
初恋への執着は美しい?
ものすごーく、気持ちの悪いことである。生理的嫌悪を与えるだろうそんな文章になるだろう。そんなの、何故公開するん? という思いは同時に当然ありながら、これは、先日読んだある精神科医さんのブログ記事にも、(ある意味悪い方向で)勇気づけられたことである。私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ
cf.シロクマの屑籠上の作品に共感するような奴はダメな奴だ! という記事である(大いに脚色粉飾したまとめ)。
秒速5cmという作品は、いわゆる初恋の人に対する思いを、ずーっと持ち続けて今を生きられなくなってしまった男の末路を描く作品であって、その虚しさや気持ち悪さというものを、新海誠さんは、それをまるで神の愛のように神々しく価値のある美しいものとして描いたのであった。
この作品は、結構有名なので、アニメーション映画をあまり見ない人も、結構知っている。その場合において、評価は大きく分かれる、というよりも、あんまり現実的な関係の人と話したときに、この作品が「面白い」と思ったという人に出会ったことが無い。
上の精神科医さんの言葉を用いると、「非モテマインド」の踏み絵的なもんじゃないか、と思うわけである。
本題どうした?
・好きな人の恋愛相談に笑顔でのっていた・昔の親友に声をかけたら忘れられていた(あろうことかその人が彼氏に!)
結論先に書いてしまうと、夢を見て、明け方に目が覚めましたと。その夢というのは、とっても自分にとっては、悪夢でしたと。
そういう記事である。
ああ、でも、可愛かったなぁ……と、先日帰省して、卒業アルバムなんつーものをみたりしたのも、時間差攻撃となったような気もする。まぁしかし、その時は、その諸悪の根源(なんつー書き方だ!)をみても、それほど感慨は無かったのであった。まぁ確かに、一般的に可愛いような気もしないでもないが、じゃあクラスでトップをはれるか、というとそうでもなかろう。それにも関わらず、相手のことが気になって、あっていないときも脳内占有率を高め、些細な一言や動作に一喜一憂し、感情の高鳴りを抑えられなかった日々を、朝も夜も日柄ずっと過ごしていたというのは、いわゆるそれは「恋」という状態であったと思う。
こんな気持ちの悪いことを敢えて書くというのは、本当に珍しいというか、ここ何年も、いや10年近くなかったような、そんな気さえしたからである。と書いてみると、まぁ恐らく、何年かおきぐらいに、こういった夢はあった気がするから、ちょっと大げさな気もする。ただ、その時は文字通り憔悴してしまって、記事は残っていないと思われる。逆にもったいないよね。そんな精神ダメージを受けて、一人悶々としていたなんて、それは、誰にも分からないことであった。それは、今の自分、即ちその時における未来の自分にさえも、伝えることが叶わなかった哀しき思いなのである。
はっきりいって、
「こういうことだから」
と、離婚を突然突き付けられたときよりも、ダメージは大きかったように思える。それは、ひどいことを書いているのは間違いないが、多分、「恋」という状態ではなかったからなのだろう。いわば、生活の基盤の一つが失われるような、そんな喪失感の一つに過ぎなかったのではないかと、そんな邪推である。
落ち着いてみると
30代のおっさん(おっさんとは何か。最近、「老人」という概念もなくそうという動きがあるようだ。死ぬまで現役! みたいな)が、「恋」について書いているというのは、うん、全く持ってキモチワルイとしか思えないだろう。しかし、あの頃を思えば、逆に異常だったのではないか、とも思う。一人の人への執着、「愛」ということについて、恐らく、ああまで狂わしく思い続けるということは、あまり人は無いものなんじゃあないか。
これは、簡単に成就してしまったのなら、きっとそれほど自己の肥大化みたいなことは起こらないと思われる。仲良くなって、好きになって、気付くと自分の友人と仲良くなっていて、付き合っていて、恋愛相談とかされてそれを笑顔で聞いて必死でその人のためを思ったり、そんなことしているうちに、だんだんおかしくなっていくような類のものだと思う。
そんなバカげた思い、行動、思惟、感情、それらを現代風に表現したのが、前述の秒速5cmだったのだろうと思う。
このキモチワルイ文章は、しかし、重要な(おそらく自分にとってのみ)ことを教えてくれる。例えば、その秒速5cmという作品、かなりヒットしたとはいえ、共感した、面白かった、という人と、そうでない人は分かれてしまうということである。普遍的な作品を検討することの、虚しさを感じさせてくれはしまいか。その作品があったから、ある精神科医さんは記事を書いてくれたし、自分もそれを読むことができた。
そのせいで夢をみてしまったのかもしれないが、ただ、過去の狂ったような感情は確かにあったわけで、それに対する「解釈可能性」を与えてくれたことは、非常にありがたいことだと思う。
もっと書けば、こうした文章表現を、僕がずーっとしてきたというのは、その、恐らく「恋」という状態のカオスさを、いかにして表現するか、感情のコントロールをするかという、長年の自分の心との戦いであったようにも思われる、今にしてみれば。
よいわるいの評価はここではない
それが良いことだったのかどうか、そんなの分からない。「恋」なんてしなくても、それなりに人と付き合って、セックスして、結婚をして、子どもをつくって、大変ながら育て上げて、幸せな生活を送る、という人は大半なことだろう。無駄な時間を過ごしたと、僕はただ過去を悔恨し頭を抱えるだけなのか?
くしくも、某国の残虐な処刑動画や、首つり自殺の一部始終を移した映像などをみて、ああ、死ぬの怖いなと思ったその翌日ぐらいに、過去の夢をみて、本当に死にたいくらい惨めな気持ちになった。
夢だし、過去のことさえも記憶が曖昧だから上手く書けないけれど、本当に好きになった人から、その人が好きになった人のことを楽しそうに話されて、それを辛い気持ちで聞きながらも、ああやっぱり可愛いなぁとか思っている状態というのは、まー、NTR(ネトラレ)とかいうジャンルもあるようだから、これも残念なことに別に珍しいことではないのだろうけれども、それでも、精神的にはよろしくない状態に思える。特にそれが何年にも渡った場合にはそうだろう。
(いやぁまぁ、ゲーテさんのウェルテルくんの悩み、みたいな作品もあるから、まぁやっぱり別に珍しくない。ただ逆に、その「純愛」的なものが、自死に繋がる可能性もあるんだよ、という示唆というのは、やはり古典、名作と呼ばれる所以に思える)
逆に、それ以来、「恋」というのは、してなかったのかもしれないな、とふと漠然と思った。
それが、よいことなのか、わるいことなのかは、正直全然分からない。
ただ、2017年としての目標として、「婚活をして素敵な女性と付き合う!」という目標よりも、「燃えるような恋をする!」という目標の方が、断然ハードルが高いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
とはいえ、仕方がないだろう、生きる意味を徹底して考える、というのであれば、こういった気持ちの悪い感情についても、十分に吟味する必要があるだろう。今ようやく衝撃体験からしばらくして、明け方に目が覚めて、二度寝して無かったことにしようなど、しなくてよかったと、そう思う(ものすごく眠くなってきたが……)。
良い悪いの判断は、今じゃない。
それも、所詮は主観的な問題に過ぎない。
その長期間精神をすり減らした過去の経験があったから、離婚というまぁ日本人の1/3しか経験しないと言われることになっても、比較的早く立ち直れた(というよりも、そもそも、立ち直るとは、どっからもって、「正常に戻った」という意味で用いるのか。何を異常とするのか)とも換言(還元)できるのである。
――もちろん、当時メッセージくれた方々のおかげで、そもそもこのブログというか記事を書くことができる場を維持できたことが、実は、とてつもない奇跡というか、ラッキーだったと思っていて、こうしたより気持ちの悪い記事を書くたびに、同時に感謝の念がわきあがってくるというのも、またいと面白き。眠い。
蛇足
んでまー、有名なブログさんとかになると、恐らくすごい批判コメントとかくるわけだよね。文字通り「キモイ」「死ね」みたいな。そんなこんなで、コメント欄を閉鎖しているブログさんたちは沢山いるわけだ。もったいないよなぁ。無駄だよなぁ。「キモイ」という感覚というのは、逆に、別に、悪いことじゃないと思うわけだ、ただ、その感覚を、ただその程度の言語表現しかできず、コメントに残すというのに、いったい何の意味があるというのだろうか。まぁ、その「キモイ」というのが、筆者が気付いていない場合も往々にしてあるから、それを気づかせてあげるという意味はあるのかもしれないが、その「キモイ」という感覚を、是非うまい具合に表現して欲しいと、僕は思う。
どれもこれも、それがよいものだろうが悪いものだろうが、長期的に見れば間違いかもしれないし危険なことかもしれないが、瞬間的に生じたソレ(感情)は、人間の嘘偽りのない思考感情なのだろう。それ自体に、「よい」も「わるい」もないと思う。ただ、それを上手くコントロールして、社会的に、家族的に、上手い具合に円滑に関係をまわしていくために必要な「感情」というのはあるのだろうから、それに向けて「修正」することもまた必要だろうと思う。
その、円滑さに対しての基準からズレたときに、「キモイ」という感覚、感情がわきおこるのだろうけれども、僕がもし唯一悩める人に傲慢にもアドバイスできるとしたら、その悩んでいる状態における「感情」というものに対する価値判断というのを、意識的にストップすることが、手始めに重要であると、そんなことかもしれない。などと、蛇足であった。まずはてめーがしっかりやれや。
面白い記事とは何か。
まず、文章は、三つに分けられる。
1つは面白いもの、2つは役に立つもの、3つはつまらなく役に立たないものだ。
役に立つというのは比較的簡単だ。読み手が求める情報が含まれている文章のことである。
一方、面白さ、となると、これは難しい。それは、主観要素が強いからだ。
読者は、文章について、何か求めるものがある。
それが満たされたとき、面白いと思うか、役に立ったか、どちらかを得る。
例えば、知人のブログやFacebookの記事に対して、役に立つことをそれほど求めているだろうか?
料理のレシピを毎日のせてくれる友人がいるかもしれない。しかし、その友人よりももっと優れた料理記事を書く人は、残念ながら大勢いるだろう。
しかし、ここでは、その知人、という属性が多いに意味を高めている。それは様々な理由があるが、大きいのは、信頼性という面である。
知らない誰かの記事よりも、自分の知っている人が言ってることの方が信頼できるというのは当たり前である。
しかし、不特定多数に向けた記事においては、その信頼性が働かない。そうしたとき必要なのが、興味を惹くことだ。それには、自分自身についてや、そもそも、これから書こうとする記事についてインパクトを与えることを簡潔にキャッチーに記述する必要がある。
ゆえに、面白い記事を、身内だけでなくて、普遍的に書こうと思ったら、これは矛盾するようだが、逆に、読み手を限定する必要がある。
例えば、このブログは、30代の男が離婚したけどさぁどうやって生きていこうか考えるブログであって、その、同じような境遇の人に向けられたものである。
この、同じような、というのは、30代である必要もなければ、男である必要もなく、もちろん、離婚をしたかどうかも関係ないのは、過去の記事からの連綿とした内容を見れば分かることなのであるが、残念ながら、初見の人に対してそこまで伝える方法は、存在しない。
そうなると、もう、一つ一つの記事が、真っ向全力勝負となる。
資本主義やら、量子物理学やら、小難しいことを書いている記事にぶちあたったら、求めていたものが違うと、即座にブラウザバックになることだろう。
ゆえに、流し読みでもなんでも、とりあえず読んでくれた方にはいつも大変感謝である。
その上で、コマーシャリズムは好きではないが、書き手と、読み手のマッチングというのは、とても重要な仕事になりえると思う。
しかし、これまた逆説的に、そのマッチングしてくれる人と、自分の感性、求める方向性が一致していないと、その仕事はいくらがんばっても、空振りに終わるのである。
そもそも、何故僕が、こんなことを書かなければいけなかったかといえば、似たような、思考をそのままアウトプットしたようなブログや記事を、いくつか拝見したことが起因である。
そして、なんというか……それらが、つまらなかった、というか、表現が稚拙すぎて面白くなかったのである。
それを思うと、ああ、俺が書いてるのも、つまらねーんだろうなぁと、思ってしまい、いくつかストックしていたものの、投稿することができなくなってしまった、のが、年末から最近にかけての出来事である。
ただ。そうはいっても、やっぱり、その、読者は、絶対的に限定せざるえないのであるがゆえに、結局あまり気にせず書いていくしかないとおもったわけだ。
傲慢すぎるけれど、これで面白くなかったら、残念、貴方にはあわなかったのですね、と、そんな意気込みでもいいかもしれない。
ただ、そうはいっても、過去か、未来の、せめて自分にとってだけは、何らか、面白いか、役に立つかの感情は起こさせてあげたいものだ。
今年も好き勝手書いて行くので、適当な感じでお付き合いください。
どうぞ本年も宜しくお願いします。
タイトルの回収すると、無理。なるようになるしかない。
ただ、表現や文章作法、構成、小見出しの付け方など、留意すべきテクニックは多くある。これらについては慢心することなく、感情的に高ぶっているときも、留意していきたい。
文中のあまり面白くなかった記事というのは、リンク先の方々とは別です。例えばミルトンのレビューとかむちゃくちゃ面白かったです。
まず、文章は、三つに分けられる。
1つは面白いもの、2つは役に立つもの、3つはつまらなく役に立たないものだ。
役に立つというのは比較的簡単だ。読み手が求める情報が含まれている文章のことである。
一方、面白さ、となると、これは難しい。それは、主観要素が強いからだ。
興味を惹く必要性
読者は、文章について、何か求めるものがある。
それが満たされたとき、面白いと思うか、役に立ったか、どちらかを得る。
例えば、知人のブログやFacebookの記事に対して、役に立つことをそれほど求めているだろうか?
料理のレシピを毎日のせてくれる友人がいるかもしれない。しかし、その友人よりももっと優れた料理記事を書く人は、残念ながら大勢いるだろう。
しかし、ここでは、その知人、という属性が多いに意味を高めている。それは様々な理由があるが、大きいのは、信頼性という面である。
知らない誰かの記事よりも、自分の知っている人が言ってることの方が信頼できるというのは当たり前である。
しかし、不特定多数に向けた記事においては、その信頼性が働かない。そうしたとき必要なのが、興味を惹くことだ。それには、自分自身についてや、そもそも、これから書こうとする記事についてインパクトを与えることを簡潔にキャッチーに記述する必要がある。
読者のイメージ
ゆえに、面白い記事を、身内だけでなくて、普遍的に書こうと思ったら、これは矛盾するようだが、逆に、読み手を限定する必要がある。
例えば、このブログは、30代の男が離婚したけどさぁどうやって生きていこうか考えるブログであって、その、同じような境遇の人に向けられたものである。
この、同じような、というのは、30代である必要もなければ、男である必要もなく、もちろん、離婚をしたかどうかも関係ないのは、過去の記事からの連綿とした内容を見れば分かることなのであるが、残念ながら、初見の人に対してそこまで伝える方法は、存在しない。
そうなると、もう、一つ一つの記事が、真っ向全力勝負となる。
資本主義やら、量子物理学やら、小難しいことを書いている記事にぶちあたったら、求めていたものが違うと、即座にブラウザバックになることだろう。
ゆえに、流し読みでもなんでも、とりあえず読んでくれた方にはいつも大変感謝である。
その上で、コマーシャリズムは好きではないが、書き手と、読み手のマッチングというのは、とても重要な仕事になりえると思う。
しかし、これまた逆説的に、そのマッチングしてくれる人と、自分の感性、求める方向性が一致していないと、その仕事はいくらがんばっても、空振りに終わるのである。
結論的には好きなことを書くしかない
そもそも、何故僕が、こんなことを書かなければいけなかったかといえば、似たような、思考をそのままアウトプットしたようなブログや記事を、いくつか拝見したことが起因である。
そして、なんというか……それらが、つまらなかった、というか、表現が稚拙すぎて面白くなかったのである。
それを思うと、ああ、俺が書いてるのも、つまらねーんだろうなぁと、思ってしまい、いくつかストックしていたものの、投稿することができなくなってしまった、のが、年末から最近にかけての出来事である。
ただ。そうはいっても、やっぱり、その、読者は、絶対的に限定せざるえないのであるがゆえに、結局あまり気にせず書いていくしかないとおもったわけだ。
傲慢すぎるけれど、これで面白くなかったら、残念、貴方にはあわなかったのですね、と、そんな意気込みでもいいかもしれない。
ただ、そうはいっても、過去か、未来の、せめて自分にとってだけは、何らか、面白いか、役に立つかの感情は起こさせてあげたいものだ。
まとめ
今年も好き勝手書いて行くので、適当な感じでお付き合いください。
どうぞ本年も宜しくお願いします。
タイトルの回収すると、無理。なるようになるしかない。
ただ、表現や文章作法、構成、小見出しの付け方など、留意すべきテクニックは多くある。これらについては慢心することなく、感情的に高ぶっているときも、留意していきたい。
補足
文中のあまり面白くなかった記事というのは、リンク先の方々とは別です。例えばミルトンのレビューとかむちゃくちゃ面白かったです。
今日の一言「サイコパスそんなに人気が無いわけでもないみたいです」
まわりくどいな、簡単に書けば、例えば、
https://www.anikore.jp/anime/3707/
こちらのサイト上では、かなり高評価を得ているといえる。いやもちろん、僕が評価低いんだなぁと書いたのも、
https://matome.naver.jp/odai/2139022427268660101
これとか、その他某巨大掲示板系まとめサイト的なのを複数参照した上で、「いまいち感」な人が多いんだなぁという印象は受けた。そのうえでのコメントだったわけだけれども、果たして、その「一般的」というのが、1万人の視聴者がいたときに、9割なのか、7割なのか、5割なのか2割なのか、それを具体的にイメージなど、全くしていなかったという点が反省点である。
僕もこの点は思った。確かに、攻殻機動隊を比較対象に出したときに、じゃあ、何度も見返したくなるような作品なのか、と言われると、まぁ一回でいいかなぁ、という感覚ではある。いやもちろん、かなり面白いのは事実だ。
今更に見進めると、先日書いた「シビュラシステム」への欠陥性への指摘に対しても、公安局局長が、非常に明快な説明をしてらっしゃる。(説明内容は、「臭いものには蓋をしようか、それも一般人には誰にも気付かれないようにこっそりとね!」といった感じで、悪役めいた感じなのだけれども、即ち、システムの完璧性への懐疑を述べてらっしゃるのである)
なんだろうか、このストーリーの明快さ加減が、何度も見返そうかと思う気持ちをあまりもたせていないのかもしれない。代替よくできているから、一回みると分かるんだよな。攻殻機動隊は、最初にみたときは全然分からなかった。そもそも、電脳とは、自己とは、と、テーマすらよく分からなかった。取りあえずサイボーグがかっこよく戦ってるな! 何喋ってるかよくわかんねーが! といった感じで見終わって、二回目をみて、だんだんストーリーとか、伏線とかわかるようになって、その上でもう一回みると新しく面白くて……とか、何回見返したか分からないぐらいである。サイコパスがそうなるか、というと、うーん、今のところはならなそうだ。まぁこれは、最後までみたら分からないけれども。
……まぁこれが、人気ブログとか、立場がしっかりした人の発言だったら、やれ責任問題だ、やめろ、引責辞任だ、とかなるのだろう。
んでもって、あるところによると、政治家は、謝ったら終わりだ、とかいう言論もある。黒をしろといわないものの、政治なんてのは、駆け引きなんだから、グレーを黒、といったなら、どんな矛盾があろうが指摘を受けようが、一度黒っていったら最後までそれを貫き通せよ、というのが、政治家のあるべき姿だ、みたいな論である。
まぁ、政治ゲームとか、ご職業とか、そういった想像上の秩序を維持するためには、そういう役割も重要だろうと思う。
でもそれって面倒だったり生きづらいよなぁと思う。
でもまぁ、信頼感って大事なものだ。これを崩してしまうと、修復は難しくなる。
これはサイコパスのシビラシステムに対しての、その局長の見解とも合致する。システムが完璧に機能するのは、システムが完璧に機能していると末端がそう信じて行動していることによるのだと。
だから、それを脅かす言動なり人物なり存在なり思想なり、そういったものは、大きくなる前に摘み取る、誰にも気づかれないように排除する……と。
陰謀論みたくなってしまうが、まぁホント、気を付けた方がいいことだと思う。そしてそれに対抗すべき唯一の方法は、先日こきおろした「自分の頭で考える」という方法しかないだろう。ただ、その言葉の意味自体を、よく考えなければ、結局無限螺旋の混沌に沈むだけになる。
とかなんとか、照れ隠しみたいで非常に恥ずかしい記事である……。
さも正しいことを信じる人たち
先日、サイコパスって一般的に評価低いみたいだよ、と書いてしまって、それが他者へ与えた影響に僕自身驚いたのと、そもそも、「一般的に」という言葉を安易に使ってしまったことへの反省が、この記事に繋がった。まわりくどいな、簡単に書けば、例えば、
https://www.anikore.jp/anime/3707/
こちらのサイト上では、かなり高評価を得ているといえる。いやもちろん、僕が評価低いんだなぁと書いたのも、
https://matome.naver.jp/odai/2139022427268660101
これとか、その他某巨大掲示板系まとめサイト的なのを複数参照した上で、「いまいち感」な人が多いんだなぁという印象は受けた。そのうえでのコメントだったわけだけれども、果たして、その「一般的」というのが、1万人の視聴者がいたときに、9割なのか、7割なのか、5割なのか2割なのか、それを具体的にイメージなど、全くしていなかったという点が反省点である。
攻殻機動隊を超える作品か
この作品は、プロダクションIG製作とのことで、攻殻機動隊を超える作品になるのでは、と期待されていたらしい。だが、それを超えるようなものではなかった、というのも、特定の人たちのがっかり感の原因の一つなのかもしれない。僕もこの点は思った。確かに、攻殻機動隊を比較対象に出したときに、じゃあ、何度も見返したくなるような作品なのか、と言われると、まぁ一回でいいかなぁ、という感覚ではある。いやもちろん、かなり面白いのは事実だ。
今更に見進めると、先日書いた「シビュラシステム」への欠陥性への指摘に対しても、公安局局長が、非常に明快な説明をしてらっしゃる。(説明内容は、「臭いものには蓋をしようか、それも一般人には誰にも気付かれないようにこっそりとね!」といった感じで、悪役めいた感じなのだけれども、即ち、システムの完璧性への懐疑を述べてらっしゃるのである)
なんだろうか、このストーリーの明快さ加減が、何度も見返そうかと思う気持ちをあまりもたせていないのかもしれない。代替よくできているから、一回みると分かるんだよな。攻殻機動隊は、最初にみたときは全然分からなかった。そもそも、電脳とは、自己とは、と、テーマすらよく分からなかった。取りあえずサイボーグがかっこよく戦ってるな! 何喋ってるかよくわかんねーが! といった感じで見終わって、二回目をみて、だんだんストーリーとか、伏線とかわかるようになって、その上でもう一回みると新しく面白くて……とか、何回見返したか分からないぐらいである。サイコパスがそうなるか、というと、うーん、今のところはならなそうだ。まぁこれは、最後までみたら分からないけれども。
すみませんでした
というわけで(いや何も関係していないが)、この記事は、取りあえず適当なことをさも当然みたいに書いてしまったことに対しての謝罪と、深い反省である。本当に申し訳ございませんでした。……まぁこれが、人気ブログとか、立場がしっかりした人の発言だったら、やれ責任問題だ、やめろ、引責辞任だ、とかなるのだろう。
んでもって、あるところによると、政治家は、謝ったら終わりだ、とかいう言論もある。黒をしろといわないものの、政治なんてのは、駆け引きなんだから、グレーを黒、といったなら、どんな矛盾があろうが指摘を受けようが、一度黒っていったら最後までそれを貫き通せよ、というのが、政治家のあるべき姿だ、みたいな論である。
まぁ、政治ゲームとか、ご職業とか、そういった想像上の秩序を維持するためには、そういう役割も重要だろうと思う。
でもそれって面倒だったり生きづらいよなぁと思う。
でもまぁ、信頼感って大事なものだ。これを崩してしまうと、修復は難しくなる。
これはサイコパスのシビラシステムに対しての、その局長の見解とも合致する。システムが完璧に機能するのは、システムが完璧に機能していると末端がそう信じて行動していることによるのだと。
だから、それを脅かす言動なり人物なり存在なり思想なり、そういったものは、大きくなる前に摘み取る、誰にも気づかれないように排除する……と。
陰謀論みたくなってしまうが、まぁホント、気を付けた方がいいことだと思う。そしてそれに対抗すべき唯一の方法は、先日こきおろした「自分の頭で考える」という方法しかないだろう。ただ、その言葉の意味自体を、よく考えなければ、結局無限螺旋の混沌に沈むだけになる。
とかなんとか、照れ隠しみたいで非常に恥ずかしい記事である……。
今日の一言「アニメ、サイコパス面白い」
サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。
久々に当たり作品
小見出しがいつも大げさなんだよな。「久々に」とか、別にそんなこと無かろうが。いや、ただ、ある方にはとても申し訳ないのだけれども、最近見たカバネリや東京マグニチュード8.0より面白かった。まだ4話までぐらいしか見れていないけれども。サイコパスというアニメーション作品の第一期。第二期はいまいちであるという噂を聞くけれども、取りあえず序盤はいい感じだ。マサオカのおやっさんかっこいい。「ネットで検索? 不要だ。人間不平等起源論、俺の頭には入っている」とか、言ってみたい台詞である。
2012年ごろの作品のようだ。攻殻機動隊を手掛けたプロダクションIGが製作に携わっている。Fateに携わった虚淵玄氏も関わっているようである。あまり、声優とか、監督とか、脚本とか、制作会社とか、そういう「中の人」的なのにはあまり興味なかったけれども、いい作品を効率よく求めるなら、やっぱり知名度がある人を追った方がいいのかもしれないなぁと思った。最近、涼宮ハルヒの憂鬱を見返してみたりしてたが、今見ても面白い。京都アニメーションさんの作品も、フルメタルパニックとかもいい仕事だなぁと思ったりする。
ただやっぱり、「誰がつくったか」というよりも、その作品自体がどうであったか、というのが一番重要なことだと僕は思う。あくまで、効率的に良い作品を探すなら、その確率を高めるなら、という話しだろう。
と、まぁ、こんな大した面白くもないことを書いておく必要があるのかと思いつつも、いまいち、何が面白いかということは、今の自分の感覚と、この先の自分の感覚(後から読み返したとき)とで異なっているから、仕方がない、書いておくかと。
犯罪係数
最初の事件において、ある被害者の女性が、監禁され暴行、レイプされていたことで、犯罪係数があがってしまった。犯罪係数とは、シヴュラ(しびら?)システムという全人類を管理するネットワークシステムにおいて、その人の感情や思考等を分析し、「犯罪を起こしそうな可能性」を数値化したものである。(←勝手な僕の解釈)本来、被害者である女性だが、レイプされたりひどいことされたせいで、「憎しみ」とかそんな感情が高まってしまったのかもしれない。
それによって、ドミネーター(犯罪係数によって対象を識別し攻撃できる銃)で、エリミネーター(殺害対象)にまで犯罪係数を高めてしまう。
同僚が、レイプ犯のみならず、被害者も手にかけようとした瞬間、主人公は、同僚をとめて、結果的に被害者女性は助かる。
めでたしめでたし。
しかし、その後の展開で僕は驚愕した。
なんと、その被害者女性は、エリミネーターから、制圧対象まで犯罪係数が下がり、挙句の果てに、セラピーによりますます回復傾向になっていっている、というのである!
え、いいことじゃないか、助かって良かったね、というわけだ。何を驚くことがあるだろう?
驚きだよ! 完璧なシステムたるシビュラ(しびら?)システムにおいて、一度は「もう更生の余地ないからさっさとしっかり照準合わせて殺っちゃってー」と判定されたあとに、極度の犯罪現場の緊張状態が回復し、セラピーを受けることによって、回復してしまうということだ。
これは恐ろしいことである。これは、冤罪ではないのだろうか? 恐らく、そうではないのだ。一度犯罪係数が高まって、殺害対象になって、ちょうど執行官(犯罪者を処分する仕事をする人)が目の前にいたら、裁判もなく殺害なのである。
タイミング性
先日、トラブルにより、口論というか、あわや喧嘩のような状態になったとき、僕は暴力を避けて戦略的撤退(といえばかっこいいかもしれないが、ただ危険を感じて逃げただけである)をした際に、おそらく、感情は濁り、犯罪係数は格段にとびはねたことだろう。僕は体当たりされてしまった被害者なのであるが、しかし、「危険なことをしようとする人」(この場合、むかつくクソ野郎に消えてもらいたいと本気で思ったこと)と判断されてしまえば、「逮捕される」対象になりえるのである。
このサイコパスの世界は、全員が、感情指数も計測されて、濁っていたら強制的にセラピーを受けさせられる。
精密なことに、いちゃいちゃするカップルをみて、ショッピングモールで苛立ちを高めた孤独な男性も、「ちょっと感情が濁っちゃってますね~。ご同行いただけますか?」と任意同行(いや強制収監)されてしまうのである。
負の感情はダメなものか?
この作品が何を言いたいものなのか、正直まだ4話くらいしか見てないし、敢えてウィキとか説明をみていないから分からないけれども、自動運転やノンアルコールビールや、カフェインレスコーヒーのように、今後「危険なもの」をどんどん排除していくことが「正義」となれば、そのうち、人間の感情にまで手が及ぶだろうことは、そんなにサイエンスフィクションのようには思えない。そんな世界が生きづらいのではないか?
という疑問は、さほど重要視されることはない。
このことは、何となく感じてはいたけれども、先般のサピエンス全史なんかを読んでいると、そもそも、農耕を始めた時点で、人類は、「生きづらい」生活を選択していったのだ。
僕たちが効率をもとめ、富を求め、正義をもとめ、幸せを求め……多くのものを求めていけばいくほどに、新たな「生きづらさ」が蔓延していくのだ。
しかし、すぐさま書くべきは、その「生きづらさ」は、大半の人たちは気づきもしない。多くの子どもや子孫に囲まれ、幸せな一生を送るのである。ところが、その「生きづらさ=常識」というものから、零れ落ちてしまう人は必ず存在している。これまでも存在していたし、これからも存在し続ける。
社会性。
人が生きていくうえで必ず身につけなければいけない、他者と協力するという行為および、それに伴う思考や感情。
これは避けることはできない。そしてそのことが、同時に人の生存戦略の一つである「多様性」という概念との軋轢や矛盾をうみ、これまた発生する負の感情の数々。
負の感情を発する人を排除すれば事が済むのか
サイコパスという作品は、勝手な妄想で書けば、管理社会というものへの警鐘と思う。気に入らない奴は、殺してしまいたい。社会性を維持するためには、足手まといは排除すべきだ。
この感情は、一般的ではあるが、「人類の平等」や「福祉国家」というイデオロギーにおいては、そのまま表現することは許されない。弱者の切り捨て、ということで、批判の対象にされる。
そこで、サイコパスという作品においては、「シビラシステム」という、「完璧な」システムが、その「切り捨ててもいい人たち」を判断してくれるのである。
これは、「神」の代替である。
神が人類を造物し、それゆえに人は全員平等なのだ、という「神話」を、情報社会において人は信じることができなくなった。
その代わりとなったのが、「完璧なシステム」である。
システムは、人でないがゆえに、誤ることがない。絶対にいつも正しい。だから、それに基づく判断は、例え「殺人」だとしても、正しいのである、と。
法やシステムの普遍性への神話
この記事の最後に、一つ、生きる上で何の役にも立たないが、生きる意味を考える上では無視できないことを、思い出し、忘れないようにするために書いておこう。僕たちは、資本主義法治国家や、IT社会の中で生きているけれども、まぁ結局のところ、それらも、多くの巨大な(噂話で繋がってられる150人程度の集団よりも遥かに大きな)集団を維持するための、共同主観的(共同幻想)な方策なのである。
法律は、絶対正しいものだと思う。それに従わなければ、罰せられる。
しかし、ハンムラビ法典もまた、法の体系である。しかし、前1776年あたりのハンムラビ法典では、人類平等なんてうたわれていない。上層民と、自由民と、奴隷にわけられて、されに男女平等なんかもない。女も子供も、男よりも低い価値しか認められていなかった。
そんな、不平等で野蛮な法であっても、従わなければ罰せられた。どうやって? 武力である。
その構造は、今も変わらない。法律に従わなければ、例えば罰金になったりする。けれども、それも無視し続けたらどうなろうか? 警察が出動し、身柄を拘束され、独房にぶっこまれる。
これは、法的で正当な「正義」なのだけれども、その行為だけを考えてみれば、殴って拉致って閉じ込める、ということである。
つまり、頭のいい法律家たちが支配しているようなイメージがある法律だけれども、その法律を維持するには、権力=武力が必要不可欠なのである。
だから、軍備縮小とか、軍隊は不要だとか、そういう議論を否定するつもりも、政治的な思考をする気もないけれども、まぁ難しいことだろうなと思う。理想的には、世界平和をこよなく希求するけれども、「強制力」がないルールは、そもそもルールとして成り立たない、形骸化すると、僕は思ってしまう。この考えは、もしかすると、感情の濁りや犯罪係数が高いからなのかもしれないけれども。
すごく、自分の、この記事と主旨が関係ないことを書くと、
某国の基地を撤廃しろと主張する人たちがいたとして、その人たちは、戦闘機の爆音や兵士の婦女暴行などで長年苦しんでいることなのだけれども、ルールを破って危険な国に攻め入られたとき、それに対抗する「力」は要しておく必要がある。ということは、付近の住民の「騒音被害」よりも優先される、と考えられることであるので、ただ、基地撤廃を主張するだけでは、結局のところ、多くの人の理解を得ることは不可能になってくる。
しかし、その論理もまた不十分であり、そもそも、他国に攻め入られたときにその基地の某国が、本当に自国を守ってくれるという保障もない。その保障を、お金やルールや何でもいいが、確立していくというのが、本当の外交として重要なことである。
より大きな目的を掲げられたとき、人は、「みんなのためなら仕方がないか」と考え始めることになる。しかし、その大きな目的は、往々にして中身がない場合がある。具体的方策に基づいた方針は強い。しかしその具体的な方策というのは、実は、目先の、小さい些末なことの積み重ねなのである。理想と現実とのギャップ。これを丁寧に埋めていく作業なくして、「調整ごと」を上手くやることはできない。
しかしながら。
ここが重要なことだけれども、いくら「論理的」で「正義」で正しく普遍的であろうとも、それは、「強制力」を伴ったものでなければ、役に立たないことが往々にしてあるし、
逆に、いくら正義や論理がぶっこわれていても、「いいからやれ!!」と無理やり従わされるような場面も、我々生きていく中では当然直面していくことなのである。
蛇足
ある店で、10歳ぐらいの男の子が、父親に、「これ買って」とだだをこねていた。かわいらしいものだ、と最初は思っていたが、売り場を一周して戻ってきても、何十分もまだ「買って」「そんなもの買っても仕方ないだろ」を続けていた。買えない理由を明確に伝えて、説得することも大事かもしれないが、そもそも、「ダメなもんはダメ」ということを教えてもいいと思う。
理詰めでしか動けない人間は、時に弱い。がーん!とぶったたいて、ダメなもんはダメ! といって、泣こうが喚こうが、絶対にゆずらない。そんなことも必要だろう。
が、それも、そればっかり続けていると、「なにやっても、いくら正しくてもだめなもんはだめ」という無気力を醸成する場合もある。
いやはや、教育とは難しいものである。まぁ関係ないんだけど。